第二章 涙で満たした心の川―神の召命と艱難


第二章 涙で満たした心の川―神の召命と艱難

恐れと感激が交差する中で

私は物心がついてくると、「将来何になるのか?」という問題について熱心に考え始めました。自然を観察し研究することが好きだったので、科学者になろうかと考えましたが、日本の収奪に苦しめられ、日に三度の食事さえままならない人たちの惨めな有様を目にして、考えを変えました。科学者になってノーベル賞を取ったとしても、ぼろを身にまとい、飢えた人たちの涙をぬぐい去ることはできないと思ったからです。
私は人々の流れる涙をぬぐい、心の底に積もった悲しみを吹き払う人になりたかったのです。森の中に横になって鳥たちの歌声を聞くと、「あのさえずりみたいに、誰もが仲良く暮らせる世の中を築こう。一人一人の顔をかぐわしい花のように素晴らしくしてあげたい」という思いが自然と沸き上がってきました。一体どんな人になればそうできるのか、それはまだよく分かりませんでしたが、人々に幸福をもたらす者になろうという心だけは固まっていきました。
私が十歳の頃、牧師である潤國大叔父の影響で、私たち一家は全員キリスト教に改宗しました。次姉と兄の精神的な病が按手祈疇を通して治癒したことから、猫頭山(標高三一〇メートル)のふもとにある徳興長老教会に入教し、熱心に信仰生活をしたのです。その時から、私は真面目に教会に通って、礼拝を]度も欠かしませんでした。礼拝時間に少しでも遅れると、あまりにも恥ずかしくて顔を上げることができませんでした。まだ子供なのに何を思ってそうしたかというと、私の心の中には、その時すでに神の存在がとても大きな位置を占めていたのです。そして、生と死や人生の苦しみと悲しみについて、深刻に悩む時間が増えていきました。
十二歳の時、曾祖父のお墓を移葬するのを見たことがあります。本来は一族の大人だけが参列する場でしたが、人が死ねばどうなるのか直接見たいという欲求に駆られて、必死に割り込んで入れてもらいました。墓を掘り起こして移葬する様子を見守った私は、驚きと恐怖に襲われました。儀礼作法を弁えた大人たちが集まって墳墓を開けた時、私の目に飛び込んできたのはか細い骨の欠片だけでした。両親から聞いていた曾祖父の姿は跡形もなく、白い骨だけがぞっとするような醜い姿を現しました。
曾祖父の骨を見てから、私はしばらくの間、その衝撃から抜け出すことができませんでした。「曾祖父も生きておられた時はみんなと全く同じ姿をしていたはずなのに……。そうすると、父や母も亡くなれば曾祖父のように白い骨だけが残るのか。自分も死ねばそうなるのか。人はみんな死ぬけれど、死んだ後は何も考えられず、そのまま横たわってばかりいるのか。思いはどこにいくのか……」
そうした疑問が、頭の中を離れませんでした。
その頃、家の中でおかしな出来事がたくさん起きました。今もはっきりと思い出すことが一つあります。礼装を仕立てようと、機織りで作る反物の出来上がったところまでを甕に入れておいたのに、ある晩、その白い布地が上の村の古い栗の木に掛かっていました。できた部分は一疋(二反)ほどの量になるまで少しずつ集めておいて、その木綿の生地で子供らの婚礼衣装を縫うのですが、これを故郷では「礼装」と呼びました。ところで、誰が夜中に家から遠く離れた栗の木に掛けたのか、それが分かりませんでした。到底人の仕業とは思えないので、近所の誰もが恐れたのです。
十五歳の頃、十三人の兄弟姉妹のうち五人の弟妹が、わずか一年で相次いでこの世を去るという悲劇も経験しました。一度に五人もの子供を失った両親の傷ついた心は言葉で表現しようがありません。ところが、ぞっとすることに、不幸はわが家の塀を越えて一族にまで及びました。丈夫だった牛が急に死に、続いて馬が死に、一晩のうちに豚が七匹も死んでいきました。
家族の苦難は民族の苦痛、世界の苦痛と無縁ではありません。次第にひどくなる日本の圧政とわが民族の悲惨な立場を見つめて、私の苦悩もただ深まるばかりでした。食べる物がなくて、人々は草や木の皮もあるだけもぎ取って、それを煮て食べるほどでした。世界的にも戦争が絶えませんでした。
そんなある日のことです。新聞で、私と同じ年の中学生が自殺したという記事を読みました。
「その少年はなぜ死んだのだろう。幼い年で何がそんなにつらかったのか……」
少年の悲しみがまるで私自身の悲しみであるかのよう感じられて、胸が締めつけられました。新聞を広げたまま三日三晩泣き通しました。とめどなく涙が流れて、どうしようもありませんでした。
世の中でなぜこれほど異様なことが相次いで起こるのか、なぜ善良な人を悲しみが襲うのか、私には全く理解できませんでした。曾祖父の墓を移葬する際に遺骨を目撃してからというもの、生と死の問題に疑問を持つようになった上、家の中で起こる理解しがたい出来事によって、私は宗教に頼るようになりました。しかしながら、教会で聞くみ言だけでは、生と死に関する疑問をすっきりと解くことができません。もどかしく思った私は、自然と祈りに没頭するようになりました。
「私は誰なのか。どこから来たのか。人生の目的は何か」
「人は死ねばどうなるのか。霊魂の世界は果たしてある のか」
「神は確実に存在するのか。神は本当に全能のお方なのか」
「神が全能のお方であるとすれば、なぜ世の中の悲しみをそのまま見捨てておかれるのか」
「神がこの世をつくられたとすれば、この世の苦しみも神がつくられたものなのか」
「日本に国を奪われたわが国の悲劇はいつ終わるのか」
「わが民族が受ける苦痛の意味は何なのか」
「なぜ人間は互いに憎み合い、争って、戦争を起こすのか」
等々、実に深刻で本質的な問い掛けが私の心を埋め尽くしました。
誰も容易に答えられない問いなので、答えを得るには祈るしかありません。私を苦しめる心の問題を神様に打ち明けてお祈りしていると、苦しみも悲しみも消えていって、心が楽になります。祈る時間は次第に長くなりました。祈りで夜を明かす日も、一日また一日と増えていきました。そしてとうとう、神様が私の祈りに答えてくださる日がやって来ました。それは何物にも代えがたい貴重な体験で、その日は、私の生涯に最も大切な記憶として残る、夢にも忘れることのできない一日です。
十五歳になった年の復活節(イースター)を迎える週でした。その日も、いつもと同じように近くの猫頭山に登って、夜を徹して祈りながら、神様に涙ですがりつきました。なにゆえこのように悲しみと絶望に満ちた世界をつくられたのか、全知全能の神がなぜこの世界を痛みの中に放置しておられるのか、悲惨な祖国のために私は何をしなければならないのか。私は涙を流して何度も何度も神様に尋ねました。
祈りでずっと夜を過ごした後、明け方になって、イエス様が私の前に現れました。風のように忽然と現れたイエス様は、「苦しんでいる人類のゆえに、神様はあまりにも悲しんでおられます。地上で天の御旨に対する特別な使命を果たしなさい」と語られたのです。
その日、私は悲しい顔のイエス様をはっきりと見、その声をはっきりと聞きました。イエス様が現れた時、私の体はヤマナラシの木が震えるように激しく震えました。その場で今すぐ死んでしまうのではないかと思われるほどの恐れ、そして胸が張り裂けるような感激が一度に襲いました。イエス様は、私がやるべきことをはっきりとお話しになりました。苦しんでいる人類を救い、神様を喜ぶようにしてさしあげなさい、という驚くべきみ言でした。
「私にはできません。どうやってそれをするのでしょうか。そんなにも重大な任務を私に下されるのですか」
本当に恐ろしくてたまらず、何とか辞退しようとして、私はイエス様の服の裾をつかんで泣き続けました。

胸が痛ければ痛いほどひたむきに愛せ

私は非常に激しく混乱しました。両親にも打ち明けられず、かといって、心の中にぎゅっとしまい込んでおくわけにもいかない大きな秘密を抱えてしまったのです。どうしていいか分からず、途方に暮れました。明らかなことは、私が天から特別な任務を託されたという事実です。しかし、一人でやり遂げるにはあまりにも大きな責任でした。しかもその内容たるや驚くべきものがありました。到底自分には果たし得ないと思って、不安と恐怖におののく毎日でした。混乱した心を何とかしようと、以前にもまして祈りにすがりつきましたが、それすら役に立ちません。いくら努力しようとも、イエス様に会った記憶から少しも逃れられなかったのです。泣き出したい気持ちをどうすることもできなくて、私はその恐れを詩に書きました。

人を疑えば、苦しみを覚え
人を裁けば、耐えがたくなり

人を憎めば、もはや私に存在価値はない
しかし、信じてはだまされ
今宵、手のひらに頭を埋めて、苦痛と悲しみに震える私

間違っていたのか。そうだ、私は間違っていた
だまされても、信じなければ
裏切られても、赦さなければ

私を憎む者までも、ひたむきに愛そう

涙をふいて、微笑んで迎えるのだ
だますことしか知らない者を
裏切っても、悔悟を知らない者を

おお主よ!愛の痛みよ
私のこの苦痛に目を留めてください
疼くこの胸に主のみ手を当ててください

されど
裏切った者らを愛したとき
私は勝利を勝ち取った

もし、あなたも私のように愛するなら
あなたに栄光の王冠を授けよう

イエス様に会った後、私の人生は完全に変わりました。イエス様の悲しい顔が私の胸中に烙印のように刻まれ、他の考え、他の心は全く浮かびませんでした。その日を境に、私は神様のみ言に縛られてしまいました。ある時は、果てしない暗闇が私を取り囲み、息つく暇さえないほどの苦痛が押し寄せたし、またある時は、昇る朝日を迎えるような喜びが心の中に満ちあふれました。そういう毎日が繰り返されて、私は次第に深い祈りの世界に入っていきました。イエス様が直接教えてくださる新しい真理のみ言を胸に抱いて、神様に完全に捕らえられて、以前とは全く異なる人生を歩むようになりました。考えることが山ほどあって、次第に口数の少ない少年になったのです。
神の道を行く人は、常に全力で事に当たり、心を尽くして、その目的地に向かっていくべきです。この道には執念が必要です。生来、頑固一徹な私は、元から執念の塊です。生まれつきの性質そのままに、苦難にぶつかっても執念で克服して、私に与えられた道を進んできました。試練に遭って翻弄されるたびに私を深いところで支えてくれたのは、「神様から直接、み言を聞いた」という厳粛な事実でした。しかし、一度しかない青春をかけてその道を選ぶことが、たやすいことだったでしょうか。逃げたい気持ちになったこともあります。
知恵のある人は、どんなに困難でも、未来への希望を抱いて黙々と歩いていきますが、愚かな人は、目の前の幸福のために未来を無駄に投げ捨ててしまいます。私も若い盛りには愚かな考えに染まったこともありましたが、結局は、知恵ある人が行く道を選択しました。神が願うささ道を行くために、一つしかない命を喜んで捧げました。逃げようとしても逃げ場がなくて、私が行く道はただその道以外にありませんでした。
ところで、神はなぜ私を呼ばれたのでしょうか。九十歳(数え) になった今も、毎日、神がなぜ私を呼ばれたのかを考えます。この世の中の無数の人の中から、よりによってなぜ私を選ばれたのか。容貌が優れているとか、人格が素晴らしいとか、信念が強いとか、そういうことではありません。私は頑固一徹で、愚直で、つまらない少年にすぎませんでした。私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、神に向かう切ない愛がそれだったと言えます。いつ、いかなる場所でも最も大切なものは愛です。神は、愛の心を持って生き、苦難にぶつかっても愛の刀で苦悩を断ち切れる人を求めて、私を呼ばれたのです。私は何も自慢できるものがない田舎の少年でした。この年になっても、私はただひたすら神の愛だけに命を捧げて生きる愚直な男です。
私は自分では何も分からなかったので、すべてのことを神に尋ねました。「神様、本当にいらっしゃいますか」と尋ねて、神が確かに実在することを知りました。「神様にも願いがありますか」と尋ねて、神にも願いがあるという事実を知りました。「神様、私が必要ですか」と尋ねて、こんな私でも神に用いられるところがあると知りました。
私の祈りと至誠が天に届く日には、イエス様は必ず現れ、特別なみ言を伝えてくださいました。切実に知りたいと願えば、イエス様はいつでも穏和な顔で真理の答えを下さいました。イエス様のみ言は鋭い矢のように、一直線に私の心深くに突き刺さりました。それは単なるみ言ではなく、新しい世界を開く啓示のみ言、宇宙創造の真実を明かすみ言でした。イエス様は風が傍らを通り過ぎるようにお話しになりましたが、私はそのみ言を胸に抱いて、木の根っこを抜く思いで切実な祈りを捧げ、宇宙の根本と世の中の原理を少しずつ悟っていきました。
その年の夏休み、私は祖国巡礼の旅に出ました。一文無しでもらい食いをして、運が良ければトラックに乗せてもらいながら、全国津々浦々を巡ってみました。祖国はどこに行っても涙の坩堝でした。飢えた民衆の苦痛に満ちた息遣いが絶えることはなく、彼らの凄絶な悔恨の涙が川のように流れました。
一日も早くこの悲惨な歴史を終わらせなければ。もうこれ以上、わが民族を悲しみと絶望に陥るままにしておいてはならない。何としてでも日本にも行き、アメリカにも行って、韓民族の偉大さを世界に知らせる方法を探し求めなければならない」
祖国巡礼を通して、私はもう一つの新たな課題を得て、今後の志をさらにしっかりと立てました。
「必ず民族を救い、神様の平和をこの地に成し遂げます」
両拳をぎゅっと握るや心も引き締まり、進む道がはっきりと見えました。

刀は磨かなければ鈍くなる

定州普通学校を終えたあと、住居をソウルに移した私は、黒石洞 (現在のソウル特別市銅雀区内) で自炊しながら京城商工実務学校に通いました。ソウルの冬はとても寒かったです。零下二○度まで気温が下がることも珍しくありませんでした。そのたびに漢江の水が凍ったりもしました。自炊の家 (下宿) は井戸が深くて十尋 (約一八・二メートル。一尋は六尺で約一・八二メートル)以上もありました。紐がよく切れるので鎖をつないで使いましたが、井戸水を汲み上げる時に釣瓶縄に手がペタペタくっつき、口で息をハーハー吹きかけて水を汲んだものです。
寒さ対策に、持ち前の腕を生かして編み物をよくしました。セーターもたくさん着て、厚手の靴下や帽子、手袋もすべて自分で編んで作りました。私が編んだ帽子はとてもかわいくできて、その帽子を被って外に出れば、みんなが私を女性と思うほどでした。
しかし、真冬でも自分の部屋に火を入れたことはありません。火を入れる余裕はなかったし、極寒の中、家もなく道端で凍りついた体を温める人に比べれば、貧しくても屋根の下で横になって眠ろうとする私の立場が贅沢だと考えたからです。ある日は、あまりにも寒くて、裸電球を火鉢のように布団に入れたまま、その布団をすっぽり被って寝て、熱い電球で火傷して皮膚が剥がれてしまいました。今でもソウルと聞けば、その時の寒さがまず頭に浮かびます。
ご飯を食べる時は、おかずを二品以上お膳に並べたことがありません。いつも一食一品、おかずは一つあれば十分でした。自炊の時の習慣で、私はおかずはたくさん要りません。やや塩辛く味付けしたものが一つあれば、ご飯一杯をさっと平らげることができます。今でもお膳におかずがたくさん並んでいるのを見ると、無性に煩わしい気持ちがします。ソウルで学校に通っていたこの頃、昼食は食べませんでした。山を歩き回った昔の習慣のおかげで、一日二食あれば空腹を気にしないで生活できたのです。そういう生活を三十歳になるまで続けました。このように、ソウルの生活は私に、暮らしのつらさを痛感させました。
一九八〇年代に黒石洞を訪ねてみたことがあります。驚くべきことに、当時下宿した家がそのまま残っていました。私が生活した玄関脇の部屋や洗濯物を広げた庭は数十年前のままでした。ただ、手に息を吹きかけて冷たい水を引き上げた井戸はなくなってしまい、それが残念でした。
「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」これは、その頃の私の座右の銘です。先に身心を鍛錬してこそ、次には国を救い、世の中を救う力も持てる、という意味です。私は、食欲はもちろん、一切の感性と欲望に振り回されないで、体と心を自分の意志どおりにコントロールできるところまで、祈りと瞑想、運動と修錬によって自分を鍛錬しました。そこで、ご飯を一食食べる時も「ご飯よ、私が取り組む仕事の肥やしになってほしい」と念じて食べ、そういう心がけでボクシングもし、サッカーもし、護身術も習いました。おかげで、若い頃よりもかなり太りましたが、今でも相変わらず体の動きだけは青年のように身軽です。
京城商工実務学校に通っていた時、学校の掃除は自分一人でやりました。問題を起こした罰としてやらされたのではなく、人よりも学校をより多く愛したい心がおのずとあふれてきて、そうしたのです。誰かが手助けしてくれるのも申し訳なくて、一人で仕上げようと努力し、人が掃除した場所ももう一度自分でやり直しました。すると友人たちは皆、「それじゃあ、おまえ一人でやれ」と言って、自然と学校の掃除は私の役目になりました。
私はめったに話さない学生でした。他の友達のようにぺちゃくちゃ話すこともなく、一日中一言も話さないこともよくありました。だからなのか、拳骨を食らわしたり、力で脅かしたりしたこともないのに、同級生は私を怖がって、むやみに馴れ馴れしくすることはありませんでした。トイレで並んでいても、私が行けばすぐに場所を空けてくれたし、悩みがあればまず私のところにやって来て、私の意見を聞くということが頻繁にありました。
先生方の中には、私の質問に答えられず、逃げていった人が少なくありません。数学や物理の時間に新しい公式を学ぶと、「その公式を誰が作ったのですか。正確に理解できるように初めから丁寧に説明してください」と先生に噛み付いて、授業を引き延ばしました。そうやってかき回し、追い散らしてはほじくり返し、ほじくり返しするので、先生方はすっかり降参してしまいました。私は世の中に存在する論理を一つ一つ検証して確認するまでは、どんなことも受け入れることができませんでした。「その素晴らしい公式をなぜ私が先に考えつかなかったのか」と思うと、おおっぴらに腹を立てたりもしました。幼い時、夜通し泣いて、我を張って譲らなかった性格が、勉強に対してもそっくりそのまま表れたのです。勉強する時も、祈る時と同じように全精力を傾け、誠を尽くして取り組みました。
私たちはあらゆることに精いっぱいの誠を尽くすべきです。それも一日、二日ではなく、常にそうすべきです。刀は一度使っただけで磨かないと、切れ味が悪くなってしまいます。誠も同じです。毎日刀を鋭く磨き、刀を研ぐという心で、絶え間なく継続すべきです。どんなことでも誠を尽くせば、我知らず神秘の境地に入っていくようになります。筆を握った手に誠心誠意の一念を込めて、「この手に偉大な画家が降りてきて私を助けよ」と祈りつつ精神を集中すれば、天下の耳目を驚かすような絵が生まれます。
私は発声練習に誠を尽くしました。人よりも速く、正確に話すためです。小さな部屋に籠もって、「カーギャーコーギョー、カルナルタルラル……」と声を出して練習しました。「フィリリーリックー」と、話したい言葉を雨あられのように降り注ぐ訓練もしました。その成果で、ひとこと人が一言言う問に十の言葉を言うほど早口で話せるようになりました。すっかり馬齢を重ねた今でも、私は本当に言葉が速いのです。速すぎて聞き取りにくいと言う人もいますが、気が急くので到底ゆっくり話すことができません。胸の内に話したい言葉がいっぱいあるのに、どうしてゆっくり話せるでしょうか。
そういう面で、私は話が大好きだったわが祖父によく似ました。祖父は奥の間に集まった来た客を相手に、三時間でも四時間でも時の経つのも忘れて四方山話に花を咲かせました。私もそうです。心が通う者たちと席を共にすると、夜遅くなろうと明け方になろうと、そんなことはどうでもよくなります。胸中に積もった言葉がすらすら流れてきて止めることができません。食事の時間も迷惑に思うくらい、話をするのが好きで好きでたまりませんでした。話を聞く方も力が入って、額にぶつぶつと汗が吹き出します。それでも私が汗をたらたら流して話し続けるので、「もう帰らなければ……」とどうしても言い出せずに、私と一緒にうとうとしながら、夜を明かすのが常です。

巨大な秘密の門を開ける鍵

故郷で山という山は全部足を運んで登ったように、ソウルも隅々まで行かなかった所がありません。その頃、ソウル市内を電車が走っていました。電車賃は五銭でしたが、それさえもったいなくて、いつも歩いて行きました。蒸し暑い夏の日は汗をたらたら流して歩き、極寒の冷たい冬は肉を抉るような風をくぐり抜けるようにして歩きました。もともと足が速い私は、黒石洞から漢江を渡って鍾路の和信百貨店まで四十五分あれば着きました。普通の人には一時間半ほどの道のりですから、どれだけ早足だったか想像がつくでしょう。浮いた電車賃は貯めておいて、私以上にお金に困った人に分け与えました。出すのが恥ずかしいくらいの微々たる金額だとしても、大金を出せなくて申し訳ないという気持ちで、そのお金が福の種になるようにと思って渡しました。
四月には故郷からきちんと学費を送ってきましたが、生活が苦しい周囲の人たちを見過ごしにできず、五月になる前に全部なくなりました。学校に行く途中、息も絶え絶えの人に出くわしたことがあります。かわいそうに思うと足が止まってしまい、その人を背負ってニキロほど離れた病院に向かって走り出しました。運良く財布に入っていた学費の残りで治療費を払うと、あとはもうすっからかんです。今度は自分の学費が払えなくなり、学校から督促を受けることになりました。それを見て、友人がお金を一銭、二銭と集めてくれました。その時の友人は生涯忘れられません。
助け合うこともまた、天が結んでくれる因縁です。その時はよく分からなくても、後で振り返ってみて、「ああ、それで私をその場に送られたのか」と悟るようになりました。ですから、突然私の前に助けを乞う人が現れたら、「天がこの人を助けるようにと私に送られたのだ」と考えて、心を込めて仕えます。天が「十を助けなさい」と言うのに、五しか助けないのでは駄目です。「十を与えよ」と言われたら、百を与えるのが正しいのです。人を助けるときは惜しみなく、財布をはたいてでも助けるという姿勢が大切です。
ソウルに来て、ケピトック(風餅)というお菓子を初めて見ました。色や模様が美しいので、「ああ、こんなに美しい餅がたくさんあるなあ」と言って、口に入れて噛むと、中の空気が抜けて、ぺちゃんこに潰れるではありませんか。その時思いました。ああ、ソウルという所はそのままこのケピトソクのようだ、と。「抜け目のないソウルっ子」という言葉がなぜ生まれたのか、分かった気がしました。ソウルは外から眺めると、地位の高い立派な職業の人ばかりいる富者の世の中に見えますが、その実態は貧者の天下です。漢江の橋の下にはぼろぼろの服を着た乞食があふれていました。私は漢江の橋の下の貧民窟を訪ねて行き、彼らの頭を刈って心を通わせました。貧しい人は涙もろいのです。胸の中に溜まりに溜まった思いが高ずるのか、私が一言声をかけても泣き出して、大声で泣き叫びました。手には、ぽりぽり掻くと白い跡ができるほど、べっとりと垢がこびり付いています。物乞いでもらってきたご飯をその手でじかに私にくれたりもしました。そんな時は、汚いとは言わずに喜んで一緒に食べました。
ソウルにいた時も熱心に教会に通いました。最初は黒石洞五旬節教会に通い、漢江の向こう側 (北側)にあった西氷庫五旬節教会にも通いました。その後、内資洞 (現在のソウル特別市鍾路区内)のイエス教会と黒石洞にあった明水台イエス教会に通いました。西氷庫洞(現在のソウル特別市龍山区内) に行こうとして漢江の橋を渡ると、寒い冬の日は「パーン!ジジジジー!」と氷が割れる音がしたものです。
教会で日曜学校の先生を務めたことを思い出します。私の話は抜群に面白くて、子供たちがとても喜びました。今は年を取って冗談を言う才能もなくなりましたが、その当時は面白おかしい話もよくして、子供たちは打てば響くように反応してくれました。私がアーンアーンと泣けば子供たちもアーンアーンと泣き、私がハッハッハと笑えば子供たちもハッハッハと笑います。私の後ろをぞろぞろ付いて回るほど人気がありました。
明水台の裏側に瑞達山があります。瑞達山の岩に登って、しばしば夜を徹して祈りました。寒くても暑くても、一日も休まず祈りに熱中しました。一度祈りに入れば涙と鼻水が入り混じるくらい泣き、神様から受けたみ言を胸に抱いて、何時間も祈りだけに集中しました。神様のみ言はまるで暗号のようで、それを解こうとすればより一層祈りに没頭しなければなりません。今考えると、その時すでに、神様は秘密の門を開ける鍵を親切に与えてくださったのに、私の祈りの不足ゆえにその門を開けることができませんでした。そういう訳で、ご飯を食べても食べた気がせず、目を閉じても眠れませんでした。
一緒に下宿していた友人たちは、私が山に登って夜通し祈っていることはよく知らないようでした。それでも、他の人とは違う何かが感じられたのか、私に一目置いていました。しかし私は、平素はおどけた言動をして仲良く過ごしたものです。私は誰とでも気持ちがすっと通じます。お婆さんが来ればお婆さんと友達になり、子供たちが来れば子供たちとふざけたりして遊びます。相手が誰であっても、愛する心で接すればすべて通じるのです。
黒石洞の頃、早朝祈禧会で私の代表祈疇に感化され、私を訪ねてきて親しくなった李奇完おばさんとは、この世を去る時まで四十数年間、友情を分かち、友として交流しました。妹の李奇鳳おばさんは、私が下宿した家の女主人でした。下宿の掃除で何かと忙しそうにしていましたが、いつも私に温かく接してくれました。私によくすれば自分の心が楽になると言って、おかずの一つでももっと食べさせようと気を配ってくれました。無口で、別段面白みもない私を、なぜそんなふうにかわいがってよくしてくれたのか分かりません。後日、私が京畿道警察部に収監された時は差し入れもしてくれました。今も李奇鳳おばさんを思えば胸が温かくなります。
自炊の家の近所で小さな店を出していた宋おばさんも、その頃の大事な恩人です。おばさんは、故郷を離れて暮らすのはおなかが空いて大変だろうと言って、店の売れ残りがあると何でも持ってきてくれました。小さな店を切り盛りしてやっと食べている立場なのに、私にはいつも厚い情けをかけてくれて、食べ物を用意してくれました。
漢江の川辺で礼拝を捧げた日のことです。昼食時間になって、会衆はばらばらに座ってご飯を食べ始めました。昼食を取らない私は、その中にぼんやり座っていても仕方ないので、一人だけすっと後ろに離れて、川辺の石の小山に座っていました。それを見た宋おばさんが、パン二個とアイスケーキを二個持ってきてくれました。それがどれだけありがたかったかしれません。一つ一銭で、全部で四銭にしかならないものでしたが、おばさんの心遣いは今も私の心に刻まれています。
いくら小さなことでも、いったんお世話になったら生涯忘れることができません。年が九十歳になった今も、いつ誰が何をしてくれたか、また、いつ誰がどのようにしてくれたか、すらすら話すことができます。私のために労苦を惜しまず、陰徳を施してくれた人たちを生涯忘れることはできません。
陰徳を受けたときは、必ず、もっと大きくして返すのが人の道です。しかし、その人に直接会えないこともあるでしょう。恩恵を施してくれた人に直接会えなかったとしても、大事なのはその人を思う心です。ですから、その人に会えなくても、受けた恵みを今度は他の人に施そうという一途な心で生きるのがよいのです。

ぐつぐつと煮えだぎる火の玉のように

京城商工実務学校を終え、一九四一年に日本に留学しました。日本をはっきりと知らなければならないという考えから出発した留学でした。汽車に乗って釜山に下っていくとき、なぜか涙があふれて、外套を被っておいおい泣きました。涙と鼻水が止まらず、顔はぱんぱんに腫れ上がっていました。植民統治下で陣吟する孤児に等しいわが国を後にする心は、これ以上ないほど悲しいものでした。そうやって泣いた後で窓の外を見ると、わが山河も私以上に悔しく悲しそうに泣いていました。山川草木から涙がぽろぽろと流れ落ちる様を、私はこの両目ではっきりと見ました。痛突する山河に向かって、私は約束しました。
「故国の山河よ、泣かないで待っていろよ。必ず祖国光復を胸に抱いて帰ってきてやるからな」釜山港から関釜連絡船に乗り込んだのは四月一日の午前二時でした。強い夜風に打たれても、私は甲板を離れることができず、次第に遠ざかっていく釜山を眺めて、一睡もせずに夜を過ごしました。
東京に到着した私は、早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科に入学します。現代科学を知らなくては新しい宗教理念を打ち立てることはできないと考えて、電気工学科を選びました。
目に見えない世界を扱う数学は、宗教と一脈相通ずる面があります。大事を成そうと思えば数理の力に優れていなければなりません。私は頭が大きいせいか、人が難しいと言う数学に長けており、数学を好みました。頭に合う帽子を探すのが大変で、直接工場に足を運んで二度も合わせ直して作ったほど、頭が大きかったのです。一つのことに集中すれば、普通なら十年かかるところを三年もせずにやり遂げてしまえるのも、大きな頭のおかげかもしれません。
日本留学時代も、韓国にいた時と同じように、先生方に向かって質問を浴びせました。一度質問を始めると、先生の顔が赤くなるまで質問し続けました。そのせいで、「これをどう考えますか」と質問しても、ある先生などは最初から無視して私を見ようともしませんでした。しかし私は、疑問が生まれると、必ず根っこまで掘り下げて解決しなければ納得できないのです。先生を窮地に追い込むのが目的ではありません。どうせ勉強するなら、それくらい徹底してやらなければ意味がないと思いました。
下宿した家の机には、常に英語、日本語、韓国語の三種類の『聖書』を並べて広げておき、三つの言語で何度も何度も読み返しました。読むたびに熱心に線を引いたりメモを書き込んだりして、『聖書』はすっかり真っ黒になってしまいました。
入学と同時に参加した韓人留学生会の新入生歓迎会で、私は祖国の歌を力強く歌って、熱い民族愛を誇示しました。警察官が居合わせた席でしたが、かまわず堂々と歌い上げました。その年、早稲田高等工学校の建築学科に入学した厳徳紋は、その歌声に魅了されて、私の生涯の友人になりました。
東京には、留学生で構成された地下独立運動組織がありました。祖国が日本の植民統治下で呻吟していたのです。独立運動は当然のことでした。大東亜戦争が熾烈を極めるにつれて、弾圧は日に日に激しさを増していきました。日本政府が韓国の学生たちを学徒兵という名目で戦場に追い立て始めると、地下独立運動も次第に活発になっていきました。日本の天皇をどうけるかについて色々と討論したこともあります。私は組織上、留学生を束ねる責任者となり、金加先生の大韓民国臨時政府 (金九は当時主席) と緊密に連携しながら、同臨時政府を支援する仕事を受け持ちました。いざとなれば命を投げ出さなければならない立場でしたが、正義のためという考えから、ためらいはありませんでした。
早稲田大学の西側に警察署がありました。私の活動に感づいた警察は、絶えず目を光らせて私を監視しました。夏休みに故郷に帰ろうとしても、先に警察が嗅ぎつけて、埠頭や駅に私服警官を送って見張るほどでした。そのため、警察に捕まって、取調べを受けたり、殴られたり、留置場に拘禁されたりしたことも、数え切れないほどありました。追いかけてきた警察と四ツ谷の橋で、欄干の柱を抜いて戦ったこともあります。この当時、私はぐつぐつと煮えたぎる火の玉のようでした。

労働者の友となった苦労の王様

ソウルにいた時と同様、東京でも行かない所がないくらいあらゆる土地を歩き回りました。友人が日光のような景勝地を見物に行くときも、私は一人残って東京市内の至る所を歩いて回ってみました。見た目はきらきらして華やかでも、東京の街もやはり貧者の天下でした。私は家から送金されたお金を皆、貧しい人々に分け与えました。
その時代は誰もがおなかを空かせていました。留学生の中にも苦学生が大勢いました。私は一カ月分の食券が手に入ると、全部持って行って彼らに渡して、「食べろ。思う存分食べろ」と言って、すべて使いました。自分ではお金の心配はしませんでした。どんな所でも働いて仕事をすれば、ご飯は食べることができたからです。お金を稼いで苦学生の学費を助けるのも私の楽しみでした。そうやって、人を助けたりご飯を食べさせたりすれば、体の奥からふつふつと力が沸いてきました。
所持金をはたいて全部分け与えた後は、リヤカーで荷物を配達する仕事をしました。東京の二十七の区域をリヤカーで縫うようにして回りました。電信柱を載せたリヤカーを引いて華やかな街灯がともる銀座を通った時、交差点の途中で信号が赤になってしまい、その場に立ち止まったため、道行く人々がびっくりして逃げていったこともあります。おかげで、今でも東京の隅々まで手に取るように分かります。
私は労働者の中の労働者であり、労働者の友達でした。汗のにおいと小便のにおいが漂う彼らと肩を並べて、私もまた作業現場に行って、汗を流して働きました。彼らは私の兄弟だったのであり、それゆえに、ひどいにおいも気になりませんでした。真っ黒なシラミが列をなして這っている汚い毛布も、彼らと一緒に使いました。何層にも垢がこびりついた手も、ためらわずに握りしめました。垢まみれの彼らが流す汗には粘っこい情けがあり、私はその情けが面白くて好きでした。
主に川崎鉄工所と造船所で肉体労働をしました。造船所には石炭運搬用の「バージ」と呼ばれる艀があって、ポンポン船がそれを曳航します。私は三人一組になって、午前一時までに石炭百二十トンをバージに積み込む仕事をしました。日本人が三日かけてする仕事を、韓国人は一晩でやってのけます。韓国人の手際のよさを見せてやろうと思い、無条件に一生懸命働きました。
作業現場には、労働者の血と汗を搾り取る輩がいます。労働者を直接管理する班長が往々にしてそうです。彼らは、労働者が汗水たらして稼いだお金の三割をピンはねして、私腹を肥やしていました。しかし、力のない労働者は全く抗議できませんでした。弱い者を苦しめ、強い者にへつらう人間。そんな班長に腹が立って我慢ならなかった私は、“三銃士”の友人を呼び集めて彼の元を訪ねていき、「仕事をさせたなら、させたとおりに金を払え!」と食ってかかったことがあります。一日で駄目なら、二日、三日としぶとく詰め寄りました。それでもまったく話を聞かないので、私の大きな体で足蹴りをして、班長を吹っ飛ばしてしまいました。私はもともと無口でおとなしい人間ですが、怒ると子供の頃の意地っ張りの気質が蘇り、蹴飛ばしてしまうこともよくやります。
川崎鉄工所には硫酸タンクがありました。労働者は硫酸タンクを清掃するために、タンクの中に直接入っていって原料を排出する仕事をします。硫酸はとても有毒で、タンクの中に十五分以上入っていることはできません。そんな劣悪な環境の中でも、彼らはご飯のために命がけで働きます。ご飯というものは、命とも引き換えにできるくらいに重要なものでした。
私はいつも空腹でしたが、いくらおなかが空いても、自分のために食べることはしませんでした。ご飯を食べるときには、はっきりした理由がなければならないと考えました。それで、食事のたびに、おなかが空いた理由を自らに問いただしてみました。「本当に血と汗を流して働いたのか。私のために働いたのか、それとも公的なことのために働いたのか」と尋ねてみました。ご飯を前にすることに、「おまえを食べて、きのうよりもっと輝いて、公的なことに取り組もう」と言うと、ご飯が私を見て、笑いながら喜んだのです。そんなときは、ご飯を食べる時間がとても神秘的で楽しい時間でした。そうでなければ、どんなにおなかが空いても食事をしなかったので、一日に二食食べる日もそれほど多くはありませんでした。
元から食べる量が少なくて一日二食で我慢したのではありません。若い盛りでしたから、私も食べ始めればきりがありませんでした。大きな器に盛ったうどんを十一杯まで食べたこともあり、また親子どんぶりを七杯食べたこともあります。それくらい食欲旺盛だったのに、昼食を抜いて一日に二食しか食べない習慣を三十過ぎまでかたくなに続けました。
おなかが空けば食べ物が恋しくなります。空腹時のご飯の恋しさは嫌というほど知っていますが、世界のためにご飯一食ぐらいは犠牲にできて当然だろうと思いました。新しい服を着てみたこともないし、どんなに寒くても部屋に火を入れませんでした。とても寒いときの一枚の新聞紙は、絹の布団のように暖かいものです。私は一枚の新聞紙の価値をよく知る男です。
ある時は品川の貧民窟で生活してみました。ぼろを被ったまま寝て、日差しの強い真昼になってシラミを捕まえたり、乞食たちがもらってきたご飯を分け合って食べたりしました。品川の通りには、流れ者の女性も大勢いました。一人一人事情を聞いてあげると、お酒を一口も飲めない私が、いつしか彼女たちのかけがえのない友になっていました。酒を飲まなければ本心を打ち明けられないというのは、空しい言い訳です。酒の力を借りなくても、彼女たちを不欄に思う私の心が真実だと分かると、彼女たちも素直な心で胸の内を明かしました。
日本で勉強する間、本当にありとあらゆることをしてみました。ビルの小使いや文字を書き写す筆生の仕事もしました。作業現場で働いて現場監督をしたこともあれば、人の運勢を占ったこともあります。生活に困れば、文字を書いて売ったりもしました。それでも、勉強をおろそかにはしませんでした。私は、そうしたことはすべて自分自身を鍛錬する過程だと考えました。いろいろな人に会ってみましたが、それを通して、人間をより多く知るようになりました。おかげで、人をちらっと見れば、「ああ、何をしている人だな」「この人は良い人だな」とすぐに分かります。頭であれこれ考える前に、体が先に分かってしまうのです。
私は今でも、人間が人格完成しようと思えば、三十歳になるまでは苦労してみなければならないと考えます。三十歳になるまでに、人生のどん底を這いずり回るような絶望の坩堝に一度ぐらいははまってみるべきでしょう。絶望の奈落の底で新しいものを探し出せというのです。そうすれば、「ははあ」と驚きの声を上げながら、「今の絶望がなければ、このような決心はできなかったはずだ」と心を新たにするようになります。絶望の淵から驚きの声を上げて抜け出してこそ、新しい歴史を創造する人に生まれ変わることができるのです。
一箇所だけ、一方向だけ見ていても大事は成せません。上も見て、下も見て、東西南北をすべて見なければなりません。人の生涯はどれも同じ七十年、八十年ではないのです。一度しかない人生であり、その間に成功できるか否かは、自分の目で物事を正しく見られるかどうかにかかっています。それには豊富な経験が物を言います。また厳しい環境にあっては、余裕のある人間味と柔軟な自主性が必ず必要です。
人格者は、一度上がって急降下する人生にも慣れていなければなりません。大抵の人は一度上がると、下がるのを恐れて、その地位を守ろうと汲々としますが、淀んだ水は腐るようになっています。上に上がったとしても、下に下りていって、時を待った後にさらに高い頂に向かって上がっていくことができてこそ、大勢の人から仰がれる偉大な人物、偉大な指導者になれるのです。三十歳になる前の若い時代に、こういったことをすべて経験しておくべきです。
ですから、私は今も青年たちに、世の中のあらゆることを経験してみなさいと勧めています。百科事典を最初から最後まで隈無く目を通すように、世の中のすべてのことを直接、間接に経験したとき、初めて自らの拠って立つ価値観が定まります。価値観とは何でしょうか。それは自らの明確な主体性です。「全国を見回してみても、私を負かす者はなく、私にかなう者はない」という自信を得た後に、最も自信のあるものを一つ選んで、一気に勝負をつけるのです。そうやって人生を生きれば必ず成功するし、成功せざるを得ません。東京で乞食の生活をしながら、私は以上のような結論に達しました。
私自身も、東京で労働者と寝食を共にしながら、また乞食と食うや食わずの悲哀を分かち合いながら、苦労の王様、苦労の哲学博士になってみて、初めて人類を救おうとする神の御旨を知ることができました。それゆえ、三十歳までに苦労の王様になることです。苦労の王様、苦労の哲学博士になること、それが天国の栄光に至る道です。

穏やかな心の海

日本が始めた大東亜戦争の戦況は日増しに切迫していきました。切羽詰った日本は、不足する軍人の穴を埋めるために、健康な二十歳以上の学生を休学させて、学徒兵として出征させました。そのため、私も六カ月早く卒業することになりました。
一九四三年九月三十日に卒業して、故郷の家には「崑崙丸に乗って帰国する」と電報を打っておきました。ところが、帰国船に乗ろうとした日、足が地に付いて離れないという不思議な現象が起きました。出航する時間はどんどん迫ってくるのに、どうしても足を離すことができず、結局、箆喬丸に乗り損ねてしまいました。
「崑崙丸に乗るなという天のみ意のようだ」と思った私は、しばらく日本に留まることにして、友人たちと富士山に登りました。数日後、東京に戻ってきてみると、世の中は上を下への大騒ぎになっていました。私が乗ろうとした崑崙丸が撃沈されて、韓国に帰る乗船者のうち五百人以上が死んだという話でした。毘嵜丸は、当時の日本が誇る大型高速船でしたが、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没してしまったのです。
息子が乗る船が沈没したという知らせを聞いた母は、確かな情報を得るため、そのまま履物も履かずに定州邑の中心街まで二十里 (約八キロメートル) の道を走っていきました。足の裏に太い棘が刺さったことにも気づかないで、魂が抜けたように私の名前ばかり呼んだそうです。
その後、汽車に乗って釜山に下ってきました。釜山の海洋警察署に到着してみると、乗船者名簿に息子の名前はなく、東京の下宿からはすでに荷物をまとめて出発したと連絡を受けていたので、呆気にとられるばかりでした。
日本留学を終えて祖国に帰ってきたものの、それまでと何も変わるところがありませんでした。日本の圧政は日々激しくなり、国土は血の涙に濡れていました。私はソウルの黒石洞に再び腰を落ち着けて、明水台イエス教会に通いながら、日々新たに悟るすべての内容を几帳面に日記帳に書き留めることにしました。悟りの多い日は、一日で一冊の日記帳を使い切ることもありました。そうするうちに、数年にわたる祈祷と真理探究の総決算とも言うべく、それまでどうしても解けなかった疑問についに答えを得たのです。それは一瞬の出来事でした。あたかも火の塊が私の体を通り抜けたかのようでした。
「神様と私たちは父と子の関係である。それゆえ、神様は人類の苦痛をご覧になって、あのように悲しんでいらっしゃるのだ」
という悟りを得た瞬間、宇宙のあらゆる秘密が解かれました。
人類が神様の命令に背いて、堕落の道を歩む中で起こったすべての出来事が、映写機が回るように私の目の前にはっきりと広がりました。目から熱い涙がとめどなく流れ落ちました。私はひざまずいてひれ伏したまま、容易に起き上がることができませんでした。子供の頃、父に背負われて家に帰った日のように、神様の膝に顔を伏せて涙を流したのです。イエス様に出会って九年目にして、ようやく父の真の愛に目覚めたのでした。
神様は人類始祖アダムとエバを創造された後、生育し (人間として成熟し)、繁殖し (家庭を築き)、平和世界を築いて暮らしなさいと祝福してくださいました。しかし、アダムとエバは神様の定めた時と戒めを守ることができず、不倫を犯し、それによって二人の息子カインとアベルを生みました。堕落の落とし子となった息子たちは、互いを不信し、兄弟間の殺人を犯してしまいます。こうして平和は破れ、罪が世界を覆い、神様の悲しみが始まりました。ところが、人間はメシヤ(救い主)たるイエス様を殺すという大罪を再び犯してしまったのです。それゆえ、今日人類が被っている苦痛は、当然通過しなければならない贖罪の過程であり、神様の悲しみは依然として続いているのです。
神様が十五歳の私に現れたのは、人類始祖の犯した罪の根が何であるかを伝え、罪と堕落のない平和世界を築こうとされたためでした。人類が犯した罪を蹟罪し、太古の平和世界を復元するように、というのが、私が神様から授かった厳重なみ言でした。神が願う平和世界は死んでから行く天国ではありません。神の願いは、私たちが生きるこの世の中が、太古に創造されたその場所のように、完全に平和で幸福な世界になることです。神は人類に苦痛を与えたくて、アダムとエバを誕生させたわけではないのです。私はこの驚くべきみ言を世の中に伝えなければなりませんでした。
宇宙創造の秘密を解明すると、私の心は海のように穏やかになりました。私はぼろを着て下を向いたまま歩き回りましたが、心はあふれんばかりの神のみ言に満たされ、私の顔からは喜びの輝きが消えませんでした。

「どうか死なずに耐え忍んでほしい」

ひたすら祈りに精進し続けるうちに、結婚する時が来たことを直感しました。神の道を行くと決めた以上、すべての歩みは神の支配下にあります。祈りを通して時を知れば従わざるを得ませんでした。そこで、仲人の経験豊富なある婦人に依頼して、定州の有名なキリスト教家庭の娘である崔先吉と見合いをしたのち、略式の婚約をしました。
彼女はとても由緒ある家庭で生まれ育った真心を尽くす女性でした。小学校しか出ていませんでしたが、ほんのわずかでも人の世話にはならないという性格で、神社参拝を拒否して十五歳で獄中生活をしたほど、信念のある信仰深い女性でした。私は二十四番目の新郎候補だったそうで、彼女は新郎を選びに選んだのです。しかしながら、ソウルに戻った私は、見合いをしたことさえ忘れてしまうほど切迫した心情にありました。
私はもともと、留学から戻ったら、中国、ソ連、モンゴルの国境都市である中国の海拉爾に行く計画でした。満州電業株式会社に就職して三年ほど生活しながら、中国語とロシア語、モンゴル語を学ぼうと考えていました。日本に打ち勝つために日本語を教える学校に通ったように、来るべき未来に備えようと、三国の国境地域に行って外国語をいくつか学ぶつもりでした。ところが、当時、情勢が尋常ではありませんでした。どうしても満州に行ってはならないようで、就職予定を取り消しに満州電業安東支店(安東は鴨緑江の対岸にある現在の中国・丹東)に行きました。そこで手続きを終えた後、故郷の定州に戻ってみると、お見合いを準備してくれた婦人が大騒ぎを起こしていました。婚約した女性が私でなければ嫁に行かないと言い張って大変だと言うのです。私を見るやいなや女性の家に連れて行きました。
私は彼女に、これから私がどう生きていくかをはっきりと話しました。
「いま結婚しても、少なくとも七年ほどは、あなた一人で生きる覚悟をしなければならない」
「なぜそうしなければならないのですか」
「私には結婚生活よりもっと重要なことがある。実際、結婚するのも神様の摂理を遂行するためだ。私たちの結婚は、家庭を超えて、民族と人類を愛することのできる位置まで行かなければならない。私の意志がこうであっても、心から私と結婚したいのか」
すると女性は、「好きなようにしていいです。あなたに会った後、月の光の中で花が満開になっている夢を見たので、あなたは問違いなく天が私に下さった連れ合いです。ですから、どのような困難があっても我慢できます」と、気丈な態度で答えました。それでもまだ不安だった私は、何度か彼女の固い誓いを確認し、そのたびに彼女は「あなたと結婚できさえすれば、どんな事情があっても尽くすので、何の心配もしないでください」と答えて、私を安心させました。
四月に結婚式を挙げる予定が、義父が急に亡くなったので、当初の日取りを延期して一九四四年五月四日に婚礼を行いました。五月は普通ならのどかな春の日ですが、その日は土砂降りの雨でした。イエス教の李浩彬牧師が主礼を務めてくれました。李浩彬牧師は光復(日本の敗戦で植民統治から解放されたこと。一九四五年八月十五日を指す)後、南に下って超教派的な中央神学院を設立した人です。
自炊していたソウルの黒石洞で新婚生活を始めました。「まあ、まるで卵を扱っているみたいで、どれだけ美しいお嫁さんなのかしら」と言った下宿屋のおばさんの言葉どおり、私は妻を心から大事にし、愛しました。
当時の私は、龍山にある土木会社の鹿島組京城営業所に就職して、会社の仕事と教会の仕事を一緒にしていました。ところがその年の十月、新婚の家に突然日本の警察がやって来て、「早稲田大学の経済学部に通っていた誰それを知っているか」と尋ねるなり、答えも待たずに私を京畿道警察部に連行しました。共産主義者として引っ張られていった友人の口から、私の名前が出たことが理由でした。
警察に連行された私は、いきなり拷問を受けました。
「おまえも共産党だろう?内地に留学して、そいつと同じ仕事をしただろう?おまえがいくら違うと意地を張っても無駄だ。警視庁に照会すれば分かるようになっている。こんな所で犬死にしないように、共産党の奴らの名前を全部吐くことだな」
日本で同じ活動をしていた友人の名前を吐けと言って、机の脚に使う角材が四本とも壊れるほど殴られましたが、私は最後まで話しませんでした。
すると、次に警察は、黒石洞の新婚の家を家捜しして日記帳を押収しました。彼らは日記帳を一枚一枚めくっていって、友人の名前を突き止めようとしましたが、私は死を覚悟して知らないと突っぱねました。
戦争は終わりの時が近づき、焦りの色を濃くした日本の警察の拷問は、とても言葉で言い表せないほど残酷でした。彼らは鋲を打った軍靴で私の体を容赦なく踏みつけ、私が死んだようにぐったりすると、天井に吊して揺らしました。精肉店の肉塊と化した私の体は、彼らが押す棒に任せてあちこち揺れ動き、口からは鮮血がほとばしってセメントの床を濡らしました。何度も気を失い、そのたびにバケツ一杯の冷水をかけられ、意識が戻ればまた拷問です。鼻をつまんで、洋銀製のやかんを口の中に突っ込み、大量の水を無理やり飲ませる拷問もありました。床に倒れた後、カエルのように膨れ上がったおなかを軍靴で踏みつけます。食道を通って上がってきた水を吐き出すと、目の前が真っ暗になって何も見えませんでした。そんな拷問を受けた日は、食道が燃えるように痛み、水っぽい汁でさえ一口も喉を通らず、剥き出しの床に力なく俯になって、ぴくりとも動けませんでした。
私はついに友人の名を口にせず、拷問を耐え抜きました。意識が朦朧となる中でも、それだけは死に物狂いで守り通しました。ところが、業を煮やした警察は、故郷の母親を呼ぶ作戦に出たのです。足が伸びきって思うように立つこともできなかった私は、複数の警官に両腕を挟まれて、面会室まで辛うじて歩いて行きました。母は私に会う前から、もう目の周りが涙でただれていました。血まみれになった息子の顔を見て、
「少しだけ我慢しなさい。自分が何としてでも弁護士をつけてあげるから。その時までどうか死なずに耐え忍んでほしい」
と必死に訴える母でした。しかし、「いくら志が良くても、おまえの命を守るほうが先だ。絶対に死んではならない」と言って泣いている母を眺める私の心は、つらく切ないものでした。心の中では、「お母さん1」と言って共に抱き合い、こんこんと泣きたい気持ちでした。けれども、母親に面会させる警察の意図をよく知る私としては、そうはできなかったのです。母の言葉に私ができる返事と言えば、裂けてぶくぶくと膨れた目をしきりに瞬きさせることだけでした。
京畿道警察部に拘束された四カ月間、下宿屋の李奇鳳おばさんとその姉妹たちが交代で差し入れをしてくれました。おばさんは面会するたびに泣くので、私は「少しだけ我慢すれば、この時代は間もなく終わります。遠からず日本は滅びますから、泣かないでください」とおばさんを慰めました。それは自分の言葉ではなく、神様が私に下さった信仰でした。
翌一九四五年二月、警察から解放されて出て来るとすぐ、私は下宿の日記帳をひとまとめにして、漢江の川辺に行きました。そして、もうこれ以上友人に被害が及ばないように、そのたくさんの日記帳をことごとく焼き捨てました。そのまま残しておけば、私が監獄に入るたびに禍根になるかもしれないものでした。
拷問でぼろぼろになった体はなかなか回復しませんでした。長い間血便が出て、体を動かせずに難儀する私を、下宿屋のおばさんの姉妹たちが真心を込めて世話してくれました。
ついに一九四五年八月十五日、待ちに待った光復の日が来ました。三千里半島 (朝鮮半島の南北の長さを三千朝鮮里とした伝統的表現) が「万歳!」の声と太極旗の渦に覆われた感激の日でした。しかし私は、遠からず朝鮮半島に訪れるであろう驚くべき災難を予感して、とても深刻になり、喜んで万歳を叫ぶことができませんでした。独り小さな部屋に閉じこもって、祈りに熱中しました。不吉な予感どおり、祖国は日本の植民地支配から解放されましたが、すぐに三八度線で国が二つに分かれました。北朝鮮の地に、神の存在を否定する共産党が足を踏み入れたのです。

拒否できない命令
光復の直後、韓国の実情は言うに言えない混乱状態でした。お金があっても、米を手に入れることは簡単ではありませんでした。とうとう家に米がなくなったので、買っておいた米を取リに黄海道の白川に向かいました。その途中でのことです。
「三八度線を越えて行きなさい!北の方にいる神様に仕える人々を取り戻しなさい!」という啓示が下りました。
私は即座に、三八度線を越えて平壌に向かいました。長男が生まれて二月しか経っていない時でした。今か今かと私を待つ妻が心配でしたが、家に戻る余裕はありませんでした。神のみ言は厳しいものです。み言を受けたら、従順に即応しなければなりません。創世記から黙示録まで数十回も線を引いて読み、ごま粒のようなメモ書きで真っ黒になったぼろぼろの『聖書』一冊だけを携えて、私は三八度線を越えて行きました。
その時はもう共産党から逃れようと、北から避難民が続々と南下してきていました。特に、共産党が宗教を迫害したので、多くのキリスト教徒が宗教の自由を求めて南側に下ってきました。宗教はアヘンだと言って、民衆に宗教を持たせないようにしたのが共産党です。そのような地に、私は天の召命を受けて向かったのです。牧師であれば嫌う共産党の支配する世界に、私は自分の足で歩いて入っていきました。
避難民が増えるや、北側の警戒が物々しくなって、三八度線を超えることすら容易ではありませんでした。しかし、百二十里 (約四十八キロメートル) の道を歩いて三八度線を越え、さらに平壌に到着する時まで、なぜこの険難な道を行かなければならないかと私は一度たりとも疑いませんでした。
一九四六年六月六日、平壌に到着しました。もともと平壌は「東洋のエルサレム」と呼ばれたように、キリスト教が深く根を下ろしている所です。日本の占領期には、神社参拝は言うに及ばず、皇居のある東方に向かって敬礼させる東方遥拝など、ありとあらゆる弾圧が縦横に加えられました。私は平壌の西門に近い景昌里の羅最燮氏の家で伝道生活を始めました。その人は南にいた時から知っていた教会の執事です。
最初の日、近くの子供たちを集めて世話をすることから始めました。子供たちが来れば、『聖書』のみ言を付け加えた童話を聞かせて、一緒に遊びました。子供であっても必ず敬語を使い、真心を込めて世話しました。そうしながら、私が伝えたい新しいみ言を誰かが聞きに来るだろうと待ったのです。ある時は一日中門の外を眺めて、人を懐かしく思ったりもしました。そうやってじっと待っていると、やがて篤実な信仰心を持った人たちが私を訪ねてくるようになりました。その人たちを迎えて、私は夜通し新しいみ言を教えました。訪ねてくる人には、三歳の子供であろうと腰の曲がった目の遠い老人であろうと、愛の心で敬拝し、天に対するように仕えました。年取ったお爺さん、お婆さんが訪ねてきても、夜遅くまで話をしました。「なんだ、年を取った老人なので嫌だな」というような思いを持ったことは一度もありません。人は誰でも尊いのです。人が尊いことにおいて、老若男女に差別はありません。
二十六歳の若々しい青年がローマ人への手紙やヨハネの黙示録を教えるのですが、その話が今まで聞いたことのない内容なのか、志のある者が一人、二人と集まり始めました。毎日のように来ては、喋ることもなく、ただ話だけを聞いていった器量の良い青年である金元弼は、そうやって私の一番目の弟子になりました。私は、平壌師範学校を卒業し教鞭を執っていた彼と二人で、交代でご飯を炊いて食べ、師弟の絆を深めました。
私は一度『聖書』の講義を始めると、信徒たちがやることがあると言って先に席を立たない限りは休みませんでした。精いっぱいの情熱を注いで教えたので、体中から汗が滝のように流れました。みんなに分からないように、外に出て服を脱いで絞ると、服から水がぽたぽたと落ちます。暑い夏だけではありません。雪の降る厳寒の季節でもそうでした。そうやって全身全霊を込めて教えました。
礼拝を捧げる時は必ずきれいな白い服を着ました。讃美歌を数十回繰り返して歌い、情熱的な礼拝を捧げました。参会者が感動にあふれて涙を流すので、世間は私たちの教会を指して「泣く教会」とも呼んだのです。礼拝が終わると、一人一人が受けた恵みを証しします。証しをしている間、参会者は皆、恵みによって体が天に舞い上がるような体験をしました。
私たちの教会には、入神する人、予言する人、異言を語る人、また異言を通訳する人等々、霊通する人が多く現れました。時として私たちの教会に合わない人が来ていたりすると、霊通した人が目を閉じたままその人のところに行って、肩をバーンと叩きます。すると、叩かれた人は急に涙や鼻水を流して、悔い改めのお祈りをするようになります。そうやって熱い聖霊の火がサーッと通り過ぎていくのでした。
聖霊の火の役事(神のみ業、神霊の働き)が起こると、長い間患っていた病気がきれいに治ったりもしました。特に、私が残したご飯を食べて胃腸病が治ったという人の話が周囲に広まると『教会のご飯は薬ご飯』と言って、私が残したご飯を待つ人も大勢現れました。
このような聖霊の体験が知られてから、教会の門を閉めることができないほど信者の数が増えました。池承道ハルモニ (お婆さん) や玉世賢ハルモニは、夢の中で「若い先生が南から上がってきて、万寿台を渡ったところにいる。行って会いなさい」という言葉を受けて、訪ねてきました。誰かが伝道したとか導いたとかではなくて、天が教えた住所を聞いて、路地を歩き回って探し当て、「夢でお会いした方がまさに先生です」と言って喜んだのです。神学を勉強した牧師たちも私を訪ねてきました。私は彼らの顔だけ見ても、何が気がかりで訪ねてきたかが分かりました。何も聞かずに彼らの疑問に答えを示してあげると、喜びながら、びっくりして感激に震えるばかりでした。
自ら悟って体験した話から神のみ言を説いたせいか、今まで理解できずに疑問だった部分がすっきりと解決されたと言って、多くの人たちが喜びました。大きな教会に通った人の中には、私の説教を聞いて、通っていた教会をやめて私たちの教会に来る人もいました。平壌で一番有名な章台峴教会の中核メンバー十五人が一度に私を訪ねてきて、教会の長老たちが激しく抗議してきたこともあります。
金仁珠夫人の義父は平壌で有名な長老でした。しかし彼女は義父の教会には行かず、家が義父の通っていた教会のそばだったので、夫の家族に気づかれないように、庭の甕置き台を上がって、家の塀を越えて私たちの教会に来たのです。夫人はおなかに娘がいる体で、二尋 (約三・六四メートル)ほどの高さになる塀を、危険を顧みずに跳び越えて来ました。これが元で、彼女は長老である義父母から激しい迫害を受けました。私もそのことを知っていました。ひどく胸が痛む日は、信者を夫人の家に送って様子を」かがわせましたが、そのような日は間違いなく義父から鞭打たれていました。よほどひどく曜かれたのか夫人は血涙を流していました。
ところで、夫人は食口 (家族の意。教会の信徒を、親しみを込めてこう呼ぶ) たちが門の外に立っていると少しも痛くいと言います。「先生は、私が鞭打たれるとどうしてお分かりになったのですか。食口がいると私は痛みもなく、叩く義父の方がくたびれてどうすることもできないのです。一体どうしたことでしょうか」と話していました。
鞭を振るい、柱に縛り付けておいても、嫁が懲りずに私たちの教会に行くようになると、金仁珠夫人の家族が教会にやって来て、いきなり私を殴ったりもしました。服が破れ、顔が大きく腫れ上がりましたが、私は一度も刃向かいませんでした。刃向かえば、夫人がもっと困難になるとよく知っていたからです。
大きな教会に通う信徒たちがどんどん抜け出してくると、既成キリスト教会の牧師たちは、私をねたんで警察に告発するようになりました。ただでさえ宗教を目の上のこぶと見て一掃しようと狙っていた共産党当局は、格好の口実を得て私を捕らえにかかりました。
一九四六年八月十一日、私は「南から上がってきたスパイ」の汚名を着せられて、平壌の大同保安署に連行されました。南の李承晩が半島北部の政権に欲を出して密かに北に派遣したスパイだと決めつけたのです。
監獄暮らしといっても特に恐ろしくはありませんでした。経験があったからでしょうか。その上また、私は監房長と親しくなるのが上手です。二言三言話をすれば、どんな監房長でもすぐに友達になってしまいます。誰とでも友達になれるし、愛する心があれば誰でも心を開くようになっています。
数日経つと、一番端っこに座っている私を、監房長が上の場所に引っ張ってくれました。便器のそばのとても狭い隅っここそ私が一番好む場所なのに、しきりにもっと良い場所に座れと言ってきます。いくら嫌だと言ってもどうしようもないことでした。
監房長と親しくなったら、今度は監房の住人を一人一人調べてみます。人の顔はその人の何もかもを物語ってくれます。「ああ、あなたはこうだからこのような人であり、あなたはああだからあのような人である」と言って話を始めれば、誰もが驚きました。初めて会った私が心の中を言い当てるので、内心は嫌っても認めざるを得ません。
誰であっても心を開いて愛情をもって接するので、監房でも友人ができ、殺人犯とも親しくなりました。やるせない監獄暮らしだったとはいえ、私には私なりに意味のある鍛錬期間でした。この世の中に意味のない試練はありません。
監獄ではシラミもノミも皆友達です。獄中の寒さは格別なものがあって、囚人服の仮縫いのところから糸を伝わって行き来するシラミを捕まえて一箇所に並べると、シラミどうしが互いにへばり付き合って丸くなるほどです。それをフンコロガシのようにごろごろ転がせば、互いに離れまいと必死になります。シラミはもともと入り込む性質があって、互いに頭を突き合わせてくっついてはお尻だけ出しているので、この光景を見るのも面白くてたまりません。
世の中にシラミやノミを好きな人はいないでしょう。しかし、監獄ではシラミやノミも貴重な話し相手になります。南京虫やノミを見る瞬間、ふと悟る啓示がありますが、それを逃してはなりません。神がいつ何を通して語られるか予測できません。南京虫やノミであっても貴く思って調べてみることができなければなりません。
監獄にいる問、罪を自白せよと数限りなく殴られました。しかし、血を吐いて倒れ、息が絶えそうになる瞬間にも、気を失わずに耐え忍びました。腰が折れたかと思うほどの激しい苦痛が襲うと、「天のお父様、私をちょっと助けてください」という祈りが自然と出てきます。そうすると再び気を取り直して、「お父様、心配なさらないでください。文鮮明はまだ死にません。こんなふうにみすぼらしく死んだりしません」と言って、堂々と振る舞いました。そうです。私はまだ死ぬ時ではありませんでした。私の前には完遂しなければならないことが山のようにあったし、私にはそれらをやり遂げる使命がありました。拷問ごときに屈服して同情を買う程度のいくじなしの私ではありません。今も私の体にはその時できた傷跡がいくつか残っています。肉が削げ、血が流れた箇所は、今はもう新しい肉が付きましたが、その日味わった激しい苦痛は、傷跡の中にそっくりそのまま残っています。私は、その日の苦痛が染み付いた傷跡を眺めて誓ったこともあるのです。
「この傷を持ったおまえは必ず勝利しなければならない」
ソ連の調査官まで出てきて私を糾弾しましたが、罪がないのでどうしようもありません。結局、およそ三カ月後の一九四六年十一月二十一日、捨てられるようにして釈放されました。拷問であまりに多くの血を流して命の危険がある状態でしたが、信徒たちがよく世話してくれました。無条件に尽くして私に生命を与えてくれました。
こうして、私はもう一度気力を振り絞って教会の仕事を始めました。教勢が急に大きくなったのは、それから一年を過ぎた頃です。ところが、既成キリスト教会はそのような私たちを放っておきませんでした。既成教会の信徒たちがより一層私たちの教会に集まるようになると、反対する既成キリスト教会の牧師八十人以上が、共産党当局に投書して私を告発しました。これを受けて、私は再度共産党によって連行されたのです。平壌内務署に捕縛された日が一九四入年二月二十二日でした。鎖を付けて引かれていき、四日目に頭を刈られました。その時に私の頭を刈った人の姿まで生き生きと覚えています。教会を切り盛りしていた間に長く伸びた髪の毛が、ぼとりと床に落ちました。
捕縛されるやいなや、またしても鋭い拷問が開始されました。拷問を受けて倒れるたびに、「私が受ける鞭は民族のために受けるのだ。私が流す涙は民族の痛みを代表して流すのだ」という思いで耐え忍びました。極度の苦痛で気を失いそうになると、間違いなく神様の声が聞こえました。神様は息が絶えるか絶えないかという瞬間に現れます。
公判は四月七日でした。本来、拘禁されて満四十日になる四月三日が公判の予定でしたが、七日に延期されたのです。公判廷には、北で有名な牧師たちがぞろぞろと集まってきて、私にありとあらゆる悪口を浴びせました。宗教はアヘンだと言う共産党も私を嘲笑しました。公判を見に来た教会の信徒たちは、弁護側の席で物悲しく泣いていました。まるで子供や夫が世を去ってしまったかのように哀切な祈りを捧げていました。しかし、私は涙を流しませんでした。私を見て身悶えして泣いてくれる信徒たちがいるので、天の道を行く者として少しも寂しくなかったのです。「私は不幸な人ではない。だから泣いてはならない」と思いました。判決を受けて公判廷を後にする際、彼らに手錠のかかった手を振ってあげると、手錠からチャランチャランと音がしました。その音がちょうど鐘の音のようでした。私はその日すぐに平壌刑務所に収監されました。

ご飯粒一つが地球よりも大きい

平壌刑務所に入所して一カ月半が過ぎた五月二十日、私は興南監獄に移送されました。自分
一人であれば逃亡でも何でもできましたが、強盗犯や殺人犯と一緒の組になっていたので、で
きませんでした。列車で十七時間ほどかかる遠い道のりを行きながら、じっと座って窓の外の光景を眺めていると、悲しみが込み上げてきました。脇を小川の水が流れ、うねうねと谷間に続くその道を、囚人の身となって行かなければならないのです。開いた口がふさがらないとはこのことでした。
興南監獄とは、興南窒素肥料工場の特別労務者収容所のことです。そこで私は二年五ヵ月の間、苦しい強制労働に従事しました。強制労働はもともとソ連で始まったものです。ソ連は、世論と世界の目があるために、資本家や反共主義者をむやみに抹殺するわけにはいかず、新たにこの刑罰を考案しました。強制労働の刑を受けると、つらい労働にへとへとになりながら死ぬまで働くしかありません。この制度をそのまま真似た北朝鮮の共産党は、すべての囚人に強制労働をさせました。過酷な労働をくたくたになるまでやらせて、自然と死ぬように仕向けたのです。
興南監獄の一日は明け方四時半に始まります。囚人を全員起こして前庭に整列させ、不法な所持品がないかどうか、まず身体検査をします。衣類を全部脱がして、埃一つも見落とさないようにパタパタ叩いて隈無く探すので、優に二時間はかかりました。興南は海が近く、冬には脱いだ体に寒風が吹きつけて、肉が抉られるような痛みがありました。身体検査が終わると、粗末な朝ご飯を食べ、十里 (約四キロメートル) の道を歩いて工場に向かいます。四列に並んで、顔を下に向けたまま、手をつないで歩きます。囚人たちの周りを小銃と拳銃で武装した警備員たちが付いて行きました。万一列が乱れたり、手が離れたりすると、脱走の意図ありとみなされ、容赦なく殴打されました。
雪が道に積もった冬の日、寒い明け方の道を歩いていくと、頭がくらくらしました。凍りついた道はよく滑るし、肌に突き刺さるような冷たい風が吹くと、頭の後ろの毛が逆立ちます。朝ご飯を食べたといっても、元気は出ません。足を踏み外してばかりいる毎日でした。しかし、力の抜けた足を引きずってでも工場に行かなければなりません。道すがら意識が朦朧となる中で、私は自分が天の人だという事実を繰り返し考えながら歩いて行きました。
肥料工場には、肥料の原料となる硫酸アンモニウム(硫安)が山となって積まれていました。ベルトコンベヤーで運ばれてきて、そこから下に降り注ぐ硫安は、白い滝のようにも見えました。降り注いだばかりの硫安は熱を帯びて、真冬にも湯気がゆらゆらと立ち上るほどでしたが、時間が緻つと冷めて氷のようにかちかちになりました。山と積まれた硫安をすくい上げて、かます(わらむしろを二つ折りにして縁をとじ、袋にしたもの)に入れるのが私たち囚人の仕事でした。「肥料山」高さ二十メートルを超える巨大な硫安の山の呼び名です。八百人から九百人が大きな広場に出て、硫安をすくい上げて袋詰めする場面は、あたかも大きな山を二つに分けるかのようでした。
十人一組で一日に千三百かますやるのが私たちに与えられたノルマです。一人の一日当たり責任量は百三十かますになります。それをやらないと食事の配給が半分に減らされてしまうので、生死の分かれ目と思って必死に働きました。硫安を詰めたかますを少しでも楽に運ぼうと、針金で輪を作って、かますを結ぶ際に使いました。運搬用のトロッコ(貨車)が通るレールの上にこの太い針金を乗せておくと、平らに潰れて針の代わりに使えます。かますに穴を開ける時は、工場のガラス窓を破って、そのガラスを使いました。看守も苦しい労働に悩まされる囚人に同情して、工場の窓を破るのを見てもそのままにしていました。私はある時、その太い針金を歯で噛み切ろうとして、そのまま歯が真っ二つに折れてしまいました。今でも私の門歯をよく見れば歯が欠けていますが、興南監獄で得た忘れることのできない記念品です。
どの囚人も重労働で疲労困態して痩せこけていくのに、私は体重七十ニキロをずっと維持して、囚人たちの羨望の的でした。体力だけは維持して少しも他人が羨ましくなかった私も、一度だけマラリアにかかってとても大変だったことがあります。一月近くマラリアにかかっていても、私が仕事をできなければ他の囚人たちが私の分までやらなければなりません。そうならないように、一日たりとも休みませんでした。このように体力があったので、私は「鉄筋のような男」と呼ばれました。いくらつらい重労働であっても我慢できました。監獄であろうと強制労働であろうと、この程度は問題になりません。どんなに鞭が恐ろしく、環境が悲惨だとしても、心に確固たる志があれば動揺しませんでした。
日本の川崎鉄工所で働いた時、タンクに入っていって硫酸を清掃しましたが、毒性のために死んだ人を数人目にしました。しかし、興南工場は、それとは比較にならないくらいひどい所でした。硫酸は有害で、触れると髪の毛が抜け、皮膚から粘液が流れます。硫安工場で六カ月も働けば、喀血して死ぬ人もいます。指を保護しようと指貫をはめても、かますを結んでいると、有毒な硫安に触れてすぐに穴が空いてしまいました。着ていた衣服は硫安で溶けて擦り切れてしまい、肉がひび割れて血が流れるか、骨が露わになる場合もありました。肉が削げ落ちたところから血がどろどろと流れ、粘液がだらだら出てきても、一日たりとも休まずに仕事をしなければなりませんでした。
それだけ仕事をしても、ご飯は一日に小さな茶碗で二杯にならない配給しかありません。おかずはほとんどなく、スープは大根の葉の入った塩水がすべてでした。スープはちょっと口にしただけでも塩辛かったのですが、石のようにごつごつしたおかずなしのご飯はそのままではのみ込めないので、そのような塩辛いスープでさえも貴重で、誰一人としてスープの汁を無駄にする者はいませんでした。
ご飯茶碗を受け取ると、どの囚人も一瞬にして丸ごと口の中に入れます。自分の分を食べ終わると、他の人がご飯を食べる姿を、喉を鳴らして眺めています。ある時は、我知らず人のご飯茶碗にスプーンを突っ込んで、争いが起きることもありました。同囚のある牧師は、「豆一粒だけくれたら外に出てから牛二頭あげる」と言ったほどです。死人の口の中に残ったご飯粒まで取り出して食べるほどでした。興南工場で味わった空腹は、それほどまでに凄絶でした。
空腹がもたらす苦痛は、実際に味わってみなければ分かるものではありません。空腹が極まったときは、ご飯粒一つでもどれだけ貴いかしれません。今も興南のことを思うだけで気持ちがさっと引き締まります。ご飯粒一つがそこまで人間の全神経を刺激できるということが信じられませんでした。おなかが空けば涙が出るほどご飯が恋しくなり、母親よりもっと恋しくなります。おなかがいっぱいのときは世界の方が大きいのですが、おなかが減ればご飯粒一つが地球よりもっと大きいのです。ご飯粒一つの価値とは、そのように驚くべきものです。
興南監獄では、配給された握り飯の半分を同僚たちに与え、残りの半分だけを食べました。約三週間そうやって実践した後、初めて握り飯一つを全部食べました。二人分のご飯を食べたと考えれば、空腹に耐えることがとても楽になります。
興南の実態は残酷の一語に尽き、実際に体験したことのない人には想像すらできないでしょう。囚人の半数が一年以内に死んでいきます。死体を入れた棺桶が毎日のように監獄の裏門に運ばれていくのを見つめなければなりませんでした。全身のあぶらが一滴残らずなくなるような仕事ばかりさせられて、死んで初めて門の外に出ていくことができたのです。いくら無慈悲で冷酷な政権であっても、それは明らかに人間としての限界線を越えたものでした。そのように囚人の涙と怨念がこもった硫安入りのかますは、港からソ連に運ばれていきました。

雪の降る興南監獄で

監獄で、食べ物の次に恋しかったのが針と糸でした。労働でぼろぼろになった衣服を繕おうとしても、針と糸がないとそれができません。そうなると、獄中生活が長くなればなるほど乞食のような格好になってしまいます。特に、興南の冷たい冬の風を何とかしようとしたら、穴の空いた衣服をそのままにはしておけず、そんな時は道で拾った小さな布切れでもとても貴重です。鉄屑が付いた布であっても、みんなが争って拾おうとして大騒ぎになります。布は何とか確保できても、針を手に入れるのはさらに大変でした。ところが運のいいことに、硫安のかますを運ぶ途中に、偶然針一本がくっついてきたのを見つけました。田舎から持ってくるかますに、なぜか混ざっていたのです。その時から、私は興南監獄の針仕事屋になりました。針を手に入れたのがうれしくてたまらず、毎日のように他の人のズボンや股引を縫ってあげました。
肥料工場は、真冬でも汗がたらたら流れるほど暑く、冬でもそうなので、真夏の暑さは想像を絶すると言ってよいでしょう。それでも私は、一度もズボンの裾を巻き上げて向こう脛を出したことがありません。一年で一番蒸し暑い時期でも、必ず裾の紐を結んで働きました。他の人がズボンを全部脱いで放り投げ、下着姿で働くときでも、私はちゃんとしたズボン姿で働きました。
一日工場で仕事をしてくると、体中が汗と肥料の粉でべとべとになります。大部分の人が仕事を終えるやすぐに服を脱いで、工場から流れてくる汚い水で体を洗いました。しかし、私は一度も体を出して洗うことをしませんでした。その代わり、配給でもらうコップ一杯の水を夜の間残しておいて、まだみんなが眠っている明け方に起きて、タオルに水を濡らして体をふきました。明け方の霊気を集めてお祈りをするためでもありますが、自分の尊い体をむやみに人前にさらしてはならないという考えから、そのようにしました。
監獄では三十六人が一部屋の監房に生活しましたが、非常に狭い部屋の隅に置かれた便器の横が私の居場所でした。夏になれば水があふれて湿っぽくなり、冬になれば氷が凍って、誰もが嫌がる場所です。便器といっても蓋のない小さな入れ物があるばかりで、その臭気は筆舌に尽くしがたいものがありました。
塩のスープに蕎麦の握り飯を食べた囚人は、ともすれば下痢を起こしました。
「ああっ、おなかが!」
おなかをかばって便器まで刻み足で走ってきた囚人が、お尻を出すやいなや、慌てふためいて液便をザーッと出すので、便器の横にいる私はややもすると液便を被りました。
全員が寝静まった夜中にもおなかが痛む人はいるようです。
「あっ、痛っ」
と言って、足を踏まれた人の悲鳴が聞こえると、私は素早く起きて隅に行って座ります。人を踏んづけて急いで便器まで駆けてきた人は、そこに来てお尻を出す前に下痢便を漏らし、無理にでもそのまま我慢して排泄するので、飛沫が飛び散って悲惨なことになります。寝入っていて、きれいによけられない日は、そのまま被るしかありません。それでも、四六時中液便が跳ねるその隅の場所を、私の居場所と思い定めて生活しました。「よりによっていつもそんな所に座るのはどうしてか」と他の囚人に聞かれると、「ここが一番楽です」と答えました。わざとそうしたということではないのです。その場所に座ると本当に気持ちが楽になりました。
私は文学や芸術を特別なものだとは考えません。何であっても私と心が通じて親しくなれるなら、文学であり芸術なのです。便所で便が落ちる音が美しく楽しく聞こえれば、それもまた音楽と異なるところはありません。同様に、便器の前で横になっている私に跳ねた液便も、私の考えに従えば素晴らしい芸術作品になることがあります。
当時、私の囚人番号が五九六番でした。そこで人々は私を「オグリュク」と呼びました。夜、眠ることができず、横になって天井を眺めて、「オグリュク、オグリュク……」と独り言を言いながらするすると舌を転がして発音すれば、「オグリュク」が「オグル(韓国語で「憤慨」の意味)」に聞こえました。私は本当に「悔しい」囚人でした。
共産党は、監獄の中に「読報会」なるものを作って自己批判させ、保安隊によって囚人の一挙手一投足を監視しました。そして、毎日、その日に学んだことを感想文として書けと言ってきました。しかし、私はただの一文も書きませんでした。「父なる金日成首領が私たちを愛してくださり、毎日のようにご飯と肉のスープを与え、このようにいい暮らしができるようにしてくださって感謝です」などという感想文は、絶対に書くことができませんでした。いくら死が目の前にちらついたとしても、無神論者である共産党幹部に感想文を捧げることなど、できない相談でした。私は感想文を書く代わりに、監獄で生き残るため、人よりも数倍熱心に働きました。一等労働者になることだけが、感想文を書かなくとも監獄生活を耐え抜くことのできる道だったからです。おかげで一等模範囚になって、共産党幹部が出す賞まで受けました。
監獄にいる問、何度か母が訪ねてきました。定州から直接興南に行く汽車はないので、乗り換えながら二十時間もかけて来るのです。その苦労は並大抵のものではありません。若い盛りに獄舎につながれた息子に食べさせるために、親族の八親等まで頼って米を一握りずつ集めて、炒り粉 (はったい粉) にして持ってきてくれました。面会所の鉄条網の外で息子の顔に出くわした母は、涙を流していました。はるばる遠く興南までやって来た強靭な母親が、監獄の息子を見るなり胸が詰まり、顔も上げることができずに泣き続けました。私の姿があまりにみすぼらしかったのか、いくら強靭な女性であっても、苦痛のただ中にいる息子の前では弱い母親にすぎませんでした。
母は、私が結婚する時に着た紬のズボンを持ってきてくれました。囚人服は硫安で溶けてぼろぼろになって肌が見えていましたが、私は母がくれた紬のズボンを穿かずに他の囚人にあげてしまいました。親族を頼って準備してきたはったい粉も、母が見ている前で囚人たちにすべて分け与えました。息子に食べさせ、着させようと真心を込めて作ってきた食べ物と衣服を、全部赤の他人に与えてしまうのを見て、母は胸をかきむしって泣きました。
「お母さん、私は文なにがしの息子ではありません。文なにがしの息子である前に、大韓民国の息子です。また、大韓民国の息子である前に世界の息子であり、天地の息子です。ですから、彼らを先に愛してから、お母さんの言葉を聞き、お母さんを愛するのが道理です。私は度量の狭い男ではないので、そういう息子の母親らしくしてください」
氷のように冷たい言葉を浴びせたのですが、母の目を見る私の胸は張り裂けんばかりに痛かったのです。寝ても母が懐かしくて目覚めるほどだったので、弱くなりそうな心を落ち着かせなければなりませんでした。神の仕事をする者には、私的な母子の因縁よりは、たったの一人であっても暖かく着せ、もっとおなかいっぱい食べさせることのほうが重要だったからです。
私は監獄にいても、人々と時間を見つけては会話を楽しみました。私の周りはいつも話を聞きに集まった人たちでいっぱいでした。おなかが空き、寒さに震える獄中生活であっても、通じる人たちとの交流は温かいものでした。興南で結んだ縁で、私は十二人の同志であると同時に生涯を共にする人を得ました。その中には以北五道連合会の会長だった有名な牧師もいました。彼らは、命の危険と隣り合わせの環境にあって、血肉よりもっと濃い絆で結ばれた私の骨と肉のような存在でした。彼らがいたので獄中生活は空しくありませんでした。明け方になると、私は彼らの名前を一人一人呼んで真心を捧げ、平壌にいる教会信徒のためにも毎日三回以上名前を挙げてお祈りしました。彼らがズボンの胴回りに隠して私に取っておいてくれたはったい粉一握りを、数千倍にして返してあげなければならないと思いました。

国連軍が開けてくれた監獄の門

興南で投獄されていた間に朝鮮戦争(一九五〇年六月二十五日に北朝鮮が突如、韓国を侵略した。
韓国では「六・二五動乱」と呼ばれる)が勃発しました。戦争が始まって三日目、韓国軍はソウルを明け渡して南部に後退しました。この非常事態に対処しようと、アメリカをはじめとする十六カ国が国連軍を組織して参戦します。仁川から韓国に上陸した米軍を主力とする国連軍は、ここから攻勢に転じて、北朝鮮の代表的な工業都市である興南に押し寄せていきました。
興南監獄は自然と米軍の攻撃目標になりました。爆撃が始まると、看守たちは囚人をほったらかしにして、全員防空壕に避難してしまいました。囚人が生きようが死のうが彼らには関係のないことでした。
ある日、目の前にイエス様が現れて、涙を流して去っていく姿を見ました。ふと嫌な予感がして、「みんな、私から十ニメートル以上離れるな!」と告げたところ、それからいくらも経たずに爆撃があり、直径十ニメートル以内は神様が守ってくださると知っていたので、私の近くにいた囚人たちは辛うじて命拾いしました。
爆撃が激しくなると、看守は囚人を処刑し始めました。囚人の番号を呼んで、四日分の食料とシャベルを持たせて、外に連れ出しました。他の監獄に移送されるものと思って呼ばれて出て行った彼らは、山に連れていかれ、自分の墓穴を掘らされた後、そのまま殺されてしまいました。量刑の重い囚人が先に呼ばれていました。じっと数えてみると、次の日は私の番でした。
ところが、まさにその時、処刑を翌日に控えた一九五〇年十月十三日、三八度線を越えた韓国軍と国連軍が興南に押し上がってきたのです。米空軍のB29爆撃機は十四日、興南肥料工場とその付近一帯に激しい爆撃を加え、興南全体が火の海になるほど梅雨の雨のように爆弾を降り注ぎました。危険を察知した看守たちは、その前に逃げ出していました。ついに私たちを囲んでいた監獄の門が開かれました。夜中の二時ごろ、私は他の囚人たちと共に、堂々と歩いて興南監獄を出てきました。
二年五カ月ぶりに監獄から出てきたので、みすぼらしい姿に我ながら呆れました。下着も上着も、どれ一つとして破れていないものはありません。しかし、そのぼろをまとった乞食同然の姿のままで、監獄から私に付いてきた者たちと一緒に、故郷ではなく平壌に向かいました。故郷で私の心配をして、泣いて月日を送っている母の姿が目に浮かびましたが、平壌に残っている信徒たちをまとめるのが先でした。
平壌まで歩いて行ってみると、北朝鮮が開戦前から戦争の準備をしていた事実をはっきりと確認できました。非常時に軍用道路として使えるように、大きな都市には幅広い二車線の道路が通してありました。また、路面を分厚いセメントで固めて、三十トンの戦車が通り過ぎてもびくともしないような頑丈な橋があちこちに造られていました。興南監獄の囚人が命を削って積み上げた肥料をソ連製の旧式兵器と換えてきて、それらを三八度線に一斉に配備したのです。
平壌に着くとすぐ、投獄される前に一緒だった信徒たちを一人一人捜して回りました。彼らがどこで何をしているのか気になり、心配でなりませんでした。戦争の混乱で別れ別れになっていましたが、何としてでも彼らを捜し出して、きちんと生きていけるように後始末をつける必要がありました。ただ、誰がどこに住んでいるかを知るすべはなく、平壌市内を見境もなく歩き回って、隅々まで捜すしかありませんでした。
一週間かかって捜し出したのは三、四人だけです。監獄から持ってきたはったい粉に水を混ぜて餅をこね、彼らに食べさせました。興南から平壌に着くまでの間、凍ったジャガイモを一つか二つ食べるだけで我慢し、おなかが減っても手を付けないで、大事に取っておいた食料です。彼らが美味しそうに食べる姿を見て、私も満腹になった気がしました。
年寄りも若者も記憶に残る人はすべて捜し出そうと、平壌でおよそ四十日留まりました。大部分の信徒を見つけ出しましたが、結局行方の分からない人もいました。しかし、彼らのことも私の心から消えることはありませんでした。
十二月四日の夜、南側に向かって歩き始めました。私と金元弼をはじめみんなで、避難民の群れの三十里 (約十ニキロメートル) ほど後ろを付いていきました。というのも、思うように歩けない信徒がいたのです。彼は興南の監獄から私に付いてきた人でした。平壌で先に監獄から出た彼を捜していたら、家族は皆避難してしまって、足の折れた彼一人が空っぽの家に残っていました。私は歩けない彼を自転車に乗せて連れて行きました。立派な軍用道路は軍隊が占領して使えないので、凍りついた田んぼの上を歩きに歩いて避難の道を急ぎました。背後から中国人民解放軍と北朝鮮軍が迫ってきており、その上、歩けない者を連れて足場の悪い道を行ったので、その苦労は尋常ならざるものがありました。あまりにひどい悪路では、彼を背負って、空の自転車を引いて進んでいきました。荷物になるのは嫌だと途中で何度も死のうとする彼をなだめて、時には大声で怒鳴りつけもしながら、最後まで一緒に下っていったのです。
年が若い金元弼は歩きながら眠りこけることもありましたが、彼を追い立てて、夜遅くまで八十里 (約三十ニキロメートル)の道を歩いたこともあります。
いくら追われていく避難の道であっても、腹が減っては戦はできません。避難民が慌てふためいて打ち捨てていった家に入り、「米の甕、米の甕」と歌を歌いながら食べ物を探しました。米や麦、ジャガイモをあるだけ探し出して煮て食べ、辛うじて命をつなぎました。ご飯茶碗はともかくスプーンも箸もないのには困って、木の枝を切って箸の代わりにしましたが、それでもご飯はよくおなかに入りました。「窮状が大変な幸運だ」といいます。おなかがグーと鳴るのに食べられないものはありませんでした。麦で作った餅一つが、王様の素晴らしいご馳走にも引けを取らないほど美味しく感じられました。ただ、私は、どんなに空腹であってもいつも先に箸を置くようにしました。そうすれば、他の人が気分良く一口でも二口でも多く食べることができるからです。
避難路を歩き続けていくと、やがて臨津江の近くに到着しました。ところが、どういう訳か一刻も早く川を渡らなければならないと心が急かされました。この峠を越えて初めて生存の道が開かれると思ったのです。私は金元弼を容赦なく追い立てました。
幸いにも川の水はかちんかちんに凍っていて、私たちは先に来た避難民の後を追って臨津江を渡りました。後から後から休むことなく避難民が集まってきていました。ところが、私たちが臨津江を渡り終えるや、国連軍はこれ以上渡ってこられないように川を閉鎖してしまいました。少しでも遅れたら渡河できなかったかもしれない間一髪の出来事でした。
ようやく川を渡ると、通り過ぎてきた方をちらりと振り向いた金元弼が、恐る恐る尋ねてきました。
「先生は、臨津江が閉鎖されることをあらかじめご存じでしたか」
「当然のことだ。天の道を行く人の前にはそのようなことが多くあるのだ。一つの峠だけ越えれば生き延びられるのに、人々はそれを知らないのだ。一分一秒が急がれる状況だったので、いざという時にはおまえの胸ぐらでもつかんで渡るつもりだった」
金元弼は私の言葉に感動した様子でしたが、私の心は複雑な思いでいっぱいでした。三八度線で南北が分断された地点に到着した時、私は片方の足を韓国に、もう片方の足を北朝鮮にかけて祈祷を捧げました。
「今はこのように強く押されて南下していくとしても、必ずもう一度北上していきます。自由世界の力を集めて必ず北朝鮮を解放し、南北を統一します」
避難民の群れに交じって歩いて行く間も、ずっとそう祈り続けました。

 

広告

コメント / トラックバック1件

  1. 読みたいです。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。