第三章 世界で最も中傷を浴びた人-教会創立と受難


第三章 世界で最も中傷を浴びた人-教会創立と受難
「あなだは私の人生の師です」

臨津江を渡ってソウル、原州、慶州を経て釜山に到着した日が一九五一年一月二十七日でした。釜山の地は避難民でごった返していました。朝鮮八道 (全土) の人が全部集まったかと思えるほどで、人が生活できる所は軒先までぎっしりと詰まっていて、お尻一つ入り込める隙間も残っていませんでした。仕方なく、夜は林の中に入って木の上で眠り、昼になるとご飯を求めて市内に下りていきました。
監獄で剃った頭はむくんでいました。内側を布団綿で継ぎ当てしたパジチョゴリ(男性用の韓服)はぼろぼろになり、染み付いた脂垢のせいで、雨に濡れると服の上を雨粒がころころと転がりました。靴も上の部分はくっついているだけ、下底はほとんど残っておらず、裸足で歩くのと同じでした。どこから見てもどん底の中のどん底、乞食の中の乞食です。働き口も所持金もなく、食べ物を得るには物乞いするしかないという惨な有様でした。
しかし、乞食をして回るときも、私はいつも堂々としていました。目ざといので、ぱっと見てご飯をくれそうにないと思うと、「われわれのように困った人を助けてこそ後で福を受けるのだ!」と言って、むしろ強気の態度でご飯をもらいました。そうやって手に入れたご飯を、日当たりの良い所に座って、数十人でぐるりと囲んで食べました。無一物で乞食の境遇にありながらも、お互い不思議と気持ちが通じ合うところがありました。
「おお、これは一体何年ぶりか?」
誰かが弾んだ声で呼ぶので振り返ってみると、日本留学時代に私の歌声に魅了されて友人となった厳徳紋でした。今は、世宗文化会館やロッテホテルなどを設計して、わが国有数の建築家になった人です。彼はみすぼらしい姿の私をぱっと抱きかかえると、有無を言わせず自分の家に連れていきました。
「行こう。さあ、わが家に行こう」
結婚していた彼は、一間の部屋に住んでいました。狭い部屋の真ん中に布団包みを吊して部屋を二つに分けると、彼は妻と幼い二人の子供を向こう側に行かせ、「さあ、あれからどうやって生きてきたのか話してくれ。どこでどうしているのかずっと気がかりだった。前は普通の親しい友人のようにしていたが、いつも君のことを友人以上の存在と思ってきた。心の中で一目も二目も置いていたことは知っていただろう?」と言うのでした。
私はその時まで、友人に自分の正直な心の内を明かしたことはありません。留学していた時、『聖書』を読んでいても友人が来ればすぐに片付けてしまうほど、自分の内面を見せませんでした。厳徳紋の家で初めて洗いざらい話したのです。
話は一夜で終わりませんでした。神と出会って新しく悟ったこと、三八度線を越えて平壌に行き布教活動を始めたこと、興南監獄を生き延びたこと。全部話すのに三日三晩かかりました。話をすっかり聞き終えると、厳徳紋はその場ですっくと立ち上がって、私に丁寧なお辞儀をしました。
「おい、それはどういうことだ?」
その手をつかんで引っ張りましたが、彼は頑として動きませんでした。
「これからは、あなたが私の人生の師です。このお辞儀は私が師に捧げる挨拶だから受け取ってください」
それから後、厳徳紋は私の生涯の友であり、同時に弟子として、私をそばから見守ってくれました。
厳徳紋の一間の部屋を出てから、釜山の第四埠頭で夜間の重労働に就きました。仕事が済んで労賃を受け取ると、草梁駅で小豆粥を買って食べました。熱い小豆粥は、冷めないように、器はどれもこれもぼろ布でしっかりと包んであります。私は小豆粥を一つ買って食べながら、その器を一時間も抱きかかえていました。そうすると、埠頭で夜通し働いてかちかちに凍りついた体がとろりと解けたのです。
その頃、草梁の労務者用の宿所に入ることができました。部屋が呆れるほど小さくて、対角線で横になっても壁に足が当たります。その後、知り合いの家に泊めてもらい、その部屋で鉛筆を削り、心を尽くして『原理原本』の草稿を書きました。極貧の生活だろうと何の問題もありませんでした。たとえゴミの山の中で暮らしたとしても、意思さえあればできないことはないのです。
二十歳を過ぎた金元弼も、仕事は何でもやりました。食堂の従業員として働いた時は、お焦げの残飯を持ち帰って一緒に煮て食べたりしました。また、画才を生かして、米軍基地に就職して絵を描く仕事もしました。
そうした中、凡一洞のボムネッコルに上がって小屋を建てました。ボムネッコルは共同墓地の近所なので、岩と谷間以外に何もない所です。谷間の上にも何もありません。斜めの崖で、そもそも自分の土地だと言えるような場所さえないので、まず斜面を水平に削って、その場所を固めて小屋の敷地を造りました。金元弼と共に石を割り、土を掘って、砂利にして運びました。土と藁を混ぜて作った壁石で壁を積み、米軍部隊からもらったレーション箱(兵士の野戦食であるレーションを詰めた箱)の底を抜いて平らにして、屋根に被せて出来上がりです。部屋の床には黒のビニールを敷きました。
バラックでも、これほどのバラックはありませんでした。岩場に建てた家なので、部屋の真ん中に岩がぷくっと突き出ていました。その岩の後ろ側に置いた座り机と金元弼の画架が調度品のすべてでした。雨が降れば部屋の中で泉が噴き出します。座った場所のすぐそばで、水がちょろちょろと音を立てて流れていく、とてもロマンチックな部屋でした。雨漏りがし、水が流れる冷え冷えとした部屋で寝ると、起きたときに鼻水がたくさん出ます。そうであっても、わずか一坪でもそうやって安心して横になれる場所があるという事実が、限りなく幸せに思えました。神の御旨に向かって行く道でしたから、劣悪な環境の中でも胸には希望があふれていました。
金元弼が米軍基地に出勤するとき、私は山の下まで付いていき、夕方仕事を終えて戻ってくるときは迎えに出ます。それ以外の時間は眠らずに鉛筆を削り、机に座って『原理原本』を書きました。米の甕に米はなくても、部屋に鉛筆はいっぱいありました。金元弼は、私が執筆に専念できるように、横にいて物心両面から私を助けてくれました。一日中働いてきて疲れているはずなのに、「先生、先生!」と言っては私に付いて回ります。もともと寝不足な私が便所でよく眠ることを知ってからは、便所まで付いてくるほどでした。それだけではありません。
「先生が本をお書きになるのを、少しでもお手伝いさせてください」と言って、私の鉛筆代を稼ぐために、新しい仕事まで始めたのです。それが米軍兵士の注文に応じて肖像画を描く仕事でした。当時、米軍兵士の間では、故国に帰る前に妻や愛人の肖像画を描いておくことが流行していました。図画用紙ぐらいの大きさの画布に糊を塗って、木の枠に付けて絵を描きます。売値は一枚四ドルでした。
金元弼のそのような真心がありがたくて、彼が絵を描くときは、私も横にいて黙々と助けました。彼が米軍基地に仕事に出かけると、画布にぱりっと糊を含ませ、木を切って枠を作ります。退勤してくるまでに、筆をすべて洗い、必要な絵の具を買っておきました。そうしてお枚か二枚だけだったのが、いつの間にか有名になって、寝る間も惜しんで二十枚、三十枚と描きました。
仕事が増えるにつれて、それまで手伝いだけしていた私も、直接絵筆を執って彼を助けるようになりました。元弼が顔の輪郭を大まかに描いて、私が唇や服の色を塗るというように、共同して仕上げるのです。
一緒に儲けたお金は、鉛筆と絵の道具を買うことを除いては、すべて教会のために使いました。神のみ言を文章にまとめることも重要ですが、もっと多くの人に神の御旨を知らせることが急がれていました。

井戸の近くに住む「気のふれた美男子」

ポムネッコルに土壁の家を建てて教会を始めた当初、私の話を聞いてくれる人はたったの三人だけでした。それでも、三人に話をするとは考えず、たとえ目に見えなくても数千、数万、いや人類全体が私の前にいると考えて話をしました。全世界に向けて爆発するような大音声で、昼夜を分かたず私が悟った原理のみ言を伝えました。
家の前に井戸が一つありました。その水を汲みに来る人たちの間に、土壁の家に気がふれたおかしな男が住んでいるという噂が生じました。格好はみすぼらしいし、人気のない場所の幽霊が出そうな家から天下に号令するような叫び声が聞こえてきたので、人々はひそひそとそんな話をしたのです。天地がひっくり返って韓国が全世界を一度に統一するという気宇壮大な話をしたので、山を下りた周辺一帯に噂が広まったようでした。噂のせいか、井戸の近くに住む気のふれた男を見ようと、わざわざ訪ねてくる人も現れました。何々神学校に通う学生が一度に来たこともあったし、梨花女子大の教授たちが訪ねてきたこともありました。恰幅のいい健康そうな美男子という噂が付け加わって、「気のふれた美男子」を一目見ようと、遊びがてら山道を歩いて上がってくるおばさんたちもいました。
『原理原本』を脱稿した日、私は鉛筆を置いて、「これからは伝道する時なので、伝道できる聖徒を送ってください」と祈りを捧げた後、井戸端に出ました。五月十日のことです。春が深まり、綿を入れた韓服のズボンに古びたジャンパーを着ていたので、汗が出ました。その時、一人の若い女性が、額に浮かんだ汗をふきふき井戸の方に上がってくる姿が見えました。
「神様は七年前から伝道師を多く愛されました」
と話しかけたところ、彼女は目を丸くして驚きました。七年前とは、彼女が神様の仕事に一生を捧げようと決心したまさにその時だったからです。
「私は下の村の凡川教会の伝道師、姜賢實です。井戸の近くにおかしな青年が生活しているというので伝道しに来ました」
と彼女が私に挨拶しました。挨拶を終えた後、家に入った彼女は、むさ苦しい部屋の中をうさん臭そうにじろじろ見回すと、座り机の上を目を凝らして見つめ、尋ねました。
「どうして先の磨り減った鉛筆があんなに多いのですか」
「今朝までかかって宇宙の原理を明らかにする本を書きました。そのみ言を聞かせるために神様が伝道師をここまで送られたのでしょう」
「どういうことですか。私は、伝道すべき人がいるので、井戸の辺りに上がってみなさいというみ言を受けて、来たのです」
私は座布団を出して彼女に座るように勧め、私も座りました。私たちが座ったすぐそばで、泉の水がちょろちょろ流れていました。
「韓国の地は今後、全世界で山の峰と同じような役割を果たすでしょう。そして、世界中の人が韓国人に生まれることができなかったことを悔しく思う時が来るでしょう」
私の言葉に、彼女は呆気にとられた表情で私を眺めました。
「今後、イエス様はエリヤが洗礼ヨハネとして現れたように、肉身を持って韓国の地に来られます」
という私の言葉を聞くと、とうとう彼女は激しく怒り出しました。
「イエス様は行き場所がなくて、仕方なくこの悲惨な韓国に来られるということですか」
と言って、私に食ってかかったのです。
「黙示録をきちんと読んで仰っている言葉ですか。私は……」
「高麗神学校で勉強した人間だということでしょう?」
「いや、どうしてお分かりになったのですか?」
「私がそんなことも知らずに伝道師を待ちますか。私を伝道するために来たと仰るのですから、きょうは一つ、私を教えてみてください」
姜賢實神学を勉強した人らしく、聖句をすらすらと語って私を攻撃しました。抜け目なくきっちり挑んでくるので、私も機関車のような声で一つ一つ忙しく対応しました。討論が長くなって外が暗くなると、私が夕飯を準備しました。おかずといっても萎びたキムチだけでしたが、水の音がちょろちょろする部屋に座ってご飯をしっかりと食べ、終わるとまた討論を始めました。その後、何度も継続して訪ねてきては私と討論を繰り広げ、姜賢實はついに凡川教会を去って、私たちの教会の信徒になりました。
晩秋のある日、妻がボムネッコルの小屋に私を訪ねてきました。彼女は六歳の男の子の手を握っていました。米を買いに家を出て、平壌に上がっていったその年に生まれた息子です。いつの間にかすっかり大きくなっていました。私はとても息子の顔を正視できませんでした。うれしいと顔をさすって抱くこともできませんでした。何も話せないまま、私は微動だにせず立ち尽くしていました。
妻があえて語らなくとも、戦争のさなかに彼ら母子が通過してきた苦労が目に浮かびました。事実、私はこの母とこの子がどこでどのように生きているかをすでに知っていました。しかし、まだ家族の面倒を見る時ではありませんでした。結婚する前に何度も固い誓いを確認したように、もう少しだけ私を信じて待ってくれれば喜んで彼らを捜し出すことができましたが、まだ時ではありませんでした。土壁の小屋は狭くおんぼろであっても、すでに私たちの教会でした。いろいろな信徒たちが私と一緒に食べ、生活し、み言を勉強していた場所なので、そこに妻子を住まわせることはできませんでした。小屋を見て回った妻は、寂しい心を抱えて山の斜面を下りて行ってしまいました。

教派ではない教会、教会でもない教会

悪口を言われると長生きするといいますが、悪口を言われた分だけ生きるなら、私はこの先、あと百年は長生きできるでしょう。また、ご飯でおなかを満たす代わりに、ありとあらゆる悪口をのみ込んだので、私は世の中で最もお腹の膨れた人です。平壌に行って教会を始めた時に反対し、石を投げた既成キリスト教会が、釜山でもまた私に反対しました。教会を始めて以来、何から何まで言い争ってきました。「異端」「似非」は私の名前の前に付ける固有名詞でした。いえ、私の名前の「文鮮明」は異端、似非と同じ意味でした。異端、似非という接頭語のないそのままの名前で呼ばれたことがないほどでした。
激しい迫害に抗しきれず、一九五三年に私は釜山からソウルに上がってきました。翌年五月、奨忠壇公園に近い北鶴洞のバラックを借りて、「世界基督教統一神霊協会」の看板を掲げました。このような名称にした理由は、いかなる教派にも属したくなかったからです。だからと言って、もう一つ他の教派を作る考えは更にありませんでした。
「世界基督教」は古今東西にわたるキリスト教のすべてを意味し、「統一」は今後行くべき目的性を意味します。「神霊」は父子関係の愛を中心とする霊肉界の調和を暗示した表現で、簡単に言うと「神様中心の霊界を背景とする」という意味です。特に統一は、神の願う理想世界をつくっていくための私の理想でした。統一は連合ではありません。連合は二つが集まったものですが、統一は二つが一つになることです。後日、私たちの名前になった「統一教会」は、実際には人々が付けてくれた名前であり、当時、大学生の間では「ソウル教会」と呼ばれました。
とはいえ、私は教会という言葉をさほど好みません。教会とは文字どおり「教える会」です。宗教は「宗となる教え」ですから、教会とは根本的なことを教える集まりという意味になります。本来、教会という言葉で人と私を分ける理由は何もありません。にもかかわらず、世間は「教会」を特別な意味を持つ言葉として使うのです。私はそういう特別な部類に属したくありませんでした。私が願ったのは教派のない教会でした。真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教派が優先にはなり得ません。
仕方なく教会の看板を付けたにすぎず、いつでもその看板を外したい思いです。教会の看板を付けた瞬間、教会は教会でないものと区別されます。一つのものを二つに分けることは正しいことではありません。それは、私が夢見ることでもなく、私の行くべき道でもありません。国を生かし、世界を生かすために、もしも教会の看板を外さなければならないとするならば、今でも私はそうすることができます。
しかしながら当時、現実的にはどうすることもできませんでした。そこで、正門の内側、敷地内に一歩入った建物の入り口に教会の看板を掲げました。少し高い所に掛ければ見栄えが良いのですが、家の軒が低くて、看板を掛けるには不向きでした。結局、子供の背丈ぐらいの高さに看板を掛けておいたので、子供たちがそれを外して遊んで、そのまま二つに割ってしまったこともあります。私たちの教会の歴史的な看板ですから、捨てるわけにもいかず、針金でごちゃごちゃに結んで、釘で入り口にしっかりと打ちつけました。看板をそんなふうにぞんざいに扱ったせいか、私たちも世間から言うに言えないぞんざいな扱いを受けました。
玄関は頭を下げて入らなければなりませんでした。中も狭く、八尺 (約二・四ニメートル) 四方の部屋に六人が集まってお祈りをすれば、お互いの額がぶつかるほどでした。近所の人たちは、看板を見て嘲笑したものです。身をすくめて入っていく家の中で、一体どこの「世界」を語り、「統]」を夢見るのかと皮肉ったのです。名前に込められた意味を知ろうともせず、一方的に私たちを狂人扱いしました。しかし、そんなことは何でもないことでした。釜山では、もらい食いまでして命をつないだ身です。礼拝を捧げる部屋がある今は、何を恐れることもありませんでした。黒い染みが付いた米軍兵士のジャンパーを着て、黒のゴム靴を履いて歩きましたが、心は誰よりも堂々としていました。
教会に来る信徒たちは、お互いを「食口」と呼び合います。当時の食口は、誰もが愛に酔っていました。教会のことを考えて、心の中で「行きたい」と思い続けると、どこにいても私がすることをすべて見聞きできました。神と通じることのできる内的な愛の電線で、完全に一つになったのです。ご飯を炊く準備だけして火を付けずに教会に走ってきたり、新しいチマ(スカート)に着替えると家族に言っておきながら穴の開いたチマのままで走ってきたり、教会に行かせないように丸刈りにされてもその頭のままで教会に走ってきたりしました。
食口が増えてきたので大学街で伝道を始めました。一九五〇年代には、大学生と言えば最高の知性を備えた人々でした。まず梨花女子大学校と延世大学校(当時は前身の延禧大学校)の前で伝道を始めたところ、短期間のうちに私たちの教会に通う学生が増えていきました。
梨花女子大学の音楽科の梁允永講師と舎監の韓忠嘩助教授も私たちの教会を訪ねてきました。
先生だけでなく大学生も多く来ました。ところが、その増え方が一人、二人というのではなく、一度に十人、二十人と幾何級数的に増える状況で、既成キリスト教会はもちろんのこと、私たちでさえも驚かざるを得ませんでした。
大学街の伝道を始めてニカ月で、梨花女子大学と延世大学の学生を中心に教会員が爆発的に増えました。あまりに速い速度でした。春の突風がひゅうと吹き過ぎていったかのように、大学生の心が一瞬のうちに変わってしまいました。梨花女子大学の学生が一日に数十人ずつ荷物をまとめてやって来ました。寄宿舎から出られないようにすると、「どうして?どうして出られなくするのですか。そんなことをするなら私を殺してください!」と言って、寄宿舎の塀を平気で乗り越えて来ました。私が止めても聞き入れません。きれいな学校よりも足のにおいのする私たちの教会の方がいいと言うので、どうしようもありませんでした。
心配した梨花女子大学の金活蘭総長は、社会事業学科の金永雲副教授を私たちの教会に急派しました。カナダで研鐙を積んだ金副教授は、梨花女子大学で将来を嘱望された女性神学者でした。統一教会の教理の弱点を探し出して、学生が私たちの教会に流れないようにしようと、わざわざ神学を専攻した金副教授を送ったのです。ところが、総長特使の資格で教会を訪れた金副教授は、私に会って一週間で熱心な信徒になってしまいました。金副教授まで私たちの教会を受け入れたので、梨花女子大学の他の教授や学生たちが、これまで以上に私たちを信頼し始めました。信徒が雪だるま式に増えたことは言うまでもありません。
事態が手の付けようのないほど拡大してくると、既成キリスト教会は例によって、私が教会員を横取りしていると攻撃を始めました。私は無念で残念な思いになりました。私は、私の説教だけを聞きなさいと強要したり、私たちの教会にだけ通いなさいと言ったりしたことはありません。前門から追い出せば後門から入ってくるし、門を閉めて鍵をかければ塀を乗り越えて入ってくるのです。全く自分の力ではどうすることもできませんでした。
こうなると、困惑したのは延世大学と梨花女子大学でした。キリスト教財団の大学として、他の宗派の教会に教授や学生たちが集まっていくのを、黙って見過ごしにすることだけはできなかったのです。

延世大と梨花女子大の退学・免職事件

危機感に襲われた延世大学と梨花女子大学は、学校の歴史上、前代未聞の破天荒な選択をしました。梨花女子大学は金永雲副教授をはじめ教授ら五人を免職処分にし、学生十四人を退学させたのです。その中には卒業を控えた学生も六人いました。延世大学でも教授一人が免職となり、二人の学生が退学させられました。
当時、延世大学の校牧(学校の牧師)は「学校に影響が及ばないように、卒業してからその教会に通ってもいいのではないか」と学生を懐柔しましたが、彼らは聞きませんでした。むしろ学生たちは、「学校には無神論者も多く、巫女 (ムーダン)の子供まで通っているのに、なぜ私たちが退学させられるのですか」と強く抗議したのです。当然の抗議でしたが、学校側は「私たちの学校は私立であり、キリスト教の学校なので、いくらでも任意に退学させられる」と繰り返すばかりで、頑として彼らを追い出しました。
この事実が世間に漏れると、新聞 (東亜日報、韓国日報) に「宗教の自由がある国で退学処分は問題がある」という趣旨の社説が載り、世の中が騒然としました。
*アメリカとカナダの宣教部の援助を受けていた梨花女子大学は、異端であると噂の立った教会に行く学生が多くなれば、財政上の支援を受けるのに問題が生じるとして、危惧の念を覚えたようです。当時、梨花女子大学はキリスト教の布教に熱心で、週に三回あるチャペルの時間ごとに学生の出席率を確認して宣教本部に提出するほどでした。
学生を退学させ、教授らを追放すると、私たちに同情する世論も次第に大きくなっていきました。ところが、それを覆すために、口にするのも忍びないデマを流し始めました。もともとデマであればあるほど人々を惑わして引き付けるようになります。デマはまた異なったデマを生みながら、延世大と梨花女子大の事件はとんでもない怪談咄となって、一年以上にわたって私たちの教会を苦しめました。
私は事件の拡大を望みませんでした。無理に問題を起こしたくなかったのです。そのまま静かに信仰生活をすればいいのだから、あからさまに寄宿舎を飛び出してまで世の中を騒がせる必要はない、と学生を説得しました。しかし、「なぜ駄目だと言われるのですか。私も恵みを受けたいです」と言って、逆に私を説得する者までいたのです。結局は十数名もの学生が学校から追い出されたのですから、私の心も穏やかであるはずがありませんでした。
退学させられた学生たちは、傷ついた心を癒そうと、集団になって三角山の祈禧所に登って行きました。学校から追い出され、家でも睨まれ、友達も離れていき、当然行く所がありませんでした。彼らは三角山に登って断食し、涙や鼻水を流してひたすら祈りに没頭しました。すると、あちこちから異言が起こってきました。もともと神様は、私たちが絶望の果てに立った時に姿を現します。学校を追放され、家族と社会から捨てられた学生たちは、三角山の祈疇所で神様と出会うようになりました。
私は三角山に行って、断食祈祷で気力の尽きた学生たちに食べ物を分け与えて、その苦労をねぎらいました。
「退学処分になったことも悔しくてたまらないのに、断食まですることはない。良心の呵責を覚えることをしたのでなければ、どんな悪口を言われようと不名誉ではなく、犯罪者になることでもないので、絶望しないで時を待ちなさい」
卒業間近だった学生六人は、後に淑明女子大学に編入してかろうじて卒業しましたが、この事件のために、私の評判は悪化の一途を辿りました。延世大・梨花女子大事件が紙面を賑わしたことで、その時までに誕生していた新興宗教のありとあらゆる悪い噂が全部私たちの仕業になってしまいました。「そうかもしれない」で始まったデマは、そのまま「そのとおりだ」となって、私たちに襲いかかってきました。
激しく叩かれて、私たちの教会は大きな痛手を被りました。無念で、腹も立ち、声を上げて抵抗したかったのですが、私は何の声も出さなかったし、彼らと争いもしませんでした。なぜなら、私たちの行く道はあまりにも険しく、目的の場所ははるか遠い先にあって、争っている時間はなかったのです。世間の誤解は時が経てば自然と解けるので、それほど気を遣うこともないと考えました。「文鮮明は雷に打たれるべきだ」と公然とわめき散らす者たちや、私の死のために祈ろうというキリスト教牧師らの横暴も、見て見ぬふりをしました。
ところが、噂は静かになるどころか、日が経つにつれてますます増殖し、異常なほどの広がりを見せました。誰彼となく立ち上がって私を指さしました。興南肥料工場のむんむんした暑さの中でも一度も向こう脛を出したことのない私でしたが、その私がよりによって裸になって踊りを踊るという噂まで出回ったのです。それからというもの、私たちの教会に入ってくる人たちは、「あの人は本当に裸になって踊りを踊るのだろうか」という疑いの眼差しで私を見つめました。この種の誤解を解消しようとすれば時間が必要です。そのことをよくよく承知している私は、一言の弁明もしませんでした。人を知ろうとしたら、その人と付き合ってみなければ本当のことは分かりません。私をろくに見もしないで、ああだこうだと口から出まかせを言って何のためらいも感じないような連中は、どうしようもない人たちであると思って、我慢しました。
延世大・梨花女子大事件によって、私たちの教会は完全に崩れ去る一歩手前まで追い込まれました。「似非宗教集団」というラベルが私の額にぴたっと貼られてしまったばかりか、既成キリスト教会が一つになって立ち上がり、私を処断せよとわめき立てました。
こうして、一九五五年七月四日、警察が私たちの教会に踏み込んできて、私を逮捕し、後日、弟子の金元弼と劉孝永、劉孝敏、劉孝元を捕らえていきました。既成キリスト教会の牧師と長老たちが、権力層と手を結んで私たちの教会を潰そうとしたのでした。投獄された四人は私の同志であり弟子でもあった者たちでした。さらに、警察は私の過去を隈無く洗って、兵役忌避という罪状を見つけてきました。北朝鮮では獄舎につながれ、南に下ってきた時はすでに入隊年齢を過ぎていた私に、「兵役法違反」の容疑を着せたのです。

焦げた木の枝に込新芽は生える

一九五五年七月四日、私はソウルの中部警察署(治安局特殊情報課)に連行されました。屈辱的な扱いを受けたのに、思いの丈をぶちまけて抗弁一つしようとせず、ぐっとこらえる私を見て、「意気地なし」と決めつける人もいましたが、これもまた私に与えられた道であると受け止めて、我慢に我慢を重ねました。それが私に与えられた天の御旨に向かっていく道だとすれば、仕方のないことだと考えました。いかなる困難があろうと私はその道を行かなければなりません。それがそのまま私の存在価値、生きる理由だったので、絶対に挫けないで、困難であればあるほど、誰の前であっても威風堂々と振る舞いました。
そう決意すると、警察には私を打ち負かす方法がありませんでした。調書を書く際には、まず私から、こう書きなさいと教えてやりました。「おい君、この言葉をなぜ書かないのか。そこにはこう書かなければならないのだ」と言って、初めて刑事は次に進みました。私が教えたとおりに調書を書いてみると、一つ一つの句や節に間違いはないのに、もともと彼らが意図した内容とは正反対になっていました。そのことに気づいた刑事は、腹を立てて調書をびりびりと破いてしまいました。
私はソウル地方検察庁に送致され、西大門刑務所に収監されました。手錠をかけられても、恥ずかしいとか寂しいとか思うことはありませんでした。監獄生活が私の行く手を遮る障害になるでしょうか。そんなことはあり得ないことです。憤怒の思いが沸き上がることはあっても、私を挫折させる罠とはなりませんでした。私としては、むしろ商売の元手を得た気分です。「監獄で消える私ではない。ここで死ぬことはできない。これは解放の世界に向けて跳躍するための踏み台にすぎない」と考えて、監獄生活に打ち勝ちました。
悪は滅び善が栄えるのが世の道理であり、天の法です。泥まみれになっても、純粋で真実の心を失わなければ絶対に滅びません。手錠をかけられていく時、通り過ぎる女性たちが私を流し目で見て、顔をしかめました。淫乱の似非教祖だから見るのもおぞましいという表情でした。しかし、私は怯えることもなく、恥だとも思いませんでした。彼らが汚い言葉で私と教会を罵っても、私は決して動揺しませんでした。
しかしながら、そういう私であっても、痛みがなかったわけではありません。外では堂々としましたが、喉が締めつけられ、骨身に沁みて悲しかったことが一度や二度ではありませんでした。心が弱くなるたびに、「私はこんな監獄で死んでしまう男ではない。必ずもう一度立つ。きっと立って見せる」と言って、歯を食いしばりました。「すべての痛みを自分の中に隠したまま抱えていくのだ。教会のありとあらゆる重荷を私が背負っていくのだ」と心に誓いました。
世間は、私が捕まって刑務所に行けば、教会は潰れて、信徒たちはすぐにばらばらになって去っていくとばかり思っていましたが、そうはなりませんでした。収監されている問、毎日、信徒たちの誰も彼もが私に面会に来ました。面会の順番をめぐって争うことさえありました。面会時間は朝の八時からです。それなのに、彼らは明け方から刑務所の塀の所に並んで待っていました。人々が私の悪口を言えば言うほど、私が寂しければ寂しいほど、私を慰労し、私のために涙を流す人も、次第に多くなりました。
私は面会を必ずしも歓迎したわけではありません。「こんなに騒々しく来るとは。何しに来たのか」と叱ることも多かったのです。それでも、彼らは涙をぽろぽろ流しながら私に付いてきました。信仰とはそういうものであり、愛もまた同様です。私が言葉巧みに話すから私を慕うのではありません。私の心の深い所にある愛を知ったがゆえに慕うのです。彼らは私の真実の心を理解してくれました。手錠をかけられて裁判を受けに行く時、私を捜してあちこち歩き回った信徒たちを死んでも忘れることができません。被告席に座った私の姿を見てしくしく泣いたその顔は、いつも私の記憶の中にあります。
「いくら人を狂わせようとしても、あれほど狂わせることができるだろうか」
刑務所の看守らが、押し寄せる信徒たちを見て、そう言いました。
「あの人は自分の夫でも妻でも子供でもないのに、なぜあんなふうに真心を込めることができるのか」と感嘆した人もいましたし、「なんだ、文鮮明は独裁者で搾取する者だと聞いていたが、すべてでたらめだった」と考えを変えて、私たちの教会に来た人もいました。結局、収監されて三カ月ぶりに無罪で釈放されました。私が釈放される日、刑務所長と課長らが丁重に見送ってくれました。彼らは三カ月後に私たちの教会の信者になっていました。彼らの心が私に向いた理由は簡単です。近くでじっと眺めたので、噂とは全く違うことが分かったのです。世の中の騒がしいデマが、かえって伝道の手助けになったようでした。
捕まっていく時はマスコミと世間が大騒ぎしたのに、いざ無罪となって刑務所を出て行く時は、静かなものでした。新聞に文鮮明教祖が無罪で釈放されたという記事が小さく載っただけです。私に対する凶悪なデマは全国に騒々しいほど広まりましたが、その噂が丸ごとデタラメだったという事実は静かに葬られました。信徒たちは「先生、腹が立って悔しくてたまりません」と言って、私を見て泣きましたが、私はただ沈黙して彼らをなだめました。
デマによって後ろ指をさされ、弄ばれた痛みを忘れることはできません。大勢の人が私を激しく責め立てて、三千里半島に私の体が立つ場がなくなっても、一切を耐え忍んで乗り越えてきましたが、その悲しみは今も心の片隅に物寂しく残っています。風雨に曝され、火に焼かれても、絶対に燃えて死ぬ木になるわけにはいきませんでした。焦げた木の枝にも春が訪れるように、新芽は必ず生えてきます。強い信念を心に抱き、堂々と歩いて行けば、世の中も正しく私を理解してくれるでしょう。

苦難よ、私たちを鍛えてほしい 144

人々は私が伝える新しい真理に異端と言っては石を投げましたが、ユダヤ教の地で生まれたイエス様もまた、異端の罪を被せられて十字架に付けられました。それに比べれば、私の受けた迫害は痛いことでも悔しいことでもありませんでした。体に加えられる苦痛はいくらでも我慢できます。ただ、私たちの教会に対する異端審問、こればかりは悔しくてなりませんでした。草創期から私たちの教会を研究した神学者の中には、独創的で体系的な新しい神学であるとして、高く評価する人が多かったのです。にもかかわらず、私たちをめぐる異端論争がかくも騒がしく広がったのは、神学的な問題というよりは現実的な状況がそうさせたのでした。
私たちの信徒の大部分は、それまで通っていた既成キリスト教会を去って私たちの教会に来た人たちです。まさにこの点が、既成キリスト教会から敵視された原因でした。梨花女子大の梁允永講師が警察の取り調べを受けた際、警察は、金活蘭総長や多くのキリスト教牧師から統一教会を非難する投書が届いたと明かしています。要するに、私たちが何か誤ったわけではなかったのです。既得権層の漠然とした恐れと危機感、そして度を越した教派主義が引き起こした明らかな弾圧でした。
新しい教えを伝える私たちの教会には、さまざまな宗派の人が集まっていました。私がいくら「またどうして来たのか?すぐにあなたの教会に戻りなさい!」と言って、半ば脅迫するように追い出しても、彼らはすぐにまた戻ってきました。
私を求めて集まってくる彼らは、誰の言葉も聞きませんでした。学校の先生の言葉も聞かず、両親の言葉も聞きませんでした。ところが、私の言葉はよく聞きました。お金をあげるとかご飯を与えるわけでもないのに、私の言葉だけを信じて、私を捜し求めてきました。その理由は、私が彼らの行き詰まった心に道を開いてあげたからです。真理を知る前には、私もまた天を見てももどかしく、横の人を見てももどかしかったので、彼らの心は十分に理解できました。答えを得られずに苦しんでいた人生のすべての疑問が、神のみ言を悟ることによってきれいさっぱりとなくなりました。私を求めてくる青年たちは、私が伝える話の中に、ふだん心に抱いていた問題への解答を初めて見いだしたので、私と共に行く道が険しくつらいと分かっていても、私たちの教会に来たのです。
私は道を切り開く人です。崩壊した家庭を訪ね求め、氏族を訪ね、国を訪ね、世界を訪ねて、究極的にはそれらが神に立ち返っていく道を道案内する人です。私の元に来たのは、その事実を知って、私と一緒に神を求めていこうと決意した人ばかりです。それのどこがいけないというのか、およそ納得のいかない話です。神を求めただけなのに、世の中のありとあらゆる迫害と非難を受けなければなりませんでした。
異端騒動に巻き込まれる困難を味わっていた頃、私をさらに困らせたのが当時の妻でした。彼女は釜山で再会した後、実家の家族と一緒になって私を追いかけ回し、離婚をせがみました。教会を直ちにやめて家族三人で暮らすか、さもなければ離婚したいということでした。彼らは私が収監されていた西大門刑務所までやって来て、離婚書類を押し込んで判を押せと脅迫しました。しかしながら、神の願う平和世界を築く上で結婚がいかに重要かをよく知る私は、彼らからどんな侮辱を受けてもじっと耐えました。
彼女は私たちの教会と信徒にも言葉で言えないような乱行に及びました。むやみやたらと私の悪口を言うのはいくらでも我慢できましたが、教会と信徒にまで乱暴狼籍を働くのは耐えがたいことでした。彼女が来るたびに、教会を訪れる信徒たちに悪口を浴びせかけ、教会の器物を壊し、教会にある物を勝手に持ち去ったばかりか、人糞を振りかけることまでしました。彼女が現れると礼拝をすることができないほどでした。最終的に、西大門刑務所を出た後、彼らが準備した離婚状に判を押さざるを得ませんでした。私の信念を守る間もなく、私の背中を押して離婚させたのです。
先妻のことを思うと、今も気の毒な気がします。彼女がそこまでするようになった背景には、キリスト教一家であった実家と既成教会の煽動がありました。結婚する前はしっかりした女性だったのに、がらりと変わってしまったことを考えると、世の中の偏見と固定観念の恐ろしさというものを再認識せざるを得ません。
離婚の痛みと異端として後ろ指をさされる悲しみを味わいましたが、私は少しも屈しませんでした。茨の道を踏み越えていくこと、それはアダムとエバが犯した罪を蹟罪し、神の国に向かって行く私が、きちんとやり遂げなければならないことでした。もともと日が昇る直前が最も暗いといいます。私は神様にすがりついてお祈りすることで暗闇に打ち勝ちました。しばらくは目を閉じる時間を除いて、一日のすべての時間を祈疇に捧げました。

大切なのは真実の心

三カ月ぶりに釈放されて出てきた私は、神から愛され、生命を与えられている喜びをいま一度噛みしめました。私は神の愛と生命に負債を負った者だということです。その負債を返すために、一からやり直すことを決め、新しい教会の場所を探すことにしました。しかし、「神様、私たちの教会を建ててください」とは、私は祈りませんでした。小さくて何の値打ちもない建物だとしても、それまで不便だとか恥ずかしいとか思ったことはありません。祈る場所があればそれだけで感謝であり、広くて静かな場所までは望みませんでした。
信徒たちが集まって礼拝を捧げる家はどうしても必要です。そこで、二百万圜 (圜は一九五三年から一九六二年にかけて使われた韓国の貨幣単位) の借金をして、青披洞(現在のソウル特別市龍山区内)の丘にあった、すっかり荒れ果てた日本式の家屋を買いました。非常に小さな家で、真っ暗な洞穴のような一本道をかなり歩かないと辿り着かない路地裏にありました。その上、それまでに何があったのか、柱といわず壁といわず真っ黒に汚れていました。建物をきれいにしようと、教会の青年たちと一緒に、洗濯用の苛性ソーダを溶いて三日かかって拭いたので、黒い汚れはほとんど落ちました。
青披洞の教会に移っていった後、私はほとんど眠りませんでした。奥の間に身をかがめて座り、明け方の三時か四時になるまでお祈りをして、服を着たまましばらく背中を丸めて寝ると、五時にはもう起きる生活を七年間続けました。毎日一、二時間しか寝なくても、うとうとすることもなく、明けの明星のように目を輝かせて、疲れを知りませんでした。
やろうと思うことが心の中にいっぱいあって、食事の時間も削りました。いちいちお膳を準備しないで、部屋の床にご飯を置いて、しゃがんだままで食べました。「誠を投入せよ!眠けの中でも投入せよ!へとへとになるまで投入せよ!おなかが空いても投入せよ!」と何度も何度も自分に言い聞かせ、ありとあらゆる反対とデマの中にあって、種を蒔く心情で祈りました。そして、その種は大きく育って必ず穫り入れられるだろうし、韓国で穫り入れが難しければ、間違いなく世界で穫り入れられるだろうと考えました。
一年も経つと信徒数は四百人を超えました。四百人の信徒の名前を一人一人呼び上げて祈っていると、名前を呼ぶ前から、彼らの顔が頭の中をしきりに行き交いました。彼らの顔が泣いたり笑ったりします。その人が今どんな状態にあるのか、病気なのか元気なのかを祈りの中で知るようになりました。
一人一人の名前をずっと呼んでいるうちに、「きょうはこの人が教会に来る」と思えば、その人は連絡もなしに教会に来ました。苦しむ姿が浮かんだ人を訪ねて、「どこどこが痛くないか」と聞いてみると、「そうだ」と答えます。「先生は、私が苦しんでいるとどうしてお分かりになったのですか。本当に不思議です」と言って彼らが驚くたびに、私はにっこり笑いました。
祝福式(結婚式)の時のことです。祝福式を前にした新郎新婦に、私は必ず純潔であるかと尋ねます。その日も新郎の候補者に尋ねました。「本当か?」と聞いてみると、彼が大きな声で「はい!」と答えました。そこで再び尋ねました。「本当か?」。彼はまた「はい!」と言いました。私が三回目に尋ねた時も同じ返事でした。私は彼を真っすぐに睨みつけて、恐ろしい声で問い詰めました。
「おまえ、江原道の華川で軍隊生活をしただろう?」
新郎の候補者がすっかり怯えた声で「はい」と言いました。
「その時、休暇をもらってソウルに来る途中、旅館に入っただろう?その日、赤いチマを着た若い女と一線を越えたじゃないか。はっきりと分かっているのに、なぜ嘘をつくのか」
私は怒って彼を追い出しました。心の眼を開けていれば、何を隠していても全部分かるようになっています。
神のみ言よりも神通力に惹かれて教会に来る人もいました。彼らは霊的な能力に最高の価値があると思ってすがりつきます。しかし、一般に奇跡といわれるものは世の人々を惑わすのです。奇跡にすがりつくのは正しい信仰とはいえません。人間の罪は、必ず蹟罪を通して復帰 (罪のない元の状態に戻ること) しなければならないのです。霊的な能力に期待しては絶対に駄目です。教会が定着してくると、私はそれ以上、心の眼で見たことを信徒に話さないようにしました。
信徒の数は次第に増えましたが、数十人だろうと数百人だろうと、私は一人だと思って向き合いました。どんなお婆さんでも、どんな青年でも、その人一人だけを相手とするように、精いっぱいの真心を込めて話を聞きました。「韓国で私の話を一番よく聞いてくれる人は文先生だ」という言葉を、信徒全員から聞きました。お婆さんたちは、自分がどんなふうに嫁に行くようになったかという話から、年上の夫のどこが悪いかということまで、何から何まで打ち明けてくれました。
私は本当に人の話を聞くのが好きです。誰であろうと自分の話をし始めると、時の経つのも忘れて聞くようになります。十時間、二十時間と拒まずに聞きます。話そうとする人の心は緊迫していて、自分を救ってくれる太い綱を探し求めるのです。そうであるならば、私たちは真心を込めて聞かなければなりません。それがその人の生命を愛する道であるし、私が負った生命の負債を返す道でもあります。生命を尊く思って、敬い仰ぐことが一番大切です。嘘偽りなく心を尽くして人の話を聞いてあげるように、私の真実の心の内も真摯に話してあげました。そして、涙を流してお祈りしました。
涙を流して夜通し祈ったので、板の間が乾く日がありませんでした。板の間は私の血と汗と涙でいつも濡れていました。後日、アメリカに留まっている間に、青披洞の教会を端正に造り直すという計画を聞いて、すぐに工事を中止せよと電報を打ったことがあります。青披洞教会は私個人の歴史を刻んだ場所でもありますが、私たちの教会の歴史をそのまま証言する場所でもあります。いくら立派に造り直しても、歴史が消えてしまえば何の使い道があるでしょうか。重要なのは端正な姿形ではありません。その中に宿った意味です。不足であれば不足なりに、そこに伝統があり、光があり、価値があるのです。伝統を尊重することを知らない民族は滅びてしまいます。
青披洞教会の柱には、「いつ、どういうことのために、その柱をつかんで涙を流したのか」という歴史がそのまま刻まれています。つかんで涙を流した柱を見れば、込み上げてくるものがあるし、曲がった扉を見ても、当時の思いが蘇ります。ところで、今はもう昔の板の間が全部なくなりました。夜通し俯して祈り、血涙を流した板の間がなくなったので、その涙の跡もまたなくなってしまいました。私に必要なのはそのような痛みの追憶です。模様や外観は古くても、そんなことは関係ありません。歳月が過ぎて、私たちにも立派な造りの教会が数多く建つようになりましたが、私はそうした所よりも、青披洞の丘の上の狭くて古い家を訪ねて行ってお祈りするほうが、ずっと心が休まります。
私は生涯を祈りと説教で生きてきました。しかし、今でも人々の前に立つ時は恐ろしさを感じます。人の前で公的な話をするということは、数多くの生命を生かしもすれば殺しもすることだからです。私の言葉を聞く人を生命の道に導かなければならないということは、本当に重大な問題です。生死の分岐点に立って、いずれが生の道であり死の道であるかをはっきりと判定し、心の底から訴えなければならないのです。
今も私は説教の内容を前もって定めません。前もって準備すれば、説教に私的な目的が入り込むかもしれません。頭の中の知識を誇ることはできますが、切実な心情を吐き出すことができなくなってしまいます。私は公の席に出る前には、必ず十時間以上お祈りをして真心を捧げます。そうやって根を深くするのです。葉っぱは少々虫に食われても、根が深ければ影響はありません。それと同じで、言葉が舌足らずでも真実の心さえあればよいのです。
教会を始めた頃、私は作業着に使っていた黒い染みの付いた米軍兵士のジャンパーを着て、壇上に立って汗と涙にまみれて説教しました。痛突しない日がありませんでした。涙が心の中に充満して外に流れ出しました。気が遠くなり、息が絶えてしまうような日々でした。衣服は汗にまみれ、頭からは汗の粒が流れ落ちてきました。
青披洞教会の頃は誰もが苦労しましたが、特に私が初代協会長として立てた劉孝元は実に多くの苦労をしました。片足が不自由で、しかも肺が痛くて体がきついのに、一日十八時間の原理講義を三年八カ月も続けました。食べる物も芳しくなく、一日に麦ご飯二杯で耐え忍び、おかずは生キムチを漬けて一晩寝かして食べるのがやっとでした。彼の好物といえばアミの塩辛です。部屋の一方の隅にアミの塩辛を置いておき、それを一つかみずつ取って食べて、困難な日々を辛抱しました。おなかが空いて、疲れ果てて、板の間に元気なく横たわっていた劉孝元を見ると、本当に胸が痛かったのです。サザエの塩辛でも漬けてあげたい気持ちでした。滝のようにあふれ出す私の話を、痛む体でよく整理して書き留めた彼を思えば、今も心が痛みます。
多くの信徒の犠牲を肥やしにして教会はどんどん育ちました。中高生で構成された成和学生会は、母親が包んでくれた弁当を持ってきて、伝道師たちを支えました。中高生が自分たちで順番を決めて、交代で弁当を捧げて、伝道師の食事を用意しました。中高生のご飯を食べなければならない伝道師たちは、その子らが決まった食事を欠かして、おなかが空くことを思いながら、ご飯を口に入れては涙を流すのでした。ご飯よりも誠が大切なので、誰もが「死んでも御旨をなそう」という切迫した心情で頑張りました。
このように、私たちの教会は、つらくても全国各地に伝道に行きました。陰険で腹黒い噂がたっぷりと出回っていて、どこへ行っても統一教会という言葉すら思うように口に出せずに、悲しい思いを味わいます。近所の掃除をしたり、人手のない家で家政婦をしたり、夜は夜学を開いて文字や言葉を教えたりして、心が通じるようになるまで何カ月もそうやって奉仕しながら、私たちの教会は次第に大きくなっていきました。その頃、大学に行きたくても、私と一緒に伝道するために、大学進学を放棄して教会に献身した草創期の学生たちを、今も忘れることができません。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。