真の愛


 第一章 真の愛というものは

 一 愛は平和と幸福の源泉

 愛は、もてばもつほどうれしく、一度もてばうれしくて手放したくありません。人間の努力では生命の根源を支配することはできません。私の生命の動機や過程、生命の終末までも動かすことができるのは、真の愛しかありません。人間は愛で生まれたので、愛の道を行き、死ぬ時も愛のために死ななければなりません。

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 愛の色はどのような色だと思いますか。夜は黒く、昼は白く、夕方になると黄色いと思いますか。愛の色とはどのような色だと思いますか。愛の中心色には平和と統一、人類の平等思想を成すことのできる力があります。ですから愛の至聖所にむやみに入れば、火で焼かれて死んでしまいます。

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 愛する相対が現れれば顔に花が咲きます。何がそうさせるのでしょうか。愛の力のみがそのようにすることができます。銃ではありません。脅しではありません。その愛はどのような愛でしょうか。宇宙の主人となる愛、宇宙の中心となる愛、宇宙の源泉となる真の愛です。

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 愛は公式性を帯びた無形の秩序であり、平和であり、幸福のかなめです。世界人類のための共同の財産であり、神様の意志と力の象徴です。

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 愛は最高の価値をもっています。真の愛さえ引っ張っていけば、神様もついてくるし、世界もついてくるし、みなついてきます。愛の場でなら、すべてのものがみなついてきます。

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 真の愛とは、永遠に共にいても、ただただうれしい愛です。永遠に共にいても、共に住んでも、共に見ても、共に話しても、共に感じても、共に聞いても、ただただうれしい愛です。

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 愛は、小さいと言えば極めて小さいものであり、大きいと言えば極めて大きいものです。愛し合う者同士は、目が一度だけ瞬きをすれば、天地がひっくり返るように感じ、また愛する人が一度にっこり笑う表情をするだけでも、天地が出たり入ったりするように感じます。鋭敏ならばとても鋭敏で、小さいならとても小さく、大きいならとても大きく、見えるなら見えるし、見えないなら見えないのです。その境界線を破ることができるものは愛しかありません。ゆえに、愛する人は愛に占領されているので、一言の言葉をも愛を中心として言おうとします。

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 愛の力は、原子爆弾の威力よりも大きく偉大です。愛は人間に死から新しい生命を賦与しますが、原子爆弾は人間にただ死をもたらすだけです。原子爆弾は創造ではなく、審判であり破滅です。世界を一つに一致させるのは武力を伴った力ではなく、真の愛なのです。

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 国ごとに国境があり、文化的背景があり、風習がありますが、これらを超えることができる武器があるとすれば、それは真の愛しかありません。

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 一生の間、愛のために生きる人には万物も祝福を送ることでしょう。花もその家の庭で咲くことを願い、一羽の鳥もその家の庭の木に巣を作って、歌を歌うことを願うでしょう。それは万物の価値を知って、万物を心から愛してあげるからです。

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 すべての生命力の中心である愛は、変わりません。愛は理想的な要件の中心の位置を占め、神様と一致しているので、神様がいらっしゃる限り残っています。

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 真の愛とは何でしょうか。縦横を通じ九○度の角度をもって、どこでも角度が合わなければなりません。東洋の家にも合うし、西洋の家にも合うし、五色人種、文化的背景、宗教的背景がみな違うとしても共に行くことのできるもの、それが正に真の愛です。

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 宇宙は縮小し、拡張する作用をします。息をしているのです。縮小させ拡張させる喜びの縮小圏と拡張圏を、何が調整するのでしょうか。政治権力ではありません。知識ではありません。お金ではありません。愛がするのです。

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 愛の目でこの世を見れば、飛んでいく鳥を見ても、「ああ、あの鳥はなぜ鳴くのでしょうか。ああ、愛するものを恋しがっているのだな」と言います。そこで詩が詠まれ、文学作品が出てきます。私たちの人生の歴史も、自然の中に合わせて愛の交響曲が再現されています。それゆえ、愛の息遣いも、愛の手も、愛の歌声も、愛の言葉もすべて好きなのです。

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 真の愛の前にはどのような力も溶けてしまいます。それは見るだけでも良く、通り過ぎるだけでもうれしいのです。人を構成する本質的な内的要素は、生命に先立って作動し、根源にならなければならない愛に違いありません。

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 愛のために生きる人生は、生産的な結実の人生であり、愛を知らずに生きる人生は、消耗的な滅亡の人生です。神様も人間も宇宙も愛のための人生を生きることを願いますが、それが本然の人生なのです。

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 真の愛は、絶対的であり、不変であり、永遠なものです。

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 愛には発展もなく、いかなる革命もあり得ません。愛は原型そのままが完全なもので、不変なもので、永遠なもので、絶対的なものです。

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 愛は、自然な中で、最高に自然な雰囲気の中でなされるのが、真実な愛です。

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 人間が愛の目を開けば、自分の心と体は宇宙の中で立体的な関係を結びたがります。それで秋風で落ちる落ち葉を見て自然の理を悟り、ほほえみ、春の山に咲く花の中で、美しさを競いたくて一束の花を作ったりするのです。

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 世の中で一番早い作用は、愛の作用です。この地の果てと向こうの地の果てにいる人同士が互いに愛し合えば、その地の果てを越えて引き合うのです。愛はそのような力をもっています。

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 恵みを受けた人、神様の愛を受けた人は、美しく見えます。私たちが神様の愛を感じることができる境地に入れば、すべてのものと通じることができ、超越することができます。根源的な愛の感情を中心とすれば、すべてのものをもつことができます。

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 私たちの人体にあるいろいろな器官も、愛という一つの目的を中心にして生まれました。目は愛を探すために、鼻は愛の香りをかぐために、耳は愛の声を聞くために生まれました。私たちが聞く声の中で、聞いても聞いても嫌でなく、好きな言葉は「愛する」という言葉です。すべての存在がみな喜ぶことのできる主題は、愛以外にはありません。その愛とは、大宇宙が歓迎できる真の愛です。

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 愛の属性は、好きなものだけ愛するというものではありません。とても低いものをも、高いもの以上に愛することができるのが真の愛だ、と定義を下すのは妥当なことです。

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 愛は、神様も微動だにできないようにする権威をもっています。神様も愛には弱いのです。全能の神様も人間の愛の香りをかぐならば、満面に笑みを浮かべられるのです。神様も愛の話を好まれます。

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 神様も愛を願い、愛が大きいので神様も愛の中に入らなければなりません。そうしてこそ理論に合うのです。神様も希望をもって願うのが愛なので、愛は神様より大きいのです。

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 この世で最も聖なるものとは何でしょうか。真の愛です。真の愛は神様から出発します。神様が心から願うのは真の愛の道であり、真の愛の道を通じなくては神様の前に出ることができないことを知らなければなりません。神様は愛を通じて、見たり、聞いたり、食べたり、触ったりしたいのです。

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 愛を通じて生きる時、人間世界には幸福が始まります。人間自身が成そうとする完成とか理想の実現は、愛の基準を離れてはあり得ません。ですから宇宙万物は、愛をパターンにして生きていくのです。創造されたすべての万物は、神様の根源の愛を中心として始まりました。

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 世の中のすべてのものは、一度与えればなくなりますが、愛は、与えれば与えるほどより多く返ってきます。それで愛を好みます。愛はいつも与えることができ、満たすことができ、いつも喜び楽しむことができる内容がありますが、お金はいくらいいといってもあげればなくなり、権力がいくらよくても、使えばすり減ってしまいます。しかし愛は、与えれば与えるほど無限に通じるようになっています。

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 真の愛とは何でしょうか。おじいさん、おばあさんでも、死んだとしても永遠に、それなしでは生きることができません。それさえつかんでおけば永遠にうれしくて、それなしでは生きられないのが真の愛です。年寄りはもちろん、男性も女性ももちろん、青少年ももちろんそうです。

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 おじいさんたちが愛の味をみては、「ああ、昔食べたのは嫌だ。今日の文明の香りとは違う! 嫌だ! 愛の香りをほうり出して、他の香りだったらいいのに!」と言いますか。すべての細胞が「ああ、おいしい!」と言える味は、パンでもなく御飯でもありません。それで愛は、すべてのものの核を、焦点を成しています。精髄のようなものが愛です。そのような愛で相対すれば無事通過します。

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 真の愛とは、永遠に続く愛です。春にもその愛、夏にもその愛、秋にもその愛、冬にもその愛、少年時代にもその愛、壮年時代

にもその愛、老年時代にもその愛、永遠な世界である霊界に行ってもその愛です。変わらない愛です。

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 愛の主人は誰でしょうか。男性でもなく女性でもありません。正に神様です。愛を中心として愛を通じてのみ神様と人間が一つになるのです。なぜならば、神様にも人間にも愛は絶対に必要だからです。

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 愛の調和を成せば円形運動をなします。愛で一体となり愛の実を結べば神様は降りてこられ、人間は上がって中間で出会うようになります。神様がこの円形の球心点になり、球形運動がなされます。球心点は愛の調和が成されるところで、生命が胎動するところであり、平等主義と共同主義の始発点なのです。そこには愛の力があります。ですから宇宙のすべての作用の力と包容する力は愛なのです。

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 愛は一人では絶対に感じることができません。幸福も同じです。平和というものも一国について言う言葉ではなく、相対国家との間で成立する相対的関係を言います。相手と同等な相対的関係を結びながら、愛することができてこそ、真の幸福を感じるのです。自由もそうです。一人では本当の自由が成立しません。愛の中で愛と共に得られる自由が、真の自由です。真の愛の中ではたとえむちをもって独裁をするとしても、それが拘束ではなく、さらなる深い喜びと喜悦をもたらしてくれるのです。愛は相手のために与えるもので、自分が犠牲になって人を生かすものだからです。

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 愛とは、私の心と体が自動的に一つになるその中心の柱です。個人、家庭、氏族が同じ点、国家、世界、神様が同じ中心、一つの柱に位置します。その中心は動きません。ですから真の愛の場は永遠の定着点です。

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 「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われたイエス様のみ言に、一つ抜けているものがあります。それは一番重要な愛です。「私は道であり、真理であり、命であり、愛である……」と言わなければならないのに、愛が抜けています。これを聖書に入れなければなりません。このようなことを言えば、クリスチャンたちは「おお、何と不敬な!」と言うでしょう。しかし神様に聞いてみると、「然り、然り」とおっしゃいます。このように見る時、神様は愛を好まれます。愛の中でも、真の愛を好まれます。

 二 愛は無限に与え、また与えること

 宇宙を造った神様、法度を立てた神様はどんなお方ですか。宇宙を通じて誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。ですからその方に会おうとするならば「ため」に生きなければなりません。その方は知識の大王ですが、知識をもってこいと言いません。能力の大王ですが、能力をもってこいと言いません。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、それらをもってこいとは言いません。「ため」に生きてくれば、みんな私のそばに来ることができるというのです。

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 人のために与え、また与えるのは、再創造する上で、神様が創造時に御自身を消耗させた立場と一致します。私を投入するということは、第二の私をつくるためのもので、神様が創造する時、御自身を投入されたのと同じです。再創造の歴史は蕩減復帰路程であり、蕩減は再創造の歴史を通じてするので、御自身を投入するところにおいてのみ再創造が展開されます。ですから犠牲になるのは不可避だというのが理論的な結論です。

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 愛は、自分を一○○パーセント投入することです。神様が天地を創造する時、愛ゆえにすべて一○○パーセント投入したのです。ですから真の愛は、「ため」に生きるところから始まるのです。

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投入し、投入し、また投入するところから真の愛の論理が始まるのです。「ため」に生きるところは滅びません。小さいところから大きいところに、そして大きいのがその次にはどこへ行くのかといえば、中に回るのです。

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 愛とは、与えて満足するのではなく、与えてももっと与えたいのに、与えられなくて恥ずかしさを感じる、そのようなものが愛です。与えて恥ずかしさを感じる人であればあるほど、本当の愛の主人です。愛は、与えれば与えるほど、もっと大きいものに加えられます。また作用すればするほど、入る力より出ていく力がもっと大きいのです。ですから滅びるのではなく、栄えるのです。愛なくして栄えることはありません。

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 愛には消耗がありません。動けば動くほど大きくなります。力学の原則は、動けば動くほど消耗しますが、真の愛は、動けば動くほど消耗がなく、大きくなります。

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 愛の本質は、「ため」に生きようとする時は大きくなりますが、自分のために生きようという時はだんだん小さくなります。

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 真の愛とは何でしょうか。与えて忘れるものです。与えて、また与え、また与えるのです。

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 愛の世界は、与えて与えて与えても、無限に続くものです。

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 愛という言葉は、本当に偉大です。「言葉一言で千両の借金を返す」という言葉があります。言葉一言で蕩減できるという言葉です。億万の借金があったとしても、愛の言葉一言で蕩減しても余ります。

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 無限大のこの宇宙を中心として牛耳って生きることのできる権限は、真の愛の家しかありません。愛のために生きるところから、それが出てくるようになっています。神様がいくら大主宰で偉大だとしても、愛の前には頭を下げるのです。

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 愛は、神様も一人で成すことができません。愛は、必ず相対的基盤を通じて成されるのです。愛は、どこから始まるのでしょうか。自分から始まるのではく、相対から育ち上がっていくものです。

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 宇宙の根本は人間であり、人間の根本は生命です。生命の根本は愛で、愛の根本は神様です。しかし、愛は一人でいては成立しません。必ず相対的関係を必要とします。神様が愛の根源地ならば、その愛に相対する資格をもっている存在は、人間しかいません。

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 愛という言葉は、一人についていう言葉ではありません。希望という言葉も、一人についていう言葉ではありません。生命も、一人独断的に出てくるものではなく、連結された立場から出てきます。

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 神様は、人間をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対、唯一の価値になることができる愛の相対者として造りました。神様の前で宇宙を与えても替えられない高貴な価値、愛の相対圏を備えて男を造り、女を造りました。人は愛から生まれて愛で大きくなり、愛によって生き、愛で死にます。しかし、ただなくなるのではありません。主体である神様は永遠、不変、唯一ですから、その前に相対的愛の場に立つ時は永生するのです。

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 神様がアダム・エバを造った目的は、喜ぶためです。見て喜ぶためではなく、話して喜ぶためではなく、触って喜ぶためではなく、愛を中心に喜ぶためです。したがって、喜びを成就するために人間を創造したのです。

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 神様は絶対的存在ですが、愛の相対になれる存在がいなければなりません。神様の相対者は正に人間なのです。神様の愛の相対者として人間が、完成された愛をもって神様の前に現れる時、神様は幸福な神様、喜びの理想を取り戻した神様になるのです。

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 神様の夢はただ一つ、愛の理想を実現することでした。しかし愛の理想の実現は、神様が一人で成すことはできません。愛や幸福、喜び等は一つの個体を中心として成されるのではありません。相対圏がなくては絶対に成立できません。 

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 愛はどこから出てくるかといえば、相対から現れます。相対が醜く憎ければ愛も後退しようとし、相対がきれいで良ければ愛の作用もそれだけ早くなります。相対の言葉、美しさ、におい、味等、相対の要素によって愛の作用が決定します。

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 愛はどこから出てくるのでしょうか。私から出てくるのではなく、相対から出てくるのです。相対から出てくるので、私が頭を下げて、相対のために生きなければなりません。「ために生きよ」という天理がここから出てくるのです。極めて高貴なものが私を訪ねてきますが、それを受けるには、「ため」に生きるべきだという「ために生きる哲学」を成就しなければなりません。

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 私が生きて動くこと、私が活動することは無意味なことではなく、ある目的があるからです。その目的とは何でしょうか。愛の世界を具現することです。人間は愛の具現のために、愛を成さなければならないという目的によって存在するのです。人間の生の目的が真の愛の具現にあるので、人間の存在価値もこの真の愛によって決定されます。これがどれほど素晴らしいことでしょうか。

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 人は自分の愛する相対が自分より何千倍、いや無限大の価値的な存在として現れることを願います。このように神様も、御自身が愛する相対である人間が無限の価値的な存在になることを願われます。人間が完成すれば神性を成して、天の父が完全であられるように完全で神的な価値を成すのです。

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 真の愛とは何でしょうか。相対に出会って、百年、千年共にいたいし、永遠に愛したがる愛です。そこには地獄があり得ず、サタンが付け込むこともできません。

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 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を選んで立てるでしょうか。正に人間です。したがって創造主の永遠な愛と一つになった愛のパートナーは、永生するという論理が出てくるのです。愛の関係を中心として永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて重要な話です。男性に永生があって、女性に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるということを、はっきりと知らなければなりません。

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 愛の主体がいなければ、誰もいないように感じます。しかし愛の主体がいれば、すべてのものが満たされます。愛が満たされてこそすべてのものが満たされるので、無限に与えることができ、真実に与えることができるという結論が出てきます。与え受けるのが理想の実現であり、理想の繁殖です。愛の世界は距離を超越します。愛がどれほど早いのかと言えば、光もついていけません。一番早いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満たされるのも愛です。

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 生命を求めて愛を犠牲にするという人と、愛を求めて生命を犠牲にするという人のうち、どちらがより中心でしょうか。どちらがより真に近いのでしょうか。愛を求めて生命を犠牲にするのがより中心であり、真に近いのです。生命を求めて愛を犠牲にするのは自分中心ですが、愛を求めて生命を捧げるのは、自分中心ではないからです。

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 私が五大洋六大州をさまよいながら切実に叫んだのは、正に愛の道でした。愛のない砂漠のような人類の前に、愛の光を照らしてあげようとしたのです。人間が究極的に行くべき道が愛の彼岸だとすると、人類の前に何よりも重要なものは「愛の灯台」でないはずがありません。正にその愛の灯台のみが、人間を本郷の地に導くことができるのです。

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 神様と一つになる時は、千態万象(千差万別)に回ります。ですから、兄弟間でも父母が子女を愛するのを見習って、兄は弟を愛さなければなりません。そのような愛で一元化された家庭には、家庭愛が花咲きます。これがまた社会愛になり、さらに民族愛になります。このように進めば世界愛になります。

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   神様は、愛に酔って億千万代を生きられるように人間を造られました。それで、人が老いることは怨讐ではありません。人は愛から始まって、愛をもって生活し、愛の実として収められます。死ぬことが愛の実を収めることです。私たちが父母の愛を受け、子女の愛を受け、夫婦の愛をもって父母として子女を愛し生きたので、神様の愛、内的な愛の世界に蒔いたすべてのものを、生涯を経て実を結び、これを収めてからあの世に行くのです。

 三 愛が介在する時、調和が成される

 愛は、考えでも良く、形でも良く、味でもいいのです。これが愛です。

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 愛とは、東西が合わさるものであり、南北が合わさるものです。その次は天地が合わさるものです。ですから愛は球形を成すようになります。

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 口が真の愛に酔っているならば、ほほえむその唇がどれほど恍惚だろうかと考えてみてください。人間の五感が真の愛によって動く姿、神様に向かって動く五感の調和がどれほど美しいかを想像してください。美しさを通じた喜びは、神様一人では体験できないものです。美しさは、相対がいてこそ体験できるもので、それが神様が人間を創造された目的です。神様は天地を創造された以上に、美しい内容を所有した人間の心情世界を旅行したいのです。

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 神様も息をします。真の愛の呼吸をされるのです。神様も宇宙の拍子に合わせるので、真の愛を中心に宇宙が永遠に続くのです。ですから皆さんがここまで行ってこそ、神様の呼吸圏内に入って永生するのです。

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 宇宙は丸い形をしています。太陽も丸い形です。すべての丸いものは何を中心とするのでしょうか。自分一人では丸くなることができません。誰かを中心として関係を結んでこそ丸くなることができます。このような関係圏を集約させる一つの物体、一つの存在物として登場する世界は、円形圏を基盤とするようになっています。ここでこの円形をつくることのできる物体とは何でしょうか。調和の母体は、愛の作用だというのです。

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 愛は神経のようなものです。私たちが髪の毛一本を引っ張れば、体全体が引っ張られるのと同じように、愛さえ引っ張れば宇宙が引かれてくるし、愛さえ動かせば宇宙がみな和して、回るようになります。

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 人は酔って生きなければなりません。酔って生きる人が、幸福な人です。芸術家たちは、芸術に酔って生きます。文学をする人たちは、自分が構想する本を書くとか、ある名作に酔って生きます。そのような人が、幸福な人です。ですから人間の四肢五体は、立体的な神様の理想的な愛に酔って生きなければならないし、その方だけについて回らなければなりません。

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 男性が求め、女性が求めている最も貴いものとは何でしょうか。愛です。愛は人も永遠に好み、神様も永遠に好まれます。愛とは、全宇宙が永遠に一番好むものです。

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愛は見えませんが、最も貴い贈り物です。それは不変性をもっているからです。黄金は不変の色、ダイヤモンドは不変の硬さ、真珠は不変の調和の色があるので貴いのです。しかし宝物には生命がありません。真の愛は、生命がある宝物なので、もっと貴いのです。

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 愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。

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 平等という言葉は、愛を抜けば何でもありません。愛を中心として「ため」に尽くす時、真の平等が成されるのです。愛をもてば、男性と女性が対等になることができるし、愛をもてば、息子が大統領だとしても、その息子と母は対等になれるというのです。愛をもったすべてのものは、平等になれる内容があります。私たちはこれを知らなければなりません。

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 万物の中心は人間です。人間の中心は何でしょうか。真の愛です。神様の愛は垂直線一本です。天地の中心を立てるためのものが男性の愛の線であり、女性の愛の線ですが、女性は男性のところに行き、男性は女性のところに行って、その線が回るようになるのです。男性と女性が真の愛をもって現れる時に、神様の前に完全なマイナスの愛が生まれるのです。完全な真のマイナスの愛が生まれる時には、縦的な神様のプラスの愛が自動的に臨みます。宇宙のすべての原則がそうなっています。

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 私が宇宙と授け受ける関係に置かれるには、愛をもってこそ可能です。愛でなくては永遠に与え受けることができません。愛が温柔で謙遜なものだと言ったのも、抵抗なくそれをもっと多く、完全に運動させるためです。温柔で謙遜で犠牲になれば、いつでも通じるようになっています。どこでも抵抗なく行くようになります。これは犠牲ではありません。抵抗なく作用するための一つの方法が「ため」に生き、犠牲、奉仕することです。それではなぜ奉仕しなければならないのかといえば、第二の生の呼吸気管を完成させるためです。

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 繁殖するすべての存在は、必ず対が連合して繁殖しますが、繁殖の調和を起こすその内容が愛です。自然界のすべての存在物の繁殖は、みなそうです。水も陰性の水があり陽性の水がありますが、陰性の水と陽性の水が混ざったところには魚がよく棲みます。寒水と温水が和合するところには魚がたくさん棲むようになっています。それが理想的です。和合しなければならないのです。

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 北に棲む鳥が南に行って雛を産み、南に棲んでいた鳥が北に行って雛を産みながら交流するのも、みなリズムによってそうするのです。そこで生まれたので、そこに行って雛を産むのです。冷たい水にいる魚は温かい水の所に行って産卵し、温かい水にいる魚は冷たい水に接してこそ産卵するようになっています。陰陽の一致の和合が成されなければなりません。それで移動するのです。

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 愛は、相対的関係がなければ成立しません。絶対的な神様だといっても、一人では愛に出会う道がありません。相対者を立てずして出会うことができないので、絶対的創造主の前に絶対的相対の資格者を備えておくためのものが創造であり、創造の傑作品が正に私たち人間です。神様も愛を探すために相対が必要だからです。

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 神様の愛に酔えば、砂の一粒を千年見つめても嫌になりません。私たち自身が愛の宇宙の中で生まれたと思えば、無限に幸福になるのです。

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 真の愛は、無理になされるのではなく、自動的に喜びの中でなされるのです。愛する時も、もらおうとだけしないで、互いに授け受ける作用になってこそ理想的な愛が成立するのです。

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 もし愛が誰でも描くことができ、触ることができ、形態がどうだと分かるようになっているならば、そのような愛は一日もたたないうちに嫌になるでしょう。しかし愛はあるようでつかめず、ないようであるのです。悪いと思えば良く、良いと思えば悪い、千態万象(千差万別)の奇怪な蜃気楼のような内容を作動させるのが愛です。

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 宇宙統一理想を完成させる内容とは、真の愛です。いくら名作だといっても、その中に真の愛の味がなければ吐き出してしまいます。夫婦間の真の愛においても同じです。

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 人間が愛を一番好むのも、愛が全体を統一させ私のものにすることのできる主体だからです。人々には、愛がどれほどいいものかを知るすべがありません。

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 愛は、父母が子供を愛するように、すればするほど喜びが膨れ上がるのです。愛は一つになることです。もし神様の愛と一つになった人がいるとすれば、その人はどこの誰も切り離すことができません。ですから、どれほど素晴らしい愛でしょうか。

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 花の中に入っている蜂たちは、蜜を吸おうとお尻を上にもち上げ、頭を埋めています。それをピンセットで引っ張っても離れません。強く引っ張ってお尻が外れても離れません。その蜜の味がどんなに良くてそうするのでしょうか。蜜の味がそうならば、愛の味はどうでしょうか。愛の味と蜜の味では、どちらがもっといいですか。

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 愛でなくては一つにすることができません。二つを一つにするには言葉をもってはできません。二人が一つになるためには、何がなければならないのでしょうか。物質をもって一つになったならば、物質がなくなれば逃げていくのです。第三者の紹介によって何らかの事情を通じて一つになったなら、その人がいなくなれば去ってしまうのです。二人が一つになるためには、そして永遠に一つになるためには、何がなければならないのでしょうか。愛がなければなりません。

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 愛のみに、あらゆる色の刺激を統一することのできる力があります。その愛が何かは分かりませんが、世間の人が「嫌だ」と言うおじいさんの臭いが、おばあさんの鼻には心地良いというものです。おじいさんの顔と手に皮しかなくても、おばあさんはその顔と手がいいというのです。まさしく愛がそのようにします。愛の風が吹いた時は、天下がすべて美しく見えます。愛のふろしきを取り込めば、詩人でない人がなく、風流でない人がいないというのです。

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 私たちは一つの草を見つめても神様の立場で見つめられなければならず、花を見つめても神様の心情の代身としての立場、神様の心情と通じることのできる立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、あるいはある動物を見る時も、神様の心情と因縁が結ばれるそのような内的な感情を体得できなければなりません。神様の愛のように生きる人が神様の息子であり、娘です。天を主管することができ、地を主管できる全天宙の主人公です。人間が子供の立場に置かれ得る本質的な内容は、愛です。

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 心情で私たちの心は無限に大きくなることができますが、知識で無限に大きくなることはできません。愛の心情は宇宙を含んでも余りあるので、このように偉大な本然の地を開発すれば、神様もその中に来て昼寝をしたがります。知識によって神様を包括することができないので、そこにおいて愛の心情が偉大だということを知らなければなりません。

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 愛は国境を超越します。神様の愛には国境がありません。五色人種を超越するのです。黒人、白人、黄色人種と言って差別しません。それで神様の愛は偉大なのです。愛の流れにおいて環境を介さず、流れていけば環境が同化され、発展するのです。そうすることのできる思想的な内容を備えてこそ、神様が好まれるのです。そのため愛の道を行かなければなりません。

 四 愛の特権は同位権、同参権、相続権

 絶対的な神様の前に、私がどうしたら相対的な立場で出ていくことができるのでしょうか。努力でできますか。力を使ってできますか。何をもってしてもできません。しかし愛の因縁を結んでいけば、一度に同等な立場に行くことができます。愛の核を掌握する時には、神様をコントロールすることができます。素晴らしい夫の妻がたとえできが良くないとしても、その妻が愛の因縁をもって妨げると、素晴らしい博士も仕方なく引っ掛かってコントロールされるのです。愛にはそんな力があります。

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 神様と同等な立場、同位権の立場に立つには、神様の愛を所有しなければなりません。

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 愛には同参権があります。父が高ければ、子供は低いところにいても、すぐに父の立場に飛び上がることができます。同参権が愛に内在しているという驚くべき事実のゆえに、私がたとえ遠くに離れていても愛によってそこに同参できるのです。

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 真の愛を体得した人は、神様の本来の理想的な世界で、神様が願うすべてのものをすぐに所有できる能力と権限をもちます。そのような資格は地上で成されなければなりません。神様の真の愛は、同胞を愛するとか、世界の人々を愛するとか、万物を愛することによって、感じることができます。

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 神様の愛を所有した人だけが、神様が造られた天と地のすべての権勢を相続できる特権をもつことができます。

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 神様と愛の因縁を結べば、必ず主管性と独立権、その次は相続権をもち得る特権が与えられるのです。

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 愛の圏内の最大の人格を構成した人は、その世界では神様のような能力行使を可能にするのです。

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 神様の愛と人間の愛は、本質的に同じです。愛は一つになろうとするのです。男女が互いに慕い合う理由は何でしょうか。男性と女性、女性と男性を通じてのみ神様を所有することができるからです。愛は、互いに好きになることです。

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 生命と愛のうち、どちらがより貴いのでしょうか。人間の生命は、人間の至聖所を身代わりすることができません。男性の生命があっても、女性の生命があっても、その生命には至聖所が連結されていませんが、愛には至聖所が連結されるので、愛が生命より貴いのです。

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 誰が主人になるのでしょうか。より「ため」に生きる人です。より「ため」に生きる人が支配し、より「ため」に生きる人が主管し、より「ため」に生きる人に相続がなされるのです。それが天理です。愛には同参権があります。昼でも夜でも、どこでも同参することができるのです。自分の息子、娘の部屋に許可をもらって入りますか。自分の部屋に許可をもらって入りますか。そうではありません。神様を愛するそのような愛の作用をもったならば、神様がどこに行っても私が同参できるのです。

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 真の愛と権勢とは、何が違うのでしょうか。真の愛は、愛して忘れてしまいます。記憶しません。善と悪の基準は何でしょうか。悪は与えて利益を全部もらおうとするもので、善は自分のものを与えても忘れてしまうものです。家においても、より「ため」に生きる人が善なる側です。「ため」に生きる人は、結局その家の主人になることを知らなければなりません。十人の友達がいるとして、その中で一番いい友達は誰でしょうか。十人の友達のために尽くす友達です。そうすれば十人が、「ため」に生きるその友達を中央に置いて侍るようになるのです。宇宙はそのように相続されていきます。

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 人間において、永遠に残すべきものとは何でしょうか。第一に愛であり、その次が生命です。愛と生命を残さなければなりません。人間においては、存在する前から愛があるのではなく、存在してから愛があるのです。神様においては生命が先で、愛が二番目です。人間においては愛が一番目で、生命が二番目です。

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 すべての元素から人間に至るまで、この宇宙全体に対して「お前はどこの何をもった人の所有になりたいか」と聞けば、みな同じように「愛をもった人の所有になりたい」と答えます。すべての万物は愛の主人を探すというのです。

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 神様はすべての権勢を人間に与えようとします。このようになるためには、神様と人間が愛で一つにならなければなりません。神様の創造理想は一体理想です。愛を中心とした一体理想が創造理想です。

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 人間は実体をもった神様の体です。神様の実体をもった体なので、人間は外的な神様です。神様はそのような特権を人間に賦与しようとされます。

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 なぜ「善なることをしなさい」と言うのでしょうか。善なることをしようとすれば犠牲にならなければならないし、犠牲は自分を投入することです。投入すればなぜいいのでしょうか。天運の根本、原因と結果、すべての力の主体、主流に接続できる場に入るからです。それで無限な力を受けることができるからです。善なる人には無限な力が供給されるので、すべてのことに通じます。>>>>>>>>

 五 愛で完成する

 神様の創造目的は、神人愛一体の愛の理想世界です。人間は、神様の最高最善の愛の対象として造られました。ですから人間は、創造物の中で唯一神様の実体をした対象です。人間は、無形の神様の前に見える体として生まれました。完成すれば神様の聖殿になります。神様が自由に、また平安に、いつでも入ってきて臨むことのできる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の理想は、人間を通じて父母と子の縦的関係で実現、完成されます。

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 人間は何のために生きるのでしょうか。「愛のために生きる」とすれば、どれほど素晴らしい答えでしょうか。人間は愛の実として生まれ、愛しながら生きて、永遠の愛である神様の懐に帰るようになっているのが創造本然の人生です。

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 人間は、神様の愛の核と一致する立場に立った時、心と体が一体を成すようになり、神様の愛の圏内に心と体を一体化させ、入れば、成熟した人間になります。その時、初めて堕落する前の本然の人間として個人完成が出発するのです。

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 神様は、真の愛の王であられ、主人であられます。もし真の愛の王になられ、新郎のほうが神様ならば、相対者となる妃が必要だということが絶対的な原理だというのです。それでは神様の前に、絶対的なその方の前に、真の愛の相対になれる方が誰かと問うならば、それは真の人間です。神様の愛と一体となる、アダム・エバだったのです。

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 男性や女性が行く道は、愛ゆえにあるのであり、愛のためにあります。私の道は愛の道です。愛を得るために、愛を守るために、愛の環境圏を築くために行くのです。

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 人が目的をいくら良く立てたとしても、その目的を主管する主体的な愛の権威を立てられない時には、再び新しい目的を追求しなければなりません。限界点が愛より上ではあり得ません。

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 アダムは神様と一つにならなければなりません。これを結び付けるのは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。これを永遠に結び付ける中心点が正に愛というひもです。

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 貧しい田舎の農夫として田舎で草取りをして、農業をする立場にいたとしても、その農夫に心と体に膨れ上がる愛の情熱が燃え上がっているとすれば、心の五感と体の五感が完全に合わさって、この上もない喜びを味わうことでしょう。このように神様の愛が皆さんに臨むことのできる安着点をもっているならば、時計の振り子の振動のように神様の胸が一度だぶんと揺れれば、皆さんの胸が一度だぶんと揺れ、それで皆さんと神様が共に回るというのです。一度回り始めれば、うまく回ります。行けば行くほど加重された力は遠心力が作用して、家庭を愛しなさい、社会を愛しなさい、国家を愛しなさい、世界を愛しなさいと要求するようになります。

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 すべてのものを包容して許す愛は、誰から始まると思いますか。愛は人間から出発するのではありません。愛は主体であられる神様から始まります。神様は愛で人間を創造されました。そうして人間から愛を迎えることを願われます。その愛をまた人間に返すことによって愛を完成するようになります。

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 愛は絶対的です。その絶対愛の前には、絶対知識、絶対能力、絶対権限をもった神様も、絶対服従します。

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 真の愛というものは、一から始まって三六○度を回りきって到達しなければなりません。そうしてこそ真の愛です。到達する前には真の愛になれません。

            *

 人生の目的は、神様の愛を占領することです。神様の愛を占領できなければ、人間がいくら願いをかなえたとしても、それは成就したことになりません。いくら幸福だとしても、その幸福は永遠な幸福になれません。それで愛すれば永生を成すことができます。永遠によく授けよく受けられるようにする動機が、神様の愛です。

            *

 この世で一番聖なるものとは、真の愛です。真の愛は神様から出発します。神様が存在するならば、それ以外の道はありません。神様が本当に願うものは真の愛の道であり、真の愛の道を通らずしては神様の前に出ていくことはできません。神様は愛を通じて見て、聞いて、食べて、触ってみたいのです。人間も神様から愛の口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとは言われません。

            *

 神様の愛は、「ため」に生きる愛、ひたすら「ため」に生きようとする愛です。このような愛、真の愛があれば、回るようになっています。宇宙はどこから始まったのでしょうか。回るところから始まりました。存在するすべてのものは回るようになっているのが本質です。それではどのようなものが永遠に行くのでしょうか。永遠に与えるということ、永遠に愛を中心として、永遠に与えようとする愛が永遠に回るのです。与える力と受ける力が一つになって、よくあげようとするので拡大する以外にありません。

            *

 真の愛の起源であられる神様を父母として、人間は息子、娘の位置に立たせられました。父母は子女のための愛の最高の主人です。父子の関係が従的な垂直関係であるのに比べ、夫婦関係は横的な水平関係です。したがって、父子の関係と夫婦の関係が互いに直角(九〇度)をなし、ここに前後関係である兄弟の関係が合わさることによって、愛の関係は球形を成します。それで、愛で構成されたすべての存在は球形です。宇宙全体が球形になっているのです。

            *

 人類歴史において、真の愛を完成すれば、政治、経済、文化的問題はもちろん、すべての紛争と藤問題もきれいに解決できるはずです。今日世界人類が抱えているすべての難問題は、真の愛の完成によってのみ根本的な解決が可能なのです。

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 人間が神様に会うことを望むように、神様も真なる人間に会いたがっていらっしゃいます。ところで、人間のうちで、男性と女性のどちら側かに先に会いたいといえば、互いに不平を言うことでしょう。ゆえに、神様は、愛を掲げざるを得ません。愛のみ掲げれば男性と女性が共に会うことができ、共に触ることができ、共に分け合うことができるためです。世の中で、貴いものは互いに争って自分の物にしようとしますが、愛というものは、二人の人がお互いに一つとなり、相手のために所有しようとするので、争いがありません。

 愛は誰もが好むだけでなく、愛のみが欲望を均等に充足させることができるので、この原則を置いてこそ、神様の救援摂理も可能なのです。

            *

 真の愛を探さなければなりません。真の愛にはどこに行けば出会えるのでしょうか。真の愛は昼夜なく不変で永遠なものです。自分一人だけのためのものが真の愛になることはできません。真の愛が私個人だけの所有にはなり得ません。真の愛は万民のものであり、宇宙共有のものです。真の愛は家庭、社会、国家、世界、宇宙まで連結されるのです。

            *

 真の愛とは、根をどこに置いて言う言葉でしょうか。神様がいくら全知全能なる方でも、その根を神様に置いていません。全知全能なる神様は、真の愛の主人公なのに、愛の根を神様に置こうとしません。愛の対象になれる人に根を植えようと考えます。

            *

 愛はどこから始まったのでしょうか。神様から始まりました。神様が愛の理想相対を必要とされてこの世を造ったので、天地創造も愛を起源としています。

            *

 心の力の源泉は愛です。ですから心が授け受けて生じる爆発的な力を神様に連結しさえすれば、それは何百倍、何千倍も統一できるでしょう。そして世界万民が待ち焦がれた願いを成就できるでしょうし、永遠に共に生きることができると同時に、天国も私のものにすることができるのです。その秘訣が正に愛です。

            *

 人間が神様と一体を成す時、その心情と感情は、無限な体恤の境地と幸福感に酔うようになります。結局、愛によって神様と人間は一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになり、神様の創造目的である理想世界の実現も、ここから出発するのです。

            *

 人間が神霊的境地に入れば、小さな砂粒一つにも宇宙の理が入っていて、一つの原子にも無窮無尽な宇宙の調和が宿っていることが分かります。存在するすべてのものは、ある複合的な力を通じて現れた結果であることを否定できません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒子に至るまで無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在しています。ですから存在するすべてのものは必ず神様の愛のみ手を経ており、必ず神様との心情的な関係のもとに存在しています。喜びは、ある目的を成し遂げた時に感じます。造った万物に神様の目的意識が内在されているので、創造された万物によって神様は喜びを感じるのです。

            *

 神様の愛の圏に進んでいくためには、どれほど強い愛でなければならないのでしょうか。今日、人間世界の間違った愛は、天使長級以下の愛です。堕落したこの世の愛は、サタンが侵入した愛です。このような愛の圏で生まれて生きながら、愛ゆえに死ぬか生きるかと大変です。この愛は、秩序もなく方向もない渦巻きです。渦巻きには、汚いものだけが集まります。しかし人間が神様の愛と関係を結べば、その愛の方向を教えてあげなくても自然についていきます。

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 神様を中心とした新しい愛、すなわち創造の法度による愛が決定された場で、初めて神様の理想が出発します。

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 愛をなぜ好むのでしょうか。好まざるを得ないようになっているからです。お父さん、お母さんを完全に一つに結び付けるのは、愛のロープです。鉄で作った鎖は時間が過ぎれば錆びて切れてしまいますが、愛のロープは永遠のものです。そして父母と子の間は、法でもお金でも結ぶことができません。ただ愛によってのみ結ぶことができます。

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 人間の完成は、知識や権力、あるいはお金によって成されるのではなく、愛によって成されるのです。その愛は俗化された愛ではなく、本来の愛であり、その愛によってすべてのものが完成します。

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 第二章 愛の実際

 一 神様の愛

  1.愛は神様から始まる

 神様は、愛の神様です。パウロは「キリストの中にある神様の愛の綱を誰が切るか」と言いました。キリストも、神様の愛がなければ何でもありません。それで神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。霊的体験をしてみれば、これが分かります。

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 神様の愛は太陽より強いのです。朝日が出れば、すべての植物の芽は太陽に向かいます。これと同じように、神様の愛は生命の起源であり、私たちの本心の起源であり、理想的要素の主体的起源です。そのようになっています。

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 神様は、愛の実体、愛の中心存在なので、アルファとオメガがありません。真正な愛は、始めと終わりがあり得ません。

            *

 心情の世界で一時間生きるのは、千年の歴史に誇ることができ、一日生きるのは、万年の歴史に誇ることができるように、高貴なことを体験できるようにするのが真の愛です。愛は、細胞が膨張する気運まで感じることができます。そのような世界が、神様の愛がある世界です。その世界は、言葉で表現するのが難しいですが、あたかものどかな春の日に雲に乗って飛んでいくような感じを与える恍惚な世界であり、すべての細胞が踊りを踊るような気分になる世界です。

            *

 天地を創造した神様は、どのような方でしょうか。極めて善なる方であり、万物の根本なる方であり、愛の主体です。ですから神様は、天地万物を創造したのち、宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。神様は、御自身が本当に信じることができ、愛することができ、任せることができる人がいれば、一番貴いものを、そのまま譲りたいのです。

            *

 神様はどのような味を一番好まれますか。神様が臭いをかぐならばどのような臭いを一番好まれますか。聞くならば何を聞くことを好み、感じるならば何を感じることを好まれますか。神様が好まれるものは一つしかありません。それは愛です。神様の五感を集中させることができ、喜びを充満させることのできるものがあるならば、それは愛よりほかにありません。

            *

 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を連れてきて立てるのでしょうか。それは間違いなく人間だという結論を出すことができます。ですから「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人が最も貴いの意)」という言葉が出てきたのです。

            *

 神様の愛は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を代表します。もちろんそこには兄弟の愛も入り、これを拡大すれば国家や世界の愛も入ります。神様の愛は父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛だというのです。これが最高に素晴らしい言葉です。

            *

 神様が必要とする愛は、果たしてどのような愛でしょうか。絶対的愛を願われます。私たちも同じです。神様が絶対の愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も、絶対、唯一、不変、永遠の愛を必要とします。すべて神様に似なければなりません。

            *

 神様は愛ゆえに創造されました。愛ゆえに創造したので、男性と女性がお互いに愛し合うのを見るのがもっといいのです。ですから神様は存在世界の前に現れる時、愛の本質として現れます。

            *

 子女として造られた人間が兄弟を成し、夫婦となり、そして、父母の位置に進みながら育っていくのを見ながら、神様はそのすべての段階の愛の主人として位置を占めることができるのです。ゆえに、そのように神様を愛の主人にさせた人間こそが、神様より貴い存在であると見ることができます。ちょうど、自分自身より愛する人が何千倍も価値があり、貴く思うのと同じです。

            *

 神様は愛の骨です。それを知らなければなりません。愛を中心として、神様の愛は「骨の愛」であり、今日の人間の愛は「肉の愛」です。分かりますか。骨と肉が一つになって形態を備えるのです。そのような理になっています。

            *

 愛とは何でしょうか。回ることのできる潤滑作用と軌道作用をしてくれるのです。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も動かすためにはガソリンを入れなければなりません。運動するのに潤滑作用がなければなりません。何でも運動しようとするには潤滑作用をしなければなりません。ですから最高の喜びの潤滑作用は愛しかありません。それは根が永遠の神様なので、なくなりません。作用すれば発展するようになっています。

            *

 神様の愛は変わらないところに現れます。神様の愛は不変なので永遠です。神様の愛が私に現れるならば、変わらない心の土台の上に現れます。ですから一生の間、食べるのもその愛のために食べ、寝るのもその愛のために寝、活動するのもその愛のために活動しなければなりません。愛のために変わらない完全な基準をもっている限り、神様の愛は現れます。そうでなければこの宇宙の公約全部がむなしいものです。

            *

 神様は私たちの父です。夜も昼も子供が侵害を受けないかと心配し、子供に何か問題が生じないかと保護してあげ、またある反対の用件が現れないかと防御してくれる父母です。そのような父母の本質を求めていく道が、善の道、愛の道です。人間は息子、娘として神様の完全な愛を受けなければなりません。

            *

 神様は今まで、御自身と近い側にいる人たちと、氏族、国家にまで愛を与えました。少ないと言って受け取らないのではないかと、加えに加えて祝福してくださいました。それも不足で、愛する息子の生命までも与えました。神様は一人しかいない息子を殺されてからも、再び愛を加えて与えようとされます。ですからその愛が返ってくる日には、天地が丸ごと理想的な天国に変わることになります。愛を受ければ、もっと多くを返してあげるのが愛の原則です。私たちが神様に百の愛を捧げるならば、神様は千の愛、万の愛で報いてくださるでしょう。

            *

 神様の愛さえもてば、神様の胸の中に入っていてもいいし、神様の鼻をつかんでもいいし、世界のどこに行っても境界線がありません。どこでも通じるようになっています。

            *

 神様から愛の口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとは言われません。

            *

 神様と人間はどこで連結されるのでしょうか。生命が交流するところ、愛が交流するところ、理想が交流するところです。その点とは、どのような点でしょうか。親子関係です。このように見る時、神様は愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なので、子女に対しては威信と体面を超越します。いくら罪人のできの悪い子供でも、神様をつかめば神様が「やい、こいつ、駄目だ!」と言われるのではなく、神様が抱き締めてほお擦りして愛してくれるのです。このようなことを体験すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。

            *

 神様は千年、万年与えてもまた与えたい、そのような心を絶えずもっておられる方です。そのような方なので私たちが神様を求めるのであって、与えたのちに「おい、これはいくらいくらだ」と言う商売人の神様なら、そのような神様は必要ありません。

            *

 神様の愛に接すればどうなるのでしょうか。髪の毛も踊り、細胞も踊るというのです。一○○パーセントその愛に酔えば、手を引くのではなく、千年、万年共に住みたくなります。誰かが起こそうとすれば、「起こすな」と言います。このような境地になります。「神仙の遊びに斧の柄の腐るのも気づかない(注:遊びに夢中になって月日のたつのを忘れてしまうの意)」という諺があるように、それほど人間が想像できない高次元の愛に酔うことのできる道があります。

            *

 神様がおられるところには愛が充満します。与えれば与えるほどもっと与えたいし、受ければ受けるほどそこに千万倍加えて与えたいのです。ですからそこが、天国ですか、地獄ですか。そこでもっと与え、もっと受けることができるので、爆発的な刺激を感じるようになります。すべての細胞が張り裂けるような刺激を感じるのです。神様の愛はそのようなものです。

            *

 愛ならどこでも埋めることができ、愛ならどこでも及ぶことができます。愛する人が抱き締めたらどうですか。手を取って「ああ、愛している」と言いますか。おそらく目の玉が飛び出して鼻水、よだれが出るほど抱き締めてくれることを願うでしょう。そのように抱き締めてじっと立っていないで、ぐるぐる回ります。そのように愛によって一つになってこそ、宇宙が回ります。

            *

 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄を丸ごと投入して創造した人間なので、人間が神様を引っ張れば、引いてこられざるを得ず、また神様が人間を引っ張れば、引いていかれざるを得ません。

            *

 人間はなぜ神様が好きで、ついていくのでしょうか。神様は千年、万年すべてのものを与え、また与えても恥ずかしがりながら「今はこれしかできないが、もう少し待ちなさい。何百倍、何千倍もっといいものをあげるから」と言いながら、きょう与えることで満足するのではなく、未来にもっと多くのことを与えると約束する心をもっておられる方だからです。

            *

 人間はなぜ永生するのでしょうか。なぜ誰でも永生を求めるのかというのです。絶対的主体者であられる神様の前に、愛の対象としての価値をもつことができ、絶対的な愛の神様の前に永遠であらざるを得ないので、私は永遠な愛の相対圏を求めるようになるのです。この場に立つ時には、上も下も同様に神様であり私になります。愛で一体となりさえすれば、神様を私のポケットの中に入れることもできるのです。

            *

 私たちがこのような神様の愛の圏に通ずればどのような気分がするでしょうか。春の日に、いい香りのする園で美しい花々を見つめ、香りという香りをすべて嗅いで酔った気分のようなものです。そういう時には、私たちのすべての細胞が踊りを踊ります。

            *

 神様の愛が縦的な愛ならば、男女間の愛は横的な愛です。男性と女性が出会うには、横的な愛を縦的な愛に接ぎ木しなければなりません。九○度の角度に合わせなければなりません。これを合わせない愛、縦的な基準と連結されない愛は、さすらいの愛として破壊されてしまいます。ですから縦横が一致した愛の圏内に入るには、愛を中心として全宇宙を支配することができるのです。全宇宙と関係を結べば、知識も権力もお金も生命も必要ありません。生命も、その中では永生するのです。

            *

 神様はアダム・エバの体を好まれるのではなく、二人の間の愛を好まれます。神様が人間に対して願う終着点とは何でしょうか。息子、娘に会って愛する場です。そして人間が願う終着点も神様を父として侍り、息子、娘として愛される場です。

            *

 神様においてアダムは自分の中の自分であり、未来の理想的な愛の中の愛です。それでアダムは神様の体です。またエバは神様の夫人であり、体です。アダムは神様の体に相対する霊的相対であり、エバは肉的相対です。ですからアダムとエバが夫婦になって愛するのは、誰と共に愛するのでしょうか。神様と共に愛するのです。それで結婚は極めて神聖なのです。

            *

 神様に知識は必要ありません。神様は知識を創造した方です。神様に権力は必要ありません。全知全能だというのです。神様にお金は必要ありません。ダイヤモンドや黄金も思うままに造ることができます。神様に必要なものは、たった一つです。それが何かと言えば、愛です。神様一人で愛を受けることができますか。神様は愛を思うままにできるのではないかと言うかもしれませんが、とんでもありません。神様において一番必要なものとは、真の愛を分かつことのできる対象者だというのです。人々はこれを知りませんでした。

            *

 神様は私たちに愛を与える時、限りなく与えようとします。神様はすべて与えても、「お前の中で生きたい」と言われます。そのようになる本質は、愛にあります。神様も愛の中に入れば、僕の暮らしをしてもいいと言うのです。愛は法を超越します。

            *

 神様の愛は、どのような味がするのでしょうか。すべてのものを総合した最高の味です。好きでつかめば果てしなくつかむことができ、開けば果てしなく開け得る力をもっています。ですから愛によればいくらでも満たすことができ、どこでも及ぶことができるというのです。

            *

 神様は愛の母体です。ここから父母の愛がわき出たし、夫婦の愛がわき出たし、子女の愛がわき出たし、親戚の愛、民族の愛がわき出ました。

            *

 愛の中でも見えない愛が、最高の愛です。愛が見えるならばおもしろくないでしょう。愛は見えないので、最高に高くあり得るし、最高に広くあり得るし、深くもあり得ます。それで「愛はロッキー山脈のようだ。愛はナイアガラの滝のようだ」という言葉は合っています。見えない愛がこのように貴いように、見えないところにいらっしゃる神様も貴い方です。その貴い神様を探すためには、無我の境地に、すなわち自分というものがない境地に入らなければならないという言葉が正しいのです。神様は私たちが見ることができるものよりもっと深い、見えない静かな世界にいらっしゃいます。

            *

 男女の間で愛し合うようになれば、いろいろなことが起こります。そうでしょう。しかし神様を訪ねていける道を知って神様の愛の味を本当に知れば、神様のその愛はこの世のどのようなものとも比べられないものです。そのような愛の味を知った人がいれば、どのような苦難も彼を占領できないし、どのような悲しみも彼を占領できないでしょう。そのような絶対的な解放圏があるのではありませんか。これを探すことが問題になるのです。

            *

 神様は絶対的な方なので、そのような神様に他のところで侍ることはできません。愛する人同士は、共に行きたがるし、共にいたがるし、共に住みたがります。どのように共に住みたいのでしょうか。神様に深く染み込んで一つになって、共に住みたがります。それが愛の本質です。

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 心は狭いですか、広いですか。心の形を皆さん自身はよく知りませんが、心は無限に大きいのです。それでは、その心がどれほどいいでしょうか。世界人類一人一人に数百億円をあげても、またあげたいのが心です。心はこのように素晴らしいものです。ですから人間は無限の愛、無限の希望の花として咲くことができるのです。それは、なぜそうなのでしょうか。無限に神様の性稟に似たからです。

            *

 皆さんの心はどれほど大きいでしょうか。これは測定できないほど大きいというのです。また小さいと言えば、とても小さいのです。針の先も入れないほど小さいのが、人の心だというのです。心は大きく広げれば、無限に広げることができるし、狭めれば無限に狭めることができます。そのような本質、本性をもっているのです。なぜ心がそのようになっているのでしょうか。それは、神様が臨在できる神様の家になっているからなのです。

            *

 愛は一番近い距離を通ります。簡単な言葉ですが、貴い言葉です。なぜ垂直にならなければならないのでしょうか。これが問題です。なぜ水平になって、平衡にならなければならないでしょうか。愛を中心として垂直になるには、愛は直短距離を通らなければなりません。愛する人を探していく時、隣近所を訪ねるようにのろのろ行きますか。矢のように直行しますか。夜も昼も関係なく、春夏秋冬いくら歴史が長いといっても、愛は一番直短距離を通ろうとします。

            *

 愛だけは万有において直短距離を通れるようになっています。ですから上にあるものが下に降りてくる時、直短距離で降りてきますが、その場が垂直です。

  2.愛の目的は、神人愛一体理想

 天地の中心と宇宙の根本とは何でしょうか。神秘的な境地に入って神様に祈ってみると、父と息子、娘の関係、すなわち「親子の関係である」と言われました。知らない人たちは、肉親の父、母、息子、娘の関係だと思っていますが、それは神様との根本関係を言うのです。

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 父と息子が出会うことのできる最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見れば愛と生命と理想が一つの場所にあるというのです。その場に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になるというのです。それを決定できる最初の因縁と最初の統一の場所が親子関係が成される場でなければ、それはあり得ません。これは間違いない事実です。

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 本来はアダム・エバが互いに最高の喜びの中で、最高の生命力が発揮され、最高の力が合わさり、全体の理想の力まで合わさった中で、愛の花が咲かなければなりません。そこで花のように咲いて、その香りが全天下を覆っても余りあり、神様がその花を見つめ、花の香りを嗅ぎながら自らそこに酔うことのできる、そのような愛を神様は夢見ていたのです。

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 神様が創造当時、理想として願った真の愛、偉大な愛を中心として人間との愛の関係を結び、一つになれる神人愛一体の家庭を成したならば、今日私たちは天国だ地獄だと心配することもなく、ただそのまま天国に入るようになるのです。

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 真の愛を中心として、男性と女性が神様を身代わりした立場に立てば、宇宙のすべてのものに連結されます。そのようになる時、神様のすべてのものが私のものになるのです。真の愛が偉大な理由は、真の愛によって私自身が神様の対象になることができ、神様も私自身になれるからです。聖書に「神様が私の中にいて、イエス様が私の中にいる」という内容があります。父が息子の中に、孫がおじいさんの中に、おじいさんが孫の中にいるという言葉は、ここから生まれた言葉です。おじいさんとおばあさんは、孫を中心として情を結ばなければなりません。このようになってこそ愛の垂直線が始まるのです。また孫は、おじいさん、おばあさんと一つにならなければなりません。おじいさんとおばあさんは神様のような立場にいるので、神様のように侍らなければなりません。そうでなければ愛の軸を見つけることはできません。これを立てたのちに、横的に展開するのです。

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 人間の完成は、神様と縦的な関係を結ぶところから出発します。

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 神様が絶対的な方なら、その方がなぜ人間を造ったのでしょうか。お金のために、知識のために、権力のために造ったのでもなく、神様の愛を感じることができるたった一つの道のために人間を造られました。このような観点で神様は父であり、人間は息子、娘だというのが一つの軸を成すのです。もし軸が連結されれば、人間と神様が愛によって一体となった関係を、何が作用しても絶対に切り離すことはできません。神様の本然の愛に綱を結んでその愛を味わった人が、別れるでしょうか。蜂は春に蜜の味を味わいます。蜜を吸っている蜂のお尻を引っ張れば、お尻が離れても蜜から口を離しません。

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 神様から愛を受けたがる、その最高の場とはどのような場でしょうか。その場はまさしく息子の場であり、娘の場です。神様には天情があり、私たち人間には人情があります。この人情と天情が互いに合わさることのできる帰着点はどのようなところでしょうか。そこは絶対的な神様も願い、人間も願うただ一つの場、すなわち一つの父母を中心とした息子、娘の立場で、互いに愛を授け受けできる場です。

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 愛の巣の中で抱かれ、愛の巣の中で生まれる息子、娘には、どれほど価値がありますか。神様が毎日のように訪ねてきて、見物したいし、触ってあげたいし、ささやきたい宇宙の主人がいるならば、どれほど価値があり幸福でしょうか。そのような宇宙の主人公として生きられるようにするのが愛です。

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 アダムと神様が一つになって、互いに愛があふれる時、アダムは神様になることができます。アダムが愛によって神様と完全に一つになる時に、神様はアダムの中におられます。聖書にも、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ三・一六)とあります。私たちが神様の聖殿だというのです。

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 私たち人間は、神様が造った創造的な傑作品として神様に似ています。神様が永遠であられるので私たちも永遠な性稟をもたなければならないので、私たちの心は年を取らないのです。人は永生しなければならず、永生してこそ傑作品の存在的価値をもつことができるのです。ですから人間は万物の霊長になるのです。神様の愛は神様の愛だけで終わりません。その愛は必ず人間によって横的に広がります。電気のプラスとマイナスがやり取りすれば、反応する極ができます。そのようなものが他のところでまた展開します。このように神様の愛は横的に広がってきます。

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 人類は世界舞台で一番になることを願う前に、本然のアダムとエバの家庭で一番になることができなければなりません。アダムとエバが神様の前に直系の王子と王女の立場を備えれば、彼らは男性として最高であり、女性として最高になるのです。しかし堕落することによって占めなければならない長子権王子、長子権王女の立場を失ったのです。これが人類歴史に恨として残りました。それで人類は神様の真の愛を再び探そうと、初めの息子と初めの娘の立場を探してくる人生の道を歩んできたのです。

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 堕落していないアダム・エバの体は、神様が臨在できる家です。アダム・エバが神様を心の中心として真の愛によって永遠に統一された愛の体、生命の体、血統の体になったならば、今日私たちの心と体は闘わなかったことでしょう。堕落とは悪魔の愛を中心として、悪魔の生命体と血筋を引き継いだことです。ですからこの血筋を改造しなければなりません。オリーブの木を真のオリーブの木に改造してこそ、救援摂理の完成が成されます。

二 真の父母の愛

  1.原罪のない真の先祖、人類の救世主

 今日まで、歴史は何を求めてきたのでしょうか。時代は何を求めてきたのでしょうか。未来は何を求めていくべきでしょうか。真の父母です。ですから全体がここに帰結されずしては、幸福の基準は歴史過程や宇宙の中では見つけることができません。

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 真の父母とはどのような存在でしょうか。真の父母は全体の希望の象徴です。堕落した人類の前に、絶対的な希望の象徴なのです。彼は歴史的な結実体であり、時代的な中心であり、人類が生きている今日、この世界に連結され得る未来線上においての出発点です。

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 人間の願いは真の父母に出会うことです。死の道を行くとしても出会わなければならない人が、真の父母だというのです。歴史をすべて失い、時代をすべて失い、自分の後孫をすべて失うようなことがあったとしても、真の父母に出会うならば歴史を取り戻すのであり、時代を取り戻すのであり、未来を取り戻すのです。そのような方が正に真の父母だということを知らなければなりません。

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 皆さんは、神様と真の父母のために涙を流さなければなりません。涙を流さずしては誰も復帰の道を行くことはできません。神様は今まで人間を救うために涙の道を歩んでこられました。

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 メシヤがこの地に来て、代行しなければならない立場とは、真の父母の立場です。それでは真の父母とは何でしょうか。縦的な真の父の代わりに、横的な真の愛を中心とした横的な父母です。キリスト教ではメシヤが神様であり、神様がメシヤだと言いますが、それは違います。神様は縦的な真の父です。これは一つしかありません。他の道に行くことはできません。メシヤは横的な真の父母だというのです。

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 真の父母がこの地に出現するまでには、その背後に皆さんが想像もできない涙ぐましい事情が多かったということを知らなければなりません。皆さんが知らないところで、どれほど多くの涙を流したか知れません。その内容は神様だけが御存じです。

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 人類は真の父母が必要です。なぜそうなのでしょうか。愛の軸に連結され得る原則的なことが、歴史始まって以来初めて起こったのです。歴史始まって以来、以前にもなかったし、これからもありません。これをはっきりと知らなければなりません。軸は一つです。二つではありません。その軸とは何かと言えば真の愛です。今皆さんの父母が愛し合うのは真の愛ではありません。

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 神様の摂理の目的とは何かと言えば、一つの焦点です。神様の理想が実現される場も正にその場です。私たちが失った父母、失った真の父母に出会えるところも正にそこです。それでその期待がすべての中心です。その場、それが「真の父母だ」というのです。歴史上、多くの場がありましたが、この場が最も価値ある場です。それがどれほど重要なのか考えてみてください。すべての聖人たちもこの基台、この問題のために闘ってきました。

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 人類が願うものは何でしょうか。真の父母に侍ることです。六千年前にアダムとエバが成婚して全人類が神様の後孫になるべきだったにもかかわらず、堕落によって人間たちは、サタンの後孫になってしまいました。ですから私たちは六千年前に失った天の側の真の父母を、再びこの地上に探し立て、真の父母の愛の因縁を通じて重生しなければなりません。そうしてこそ天国の民になれるのです。

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 神様は、真の父母を絶対的に必要とされます。善なる神様も、真の父母なしには摂理を成し遂げることができないからです。霊界に行っている数億の霊人たちも、真の父母を絶対的に必要としています。真の父母が生まれない以上は、天使長界の霊人たちも、地上でみ旨が成就できるように役事したかいを見いだすことができないからです。神様の前に立つためにも、真の父母が必要なのです。

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 すべての歴史は、真の父母を迎えるためのものです。宗教も真の父母を求めてきたし、世界も真の父母を求めてきたし、国家も真の父母を求めてきました。真の父母を探す道を模索してきたのです。

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 人間は歴史時代に真の父母を失って孤児になったので、一つになる道がありません。本然の父母の愛からすべてのものが連結されなければなりませんが、そのようにできませんでした。ですからすべての人が必要とする方が、真の父母です。

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 今までの歴史的な願いとは何でしょうか。真の父母に侍ることです。神様がイスラエルの国とユダヤ教を立てられたのも、メシヤを迎えるためのものでした。メシヤはどのような方かと言えば、真の父母です。またキリスト教とキリスト教文化世界をつくったのは再臨主を迎えるためでしたが、再臨主は第三アダムとして来られる真の父母です。

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 すべてのものはどこに帰結するのでしょうか。真の父母に出会うところに帰結します。人類の真の父母が現れることが歴史の願いであり、国家の願いであり、思想の願いであり、摂理の願いです。それで真の父母が現れる時は歴史上に一度しかない頂点を成す時であり、空前絶後の時なのです。

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 真の父母とは何ですか。肉親の父母と真の父母と、何が違いますか。真の父母とは何ですか。何をするのが真の父母ですか。愛を中心として言う時、その肉親の父母と真の父母とは何が違いますか。愛に対する概念が違います。愛の概念が違うのです。肉的父母は肉身を中心とした愛を教えてくれるのであり、霊的父母は霊的な世界を中心とした愛を教えてくれるのです。内容が違うのです。

  2.真の愛で人類を生んでくださる

 皆さんは真の父母と関係のない場で、天の前から追い出された偽りの父母の血筋を受けて生まれたので、真の父母の血筋に生まれ変わるためには、偽りの血筋を踏みつぶし、完全に抜き取ってしまわなければなりません。そうして血統を根本的に替えずしては天の国に行くことができません。

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 堕落した人間が要求する救世主とは、どのような救世主でしょうか。堕落した父母の立場からではなく、堕落していないアダムとエバのような立場で神様のみ旨と一致し、神様の愛を受け、神様の祝福を受け得る真の父母の立場で、人類を生んでくれる救世主でなければなりません。そうでなければ、人間が原罪と関係のない立場に上がることができないのです。

            *

 

血統を転換するのはメシヤがするでしょうが、転換するように行動するのは自分自身でなければならないと言いました。このような基準が成されない限り、私たちは救いの道に至れません。それは決してたやすく成されず、生きるか死ぬかの境地を通過しなければなりません。四十日断食祈祷だとか、血を吐く死の境地に行ってこそ血統転換が可能です。

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 真の父母が必要なのは、何のためでしょうか。心情圏を中心としてその根を下ろさなければならないからです。今は根が違います。堕落によって幹と枝が全部違います。ここで新しく根が真の父母から始まって、何が出てきたのでしょうか。ここで幹と枝が出てきて接ぎ木するのです。切り取って接ぎ木するのです。接ぎ木してそれが宇宙の大きい主流になるのです。サタン世界のすべてのものを切ってしまわなければなりません。根っこまで切らなければならないというのです。幹と枝が全部違います。

            *

 今日、万民が願うものとは何でしょうか。世界国家を迎える前に真の父母を迎えようとするのです。また未来の後孫たちは誰から出発したがるのでしょうか。皆さんの息子、娘は皆さんの血筋を通じて生まれたいのではありません。真の父母の血筋を通じて生まれたいのです。ですから真の父母は、新しい未来の出発点になるのです。

            *

 真の父母は何をしなければならないでしょうか。サタン世界の根となる間違った血統を正さなければならず、間違った生命をもとがえさなければならず、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書に「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とありますが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのでしょうか。サタン世界は死ななければならないからです。

            *

 真の父母は世界の人々を呼んで、父母の立場から結婚させてあげます。ここでは人種の違いを越えるだけでなく、善人と悪人も共に結婚させてあげるのです。

真の父母は悪なる愛、悪なる生命、悪なる血統はすべて否定しますが、アベルを殺したカインは取り除いてしまわず、同じ位置で祝福してあげます。

海の潮の干満を見るとき、出ていく水と入ってくる水が合い、水平を成した時のように、救援摂理(蕩減復帰)が終結する善悪の転換期で善人と悪人をすべて共に祝福してあげることによって、サタンを完全に追放するようになるのです。

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 エデンの園で結婚を誤ったことが堕落なので、今や真の父母が正しく結婚させてあげることをもって、もう一度ひっくり返すのです。偽りの父母が犯してしまったことを真の父母が清算することで、地獄を撤廃し、数百、数千億の霊界の先祖たちまでも祝福結婚させてあげるようなことが起こるのです。

真の愛を中心とした地上の後孫たちの家庭基盤を通して、霊界の先祖と地上の後孫が縦的に一つになるだけでなく、このような家庭基盤を基点として東洋と西洋がお互いに連結されます。

            *

 養子はどのようにしなければならないのでしょうか。真の息子に接ぎ木されなければなりません。オリーブの木を切って、真のオリーブの木の芽に接ぎ木しなければなりません。オリーブの木が真のオリーブの木になる運動をしなければなりません。重生するためには真の父母の血統を引き継がなければなりません。それで人類が願うのは真の父母であり、イエス様と聖霊が願うのは小羊の婚宴です。

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 まず何よりも父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の希望の一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準を中心として父母に侍らなければ、救いを受けられないのです。皆さんはそのように侍ったことがありますか。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。ですから「私は真の父母と永遠に一つになれる息子、娘だ」という信念を、自分の存在意識を超越できるくらいに堅くもたなければなりません。そうでなくてはなりません。

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 肉的な父母さえいればいいのに、霊的な父母がなぜ必要なのでしょうか。堕落したからです。今まで堕落した父母が何を教えてくれたのでしょうか。大きいものを半分以上みな取ってしまい、自分を中心として降りていくことを教えてくれました。それで、父母の愛を中心としてサタン世界に永遠にいさせるための一つの決定的な線が引かれました。これを切る道がありません。

それでは真の父母とは何でしょうか。そのような基盤で、もっと大きいものをだんだん教えてあげるのです。それで天の国、永遠の国に合うように教えるのです。永遠の国に行って拍子が合うように教えるのです。呼吸に支障のないように教えるのです。

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 三 父母の愛

  1.父母の愛は本質の愛である

 子供は父母の愛の実現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また父母の理想の具現体です。子供を生んで愛したことのある人たちは分かるでしょう。それで愛する息子に対して「これは私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体だ。第二の私だ」と言うのです。

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 子供は愛と生命と理想的基盤から生まれるので、父母はその子供を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対として登場するのです。

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 父母は変わることができますか。父母の愛を革命することは歴史時代になかったことを知らなければなりません。いくら革命が起こるとしても愛を革命することはできないので、愛は永遠に存続しなければならないことになります。そのような父母、そのような愛の主体である父母が、私を絶対に必要とするのです。唯一に必要とし、不変に必要とし、永遠に必要とするのです。

            *

 子供はなぜ父母を恋しがるのでしょうか。そこに自分の愛の家があるからです。

            *

 父母の愛をなぜ尊重視するのでしょうか。見返りを願わず犠牲になるからです。そこでは、ある結果を願わないのです。それで満足し、それで幸福だというのです。与えることで幸福だというのです。すべてのものが、もらうことによって幸福なのではありません。与える者が、もらう者より福があります。なぜ福があるのでしょうか。神様の側を身代わりできるからです。

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 父母の子供に対する愛は、ただそのまま生活的な因縁を通じるだけの愛ではなく、骨髄からわき出る愛なのです。忘れようとしても忘れられず、切ろうとしても切ることのできない愛の心を父母はもっているのです。子供と生命の因縁が結ばれているということを感じる時、父母には子供を愛する心が自然にわき出るのです。

            *

 真の愛とは何でしょうか。「ため」に生きる愛ですが、与えてはただ忘れるのです。ことさら与えたことを覚えていません。またいくら注いであげても疲れません。七十歳になった息子に対して「おい、車に気をつけなさい」と言っても不自然ではなく、数十年その言葉を何回繰り返しても、嫌になったり疲れるということはありません。堕落したこの世の父母がこうならば、ましてや本質世界で神様の愛を授け受ける時、疲れるはずはありません。

            *

 父母は子供を愛するのに自分を主張せず、自分がない立場で子供を愛するのです。父母は権限をもって、いつも堂々とした立場で子供を愛するのではありません。父母は自分を犠牲にしても子供が立派に育つことを願います。父母は変わらない愛の主人です。父母という存在は、子供が千態万態に変わってどのようなことをやっても、子供のためにという心だけは変わりません。ですから変わらない父母の愛は貴いのです。

            *

 父母は愛する子供のために骨が溶けるほど苦労しますが、大変だとは思いません。なぜでしょうか。愛しているからです。自分の血と肉を削って与え、その価値がいくらなのか帳簿に付けておきますか。しないでしょう。かえって、全部を与えられなくて、もどかしがるのです。

            *

 親子関係はどのようなものでしょうか。愛を中心としてどのような関係でしょうか。親子関係は父母の愛が原因ならばその子供は愛の実であり、結実です。このように見るのです。結実と原因が掛け離れたところから出発するのではなく、一つの場から出発したものです。父母の愛が原因ですが、その愛の中で私が結実として現れたという言葉はどのような意味でしょうか。父母が愛した結果として登場したのが、現在の「私」だというのです。ですから愛と共に一体化した原因と結果の立場を対等にもって生まれたのが、親子の関係において子供だというのです。

            *

 親子関係は縦的な側面を代表します。ですから親子関係の愛は、変わることができません。私たち人間の歴史上でもそうでしょう。夫婦の愛は、横的な因縁なので四方性を備えたものです。ですから父母が子供を捨てることはできず、子供が父母を捨てることはできないのです。

            *

 子供において父母に対する喜びは、それこそ世界を代表した喜びにならなければならず、父母において子供に対する喜びは、世界を代表した欲望を充足させられる喜びにならなければなりません。親子の関係は、それこそ宇宙の根本でないはずがありません。喜びの根本がそこから芽生えるでしょうし、悲しみが始まるならこれ以上の悲しい場がないと、結論づけることができます。

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 親子の関係は何について言うものですか。これは血筋が連結されたものです。父という言葉の中には愛が介在しており、血筋が介在しているのです。直系の子女になるためには、愛によって一体とならなければなりません。血筋によって連結されなければなりません。血は生命を構成するものです。父母の伝統を受け継いだ生命をもつのです。何によってですか。愛によってです。

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 私は、どこから生まれたのでしょうか。私は、父母の愛が最高に花咲くところから生まれたというのです。花咲くには美しく花咲き、美しく咲くだけでなく香りを漂わせ、その香りは父母も好み、神様も好み、万宇宙も好む、理想的な花として咲くことのできる、そのような中から私が生まれたというのです。

            *

 宇宙を総合した男性、女性として生まれたその父母が、愛の花を咲かせるその場に、喜びのその場に、一つの種として植えられたのが子女なのです。

            *

 私は誰でしょうか。父母の愛の出発の根源に同参した者です。これは原因と結果が一箇所で出発したので、離そうとしても離すことができません。原因的な父母の愛と、結果的な私の生命の愛の根源は一つです。そのような意味から見る時、愛を中心として父子一身という言葉が可能だというのです。

            *

 愛を抜けば、一身や一体という言葉はあり得ません。私は腹中から父母の愛を受けます。愛の本質によって腹中に私を懐妊したその時から、父母の愛とすべての関心が集中するようになっています。なぜそうなのでしょうか。愛の結実だからです。それで愛によって生まれ、愛から生命の因縁を受け継ぎ、愛を受けながら大きくなって相対を迎えられる時になれば、相対をめとるのです。

            *

 親子の関係は、いかなるものをもってしても壊すことができません。原子爆弾でも壊すことができません。絶対に壊すことができないし、別れることができないし、捨てることができない関係です。

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 父母と子女の因縁は、切ろうとしても切れません。私の愛と私の生命の主体性をもったものが子女なので、これを切れば私を否定し、私の生命を否定する立場に立つので、愛の結実を否定できないのです。ですから父母は、子女のために生命を捨てられるのです。このような論理を得ることができます。

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 夫婦同士暮らしながらどんなに楽しく愛すると言っても、子供がいない夫婦が幸福な夫婦ですか、子供がいる夫婦が幸福な夫婦ですか。子供がいないのは未完成品です。未完成夫婦だというのです。そうでしょうか、そうではないでしょうか。

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 父母が子供を愛するのを誰も打つことができません。打てないというのです。宇宙が保護するようになっています。それを知らなければなりません。愛する父母が愛する子女を抱いて愛するその場は宇宙の法が攻撃できず、保護するようになっているのです。今までこれを知りませんでした。

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 子供が病気になって体が不自由になっている時は、高く深い父母の心情は、その体の不自由な子供に流れるのが原則です。違いますか。そのような不具者の心情は、谷底にあります。父母の心情は、てっぺんの大きいところにあります。そのような父母の心情が、頂上からその深い谷底に流れていきます。

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 子供のために生きる父母の胸には、悪いものがありません。服がぼろであればぼろであるほど、悲惨なら悲惨なほど、それが涙の深い谷底を深く掘っていくのです。

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 皆さん、赤ちゃんがうんこするのを恥ずかしがればどうなりますか。うんこをしておしっこをしても恥ずかしがらずに、母親がうんこを片付けるのを見て、きゃっきゃと笑っているのです。それはどれほど純真でしょうか。それは愛によってのみ可能です。愛には醜いものがないのです。愛によってのみ、すべて克服できるのです。

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 胸の中で乳を飲ませて育てる母親の切なる心、子供がうんこをし、おしっこをして臭くても、愛によってその環境を忘れられるのが父母の心です。堕落した父母が子供を思う心もそうだとすれば、ましてや愛の主体であられる神様が、本然の心情を通じてアダム・エバを愛したかったその心がどれほど切なるものだったでしょうか。一度考えてみてください。

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 父母の心は与えても足らないと感じ、愛しても十分愛し切れないところがあるのではないかと、もっと愛したい心、与えてからもやり切れなく気の毒に思う心、このようなものがあるので、永遠の愛と通じる本質に属することができるのです。これが愛の、出発の伝統的動機です。

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 父母が離婚するのは、刀で子供を半分に切るのと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう親は、どこに行っても禍いを受け、不幸がついて回るのであって、幸福になることはできません。

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 赤ちゃんのおなかがすけば、母親の乳が張ってきます。乳が張って痛くなると、きしまないところがありません。おなかがすいた赤ちゃんを抱いて乳を飲ませる母親の気持ちは、表現し難いものです。張った乳が赤ちゃんに飲まれて小さくなると、母親は心地よく、気分が良くなります。それは母親でなければ分かりません。また赤ちゃんがちゅうちゅう乳を吸いながら乳を触るのを見る時は、愛がどっとわき出るのです。

            *

 鮭の一生を見れば、鮭は卵を産んでから死にます。卵をはらんで産むために雄と雌が無条件に一つになって……。それを見ると、死ぬ日が決まった死刑囚の立場で夫婦が愛する、それ以上に愛し合うのではないかというのです。雌が卵を産めば、雄は地を掘って保護してくれます。それこそ理想的なカップルです。そして卵を産めば死ぬのです。死にゆく雄、雌のいろいろな姿を見る時、本当に大きな衝撃を受けます。そうやって、その親の体は赤ちゃんたちの餌になるのです。

            *

 創造主がいるならば、なぜそのように造ったのでしょうか。それを見れば赤ちゃんがどれほど重要か、愛がどれほど重要かということが分かります。愛が最高のものであり、赤ちゃんが最高のものだということを見せるための一つの表現として、鮭をつくったのだろうという理論は極めて当然な言葉です。鮭の一生は本当に驚くべき人間の教材です。

  2.分け与え、また分け与えても完全な愛

 子女をなぜ愛するのでしょうか。なぜ愛さざるを得ないのでしょうか。それは神様の創造の偉業を、私たちが横的な実体圏から受け継いだのと同じだからです。アダムとエバを造っておいて神様が喜んだ、その喜びを私たちも感じるのです。神様の愛を受け継いで、神様の創造的権限を受け継ぐのです。

            *

 子供をたくさん育てた父母は、何かしら愛の心情が広く、大きく、深いことを知ることができます。子供をたくさん育てた人は、悪い怨讐も打つことができないということを自ら感じることができる人です。それほど何かしら広い土台に立っているし、広い法度をもって生きているのです。

            *

 赤ちゃんは、生まれると母親の愛の電波に従って、自動的に乳を探していきます。醜女でも美人でも関係なく、母親ならいいのです。これこそ調和した無二の、聖なる姿なのです。

            *

 人は愛によって生まれ、愛を受けながら大きくなります。「私」という存在は、父母の愛の実なのです。お母さん、お父さんの愛がどのようなものかを、実際の実で見せてくれたのが「私」です。父母は愛の実である「私」を愛さなければなりません。その実を通じて無限の愛が実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的神様の愛まで連結され得る道がここにあるのです。

            *

 私は、父母の前に二つとない愛の同参者、同伴者です。愛をもってお母さん、お父さんと同等になることができ、同等な場に上がっていくことができるのです。それが愛の特権です。真に愛する息子、娘に自分のすべてのものを相続させようとします。宇宙の相続は、愛の伝統上で同等な愛の価値的位置を得る時、すべてのものを心置きなく一○○パーセント相続するようになっているのです。それで父母は孝子(親孝行)を願うのです。孝子は、父母の永遠の愛の同伴者として愛の相続を受けるのです。

            *

 父母の愛によって生まれた赤ちゃんはどのようなことをしても憎くなく、ただただ好きなのは、その赤ちゃんが自分の血と肉によって、また愛によって造られた分身体だからです。おしっこをして、うんこを垂れ、鼻を垂らしても、ただかわいく、愛らしいのです。その中に愛が染み付いているからです。

            *

 父母と子供の間の愛は、父母から来ます。私たちは生まれながらにして父母の愛を受けます。父母の愛を受けて成長し、横的な夫婦の愛を体験するようになり、夫婦の愛が継続するためには、また子女を生んで愛さなければなりません。父母は子供がいてこそ真の愛を感じることができます。兄弟同士の愛だけでは、父母の愛がどのようなものか分かりません。言い換えれば、父母から始まって一回り回って父母に帰ってこそ、その愛を知るようになるのです。

            *

 私には父母の愛の綱、理想の綱が連結されていますが、この綱は誰も切ることができません。かえって宇宙のすべての力がこれを擁護しています。ですから私がどこに行っても、父母はついてくるのです。霊界までも父母はいつも共にいようとします。ですから、父母が同行するのを嫌うのは罪です。したがって私たちは、父母を自分の体のように思い、愛し、親孝行するのが、人間にとって最高に価値があることを知らなければなりません。

            *

 私たちが生まれたのは、父母の愛からです。父母の愛から接ぎ木して出てきたのです。生命の連結を言う前に、血筋を言う前に、愛によって血筋がつながり、生命がつながったのです。「私」というものがなぜ貴いのでしょうか。生命をもったから貴いのではなく、父母の愛に同参したから貴いのです。愛は父母が成しましたが、愛の実は「私」です。始まりと結実をもって生まれたのが、正に「私」なので貴いのです。

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 真の父母は、愛の伝統を継承させようと骨を折ります。そこには東洋人も西洋人も関係がありません。氏族を超越してすべての父母たちが立てようとするものとは、普遍的な愛の伝統です。人は誰でも、自分の家庭を完全にむつまじく結合し、幸福で平和な生を営もうとします。洋の東西を問わず、すべての人は、そのような人生を渇望します。このような場合、その伝統は本質なのです。なぜならば、伝統のみが未来と連結されているからです。

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 夫婦間の愛と親子間の愛の中で、どちらが大きいでしょうか。西洋の人々は夫婦間の愛が大きいと思っています。しかしそうではありません。夫婦間の愛より、子供のための愛がもっと大きいのです。夫婦同士の愛では、自分を愛してくれなければけんかが起こりますが、親子間では、愛さなければいけないといってけんかが起こります。父母の愛が中心であり縦的なもので、天の法度に近い道に従っていくからです。ですから「ため」に生きる愛がより真の愛に近いということを、私たちは知ることができます。どんなに強い男性も、どんなにきつい女性も、その愛の前には頭を下げるのです。

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 父母が貴いのは子供のために与えるからです。それがあとで入れ替わるのです。父母は年が多くなれば、また子供になるのです。昔は父母が子供の先生でしたが、年が七十、八十歳になると再び子供になるのです。その時は子供が父母を身代わりするのです。父母が自分を育ててくれた代わりに、子供がその父母を愛さなければなりません。それが天地の道理です。

 四 夫婦の愛

  1.夫婦の愛は全宇宙の花

 男性は神様の陽性的形状であり、女性は神様の陰性的形状です。夫婦は天下を一つのふろしきに包んだようなものです。それゆえに、夫婦は神様の理想的な愛の心情を感じることができます。

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 神様は縦的二性性相であり、人間は横的二性性相です。その二者が合わさって完全な丸いりんご模様を成し、四つの性相形態をもった東西南北に愛の理想を引きつけることのできる母体にしよう、というのが夫婦の理想です。

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 夫婦が神様を愛し、人類を愛する心のパターンの上で爆発するように互いに愛し合うならば、その家庭によって神様が酔い、宇宙が酔うことができるようになるのです。その愛は、神様のための愛であり、人類のための愛でない訳がありません。その愛の根は、どこにあるのでしょうか。自分にあるのではありません。神様が愛の根源であり、人類の愛の根源なのです。

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 理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。最高の芸術を実体に展開できる夫婦、最高の文学を実体に展開できる夫婦なのです。最高の理想、最高の文化世界に接する前に、最高の愛によって夫婦が授け受ける甘味な愛が世界最高の芸術作品にならなければなりません。夫婦生活自体が最高の文学作品であり、それ自体が文学の実体にならなければなりません。

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 人にはいつも刺激が必要です。幸福は刺激なしには成されません。刺激がなければなりません。いつも食べる御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新しいように、夫婦間の愛も同じように、いつも新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほどもっと見たいし、一日中共にいたがらなければなりません。そのために自らに対する研究をしなければならないし、神様に対する研究をしなければなりません。

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 神様の愛が人間の三大愛を中心として、共に花咲くことのできる家庭を成すことが世界の願いであり、人類の願いであり、未来の願いだというのです。これにより、初めて天地の法度の前に歴史の香りを香らせることができるのであり、新しい花として登場できる貴く美しいものが夫婦の愛だということを知らなければなりません。

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 愛は永遠です。愛は二つではなく一つです。男女の間が愛で結ばれたなら地上で百年偕老(注:共に年を取ること)しなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっています。体は二つですが、一つになって回ることによって一体となるのです。二つの体が一つになれば神様と回るようになり、愛の四位基台を成すようになるので、これが正に理想世界なのです。そこには偽りの愛が侵犯できず、ただ真の愛のみが臨在するようになるのです。

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 心情的な愛によって結ばれた夫婦は、あふれ流れるその愛情が、生活圏を通して生涯を乗り越え、神様の目的と完全に一致したという家庭を成さなければなりません。そうしなければ神様のいらっしゃる天国に入ることができません。

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 男性と女性の愛の完成が宇宙の完成です。この愛が壊れる日には、宇宙の秩序が破壊され縦的な世界がみな断絶してしまいます。切れてしまいます。

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 夫婦の愛を通じて一つになり、神様のような立場で創造能力を成したのが子女です。

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 純粋な男性、女性として赤い愛の情熱の心をもって天地を代表することのできる男女、そのように結ばれた夫婦を天は探しています。そのような夫婦の愛をもって、そのような愛で息子、娘を育てなければなりません。

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 最近、インスタント食品のような愛し方をする人々が至る所にいますが、それが問題です。香水のおふろに入るからといって、愛が深まるのではありません。田舎に住みながら、冷水に体を浸して洗ってから寝床に就く夫婦の愛が、もっと純粋で長く続き、深くなるものだといえます。

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 新郎新婦はお金や権力、名誉を中心として一つになるのではなく、神様の本然の愛を中心として一体にならなければなりません。妻は夫のために、夫は妻を愛する中で、夫婦が神様を愛する家庭を築いていかなければなりません。

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 男性は真の父の分身であり、女性は真の母の分身です。ですから夫が妻を無視すれば、真の母を無視することになり、妻が夫を欺けば、真の父を欺くことになります。

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 男性が女性を主管し、女性が男性を主管できる力は愛です。愛以外にどのような力も男女間において互いに主管できません。ただ愛のみが主管できるのです。

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 男性と女性を力で比べれば相手になりませんが、愛が介在すれば、妻と夫が互いに押し合い引き合って一つになるのです。人間が神様の前に愛の対象的存在になったならば、神様は喜ばれるでしょうか。喜ばれるのです。

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 最高に好きなメロディーとは何かと言えば、男性と女性が互いに好きで喜ぶ夫婦の笑い声なのです。そのような夫婦がこの世を抱くことができ、宇宙全体を受け入れることのできる心で生を営む時、そのほほえみは自然に発生します。そのような夫婦の美しい姿が、神様の前に一束の花でなくて何でしょうか。これは単純な理想や抽象ではありません。本来の世界のことを言っているだけです。

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 愛する夫婦間の対話を見れば、この世のどのような詩や絵画よりも美しいのです。また「愛する者同士」、「二人っきり」、「私たち二人」という言葉が、どれほど美しく素晴らしい言葉でしょうか。

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 男性と女性が祝福を受けて完全な愛を交わし、喜びを分かつ時、神様の目には地上に咲いた花のようだというのです。また彼らの愛によって成されるすべての造化万象は、神様には香水のようなものです。このような美しい香りの中に神様は住みたくて訪ねてこられるのです。神様の愛が訪ねてくることのできる土台が正に夫婦の愛の場です。その場は万物と宇宙が和動する場となるのです。

  2.夫婦の愛は分散すれば不完全

 人間は本性的に、自分に対する相対の愛が分散することを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、親子間の縦的な愛の関係と違って、分散すれば既にその完全性が破壊されます。それは、夫婦間に絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理のゆえです。人には自分の相対に絶対に尽くし、「ため」に生きなければならない愛の責任性があります。

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 愛の強力な力によって結ばれた夫婦ならば、相対がどのようなことをしてもうれしく、愛らしく思えなければなりません。夫の体から出る臭いが嫌だと言ったり、妻のしぐさが気に入らないと思ったり感じたりするのは、二人の間に完全な愛が成されていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害関係で結ばれているからです。

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 夫婦が一緒に暮らすのに、一生の間楽に暮らすよりは、愛を中心として曲折を経ながら、台風も来て、暴風雨も降って、雷も落ちる、そのような多様性を感じながら、理想の愛を追求するのがもっと幸福なことでしょう。男女の問題を解決するためにはお金や知識ではなく、愛が必要です。

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 人の言葉をよく聞いてみると、女性の声のほうが男性の声より高いのです。なぜそのように高く造ったのでしょうか。力においては男性よりも弱いのですが、情においては女性のほうが高いというのです。

それでは男性はどうでしょうか。男性は広い愛をもっています。自分の夫と息子、娘だけを思う愛においては女性が高いですが、親戚や国を愛する心は男性たちがもっと高いのです。それで息子、娘を愛したり、家庭を愛するのは母親に習って、世の中を愛するのは父親に習うようになります。

どちらか一方だけでは不安ですが、これらをつなぎ合わせることによって均衡を成すことができます。

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 最初の三年間は接ぎ木しようとしても合いません。家が違い、風習が違い、礼節が違う男性と女性は、合うはずがありません。一つになるまで、合わせていく努力をしてこそ合うようになります。

            *

 愛を通じてのみより大きいものが出てきます。「ため」に生きる愛からのみ数が増えていきます。ですから、夫婦が闘う愛からは亡国の種が生まれます。しかし「ため」に生きる愛からは、天地のすべての精髄を取った、神様のような知恵の王子、王女が生まれます。

            *

 夫婦はなぜ争うのでしょうか。互いに愛を受けようとするからです。互いに愛を受けようとする輩は長く立ち行きません。互いに愛を受けようとする家庭は壊れます。しかし互いに愛そうとする家庭は、「壊れよ」と願っても壊れません。互いに「ため」に生きようとする愛は永遠なものです。

            *

 愛は愚鈍で間抜けなものです。どのような状況も意に介しません。本当に愛するならば、横で誰が見ていようが関係ありません。誰かが見ることを意識する愛は、限界圏内の愛です。誰が見ても意識しないそのような境地にある愛なので、どれほど愚直で愚鈍でしょうか。

            *

 経済問題を中心とした困難が、夫婦の因縁にひびを入らせることはできません。有識と無学が夫婦の愛を薄くすることはできません。純粋な男性、女性として赤い愛と情熱の心をもって天地を代表することのできる男性、女性、そのように結ばれた夫婦を天は探していらっしゃいます。

            *

 愛する人たちの間になぜ、離婚問題が生じるのでしょうか。離婚した人や離婚を考えているという人みんなが、初めは生死を共にするほど愛する関係だったことを考えれば、何かが間違っているというのです。離婚するようになった理由はいろいろあるでしょうが、結局何かが変わったということで、二人の間が変わったということを意味します。彼らは愛を守り、培うことができなかったので、そのようになったのです。愛それ自体は変わりませんが、人の心が変わったのです。

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 この世の夫婦関係においては、夫がお金を稼いでくる時に力が出ます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出、夫も力の出る妻を見て力が出るようになります。それで彼らはお金を稼ぐことができなければ、不安で夫婦関係が壊れたりもします。しかし真の夫婦は、神様を中心として愛の一体を成さなければなりません。

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 ある男性は、自分の妻がいてもきれいな女性を見ると、「自分の妻だったらいい」と思います。このように二つの心をもった男性を指して、「泥棒根性をもった者」と言います。二つの心から始まったのがサタンなので、二つの心をもった男性を指して、「サタンだ」と言っても間違いではありません。そのような人がいれば、サタンと変わりありません。

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 夫婦は対だと見ることができます。顔がそれぞれ違うように、人の運も違います。一生の運命が違います。夫の運命が悪くても妻の運命が良ければ、それによって夫の運が良くなることができます。反対に妻の運命が悪くても夫の運が良ければ、それもやはり良くなります。ですから夫婦の運命は、山と谷を崩して平地を造るようなものだと考えることができます。平地を造ってそこに夫婦の理想をもって木を植え、畑を耕し、いろいろな愛の計画を推進することができます。そのような道理を考えてみる時、相対を外面的にだけ見て結び合わせてはいけません。結婚とはそのように恐ろしいものです。

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 夫に会えばいいかと思っていたら、悪い時もあるというのです。良いものだけを願ってはいけません。二十四時間ずっと日差しだけ照りつけたらどうでしょうか。夜もなければなりません。高ければ、低くなるのが原則ではありませんか。

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 幸福な家庭は、夫が出て帰ってきたなら、外であったすべてのことを妻と共に相談して、新しく開拓できる要因を発見する家庭です。お互いに力を合わせて研究する家庭が幸福な家庭です。父母がそのようにすれば、子供たちもそこに力を加えて、私たちもこのような家庭を築こうと同調するようになります。

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 愛する夫婦同士、一方的に相手の顔がどうだと決めつけてはいけません。自分の相対の顔が一つの模様でのみ感じられるならば、それほど嫌なものはありません。相手の顔はうれしい気持ちで見れば、うれしい状態で現れ、愛の心をもって見る時は、美しく見えるのです。水が流れる時、曲がりくねるのと同じように、一つのうねりが回るたびに新しい模様が現れるように、いつも相手の顔を新しく感じなければなりません。

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 人間の美というものは、顔だけにあるのではありません。四方八方から見て感じることができます。美はボールのように立体的なものです。上から見ても、横から見ても、どのような方向から見ても、自分なりの完成された美をもっています。ですから、自分の妻の顔をむやみに評価してはいけません。美人の中には貧しい人が多いのです。しかし徳や福を備えている女性は違います。顔がきれいな美人も、子供を二、三人産んだだけで顔がおかしくなる場合があります。ですから、子供を産んでも美を維持できる人が美しい女性だと言えます。

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 夫と妻が互いに愛し合うのにも、神様の代身者として、夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。人間的な立場で愛すれば、互いに不足な面が現れ、結局は離婚する事態まで起こります。

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 愛は互いに慕い合う時、価値があります。口があれば口を開き、目があれば目を開いて愛を下さいと言ってこそ、愛を与える人も気分がいいのであって、ぼうっとしていたら、愛が来ても逃げていくことを知らなければなりません。愛する人が深刻ではなく、消極的に出てくる時、どれほど気分が悪いですか。

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 夫婦がキスするために歯を磨くとすれば、それは自然な愛ではなく、歯磨き粉の臭いのために、人だけがもつ固有の体臭を味わうことができません。歯を磨いてキスする人を見ていれば、その人が愛の味を見るためなのか、歯磨き粉の臭いを味わうためなのか分からないほどです。最近の世態を見れば、人間の幸福がどのようなものか混同するほどに計算的で、人為的で、虚飾的な愛が蔓延しているのを見ることができます。そのような愛は滅亡の道に導いている主犯だと言えます。

            *

 味噌煮込みは、煮込み鍋で炊いてこそ本来の味が出ます。さっぱりして風味が良い味噌汁の味は、一度味が付けばどこに行っても忘れることができないでしょう。同じように、人も風味良くさっぱりした味のような愛に、一度味を付ければ変わらないでしょう。甘いだけのインスタント食品はすぐに嫌になるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡単に手に入るならば、それは「真の愛だ」と言えないでしょう。

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 エデンの園で裸になって踊るのを誰が見ていたでしょうか。人がいない所ではそんなこともできるのです。部屋で夫婦が裸になって踊るからといって、それが心配なことですか。夫婦同士なら裸になって踊るどころか、どのようなことをしても、誰が何と言うでしょうか。夫婦同士でするのに、何の関係があるでしょうか。

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 鳩も互いに「くっくっくっ」と声を出しながら愛し合うのに、夫婦同士が出会う時、本当に愛する人同士が出会う時、出会う声があるとすればどのような声でしょうか。雷が鳴る音よりも大きいことはあっても、小さくはないでしょう。

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 夫婦が床に入ってささやく蜜語は、この世のすべての疲れや憎しみを解かす清涼剤になるのです。夫婦がささやく言葉の中で「あなたは私を愛さなければならない」という言葉はあり得ません。愛が自然なように、愛の蜜語も柔らかく美しいものでなければなりません。

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 夫婦が愛し合うのに、夫の父が横で寝ていても夫の母が横で寝ていても、クライマックスになる時は率直に声を出してもいいというのです。「あの家はどんなに夫婦の仲がいいのか、夜にこれくらい声が出ると町内のねずみたちがびっくりして、鳴いていた鶏たちもさっと鳴きやむ」と言うほど、町中に愛のうわさを立てなさいというのです。「ねずみたちが驚いて、鶏が鳴きやむほどに声が出る出来事がなぜ起こるのか」と聞けば、「なぜかって、どうして? 天地が振動する愛の喚声がわき出るからそうでしょう」と言ってもいいのです。

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 夫婦の愛の場は全宇宙の花です。歴史時代、総合実体として現れた新郎新婦が愛によって一つになる新しい部屋には、神様が来られて住み着かれます。ですから愛の中で成される新婚夫婦の新しい部屋が、どれほど厳粛で恐ろしい場でしょうか。神様との道をつないでおいて、完全な愛のマイナス的役割をしていると考える時、ここから天地の愛の太陽が昇り始めるのです。生命の安息の場、理想の安息の場に和して、妻の部屋を訪ねなければなりません。

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 最近は足袋を履きませんが、昔は足袋を履く時は、一カ月でも二カ月でも足の指が出るほど履きました。そうすると悪臭が出て、すっぱくて渋くてありとあらゆる臭いがしますが、愛する妻の鼻は「その臭いがどのような香りよりもっといい」と言うのです。悪臭のする足の指も愛する時は、行ってなめるのです。行ってなめてみると味が辛く、甘く、すっぱく、変だというのです。愛のアンテナを立てて測定すれば、測定値が「嫌だ」という計数よりも、「いい」という計数がさっと上がるというのです。

            *

 息子、娘を再創造するのは簡単ですか。ありとあらゆることをやってこそ、新しい息子、娘が生まれるのです。とても大変なことを全部しなければなりません。ですから愛する夫のつばが汚いですか、汚くないですか。仮に夫が自分の手につばを吐いたとして、絹の服を着ていてこするところがなければ、それをなめてしまいたいですか、そうしたくないですか。率直に話してください。「なめてしまいたい」と言ってこそ真の愛です。愛には汚いものがないのです。

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愛の火がつけば、二つの生命が一つになり、次に血統が合わさって愛で沸き始めれば、その渦巻く中で私の生命が主人として種が植えられるのです。男性の生命体、女性の生命体が愛によって運動し始めて回れば上がるでしょうか、下がるでしょうか。上がる場で芽生えれば息子になり、下がる場で芽生えれば娘になります。理論的にはそうです。私はそうなのかそうでないのか分かりません。理論的に合っているので、事実がそうなのかそうでないのか研究して一致させれば、博士学位、ノーベル賞受賞ものになるでしょう。

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 愛を中心とした生活で、すべてのものが解決されます。欲張りじいさんの虎のような目も、愛するようになれば絵に描いたお月様のような姿になり、硬くこわばっていた口も、にたりと開きます。凍っていたものが完全に溶かされるのが愛であり、溶けていたのを凍らせることができるのも愛です。極と極を包括しても余りあるのが愛です。「好きだ」という「好」の字をよく見てください。男と女を合わせて「好きだ」という字を書きました。「夫婦げんかは刀で水を切るようなものだ」という言葉がありますが、刀で水を切れば跡が残りますか。残りません。一度けんかをしても、面と向かって笑えば、また平和が訪れます。夫婦が愛するのは、神様まで連結するためです。

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 女性はなぜ髭がないのでしょうか。神様は、アダムが髭を生やした姿を御覧になって気分が良くなかったので、エバを造られる時、髭なしに造られたのです。したがって、神様の創造物の中で一番の傑作品は誰でしょうか。女性たちです。女性たちが傑作品ですが、誰のための傑作品なのでしょうか。正に男性のための傑作品なのです。そのように考えてみてください。

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 五 性愛

  1.性は愛の本宮、天の至聖所

 神様の至聖所とはどこでしょうか。愛が宿る男女の性の器官です。ここが天の至聖所です。

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 男性と女性の愛の象徴は何でしょうか。愛の終着地点がどこでしょうか。男女を一体にする性の器官です。

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 それは愛を中心として、心と体が完全に合わさることのできる通路になるのです。

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 男性と女性は何が違いますか。性の器官を含むその体がまず違います。それでは男性の生殖器は誰にとって絶対に必要ですか。男性の生殖器は女性のためにあるのです。人間の生殖器が一つは凹で、一つは凸ですが、なぜそのようになっていますか。二つともとがらせるとか、二つとも平べったくすることもできるのに、どうしてそのように異なってできているのでしょうか。すべて相対のためです。男性のものは女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願います。絶対に女性のものが男性のもので、男性のものが女性のものだという事実を今まで知りませんでした。それを占領することによって愛を知るのです。

            *

 男性と女性の生殖器は王宮の宝庫です。天の国の王宮の宝庫です。神様も自分勝手にできません。その鍵は祭司長だけが開けることができます。女性として生まれ、服を二度脱いではいけません。主人の前で服を脱ぐのは許されますが、ほかは悪魔です。

            *

 生殖器とは何かと言えば、愛の王宮であり、永遠の生命が誕生する王宮であり、永遠に変わらない天の伝統を受け継ぐ血族、血統を受け継ぐ王宮だというのです。真の生命の王宮、真の愛の王宮、真の血統の王宮だというのです。最も貴いところです。自分勝手にできません。神様の公認がなければ開けられないのです。神様と宇宙の公認を受けた自分の夫、自分の妻以外には触れることができません。

            *

 生殖器は何のために存在するのでしょうか。愛のためです。愛を見つけるために生まれたというのです。

            *

 生殖器とは何ですか。それは真の愛を中心とした王宮であり、真の生命を中心とした王宮であり、真の血統を中心とした王宮です。一番貴いものです。これがなければ神様の理想、神様の家庭、神様のみ旨が成就できないのです。これは全体の完成を成すことのできる一つの起源です。

            *

 生殖器を絶対的に貴く思う世界になるならば、その世界がいい世界でしょうか、悪い世界でしょうか。栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか。神様が人間を創造される時、最も重要なものとして精誠を込めて造られた箇所とはどこですか。目ですか、鼻ですか、心臓ですか。そうでなければ頭脳ですか。これらは全部死んでなくなるのです。事実がそうではありませんか。

            *

 生殖器は愛の王宮です。今その愛の王宮がどのようになっていますか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮であり、そのように貴いものが人間の生殖器です。聖なる箇所です。それがサタンによって汚い箇所になってしまいました。本然の神様の観点から見れば、汚いのではなく、それは聖なるものです。最も貴いものです。生命、愛、血統がここに連結されています。このように聖なるものをサタンが汚しました。

            *

 私の生殖器は愛の本宮です。私の生殖器は生命の本宮です。王宮だというのです。私の生殖器は血統の王宮です。このようになってこそ、神様が臨在できる王宮になることができるのです。神様は、万王の王であられ、本宮に訪ねていって住まれる方であるので、神様に侍るために、愛の本宮にならなければならず、生命の本宮にならなければならず、血統の本宮にならなければならず、良心の本宮にならなければなりません。アーメン、アーメン、アーメン。み言のとおりになるでしょう、アーメン。

            *

 愛が中心となって二人が生命の合一体となり、一つとなる場所、男性の血、女性の血が一つのるつぼで一つとなる場所が生殖器です。その場所は息子、娘よりも貴く、夫より、神様よりも貴いということを知らなければなりません。このような話をするので異端者と言われるのでしょうが……。その場所がなんですって? 子供より貴く、夫より貴く、父母より貴い場所です。それがなければ父母も無価値なものであり、夫婦も無価値なものであり、息子、娘も無価値なものとなるのです。

そのように貴いので、宝物の中の宝物として、世の中のどこの誰にも見えないように、一生の間、錠がかけられているのです。そして、そのかぎは男性のものは女性が持ち、女性の物は男性が持っているのですが、各々一つしかありません。一つのキーのみ持たなければなりません。フリーセックスのように、十個、二十個持ちたいですか。門を開けても主人がいない家のように、通り過ぎる人がみな出たり入ったりする廃虚の家のようになりたいですか。

            *

 女性、男性の貞操を守り保護するということは、宇宙を保護することと同じです。男性、女性の愛の秩序が宇宙の根本であるためです。

            *

 善悪の実とは何でしょうか。愛を間違えば永遠な悪の実を継承するのであり、愛を正しくすれば永遠の善の実を継承するのです。その善の実とは、どのような果物ですか。善悪の実とは男女の生殖器をいうのです。それを間違って使えば天下が滅び、国が滅びるのです。世界を滅ぼし天宙を滅ぼし得る妖邪な武器が一番恐ろしく、一番いい武器です。愛もそこで結ばれるのです。ですからそこは愛の王宮です。真の愛の発源地です。真の愛の王宮がそれであることを今まで知りませんでした。生命がそこで結合するのです。男性の生命と女性の生命がそこで結合するのです。ですからそこは生命の本宮です。血統もそこから始まるでしょう。億千万の歴史に接し導くことのできる、未来にまで接続させることのできる血統が連結されるのです。それでそこは血統の王宮です。このように私は三大王宮をもっているので、驚くべき私自身の価値を褒めたたえます。ですから、それに神様のように侍らなければなりません。神様が怖いでしょう。これを知らなければなりません。三大王宮を蹂躙する者は、統一の世界、生命の世界、愛の世界から追放されるのです。

            *

 なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれました。神様は知恵の大王であられるので、男女の愛の器官を取り替えたのです。男性のものだと言っても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。主人を残しておいて自分勝手に行動した人は、愛を違反したことに対する審判を受けなければなりません。法の中で最も恐ろしい法の罰を受けることを知るならば、自分の妻をおいて、あえておかしいことを考えることができますか。反対に婦人たちは夫をおいて、他のことを考えることができますか。

            *

 神様は公平な方です。それで互いに「あなたのもの」、「私のもの」と言ってけんかをするといけないので、男性のものは女性に植え付けて、女性のものは男性に植え付けておいたのです。それで愛は陰険なようで、本当に凄まじいものです。

            *

 愛は調和です。それで愛には汚いものがありません。私たちの生殖器を見ても、生殖器は最も貴いものなのに、人体の一番汚い箇所の近くにあります。なぜそうでしょうか。和合するのが天地の調和の道理なので、最も貴いものをそこに配置したのが男女の生殖器です。それで一番良くない、汚い部分に良く装置したのです。

            *

 男女の生殖器は、どこにありますか。それは一番安全地域、一番の安全地であると同時に一番汚いところです。それを見れば神様は本当に知恵の王様です。人間の世の中に「愛はそのような汚いものも支配する」ということを教えてくれるのです。肛門の近い箇所にあります。小便が出る道と、また違う道が同じです。

            *

 人間にとって愛のアンテナは生殖器です。それで男性は凸で、女性は凹です。この二つが合わされば、丸くなりながらなくなります。それは、陰電気と陽電気が合わさって、雷が落ちればゼロに帰るのと同じです。初めに戻ります。

            *

 もし男性が男性の生殖器を自分のものとしてもったならば、絶対にあげようとしないし、女性も女性のものをあげようとしないでしょう。そうすると男性と女性はただそのまま対立して千年も万年も耐えるしかないのですが、愛を中心として互いに交換したのでお互いが必要となり、授け受けて回るようになるのです。授け受ける作用を必ず交換してこそ、価値が現れるようになっているのです。

            *

 堕落した世界において愛は最も危険なものになってしまいました。愛をよく管理できなければ天下が崩れ、ひっくり返るのは堕落したからです。人間は愛がなぜ偽りとなり醜くなったのか知りませんでしたが、その愛を守り保護しようとしたのは真の愛が現れてくれることを願う本能のためでした。

            *

 愛する時、なぜ男性が上に上がらなければならないのでしょうか。そうしてこそ縦になるからです。種はどこから来るのでしょうか。天から来ます。何を通じて来るのでしょうか。愛を通じて来ます。それ一つが全部を証明します。そして、種というのは父から縦的な愛の凸を通じて来ます。凸が凹と合えば天地が振動します。

            *

 愛するようになれば幸福になり、愛に酔って感じる感情はこのようなものだと言って、早く経験してみようとして走れば大変なことになるのです。愛の門は時が来てこそ開くのであり、門が開く時を待って入らなければなりません。自分が愛の主人になったという時、堂々と開かなければなりません。

            *

 男性と女性はなぜ愛を好むのでしょうか。人間の体は大体百兆個にもなる細胞で構成されていますが、その細胞全体がいつ作動するのかといえば、愛する時なのです。人体のすべての細胞を動かすことのできる時が、正に男女が愛し合う時なのです。

            *

 男女が互いに愛し合う時、「ああ、電気が通じる」と言います。その時、生じる電気は天使長から始まるもので、単細胞的なものです。本然の世界で生じる愛の電気は宇宙的な愛の稲妻で、強度において数千倍を越えるだけでなく、人体の各器官の細胞が動く音も雷の音と同じです。本然の世界において真の愛で愛し合う男女は、愛の稲妻が出会う接触点に向かって総力を結集しなければ神様と出会えない、というのが愛の原理観です。

            *

 誰が神様の愛の対象になりますか。男性一人ででしょうか、女性一人だけで対象になるでしょうか。神様はどのような対象を願われるでしょうか。お金の対象ですか。知識の対象ですか。権力の対象ですか。違います。神様は愛の対象を願われるので、男性と女性が性の器官を通じて一つになるその場を中心として顕現され、人間と出会われるのです。

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 自分の体を全部自分のものだと言いますが、愛だけは自分のものではありません。愛は全部相対のものです。旧約聖書を見れば聖所や至聖所という言葉が出てきます。聖所は人を象徴するものであり、至聖所は愛の家を象徴するものです。人はそれぞれ聖所をもっており、至聖所をもっています。言い換えれば、聖所は神様に侍ることのできる家です。至聖所は神様だけが特権的愛の主管圏をもつことができるので、神様との関係を結ぶことのできるところです。至聖所を守る祭司長は絶対に二人ではありません。一人です。昔エバの前にその至聖所の鍵をもっていたのはアダムで、アダムの至聖所の鍵をもっていたのはエバだったことを知らなければなりません。

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 男性と女性の口は聖所だということを知らなければなりません。口は蘇生で、女性にとっては胸が長成で、その次に陰部が完成です。それらが私たちの体の聖所という箇所です。その聖所を開くことのできる鍵は誰でももっているのではなく、天道によって相続しなければ、鍵をもつことができないことになっています。

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 宗教は受難の道を行かなければなりません。体と闘わなければなりません。一番の怨讐とは何かと言えば、悪魔の血が激動する色です。淫乱から解放しなければなりません。その次に愛から解放しなければなりません。サタンの血でつづられた血統から逃れるためには淫乱から解放しなければなりません。そうして、生命に接ぎ木しようとするには神様と関係を結ばなければなりません。そうしてこそ愛が始まります。愛の伝統的中心は神様です。生命の祖先も神様です。

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 この宇宙で一番恐ろしいものとは男女問題です。

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 愛するようになれば血が沸くでしょう。ぞくぞく震えるでしょう。それはなぜ震えるか知っていますか。混じりなさいというのです。東西南北が混じり上下が混じって一つになり、愛の火花が散る方向にすべての焦点が行列の方向性を備え、男性のために完全投入、女性のために完全投入、私の生命、財産をすべて尽くして投入、また投入しようと飛びつくのです。それが永遠に終わらない愛の道なので永遠に好むのです。

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 神様が人間に贈り物をするのに、悪い贈り物をしたでしょうか。いいものの中でも一番いい贈り物をくれるようになっています。それがどこにあるものでも、深いところにあるもの、自分の奥の奥の深いところから取って、愛する人に与えたいのです。それで愛がいいのです。

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 真の自由は責任性を前提とします。もし責任性なしに個々人の愛の自由だけを主張して実践するならば、どれほど大きい混乱と破局が来るでしょうか。至高なる愛の理想を成す人間の完成は、愛に対する責任性をもつ時、可能となるのです。

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 人間は、愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修養、自己主管によって自由の主体となる責任性をもたなければなりません。人間において愛の責任性は、法や耳目によって守られるものではなく、神様との生命的、縦的関係の中で、自己主管、自己決断によって守られるものです。

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 生殖器を目の見えない人のように方向を失ったまま使用すれば、地獄に行き、反対にこれを神様の絶対愛に基準を合わせて使えば、天国の高い所に行くのです。これはきれいな結論です。

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 エデンの園でアダムとエバが、青少年期に木陰で淫乱によって堕落しフリーセックスを植えたので、収穫期である終わりの日には必ず、世界的に青少年たちのフリーセックスの風潮が蔓延する現象が現れるのです。

  2.愛の法は習って知るものではない

 皆さんは家庭で愛する法を習いました。どこのお父さんが子供に、お父さんから愛する法を習いなさいと言いますか。またお母さんも子供に、お母さんから愛する法を習いなさいと言いますか。また、父母が子供に対する愛し方を誰かに習いましたか。新郎新婦はこのように愛さなければならないと誰かから習いましたか。習ったことがありませんが、よく知っています。それは本当に神秘的なことです。

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 父母が子供を愛するのに、誰かに教えてもらって愛しますか。ここにいるおばさんたち、赤ちゃんを生んで愛する時、その愛する方法を習いましたか。どこに愛を教える学校がありますか。そこに何の学士、博士がいますか。何もありませんが、誰でもその基準は満点です。不足だと感じれば感じるほど、さらに完全だというのです。完全なものは手を出す必要もなく、習う必要もありません。加減が必要ないほど完全なものなのです。完全なものは変わらないものであり、変わらないものは永遠に行くというのです。

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 愛というものは言葉ではよく理解できません。父母の愛をいくら説明しても、父母がいない人には分かりません。夫婦の愛をいくら説明しても一人で暮らしている人には理解できません。結局、自分が感じることができる主体や対象圏から、行動の一致点を備えることができる所から、彼が好むことができるものを私が好むことができる所から、また彼の一切が私の一切に連結され得るその場から、相対の愛を感じるのです。

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 赤ちゃんが生まれるとすぐに母親の乳を探し、動物たちが生まれながらにして母親の乳を求めるのは、教育と訓練を受けなくても、自然に行為に移されるのです。これは正に愛の力が作用しているからです。

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 真実な愛は天理の法度なので、教育される前に、自然に成されるのです。父母の愛が、生まれた子供の顔が醜いかかわいいかによって、大きくなったり小さくなったりして現れないし、父母が立派か立派でないかによって、父母に対する尊敬と愛が変わる子供はいません。顔が醜いので私のお母さんでないと言う子供がいますか。お前は私が生むには生んだが、醜いので私の子ではないと言う父母はいないでしょう。もしそのような父母や子供がいれば、彼らを人間だと言うことはできないでしょう。

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 真の愛は経験を通じて得られ、体恤を通じて知るようになっています。真の愛は言葉や文字、あるいは一般教育を通じて体得できるものではありません。生活を通じてのみ完全に体得するものです。赤ちゃんとして造られたアダムとエバは成長しながら真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の夫婦の心情、真の父母の心情を段階的生活を通じて経験し、体験することによって完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得する時、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。

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 結婚して、年老いて死ぬまで子供をもつことができなければ、子供に対する愛は千年、万年たっても知ることができません。子女に対する愛を千年、万年勉強しても知ることができませんが、息子、娘が生まれるや否や、瞬時に知るようになります。

 六 子女の愛

  1.子女は父母の愛の結集体

 愛する父母の前に、子供というものは極めて世界的な代表です。

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 子供がいなければ、なぜ孤独な人だというのでしょうか。子供は、愛を中心として全宇宙を造られた主体者であられる神様の心情的事情を体恤するためのものです。子供は、私が動機となって生まれたけれども、その子供を生んで愛することによって「ああ、神様が人間をこのように愛したのだなあ」ということが分かるようにするのです。

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 父母が子供のために犠牲になるのは、父母として子供を通して神様に帰っていきたいという願いがあるがゆえです。子供を愛する中で父母の愛を体恤するようになり、さらには神様の愛を感じて悟るようになるためです。これは本然の発露です。子供をもったことのない人は、父母の愛を感じることができないだけでなく、神様に対する愛までも悟ることができないので、その人がもっている愛はいつも不完全なものなのです。

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 天国に残ることのできる子供とは、どのような子供でしょうか。父母の愛によってつくった借りを自分自身が返さなければなりません。父母が年を取ってぼけた時には、自分が幼い時に大便をし、小便をしたものを拭いてくれた父母の心で困難を耐えて、父母に仕えてこそ孝子になることができます。

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 愛をもった父母にむち打たれ、しかられても、その子供はうれしいのです。

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 父母が、子供のために生命までも与えてくれました。ですから、子供も父母のために生命まで与えなければなりません。生命が愛から生まれたので、本質的な愛の前に生命線を犠牲にしていくのが理論的な結論です。矛盾的な理論ではないというのです。

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 子供が父母に借りをつくるまいと努力をする時、父母も生きがいを感じます。

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 愛を中心としてむちを振るったとしても、打ったのちに痛哭する父母に対して子供が反抗したり、悪口を言ったりできますか。真の愛は調和の両面的価値をもっているのです。

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 立派な母親は子供を懐に抱き、世界を動かすことのできる善なる存在になるために、どのような困難な立場でも耐えることができなければならない、と子供に教えるのです。母親は、善は滅びないという天理に通じているからです。

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 皆さんが子供を産んでお乳をあげ、かわいいと言いますが、なぜかわいいと言うのでしょうか。それは天と地に代わって、神様の子供を抱いているがゆえにかわいいと言わなければなりません。神様の愛に従った天倫の運勢は世界を越え、天地を抱擁するために動いています。子供を抱いてお乳を与える母親は、天と地に代わって神様の愛する息子、娘を抱いているという徹底した心情で、息子、娘を抱かなければなりません。

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 子供の愛と幸福の基地は、父母の愛です。子供は真の愛によって和合一体となった父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。子供に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく霊性を完全なものにしてあげる、真の愛の生命的な要素を提供することです。

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 父親がいくら子供を愛するといっても、母親の愛にはかないません。母親は、精誠を捧げたとすれば誰よりも精誠を捧げたし、苦労をしたとすれば誰よりも苦労したし、愛したとすれば誰よりも愛したと見るしかありません。

 そのような意味でも、女性が情緒的な分野において高く貴い位置を所有しているのであって、父親がいくら子供を愛するといっても母親ほどに子供に対する愛は分かりません。ですから天国に行くならば、女性が心情の天国に行くでしょう。そのような観点から見れば、女性として生まれたことは悪くありません。また神様は公平だということも分かります。

  2.真なる子女の道理は「孝」

 父母を知ったなら父母の前に何をしなければならないでしょうか。孝行をしなければなりません。孝子にならなければならず、また父母を中心としてその国の忠臣にならなければなりません。父母が国を抱え、世界を抱えてきたからです。忠臣になる前に、孝子にならなければならず、孝子になる前に、真なる兄弟を愛せる食口(家族)にならなければなりません。食口とは、兄弟間で褒めたたえ合える圏を立てた者の名前です。そうではありませんか。

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 孝子が貴いのは、変わりのない愛によって幼い時も、成長する時も、老年時代も父母を敬うからです。そのような人を、孝子と言うのです。

 孝子になろうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。常に、父母の心の方向と一致しなければなりません。孝行者の道を行く人は、父母と全く違った行動をする人ではありません。父母が東に行けば東に行かなければならないのであり、父母が西に行けば西に行かなければならないのです。そこに異議があってはなりません。十回行って、十回帰れと言われても、また振り返ってついていかなければならないのです。

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 家庭で「孝行をしなさい」と言うのですが、これは父母を中心として、父母が行かなければならない愛の道の同参者になりなさいということです。父母の真の愛の道には、天倫がついていきます。父母のみ行くのではなくて、見えない縦的な天倫がここに因縁づけられて、共に行くのです。ですから父母と一つになりなさいというのは、縦的な歴史と横的な歴史の心情圏をつなげていきなさいということです。これが父母の前に孝行だというのです。

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 家庭を中心として見る時、父母の前に孝行をすることが息子、娘としての責任ですが、なぜ孝行しなければならないのでしょうか。孝行する道は、国に対する忠臣の道と連結されるのです。竹のように連結されるというのです。忠臣、つまり国に忠誠を誓う人はどのようにしなければならないかというと、世界に対して聖人の道を行かなければならないのです。それが一人の子供にならなければなりません。このように見る時に、孝行はできなくても、国の忠臣になるなら、その父母が「ああ、お前は私に孝行をしなかった」と言うことはできないのです。「本当によくやった」と言うのです。父母を捨てて家を出て親不孝をしたとしても、国の忠臣になる時は、母親や父親が死んで霊界に行っても、「やあ、本当にお前はよくやった」と褒めるというのです。

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 孝子とは何でしょうか。孝子は父母の悲しみに代わって責任をもつために、困難な場を探していって、責任を果たすことによって父母に喜びを捧げる人です。父母が十の仕事をするのに子供は十五ほど努力をしたならば、父母は五に対する喜びを感じるようになります。そのような分野をどのように補充して、父母のために捧げることができるかを考えながら努力する人が孝子なのです。

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 真の父母とは、どのような父母でしょうか。子供を永遠無窮に愛することに切りのない父母です。

それでは真の子女とは、どのような子女でしょうか。真の子女は、真の父母の愛の前に永遠無窮に父母を愛し、また愛があふれることのできる愛の心をもった子女です。そのような立場が真の孝子の立場です。

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 神様が子女に願うこととは何でしょうか。お金をたくさんもうけた百万長者になることでしょうか。国の最高権力を手中にする大統領になることでしょうか。神様が息子、娘であるアダム・エバに願われたのは、彼らが育って孝子、忠臣、聖人、聖子になることでした。それでは皆さんは、神様が願われるように家庭では孝子になろうという気持ち、国では忠臣になろうという気持ち、世界では聖人になろうという気持ち、そして天地の前に聖子になろうという気持ちをもったことがありますか。歴史的に見る時、すべての聖人は、孝子となり、忠臣、聖人、聖子になれと教えてきました。

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 愛の伝統の中で育った子女たちが、もし父母が離婚しようとしているなら無関心でいられるでしょうか。絶対にそうではありません。子供たちはすべて「私はあなたの子女です。私はあなたの結合体です。私のためにはどのような妥協もしなければならず、私の立派な父母とならなければなりません。私は父母が必要です」と主張するでしょう。私たちは若者に「父母とはその子女のゆえに離婚する権利がない者だ」と、父母の責任を悟らせなければなりません。

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七 兄弟の愛

  1.兄弟愛は万民同胞愛の模型

 兄弟をなぜ与えられるのでしょうか。兄弟がなぜ必要なのかと言うと、男性は妹や姉を見ながら「お母さんはこんなふうに育ったのだなあ!」ということが分かるのです。そこに母親が育っていくのを見るのです。また女性は、兄や弟が育っていくのを見て、父親がそのように育ち生活してきたのだという内容を見るのです。それが兄弟愛だということを知らなければなりません。そのように育って一つになるというのです。ですから兄弟を愛さなければならないでしょうか、愛してはいけないでしょうか。

 兄の立場で妹を愛し、妹の立場で兄を愛するのですが、ただ愛するのではないのです。必ず父母を介在させて、幼い時父母の懐で育ったことを重要視しながら愛さなければなりません。そうしてこそ、大きくなりながら共に上がっていくのです。小学校、中学校をずっとそのようにして上がっていくのです。

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 この世をいくら行ったり来たりしてみても、家庭にある兄弟の愛、血を分けて生まれた兄弟愛のようなものはないのです。社会に出ても自分の兄弟よりも近い人がいるでしょうか。近くなったとしても別れるのです。

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 なぜ兄弟が必要でしょうか。縦横を中心として連結されるのが兄弟です。アダムとエバを東西とすると、神様とアダム、エバは縦的な関係です。これは平面にしかなりません。ですから横的な基準が必要で、前後が必要です。家庭愛を超越できるのは兄弟しかありません。万民同胞愛という言葉と同じです。それがあって球形が成されるというのです。

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 同胞愛、兄弟愛をもって世界を抱いてこそすべてが理想的な球形になるのですが、ぶつかっても衝撃がないのです。そうしてこそ初めて、神様が考えたすべての実体がここに来て結実されるのです。神様の子女の理想がここに来て結実されて合わさることによって、子女の愛の結実体になるのです。その次に、兄弟の愛の結実体、夫婦の愛の結実体、父母の愛の結実体になるのです。無形の神様が創造当時に構想した実体をすべて成したなら、神様と上下・前後・左右が一致できるのです。

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 兄弟を通して国民が形成され、人類が形成されるのです。兄弟は前後を表示するのですが、それが肉になるのです。平べったいものだったのですが、肉が付いたのです。そこから円形が生まれるのです。ですから円形をつくるのが兄弟であり、国民なのです。兄弟が拡大されて国民になるのです。

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 兄弟愛というものは世界愛と通じるのです。たくさんの兄弟が育つ家庭は、世界の人類を抱き、理想的な天国、地上天国と天上天国をつくるモデルのようなものです。ですから兄弟は、ここで拡張されるのです。

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 兄弟が多ければ、御飯を食べるにしても、一つの器で二人で分けて食べなければならないのです。御飯が一つしかないと言ってけんかをするのではないのです。兄弟が多くて生活が大変でも「私がひもじい思いをしても分けてあげなければ。弟にあげなければ……」このような愛の心をもてば最高だというのです。

 八 愛国、愛世、人類愛

  1.孝子、忠臣、聖人、聖子の道に

 神様と一つになる時は千態万象に回るようになります。そうして兄弟間でも、父母が子供を愛するのを見本として、兄は弟を愛さなければなりません。そのように愛で一元化された家庭には、家庭愛が花咲きます。これがまた社会愛となり、さらには民族愛となります。このように行くと世界愛になります。

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 人類の共同的な目的のために生きる人がいれば、その人は人類愛を中心として一つになるでしょう。同じように国民が祖国愛をもっているならば、愛国思想を中心として一つになるでしょう。愛国の心が強ければ強いほど、国家を成すために愛国思想を中心として一つになるはずです。愛国運動は一人ではできないという立場を知ったならば、横的な因縁を連結させなければなりません。これが同志糾合というものです。

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 真の愛が定着できる基地が家庭です。ゆえに、本来の家庭は宇宙愛を掌握し、宇宙の保護様相を体得しながら、宇宙愛圏を拡大させ、家庭を越え、国家を愛する愛国の道を行くべきであり、さらに、民族と国家を越え、世界を愛する道に行かなければなりません。家庭を愛する人を孝子あるいは烈女と言い、国を愛する人を愛国者と言うならば、世界を愛する人を何と言いますか。その人はすなわち、聖人であると言うのです。

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 愛は、生活と歴史から取り除くことのできない、実在の内容を動かしている実体です。そして、社会制度だとかすべてのものを動かしている内的な力の母体です。ですから教育する時も、国家愛を教えます。兄弟愛、父母愛、夫婦愛、世界的な博愛、全部愛が入っています。これは何を意味するのでしょうか。人類の生活圏だとか歴史過程を経ながら愛をたどらずには、歴史を連結させることはできないということを言っているのです。

            *

 皆さんはどうしなければならないのでしょうか。忠臣にならなければなりません。忠臣とは何でしょうか。国の中心者のために精誠を捧げるのが忠臣でしょうか。違います。国民のためにも、国の中心者のためにするのと同じようにできる人が忠臣であることを知らなければなりません。孝子とは何でしょうか。父母だけのために精誠を尽くす人ではありません。父母のためにするように、兄弟のためにも精誠を尽くす人が孝子だということを知らなければなりません。

            *

 その次に聖人とは何でしょうか。聖人は世界人類のために今まで犠牲になった人です。聖子とは何でしょうか。神様を中心として世界に行こうとし、神様のためにしたように世界の人々のために尽くすことのできる人だというのです。歴史的な聖人は、今まで世界の人のために死んだ人です。神様の息子である聖子とは何でしょうか。神様にも忠誠を尽くすけれども、神様がそうであるように万民のために生きる人です。

            *

 ですから孝子、忠臣、聖人です。では、聖人の次は何でしょうか。聖人であっても、そのまま聖子にはなれないのです。神様の息子になれないというのです。聖子にならなければなりません。いくら国の中心者を愛して国民を愛したとしても、聖子になるためには天国の王宮法を知らなければなりません。王宮法に統治され、そこに拍子を合わせることのできる一つの法を知らなければなりません。

            *

 本来、孝子は心が変わらずに父母にまっすぐに行く人であり、忠臣は心が王様にまっすぐに行く人です。同じように、聖人は心が変わらずに神様にまっすぐに行く人です。別の言葉で言えば、死ぬ立場になっても、その心が変わらずまっすぐに行ってこそ孝子であり、忠臣であり、聖人になることができます。

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 家庭で父母のために暮らし愛する人は孝子であり、国のために暮らし愛する人は愛国者であり、世界のために暮らし愛する人は聖人です。皆さんは世界と宇宙を愛する聖子にならなければなりません。そうするためには、神様のような愛をもたなければなりません。孝子は家が滅びても生きています。そして孝子妃がいて、忠臣の妃がいて、聖人の妃がいるのです。聖子は聖人とは違います。聖子は人間世界の国の法だけでなく、天国の王宮法まで守ることを知っている人です。したがって孝子の道、忠臣の道、聖人の道をすべて直通できるのが、聖子の道です。それは太くて縁が広いけれども、その核の流れは垂直です。

            *

 人間はどのように生きるのでしょうか。私たちの人生航路の骨子を選び出すと、孝子が行く道、忠臣が行く道、聖人が行く道、聖子が行く道の根本があるはずです。共にいたくて、共に住みたい心、上下にかかわらず共にいたくて、前後、左右、昼夜を超越して、生涯を越えて共に生きたい心に徹した人生ではないでしょうか。このような結論が出てくるというのです。

            *

 人間がどんなに立派だとしても、愛がなければ使いようがありません。また幸福というものも何を中心として連結されるのかというと、それは愛です。兄弟間、友人間、同胞間、人類間、天地間など、このすべてのものの間を連結させることのできる媒介体が、すなわち愛だというのです。愛は麹のようなものです。

九 自然愛

  1.神様が万物世界を造られた意義

 神様は、なぜ万物を造られたのでしょうか。人間に愛する対象を、対象者をもたせるためです。人間に愛する対象圏をつくるためです。人が食べて暮らして、その本然の世界に戻ってきて、永遠なる神様の愛の祖国に入って生きるためです。それを知らなければなりません。

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 今日、キリスト教の信者たちは、「ああ、神様は全知全能なので、何、言葉一つで、『このような天地になれ』と言ってこのようになった」と考えています。しかし、そのようにはなっていないのです。神様はすべてのものを投入したのです。もっている精力をすべて投入したのです。もっている愛の力をすべて投入して、未来に、御自身の愛する息子、娘、御自身の愛する家庭のための礼物として、贈り物としてつくったのです。すべての物を。ゆえに、そのような観念をもって私たちが万物を眺めなければならないのです。

            *

 神様が被造世界を造られるとき、そこには喜びがありました。造っては、それを見て良しとされました。喜びがあったというのです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたとき感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在されていたので、創造された万物を見て、神様は喜びを感じられたのです。それでは、復帰の世界とは、どのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体、個体を見ながらも、神様を褒めたたえることができる心情的な因縁を立体的に備えた人たちが、暮らす世界です。天が御覧になる人格の価値は、そこにあります。それで、昔、聖フランシスのような人が、動物に向かって、あるいは鳥に向かって説教したという話もうそではありません。夢のような話です。けれども夢ではなく事実です。

            *

 被造世界のすべてのものは、神様が愛する息子、娘が愛の理想を見つけ出していけるように、教材として造っておかれたものです。それで相対的構造なのです。鉱物も主体と対象の関係として作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係として作用するのです。作用しなくては存続できないのです。運動しなくては、永続、存続することができません。それゆえ、宇宙は人間を中心として、その中心点に到達できるように創造された世界なのです。

            *

 宇宙は神秘的な世界です。いたずらや遊びの材料として造られたのではなく、精誠を込めて、愛する人間のために造られたとすれば、なるほど、この世界はいかに美しいことでしょうか。ですから、私たちがこの宇宙を眺めるとき、天の父が私のために造られたという、この上ない有り難い心をもたなければなりません。そのような心をもって、丘を散策し、草木や花を眺め、鳥を眺め、水が流れるのを見て、風が吹く、このようなすべてのものを見れば、本当に感嘆せざるを得ません。

            *

 宇宙の完成は外的な世界も良いのですが、内的な私自身、私も良くなければなりません。良いところにおいては、心もうれしく体もうれしくなければなりません。私の細胞を見れば、細胞の全部がうれしくなければなりません。目の細胞と足の裏にある細胞は違うでしょう。違うのですが、その細胞がすべて喜んで、手の細胞も喜び、すべての細胞が喜び、体と心のどこ一つも残さずに全体が喜ぶことができ、それがただ離れているのではなく一つにつながって、連体的な内容を中心として共鳴的な愛の喜びを感じることができる、そのような世界であってこそ宇宙完成になるのです。

            *

 因縁というものは極めて小さい所から結ばれるのです。皆さんの個体も百兆ほどにもなる細胞で因縁が結ばれている生命体です。神様の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどんなもの一つとっても、神様の心情の枠外で生じたものがありません。このようなことを感じる詩人は、偉大な詩人です。一枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいるとすれば、その人は宇宙的な詩人であるはずです。

            *

 私たちの周囲で私たちも知らずに繰り広げられている天下万象が、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の理致が入っているし、一つの原子にも無窮無尽の宇宙の調和が入っているということが分かります。存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であるということは否定できません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒子……。これらのものは無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。ゆえに、存在するすべてのものは神様の愛の手を通って出てきたものでり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているという事実を徹頭徹尾知らなければなりません。

            *

 道人とはどのような人ですか。草一株をつかんでも「神様!」と言える心情で、自分の価値と同等にその価値を認識できる人が最高の道人であるはずです。そのようにその価値をうたうことができる人が最高の芸術家であるといえるでしょう。色とりどりに存在する万象を見て、神様の色とりどりの愛と心情の妙味を発見し、それらのものと友達となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表することができる人であるはずです。そのような人が万物の霊長です。ところで、食べることしか知らない人が万物の霊長になれますか。

            *

 小さい子供たちをよく見るとですね……。子供たちはみんな子犬とか、何かの虫とかいった、飛ぶ動物、野生の動物、このような動くものが好きです。それはどうしてそうなのですか。本来、人間はそのようになっているのです。それはどういうことでしょうか。人間は自然世界やこの地球の動きを見て、趣を感じるようになるのです。もちろん相対基準が異なることがあり得ますが、それを鑑賞することにおいては、人間は本当におもしろさを感じ、興味を感じるのです。それゆえ、自分自体の愛の属性をすべて教わるのです。虫たちが生き、昆虫たちが生き、あるいは動物たちが生きるのを見れば、すべて対になっているのが分かります。このように見る時、自然は何かと言えば、人間一つを愛の対象として、相対理想を教育させるために展開させておいた教材、博物館であるというのです。

            *

 神様は宇宙を、被造世界のすべてのものを、愛する息子、娘が愛の理想を探し出すことができるような教材として造っておかれました。それですべてが相対構造になっています。鉱物も主体と対象の関係で作用します。物質の構成単位である原子も、陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しなければ存続できません。運動をしなくては永続、存続できません。ですから作用をしなくてはなりません。

  

2.自然は愛の理想を教えてくれる教材

 人間は大きくなっていきながら、自然を見て習得します。「昆虫の世界はこうなっているのか!」と学ぶのです。月が照り星が光る秋の夜、耳を澄ませてみると、虫たちの鳴き声が一つのオーケストラの演奏に聞こえます。何のために虫たちがそのように鳴くのでしょうか。それは相対を探し求め、理想を歌っているのです。愛をささやいているのです。鳥や、他のすべての動物たちも、悲しい声、うれしい声を何で表示するかといえば、愛という共通分母に従って鳴き声を出すのです。軸から遠い距離にありますが、その軸を中心として平衡を取りながら回っています。すべての存在がそのようになっています。

            *

 鳥たちの歌には三つの種類があります。まず第一におなかがすくときに合図する歌であり、次は、互いに愛する相対のために歌う歌であり、その次は、危険なときに鳴く歌です。それはすべて異なっているのです。私たちは、なに、普通の人たちには分かりませんが、自分たちの世界ではすべて分かっているです。おなかがすいて鳴けば、すぐに分かるのです。毎日の生活が何を中心として成っているのでしょうか。おなかがすくことなどは、一度食べれば終わるものなのです。そうかといって、毎日のように、何か危険な立場にあるのでもありません。大部分の歌は、何を中心として歌うのかといえば、相対と授け受けする関係で、歌が行ったり来たりするというのです。

            *

 人間は主体と対象、すなわち相対的なペアに造られていて、また人間のために存在するすべての万物世界も、愛の原理のもとに調和をなし、また人間の愛により生命と理想を実現するようになっています。万物世界は人間にとって、特に成長するアダムとエバにとっては、愛の教科書であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。

            *

 すべての鳥や動物は対になっています。お互いが愛を中心として和動します。花と蝶は極と極ですが、互いに和合します。これは天地の調和です。宇宙の極と極が、愛を中心として和動を繰り広げます。渡り鳥も同じです。南方にいた鳥が北方に飛んでいき、北方にいた鳥が南方に飛んでいき、地域を行き来しながら愛を成します。愛を中心として永遠に回ります。人間はこのような愛を、神様が造られた博物館の教材を通して学びます。

            *

 人間と神様が喜び、愛せば、天下のすべての万物たちはそこに拍子を合わせて和動します。神様が愛し、喜べば、天使世界も喜び、このすべての被造世界が喜び、拍手を送り、称賛を送ります。歌える鳥は歌を歌って褒めたたえ、美しい花は香りを放って褒めたたえます。最高の愛の主人公たちが楽しむことができる香りの雰囲気を拡張させるためのものが、この被造世界です。見かけがぞっとするようなヒキガエルも愛を交わすときには「うっうっうっ」とします。どんなに素晴らしいことでしょうか。足をたたいて、後ろ足を上げたり下げたりしながら愛し合っているその姿がどんなにすてきですか。それは最高の芸術です。

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 春になって鳥が歌を歌えば、その鳥の歌を聞くや否や、自分の妻を思い、自分の子供を思い、自分の国を思い、世界を思い、神様まで思わなければなりません。そうすれば、すべて完了です。鳥は鳥同士でのみ考えますが、人間は関係性をもっています。動物世界、植物世界、天上世界の中間媒介体としての関係性をもったのは人間だけの特権です。すべてを連結させることができます。これは人間だけの特権です。

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 アダムとエバは成熟していくに従って、「ああ、あんなふうに愛するのだなあ!」と知るようになります。神様は万物世界を、人間の愛の理想を成熟させることができる教材として広げておきました。それを学んでいくのです。だんだん大きくなるに従って、「あは、昔は妹のように、お兄さんのように一緒に過ごしていたのに、よくよく見れば……」このように感情が変化します。「あ、こうなんだ!」と学んでいきます。それで「お前と私は死んでも会わなければならない。他の所には行けない」といって、平衡線を直行しながら出くわすようになります。

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 愛は神経と同じです。私たちが髪の毛を一本引っ張れば、体全体が引き上げられるのと同じように、愛のみ引っ張れば、宇宙が引き上げられ、愛のみ動けば、宇宙がすべて和するようになります。そのため、愛があれば踊りも踊るようになります。踊りはなぜ生まれましたか。愛のために生まれました。また、歌も愛のために生まれ、笑いも愛のために生まれました。愛を取り除いてしまえば、すべてが固まってしまいます。

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 人は蜂よりは蝶を好みます。蝶は踊りを踊りながら飛ぶからです。すべて飛ぶものは、拍子に、調子に合わせて飛びます。早く飛ぶものも拍子に合わせて飛び、ゆっくり飛ぶものも拍子に合わせて飛びます。飛び方は様々ですが、いずれにしても全部拍子に合わせて飛びます。また、山で鹿が跳び回ったり、うさぎが遊ぶのも音楽的です。何かを食べるのも音楽的です。人も何かを食べる時、とても音楽的です。それはすべて音楽の象徴です。このように考えるとき、そのようなこの宇宙を永遠に私のために造り、私のために取り付けたとすれば、その方に対して私たちは有り難く思わなければなりません。見物人のように、隣村のことのように考えてはいけません。

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 山にも高い山があれば低い山もあります。それでは、私たちは山が高くもあり低くもあるのが好きですか、のっぺりしていて平坦なのが好きですか。高くもあり低くもあるのが好きです。それはなぜでしょうか。その形が踊りを踊ろうとするある型を具備しているからです。あらゆる形の曲線を描きながら、上がっていったり、下がっていったりしながら、様々な形態を表現しながら形づくられているからこそ良いのです。そうなれば、それが正に踊りです。自然の中には素晴らしい踊りがあり、素晴らしい音楽があります。素晴らしい芸術があります。それらのものが自然の中には実にたくさんあります。

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 一番最初に神様の子女として生まれたアダムとエバも、神様の保護圏内で幼かったところから成長していくに従って、だんだん大きくなっていくのです。そうして、知能も発達していくので、神様がなぜ被造世界を造られたのかを知るようになり、その被造世界を通して教育を受けてくるのです。被造世界で動くすべてのことは、私たちの人間始祖、本来の先祖になるべきアダムとエバが生活できるように、すべてのことを教えてくれる教材でした。完成されたアダムエバではないので、理想生活をしていく際の標本であり、一つの博物館であったという事実を知らなければなりません。

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 朝、目を覚まして自然を眺めれば、その自然がおぼろげに私の本性と因縁を結び、新たな理想の感情を芽生えさせます。しかし、人間社会は眺めれば眺めるほど、絶望と悲しみの感情を高めてくれるという事実をよく知っているでしょう。本来、堕落しない本然の人間たちが住む世の中といえば、人間の価値は、そのように眺める者をして、悲しみを感じさせる程度のものではないのです。草一株や、花一輪、一本の木と同じ程度の価値で造られた人間ではないのです。被造物のその何ものを与えても替えられない高貴な人間であり、その何ものにも比べられない価値の姿で、天上に代わって現れるべき人間でした。

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 神様の愛が宿っている自然を眺めて、「世の中の王様、あるいは有名な人がもっている見事だという品物に比べられるだろうか。骨董品と比べられるだろうか。ある有名な婦人が着ている豪華な服と比べられるだろうか」という心をもたなければなりません。そのようにできなければ、私たちは、自然世界の前に、自分でも知らずに罪を犯しているのです。一つの生命体を見るとき、「人間が造ったある物に比べられるだろうか。どんなに素晴らしい人であっても神様より素晴らしいだろうか」といって、神様が心情を傾けて造られた万物をつかんで、何よりも貴く感じる者がいるとすれば、この人は間違いなく天の息子、娘であるはずです。このような人は祈祷が必要ありません。神様と共に暮らす人です。天は人間をそのような位置まで駆り立てるのです。

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 自然はどんなにつまらないものでも、そのどんなものとも比べられません。道端に価値なく立っている一本の木も、有名な画家が描いたどんな絵画とも比較ができません。どんなに名のある画家が最高の傑作品として花を描いたとしても、描かれたその絵画からはいくら凝視しても花は咲きません。香りもしません。また、種も結べません。しかし、価値なく道端に立っている木からは花が咲き、実を結び、種を残します。そして、その種を植えれば、その木よりももっと良い木がいくらでも出てくるのです。ゆえに、その有名な画家が描いた絵画とも比較できません。

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 人間は自分が愛する人のものは何でも好み、慈しみます。そうするくせに、一番愛さなければならない神様が造られた万物を慈しむことを知りません。このような人たちが神様の息子、娘になれますか。嘆息している万物の恨を解怨してあげるべき責任を負った皆さんは、一本の木、一株の草にも六千年前、それらを造られた時の神様の心情と、創造に差し伸べられた手を体恤しなければなりません。そのような心をもたなければなりません。そのため、道を歩いていて、一株の草を見ても涙を流すことができなければなりません。一本の木をつかんでも、泣くことができなければなりません。「主人を失ってしまってどんなに寂しかったことか」と言いながら。ここで話をしている文鮮明先生はたくさん泣いたのです。岩をつかんでも泣き、風が吹くのを見て泣いたのです。なぜ、そうでなければならないのか、今、み言を聞いたから理解できるはずです。

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 神様が造られた価値のある万物が、神様と共に永遠なる因縁を結んだ貴い万物が、今日、ある王宮で、なに、国宝だとか宝物だとか言って、貴く思われている品物ほどの取り扱いも受けられないやるせなさを私は分かってあげなければなりません。「私だけは分かってあげなければならない」と言いながら生きてきました。「この地上に生きている世界人類がみな分かってくれなくても、私は分かってあげなければならない」という心を皆さん方がもつならば、この民族が将来、世界人類を支配できる新しい民族になるはずです。これは観念でなく事実です。どこの誰が万物をおいて、代々受け継がれてきた自分の家門の宝物より、世の中で一番貴い宝石だというダイヤモンドより、貴く思って手放さないようにしますか。そのような人がどこにいますか。神様は御自身が造られたものを心情的に理解してあげ、それをつかんで涙を流す人を見て「良し」と言われるのです。

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 自然とは何でしょうか。神様が私のために、慈しむ愛をもった息子、娘が生まれるとき、慈しむことができる万物として、贈り物として下さった展示品です。鳥の鳴き声一つが、成長していく草一株が、愛する息子、娘たちの生活の美化のために造られた装飾品なのです。路傍にころがっている岩も、息子、娘が国を治める主人になることを知っていて、その国の装飾品として造ったのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、造化無双な和合の園として、愛のためのそのような世界を見て、その相続を受けることができる夢の王子、希望の王子を造るために創造されたのです。そのため、万物を通して学ぶのです。雄と雌が「ちゅんちゅん」するとき、これをその主人になるおばさんも学べというのです。互いに慈しむ世界に向かって、自分の一生を命を懸けて生きている本然の被造世界のその美しさを、褒めたたえることができなければなりません。そのようになれば、その家の垣根に鳥も飛んできて暮らそうともするのです。雛を産もうとするのです。何の話か分かりますか。

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 博物館にある、何かの作品がどんなに貴重だと言っても、生きている作品にかないますか。神様の作品であるこの地球星の万物博物館を、誰が神様以上に愛したのかというのです。自分の国の博物館以上に愛したのかというのです。道端で踏まれるたんぽぽ一株が博物館にある新羅時代の金環と比べられますか。神様が直接造られたものであるのに。そのような神様の心情をもって「お前を、本然の神様が慈しむことができる王の位置で、愛を受けたその位置で、愛することができない私自身が申し訳ない。恥ずかしい」と言うことができる心をもって慈しむ、そのような王がいるとする場合、その草もその王に従っていき、永遠不変、共にいたがるというのです。そのように生きなければならない人間なのです。

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 自然を愛し、人を愛するすべを知らなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができないということを知らなければなりません。万物は神様の象徴的な存在であり、人間は実体的存在であるために、万物と人間を愛するすべを知っている人は、神様を愛するようになるのです。

            *

 いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。また、人間を愛さなければなりません。人間の中でも、五色人種をすべて愛さなければなりません。「ああ、私は白人たちだけが好きだ」と、神様がそのように言いますか。そうであれば全部白い服のみ着なければなりません。白人たちはみな白い服のみ着なければなりません。色の付いた服はすべて捨てなければならないのです。黒い服をどうして着ますか。色の付いた服をどうして着ますか。矛盾しているのです。

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 神様が造られたすべての存在を愛の対象として感じなければなりません。すべて、虫けらまで愛し、人は言うまでもなく、すべての天にあるものまで、無形のもの、有形のものを愛することができ、愛を受けることができる皆さんにならなければなりません。朝、鳥がちゅんちゅんちゅんと鳴くときは、「やい、このすずめ、私が朝寝しようとするのに何でちゅんちゅん鳴くのか」と言わないで、「ああ、お前、有り難い、ああ、私を起こしに来たのだろ、大切なお客様が私に会いに来るのをお前が教えてくれるのか」と、このように考えなければなりません。思想が違うのです。これが偉大なのです。

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 第三章 愛と結婚

 一 真の結婚は宇宙的合一の愛を成すこと

 結婚はなぜするのでしょうか。神様の姿に似るためです。神様は二性性相としていらっしゃる方であり、各一性が合体化した一体的な存在であられ、神様の分性的な人格が男女なのでこれらが合成一体化して種のようになって、神様の本性の立場に戻らなければなりません。

            *

 結婚の最高の神性を私たちは謳わなければなりません。男女が愛することのできる道は結婚生活です。そのように一つになることによって誰に似るのでしょうか。神様に似るというのです。男女が一つになってこそ、人を御自分の形状どおりに造られたと言われる神様に似るのです。そうしてこそ神様が臨在されるのです。

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 男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が合わさって調和し、平行線を成さなければなりません。

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 男女が合わさることは、天地が合わさることです。

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 男性と女性が互いに好み合い抱擁するそれ自体が、宇宙が一体を成した立場です。神様の理想の中で成される創造本然の姿は、そのようなものです。

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 結婚は、なぜするのでしょうか。世界を愛する訓練を受けるためです。また万民を愛することのできる資格をもつためです。

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 結婚の目的は、男性と女性の心の世界を一致させようとすることであり、男性と女性の愛の完成のためのものです。それで結婚したということは、そのような証拠を見せて宣布をすることです。結婚生活を通して愛の完成と心の完成を成したなら、家庭の理想を実現したと言うことができます。それで死ぬ時これを成したなら、間違いなく天国に行くというのです。

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 結婚とは何でしょうか。なぜ結婚が重要なのでしょうか。結婚は愛を探していく道だからです。愛する道、生命を創造する道です。男性と女性の生命が一体になる道です。男性と女性の血統が混合されるところです。結婚を通して歴史が生まれ、ここから国が生まれ、理想世界が始まるのです。

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 結婚は誰のためにするのかといえば、人類のためにするのであり、人類の共同利益のためにするのです。ですから結婚は世界を代表したものです。その男性は世界を代表した男性であり、女性もまた世界を代表した女性です。では、どこから出発しなければならないのかというと、世界を代表した立場から出発しなければならないのです。結婚する意味は、人類が公的に願っているみ旨のためのものなのです。

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 妹のように育て、妻のように愛し、母のように仕えてあげるという心をもつことが必要です。愛は妹から、すなわち妹として愛することを始めとし、妻として愛さなければならないし、妹、姉、新婦、母のように愛さなければなりません。そうしてこそ人間が堕落したことによって失い、神様が愛することのできなかったものをすべて復帰することができます。

            *

 国を愛するためには何を愛さなければならないでしょうか。まず男性は一人の女性を、この国の代表的な女性だと思って愛せる者にならなければなりません。また女性は男性に対してただ一人の男性としてではなく、全世界の男性の中で代表的に選び出した人だと思うのです。このように代表者の立場に立った男性と女性が合わさって家庭を成すようになると、この家庭は天の国の家庭になるのです。

            *

 女性にとって本当の幸福は、愛の主体者に出会うことです。愛は一人では感じることができません。幸福も同じです。相手と同じ相対的関係を結びながら互いに感じ、愛することのできる真の幸福を感じるのです。

            *

 結婚する時はその男性がハンサムだといって喜んでいたのに、その男性が一週間後に事故に遭って体が不自由になった時、離婚しようとするのは真の愛ではありません。それは偽りの愛です。真の愛は絶対的であり、不変であり、永遠なのです。

            *

 結婚は私のためにではなくて、相手のためにするという信条をもたなければなりません。結婚を、立派な人、きれいな人としたいというのは間違った考えです。人間は他のために生きなければならないという原則を知ったなら、結婚も相手のためにするという考えをもたなければなりません。いくらみすぼらしい人でも、美人よりももっと愛そうという信念をもつのが原則的な結婚観です。人間として生まれて相手を神様のように愛し、人類のように愛し、この世界の誰よりももっと愛することができるという考えに立たなければ、天の国に復帰することはできません。一人の男性として一人の女性を愛することを知らなければ、神様と人類を愛することはできません。

            *

 結婚とは、幸福の宮殿のドアを開けて入っていく儀式だと言うことができます。したがって、結婚は人倫の大事なのです。愛は時空を超越し、人間史において最も偉大なものであり、結婚はそのような愛を表し、確認する儀式なのです。

            *

 結婚する時は、美人の夫になろうと思わないでください。醜女の夫になり、誰よりも立派に生きる夫になると言わなければなりません。そしてこの世のどのような美人も敬うことのできる、そのような夫にならなければなりません。そのようにすることのできる観をもって、女性に対さなければなりません。

            *

 どのような妻、どのような夫に会って結婚するのでしょうか。最もみすぼらしい人に会って、烈女になって愛そうとする原則を立てて結婚し、暮らさなければならないということを知らなければなりません。愛の度数が高いほど、無限の宇宙の舞台で活動することができます。

            *

 人間において、愛は永遠なものであり、二つでなく一つです。男性と女性が愛によって結ばれると地上で百年偕老(注:共に年を取ること)しなければならず、死んでも永遠に共に生きなければなりません。体は二つだけれども、一つになって回ることによって一体になるのです。二つの体が一つになれば、神様と共に回るようになり、愛の四位基台を成すようになり、それがすなわち愛の理想世界なのです。そこには偽りの愛が侵入することができず、ただ真の愛のみが存在できるのです。

            *

 個体完成、相対完成を成したのちに神様を中心とした愛によって公認されてこそ、本当の理想が成されます。

            *

 新郎新婦はお金や権力、名誉を中心として一つになるのではなく、神様の本然の愛を中心として一体にならなければなりません。

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 神様の最高の傑作品として造られた美しい男性と女性が、神様を中心として愛することができるなら、それは最高の愛であり、超越的な愛であり、この世的な愛ではありません。その愛は最高に美しい愛であり、愛の中の代表的な愛であり、永遠に輝くことのできる愛です。

            *

 真の愛の味を感じるためには理想圏をもたなければなりませんが、男性には女性が必要であり、女性には男性が絶対的に必要です。真の愛のための絶対的な男性と女性は、一心に努力することによって結ばれます。一つに結ばれた時は、神様が二人の中に臨在されるようになることを知らなければなりません。

            *

 全世界の人種が一つになるための最も早い近道は、国際結婚しかありません。二つの全く違う文化圏と環境から選択された男女が、神様の愛によって一つにならなければなりません。これが完全な調和と統一です。このような偉大なことを成就するために私たちは、巨大な愛の力を見つけなければなりません。最高の愛のみが国境を越え、人種の境界を越え、文化の境界を越え、知識の境界を越えるのです。

            *

 神様の愛と人間の愛は、本質的に同じです。愛は一つになろうとするものです。男女が互いに慕い合う理由は、男性は女性、女性は男性を通してのみ神様を所有できるからです。愛は、互いを好むことです。

            *

 結婚しない人は、天国に絶対に行けません。結婚しない人には、天国は絶望の美しい山河です。寂寞とした山河は希望がありますが、絶望の山河は希望もない状態ではありませんか。

            *

 男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれました。自分という存在を主張するところには、神様が共にいらっしゃるはずがなく、他人を尊重する時に、神様が共にいらっしゃいます。原則的で原理的な思考によって、私たちは二本の足で歩いているのです。

            *

 女性は男性に会うために生まれ、男性は女性に会うために生まれたのです。それが最高の真理です。それで、このような原則に従って祝福圏を探していかなければなりません。最高の真理圏を離脱するのは、最高の悪です。

            *

 韓国の伝統婚礼を見ると、互いに向かい合って大きなお辞儀をします。どうして大きなお辞儀をするのか知っていますか。互いに「ため」に生きようと大きなお辞儀をするのです。互いに「ため」に生きなければ愛は逃げていってしまいます。

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 韓国の民法では同姓同系の結婚を禁じ、異族結婚を奨励していますが、これは統一を思慕する民族だからそうなのです。

 二 男女の愛、互いが必要とする愛

 成長の中で最も花のような時、最も美しい時が青春時代です。その青春時代の姿が最高のつぼみのような時期です。それをしっかりと愛することのできる人がいるなら、その人は神様の家の奥座敷にでも招待される人です。そのような愛を授受することのできる男性と女性は神様の福を受けることができ、神様の奥座敷にまでも招待されるはずです。

            *

 人間の幸福とはどのようなものでしょうか。お金が有り余ってダイヤモンドを体に着けると幸福だと言えるのでしょうか。本当の幸福とは相対者と共に愛によって笑い、歌ってささやくところから見つけることができます。そうできる人は幸福な人です。愛する恋人からささやく言葉を聞くことのできる人は、幸福な人だと言うことができます。ほおをつけて愛をささやくことは、ちょうど夢を見るような幸福感を感じることができるからです。幸福な時は年齢的に見る時、若さが最も華麗に咲く時だといえます。愛によって力いっぱい膨らんで一つになることのできる時が、青春時代です。

            *

 自分の一生一代に男女間で愛する愛よりも、世界を愛し神様を愛し人類を愛したあとで自分を愛することのできる、そのような愛をもった相対を迎えようとする人が、理想的な人です。

            *

 女性にとって本当の幸福は、愛の主体者に出会うことです。

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 男性が一人でいくら愛を探しても、その人は狂った人としか思われません。

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 男性と女性がいくら素晴らしいといっても、愛がない時は意味がありません。

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 男性と女性は、生理的にみな反対です。女性は一方的なのに比べて、男性は三方、四方的です。また女性は家にばかりいますが、男性はあちこち世の中を歩き回ります。このように性格がみんな反対です。このような主体的な男性と相対的な女性が、何を中心として一つになるのでしょうか。愛を中心として一つになるのです。人間と神様を一つにするのも愛です。

            *

 神様は愛の理想完成のために人間を創造しました。そして人間と神様の関係は、最高の愛を中心とした主体と対象の関係です。では人間はいつ完成されるのでしょうか。男性も女性も愛の因縁を結んで愛の価値を知った立場に立った時、初めて完成されます。

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 ある男性がハンサムで健康な人だとしても、女性がいなければ意味がないのです。自分の容姿や健康に酔って生きる男性は、どうしようもない存在であるだけです。そのように自我に陶酔して回っていくこの世を改善して、変化させていくのが神様の摂理だったということを知らなければなりません。

            *

 この世で最も良いものとは何でしょうか。男性には女性、女性には男性ではないかというのです。男性が好きな愛は男性のものではなく、女性が好きな愛も女性のものではありません。そうでしょう。一人でいる時、愛したい気持ちになりますか。

            *

 男性は神様の愛を中心として女性を愛するにおいて、「完全に愛した。最初から最後まで永遠に変わらずに愛した」と言える立場に立たなければなりません。また女性はそのような立場に立つために自分の体をしっかりと封じておかなければなりません。蓮の花が多くの花びらで何重にも包んであるように、しっかりと埋めておかなければなりません。そうして春という季節に、天地の調和に合わせ、そこに和合して新しい人生を出発しなければなりません。これを、しっかりとしなければなりません。

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 皆さんは花の中で、美しい花は何だと思いますか。皆さんはどのような花が好きか分かりませんが、先生はラッパのような形をした花が好きです。なぜかと言うと、ラッパのような形をした花は香りを遠くまで漂わせます。ラッパのような形をした花は深い愛を意味します。ラッパのような形をしていてこそ、香りが遠くまで広がります。ですからラッパのような形であるほど香りが多く出ます。ですから女性が花であれば、深い愛の心情をもっていなければなりません。美しい香りをもった花は万民が喜びます。そしてゆりは単調ですが優雅な味があります。清く優雅なゆりの花は、葉なのか茎なのか分からないように同じ色で咲いているのを見ると、感傷的で情緒的な花だというのです。そのように結婚前の女性は、水仙、またはゆりのようにならなければなりません。優雅で清い花にならなければなりません。

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 いくら美しい娘にも、思春期はたった一時しかないのです。その時は花の中の花であり、一生で最も貴い時なのです。それにもかかわらず「私一人で生きるわ」と思っている女性がいるでしょうか。その人は女性ではありません。また男性の中でも見てくれの悪いところのない、これ以上良い時はないという青春の時に、自分一人で生きると言う者がいるでしょうか。そのような時には、必ず相対を探すようになるのです。誰に似てそうなのでしょうか。神様に似てそうなのです。人生の最も貴い時である思春期の時に、相対を探そうとするのは男性も女性も同じです。

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 男性はなぜ生まれたのでしょうか。男性は多くが自分一人で生きることができるので、そういうことに関心がないとも言いますが、男性は女性のために生まれたというのです。女性がいなければ男性は必要ありません。自分のために生まれたものは一つもないというのです。

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 私たちの五感を見てください。私の目は私の目を見るために生まれたのでしょうか。鼻や耳、口、手もすべて相手のために生まれました。五感を総動員して集中できるその力が何かというと、真の愛です。目、鼻、耳、口そして手は、真の愛のために生まれた真の愛の道具です。

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 女性にとって最も貴いものとは何でしょうか。男性です。どのような男性が必要でしょうか。立派か立派でないか、体が自由か不自由かが問題でなくて、その男性から価値のある愛を見つけ出すことができるかどうかが問題なのです。

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 男性の心の中には神様が愛される女性がいて、女性の心の中には神様が愛される男性がいて、共にたたえるようになる時には神様もそれを見て喜ばれるので、万物も互いに喜ぶようになります。彼らが抱擁する喜びの内容が、天と地と共に喜ぶ価値になります。男性と女性が互いに好んで抱擁するそれ自体が、宇宙が一体を成す立場になります。神様の理想の中で成される創造本然の姿が、そうです。

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 本来、男性が生まれた本当のみ意はどこにあるのでしょうか。女性のために生まれたということを否定することができません。反対に、女性は女性のために生まれたのではありません。男性のために生まれたという事実を本人が確信できない立場で、問題が起きるのだということを、私たちは知らなければなりません。これを天地創造の大主宰であられる神様が創造の原則とされたので、その原則に従わずには善であり、真であり、幸福であり、平和な世界、または愛と理想の世界に入ることができないのです。

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 この世に多くの男性がいるとしても横目で見てはいけません。貞操は生命より、もっと尊いものです。夫が愛することができ、息子、娘が愛することができ、国が愛することができ、世界が愛することのできる歴史の道が、女性によって開かれるというのです。このような女性の美しさと高貴さと情緒的な伝統が輝くことのできる基準をつくっていく厳粛な課題の前に、皆さんは真実と真の姿でいる誠心を尽くさなければならないのです。

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 最も花のような時期、花がさっと咲いた青春時代がいつかというと、思春期の時です。その時期がすなわち十八歳から二十四歳までの七年間です。この七年間は人生に二度とない花のような、愛の花が咲く時期です。一度しかない花のような時代が、どんなに貴いでしょうか。

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 蓮の花を知っているでしょう。つぼみは何十もの花びらでしっかりと包まれていて、それを簡単につぶすことができないようになっています。このように、男性も女性も同じです。皆さんの赤い愛、黄色い花のようなその愛のつぼみを、いつぱっと咲かせるのでしょうか。天地の調和の中の美が最もよく現れる時が、青春の時期です。人間として見る時も最高に咲く時です。神様の傑作品となり、最も中心の絶頂として光る期間が青春の時期ですが、その時に神様の祝福の中でぱっと咲かなければならないでしょう。

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 青春時代に純潔を失ったアダムとエバの恨みを踏んで蕩減することのできる貴い時である思春期に、純潔を汚してはいけません。その純潔を清く大切に保存して、「千代、万代一人で行っても愛が蹂躙されることは絶対にあり得ない」という操と決意をもたなければなりません。

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 青少年として堕落して汚れず、染まらずに、聖なる純潔を大切に保管して、これをどこにもっていくのでしょうか。天が最も喜ぶことのできる祭壇に掲げて神様が喜ぶ、そのような純潔をもった男性と女性が出会って一つに結ばれる貴い基台が、新郎新婦の出会う場にならなければなりません。

 三 祝福結婚式は神様の愛の伝授式

 統一教会では、結婚することを「祝福」と表現します。

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 祝福は真の父母と真の子女が出会い、創造目的を成就することを意味します。

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 祝福とは何かというと、神様と共に一つになることです。神様と一つになると、全体をもつことができます。神様のすべてのもの、主体がもっている全体をもらうことになるのです。

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 皆さんは今まで、真の父母と完全な因縁を結ぶことができませんでした。ですからその因縁を結ぶために、してあげるのが祝福です。

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 祝福は天国の門を開くことであり、子女と共に入るのです。

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 この世には大勢の人がいますが、大きく二つに分けてみると、男性と女性に区分されます。この人たちが一つになることのできる秘法を模索するのが、私たちの根本目的であるのです。今までそのような一つの結実的な家庭の起源が出てこなかったので、私たちはそれを模索していくのです。そのような起源が現れて種を蒔くと、新しい木になるのです。これが祝福結婚式です。

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 祝福結婚式は、単純に男女が出会って一つの家庭を成す婚礼式ではありません。今までの結婚式は自分を中心としたものでしたが、私たちの結婚式は、神様に喜びを帰すほどの内容をもって歴史を蕩減する貴い条件として、聖なる雰囲気をもって盛大に挙行されなければなりません。私たちの結婚式とは、アダム・エバの堕落に始まった神様の恨みを解怨してさしあげ、イエス様が成すことのできなかった新郎新婦の基準に通ずることであることを、原理ははっきりと説明しています。

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 神様の摂理で信仰を立てたとしても、神様の子供として復帰させるためには接ぎ木しなければなりません。

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 もう一度生まれなければならないということは、堕落したアダム・エバの後孫である父母の血肉を通してもう一度生まれなければならないというのではなくて、堕落と関係のない父母の血肉を通してもう一度生まれなければならないということです。そうせずには神様の元に帰ることができません。罪の根本の根はアダム・エバから始まったのでこれを踏み越えて、すなわち原罪と因縁のない立場で生まれたという資格をもたずには、神様のそばに帰ることができないのです。

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 重生する(生まれ変わる)には、アダム・エバよりできが悪くてはできないし、また根本の復帰もできません。重生するにも個人が重生しなければならないし、家庭、民族、国家、世界が重生しなければなりません。この事実を、今日のクリスチャンたちは知らずにいます。

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 八十歳を越えたおばあさんたちも、祝福を受けずに死んだなら天国に行けないという事実を知っているので、死にゆく最後の瞬間にでも何千里離れた所に男性がいたり、何千里後ろに男性がいたとしても、二人を糸で結んで祝福を条件としてだけでも受けたいというのです。祝福はこのようになっています。先生は、このことをやり遂げなければならないので、運の悪い人です。

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 真の父母というのは、完全な男性と完全な女性ということです。縦的、横的九〇度になった男性と女性ということです。それで先生が、これを接ぎ木するために青年男女を集めて頭を切り捨ててしまって、母親の芽と父親の芽をもって植えるのが祝福です。

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 祝福式は正に愛の伝授式です。神様の愛をもって父母が生きるように、皆さんも父母の愛を神様の愛の代わりに受けて、「このように生きよう!」という人の伝授式が祝福式だというのです。神様の愛を父母から受けるのです。ある名の知れた人から受けるのではありません。それは天使長がしてくれる結婚式です。名の知れた人が一人で前に立ってしてくれる結婚式は、みな天使長から受ける結婚式です。

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 血統が違うということは、父親が違うということです。

ですから父親の違う血統をもって生まれた人間は、本来堕落しなかった本然の父母によってではない罪を、蕩減することができません。ですから今日まで、歴史は堕落しない始祖になり得る権利をもったその一人の方が来る時まで、宗教の理念を中心として連結させてきました。

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 祝福を受けたということは、メシヤが二千年間の苦労によって地上に基盤をつくり、選ばれた民族と教団と自分の氏族を中心として、新郎新婦の名前によって出発できる時が来たということです。皆さんは氏族的なメシヤになることができるでしょうか。先生と父子の因縁を結んだので、サタンもどうすることもできません。このように祝福は、本当にすごいことです。

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 天宙主義とは、どのような主義でしょうか。

真の父母主義です。結局この二つの主義は父母の主義です。これは私たちの家の主義であり、私たちの国の主義であり、皆さん個人の主義です。人間が堕落しなかったなら、世界は誰の主義になるでしょうか。アダムの主義になるはずです。そのアダム主義がすなわち、真の父母主義です。父親母親主義なのです。ほかにこれ以上の思想はあり得ません。ですから統一教会は心情的な問題を、本然の理想的な家庭の枠の中で、真の父母という理念を中心として天宙主義とつながるようにしなければなりません。このような理念で制度化された家庭の因縁が残っている限り、滅びることはありません。滅びてはいけないというのです。

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 天宙主義とは何でしょうか。

家庭において言えば、自分が暮らしている家庭が金銀財宝でぎっしりと詰まり、それでも余りがあるとしても、それによって生きるのではなくて、それを忘れて、いつでも神様の愛によって暮らすことができるそのような家庭です。息子のものは父母のものであり、父母のものは神様のものとして、そっくりそのまま連結できなければなりません。

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 真の家庭主義とはどのような主義でしょうか。

真の家庭主義は神様の愛主義です。愛がなければいくら世界一だといって胸を張って歩き回っても、その人は不幸な人です。真の家庭主義は、父母が行けば息子、娘は父母のあとに永遠についていく主義、また兄が行けば弟が永遠についていく主義、弟が行けば兄が永遠についていく主義です。ですから弟の国があれば、兄の国がついていき、兄の国があれば、弟の国もついていくと言わなければなりません。

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 第四章 愛と家庭

 一 愛の理想実現は家庭から

 家庭は、万古普遍の起源であり礎です。これは父も変えることができないし、兄弟も変えることができないし、どの国も、どのような制度でも変えることができません。また世界的にも変えることができないし、天地も、神様も変えることができません。ですから、家庭というものには永遠に革命という名詞が必要ないのです。家庭は愛の場なので、革命が必要ないというのです。

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 なぜ父母が良いものになるのでしょうか。そして夫と妻、子女がなぜ良いものになるのでしょうか。愛があるからです。父母の愛、これは子供に絶対に必要です。夫婦の愛、これは夫と妻に絶対に必要なものになります。そして兄弟間の友愛、子女が父母に対してもつ親孝行の心も、一つの家庭に絶対に必要なものです。

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 家庭がなぜ良いのでしょうか。家庭は互いが自由に授受できる基盤になっており、栄えることができるので、人は故郷を懐かしがり、父母と兄弟がいる家庭を懐かしがるのです。

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 真の家庭は、自分の母のように妻を愛し慈しみ、自分の父のように夫を慈しんで愛し、弟や兄のようにお互いを愛する所です。その次には、神様のように自分の夫を愛し尊敬する世界が、理想家庭が住む天国です。このような伝統が、この地球上に立たなければなりません。

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 神様を中心とした永遠の父母の愛、永遠の夫婦の愛、永遠の子女の愛、この三つの愛があるところが理想家庭です。

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 父母と子女、夫婦、そして兄弟姉妹たちがすべて、真の愛を中心として一つとなることを願うところが、私たちの理想家庭です。ここから永遠なる世界的平準化が始まり、地上天国が出発するのであり、さらにまた、天上天国も自動的に成し遂げられるのです。

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 幸福はどこから来るのでしょう。鼻歌を歌い合える、そんな環境はどこから来るのでしょうか。家庭から来るのです。家庭の幸福は、情緒的に問題があれば成せないのです。また、心情、愛がなくても成せないのです。

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 不幸は、どこから出発するのでしょうか。愛の安息地がなくなる時から始まるのです。幸福な家庭は、その家の垣根である父母に仕えて生活する家庭です。その家庭は上では天を代表した父母に仕え、横では夫婦が結ばれ、この夫婦が天倫の法度を貴び、その代を継ぎながら住む家庭です。

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 皆さんは、どのような愛を探し求めましたか。神様の愛を探し求めたならば皆さんの心と体が完全に一つになり、神様の愛が臨在することができるのです。それで夫婦の天国となり、家庭天国を成すようになるのです。お母さん、お父さんが完全に一つとなって愛し合うようになり、息子、娘もお母さん、お父さんのような相対をもらうことができれば、家庭天国が実現されるのです。父母がプラスになり、息子、娘がマイナスになれば、家庭天国が実現されるのです。

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 父母、夫婦、子女で形成された家庭は、世界の縮小体です。家庭の愛を拡大して、すべての人を愛することが、人類を生かす道だということを知らなければなりません。年を取った人はおばあさん、おじいさんのように、中年はお父さん、お母さんのように、自分より少し年上のように見える人はお兄さん、お姉さんのように、年下のように見える人は弟、妹のように考え、愛さなければなりません。

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 天国はどこででき上がるのでしょうか。私たちの家庭からでき上がるのです。それならば私たちは何主義なのでしょうか。家庭主義です。私たちが標榜する天宙主義は、空である「天」の文字に家である「宙」の文字、すなわち空の家主義というのです。このようになれば、天宙という意味が明確になるのです。

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 家庭は小さな社会に立脚した小さな国家です。小さな国家であり、小さな世界であり、小さな天宙なのです。それで、家庭を離れては何もできないのです。

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 一家庭は、社会の倫理的基盤であり、人間世界では手本になり、根本的で一次的な組織です。このような家庭で、愛が最善の価値基準になるのです。

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 人の一生涯で一番重要な時はいつかと言えば、生まれる時、結婚する時、死ぬ時です。それでは生まれる時は、どのように生まれなければならないのでしょうか。よく生まれなければなりません。次には結婚する時です。結婚とは生きるためにするのです。すなわち、四位基台を成すためにするのです。このように宇宙の公法を地球上に立てておけば神様のみ旨を成すことができ、人間のみ旨を成すことができるのです。このような宇宙の法度が指向する内容をもち、その形態をもつためのものが家庭です。

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 家庭は、天国完成の基本単位です。天国は、一度行けば戻りたくなく、十回、百回会ってもまた会いたい方がいるところです。万民が共通にそこに行きたがり、その方に会いたく、その方と共に住みたがれば世界は統一されるのです。そこに向かっていくのが目標です。しかし、そこは一度に成されるのではありません。まず個人の基台が立ち、次に家庭の基台が立ち、その次に民族、国家、世界に広がっていくのです。

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 天国はどこにあるのでしょうか。空中から降ってくるのではなく、お父さんとお母さん、そして子供の間に授受できる生活舞台を育て、またすべての被造物を私たちの生活に利用し、私たちの理想の条件を利用するおもしろさ、そのおもしろさを一○○パーセント享受できるところが天国です。

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 天国へは一人では行くことができません。祝福は天国の門をさらりと越えていくのです。天国は、家庭に帰っていくところです。三代の因縁をもって入っていくところです。

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 宗教は、最も偉大な教えです。神様の最も偉大な教えとは、人類を教え、人類を愛してみようということです。そのほかにはありません。それで真の父母は、子供に対して世界を好きになり、神様を好きになることを教えてくれるのです。

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 天国は誰かが教えてくれて行くようになっていません。良心的に生きる人は自動的に行くようになっているところが天国です。太陽が昇れば、すべての木の芽は太陽に向かいます。草までも自ら方向性をもって帰っていくのに、まして万物の霊長である人間が自分の行く道を知らないわけがないのです。このような現象が起こってくるのです。

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 天国は愛の世界です。中心者である神様のためにある世界、神様のために生きる世界です。

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 天国へは愛の軌道に乗って行くのです。このように話せば実感するでしょう。その愛のひもは、引っ張れば引っ張るほどゴムのように細くなるのではありません。ゴムは引っ張れば引っ張るほど細くなりますが、愛のひもは引っ張れば引っ張るほど反対に太くなるのです

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 人間には、親子の関係がなければならず、夫婦関係、兄弟関係がなければなりません。すなわち、この三つの関係が一点になければなりません。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が違ってはならないのです。この中心点が違えば上下、左右、前後関係の均衡がすべて崩れるのです。それで結局、上、下、左、右、前、後、そして一つの中心点まで、すべて七数を成すようになるのです。このように七数を成すのは神様を中心として完全な真の愛で一つになり、このすべてが完全に球形を成し、調和と統一を成す家庭になるのです。

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 世界にはおじいさん、おばあさんのような人たちが住んでいて、お母さん、お父さんのような人たちが住んでいて、夫婦のような人たちが住んでいて、息子、娘のような人たちが住んでいます。何種類かと言えば、このような四種類の人たちが全世界に住んでいます。それゆえ、世界の数多い人たちに、天国人になれる教育の教材、経典としてみなされるのが、私たちの家庭だという観念をもたなければなりません。

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 家庭というものは、天国と因縁を結ぶための教材です。教育の教科書なのです。それは、軸を中心として、国に適用すれば愛国者になります。世界に適用すれば聖人になります。天地を中心とするようになれば神様の息子、娘、聖者になるのです。

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 家庭は、死ぬ時に天の国、平和の王宮に入籍できる手続き券を得られる、愛の教科書です。愛の修練所です。これを拡大したのが世界です。おじいさんのような世界があり、おばあさんのような世界があり、お父さんのような世界があり、お母さんのような世界があり、夫のような世界があり、妻のような世界があり、息子、娘のような世界があるのです。このように拡大すれば、すなわち世界になるのです。

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 愛の王国を成したいのが神様のみ旨です。愛の理想世界を発展させ、世界化させようとするのが神様のみ旨だとする時、小学校から大学の卒業、博士号の取得までパスできる実験場がどこかと言えば家庭です。家庭を拡大すれば世界です。世界を細かく見れば、おじいさん、おばあさんが住む世界、その次におじさん、おばさんたちが住む世界、お兄さんお姉さんのような人たちが住む世界、その次に青少年たちが住む世界、子供たちが住む世界だと言えるでしょう。それで老年から壮年、中年、青年、青少年たちが住むここは模様が大きく、数が多いだけで、家庭を拡大したものです。

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 家庭の中心は父母ですが、なぜ父母になるのでしょうか。父母はすべて家庭全体のためにあるからです。

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 人には家庭が必要で、国が必要で、世界が必要で、本然の世界、宇宙が必要です。

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 愛を中心とした家庭で、父母は国の代表者です。神様の代表者だと見るのです。それを訓練するための第一段階の訓練舞台が家庭です。地上で天国を成せる第一教化場が家庭で、そして国家が第二教化場です。ここに愛国者が必要なのです。その次に第三教化場が世界です。ここに聖人が必要です。霊界は第四教化場です。その次には神様の息子、娘になるのです。聖人といっても、神様の息子、娘ではありません。それで、すべてが神様の息子、娘にならなければならないのです。聖者の位置に入り、神様の愛と一つになって、永遠に神様を所有できる位置に入るようになります。

 二 家庭は天国生活のための愛の訓練場

 天国は愛の世界です。神様のためにある世界、神様のために生きる世界です。

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 天国とは何でしょうか。自分の家庭のように世界の人たちを愛することができるところが天国です。そのような人が、天国の民です。おじいさん、おばあさん、お母さん、お父さん、自分の妻や夫、兄弟、子女の四代とは何でしょうか。天国の民として愛を、宇宙の真の愛を体験するための教材としてあるのが家庭です。教材として私に教えてくれる基盤が家庭だということを知らなければなりません。

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 神様の愛は被造万物に現れます。父母の愛はどこに現れるのでしょうか。子供に現れます。また夫がいるところに妻の愛が現れます。子供を見て父母の愛を知ることができ、夫の服の端を見て妻の愛を知ることができるように、この世界に現れた事実を見て神様の愛を知ることができます。神様の愛は順序によって人に現れます。まず父母の愛、次に夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛です。愛だけをもてば神様と友達のように付き合うこともでき、お父さんのように付き合うこともできます。

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 人生の航路は旅人の道ですが、私たちは縦横の愛を体恤していかなければなりません。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、真の息子、娘の愛を中心とした家庭を成したのち、これを横的に拡大し、東西南北に多くの家庭を置かなければなりません。それで彼らが縦横に連結させることができる真の家庭の形態を成して氏族圏、国家圏、世界圏、神様に連結される時、真の愛で連結されたその世界を天国だと言うのです。

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 救いの門を開くのは神様の愛です。私たちは神様の真の愛と、真の生命と、真の血統を受け継がなければなりません。そうしなければ、救うことができないという事実を知らなければなりません。

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 踏みにじったり壊してしまうのは罪の中の罪です。怨讐の中でも一番ひどく憎い怨讐は、愛を破綻させる怨讐です。一家庭を中心として子供が父母を愛することができなくしてしまい、夫婦同士愛せなくし、壊してしまう悪魔以上の悪魔はいません。人類の始祖が堕落することにより一番目は兄弟の愛を、二番目は夫婦の愛を、三番目は子女の愛を失ってしまいました。私たちはこれを再現させて愛さなければ、天国に入っていけません。

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 神様の真の愛と一つになって生活して入っていくところ、神様の真の愛の血族を準備して共に入っていくところが天国です。この真の愛を占領できなければ、永遠に天国に入ることができません。その日のために、数千万年を待って準備しなければならないことを知るべきです。

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 神様は真の愛の本体としておられ、真の愛と連結されれば、すべてが同じ体になります。父母は神様の代わりとしての生きた神様で、夫と妻は互いに片側の神様で、息子、娘はまた一つの小さな神様です。このように三代が真の愛を中心として成す家庭組織が、天国の基盤です。このような基盤をつくらなければ天国は成されません。家庭とは、宇宙の中心です。家庭完成は宇宙完成の基礎になるために、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事に通過です。このような場合、神様は全体宇宙の父母として、愛の複合的な中心位置にいらっしゃいます。

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 神様を中心とした創造本然の家庭的基台には、男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、神様の愛がすべて入っています。このような消化された位置から父母を愛し、夫を愛し、息子、娘を愛せば、誰でも天国生活をするのです。

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 天国生活はどこから始まるのでしょうか。家庭です。違うところから起こるのではありません。天国は家庭を立体的に拡大させただけで、家庭圏を離れたものではありません。そのために自分の妻や夫を懐に抱く時、これは世界の男性と女性が一つになるのだと考えなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立てることができる位置が、すなわち家庭です。

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 皆さんの血族を大切にしなければなりません。お父さん、お母さんを大切にしなければならなりません。おじいさん、おばあさんは天国の王権を代表した、うちの主人です。しかし今は、年を取ったと疎まれる者になったでしょう。そのようにしておいて、何が世代の差ですか。これは誰がつくりましたか。サタンがつくっておいたのです。世代差がどこにありますか。愛に世代差がありますか。千年前の愛する方法と、千年後の愛する方法と違いますか。方法も同じで、そのようにするのも同じです。内容が違ったのです。堕落しなければ、愛の内容は公式になるので、億万年が過ぎても変わらないのです。

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 千万回の天地開闢があったとしても、おじいさん、おばあさん、お母さん、お父さん、息子、娘の三代が一つになり、鉄城(注:堅固に取り囲んだもののたとえ)のようにくるくる巻き固め、そこに神様を核として迎えれば、どこでも天国を実現できる一つの種になるのです。これは神様の愛の種です。生命の種として血統の根本だと言えるのです。これを探し出さなければなりません。そうしなければ地上天国、平和の天国、幸福と自由の世界という、すべての願いは成り立ちません。

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 天国とは何でしょうか。極楽あるいは天国に行くと言っても、自分一人で行くところではありません。自分の父母と兄弟すべてが、共に行かなければならないところが天国です。

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 第五章 愛と霊界

 一 霊界の空気は愛、愛が生命要素である

 私たちは神様の愛によって生まれ、愛によって生きて、息子、娘を生んで、愛の目的地に到達し、永遠に神様と共に生きるために神様の元に帰っていくのです。すなわち私たちの一生は愛によって始まり、愛によって成熟し、愛の実として収穫されるのです。人が死ぬということは、愛の実を刈り入れることです。

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 死とは、人間が肉身生活を終えたのちに第二の出生をすることです。第二の出生をするところ、死んでから行く世界がすなわち霊界です。その霊界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表する真の愛を供給してもらうのです。霊界は愛を呼吸して愛を中心として生きる世界です。それで完全な真の愛の人格を成すことができなければ、行ったり来たりする道が制限され、四方に通じることができません。ドアを通っても、一つのドアしか通れないのと同じです。春夏秋冬いつでもどこでも、合わせて生きることのできる資格をもつためには、地上生活において完全な愛の人格を具備しなければなりません。

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 神様の愛の中に生まれることは死ぬことですが、人間世界では「ああ、死んでしまう」と大騒ぎになります。そうすると神様はそれを見て大笑いされるでしょうか。人間の世界で泣きわめく姿を見て神様は悲しまれるでしょうか、喜ばれるでしょうか。制限された愛の圏から無制限の愛の圏内に突入できる喜びを迎えることのできる瞬間が、第二の出生である死の道を通る、その瞬間ではないでしょうか。それでその道は、昇華の道です。

            *

 死を屈服しなければなりません。第二の生を促進させる変化の過程が死です。それゆえに、死は悲しいものではありません。新しい世界に飛躍するものであり、昇華なのです。

            *

 この世では死が生命の終わりを意味しますが、死は他の世界に新しく生まれることを意味します。それで死のゆえに憂欝になったり、悲しんだり挫折してはいけません。代わりに与えられた使命のために一生を生きて、霊的な勝利の中でもう一度生まれることを喜ばなければなりません。私たちが地上であまりにも悲しみに沈んだり悲痛に思うと、天上に上った人を地の下に引っ張るようになるのです。赤ん坊が第一の母の胎内から生まれ出たように、第二の宇宙的な母の胎内からまた別の世界に誕生する昇華式は、実際に男女が出会って結婚する、その式に比べることができます。悲しみの瞬間では絶対にありません。それは昆虫が堅い皮を破り繭から出て、新しい形態に、新しい存在として、新しい本質になるのと同じです。

            *

 人間が死ななければならない理由は、肉身によって制限された愛しかすることができないからです。無限な神様の真の愛の対象的実権をもって現そうとする時には、制限された肉身のみをもってしては駄目なのです。ですから無形の霊に和するほかありません。さらに真の愛の理想を全天地と共に同一化するためです。ですから死は、苦痛の道ではなくて、宇宙的真の愛を所有することのできる幸福の門を開門する時間だというのです。

            *

 私たちが父母の愛を受けて、夫婦の愛を分かち合って子女を愛したので、私の一生にわたって蒔かれた神様のすべての愛を刈り入れて、自分の国に行くのです。そして私たちが完全に愛によって一つになれば、神様と似るようになります。夫婦が合わさって三段階の愛を完全に成して霊界に行くと、永遠の主体であられる神様の前に、永遠に相対的な神様になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになるのです。神様で始まり、神様で終わりを結ぶのです。

            *

 人間は母親のおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生きて、死を迎えるようになっています。そうして大部分の人間は、年を取れば取るほど死に対する恐れを感じるようになります。人間が年を取るほど死に対する恐怖や不安を感じるのは、死後の世界を信じないからです。

            *

 霊界は愛の成分によって覆われているところです。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で囲まれているところです。人間は地上で空気を吸いガスを吐き出しますが、霊界は愛を吸って生きているところです。霊界で授受する愛は、真の愛だというのです。

            *

 私たち人間の一生は腹中時代十カ月、肉身時代百年、そして霊魂時代千年、万年を永遠に生きるのです。赤ん坊は生まれてすぐに泣くと同時に、鼻の穴で息をする第二の世界、すなわち空気の世界につながるのです。腹中から空気の世界につながる時には、腹中の世界で生きていたへその緒と水袋をみんな破壊して出てこなければなりません。それら死(破壊)と同時に、地球星という母親から生まれたのです。生まれると口で食べ、鼻で息をします。ところで地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な栄養分であり、本質的生命要素ではありません。本質的生命要素はすなわち愛です。それで、この世で愛という空気を吸わなければなりません。母親、父親から愛の空気を吸わなければならないのです。

            *

 霊界における愛の宮殿は真の父母から始まります。霊界に宮殿があるとしても、真の父母が行って、「ここを宮殿にする」と宣布して初めて、そこを中心として全霊界が位置を決めるのです。そのような責任が残っているので、霊界でも真の父母を絶対に必要としているのです。

            *

 霊界の裏通りまでも通いながら調べてみると、天地の道理は簡単なものでした。二人が絶対的な力で合わさって真空状態になったところに神様が入ってきて、骨髄のような芯になるのです。

ここに男性の愛と女性の愛の二つのかけらがぴったりとくっつくのです。これが宇宙の核です。愛の理想的実体が合わさって愛の軸になるのです。

            *

 地上の生活と霊界の生活は別々ではありません。地上の生活も重要で霊界の生活も重要です。霊界の生活は地上生活から連結されているのです。両方とも重要ですが、今日この地で生きている人は地上生活が重要であると思っています。問題はこれです。現在の生活が永世を保障する基盤であることを知らない人が多いのですが、それは本当に不幸な人たちです。

            *

 もしアダムとエバが完成して霊界に行くとアダムとエバは神様の体になり、神様はアダムとエバの心になります。ですから霊界に行っても神様は見えません。完成した人を実体世界の体と心のような一つの結果として成して置こうというのが、神様がアダムとエバを創造した目的です。

            *

 地上世界と霊界は、互いに向かい合って動きます。地上世界が上がると霊界も上がり、地上世界が下がると霊界も下がります。一方が回ればもう一方も共に回ります。それで現世でそれを実感して、永世にプラスさせる生活をしなければなりません。永世と現世は分けられていないのです。

            *

 私たちは結局どこに行かなければならないのでしょうか。霊界とは何なのでしょうか。死後の世界だと大抵は言いますが、死後の世界ではありません。なぜ死後の世界ではないのでしょうか。

愛と関係のある世界だからです。愛と関係のある世界なので、死後の世界ではありません。真の愛を中心として出発したものなので、私が真の愛の真理に立つようになる時は今ここが霊界なのです。ですから愛が偉大だというのです。

            *

 神様は愛に酔って億千万世を生きるように人間を造りました。ですから人が年を取るのは怨讐ではありません。人は愛から始まって、愛をもって生活して、愛の実を刈り取ります。死ぬことは愛の実を刈り取ることです。私たちは父母の愛を受け、子女の愛を受け、夫婦の愛をもって父母として子女を愛して生き、神様の愛、すなわち内的な愛の世界に蒔いたすべてのものを一生を通して実を結ばせ、これを刈り取ってあの世に行くのです。

            *

 この地上で肉身の皮はだんだんと年を取りますが、夫婦生活をして愛すれば愛するほど霊人体はもっと若くなります。それはどういうことでしょうか。人間が長生きすればするほど、内的な人間である霊人体は最高の厳粛な美男、美女になるというのです。

            *

 私の生涯に何をするのでしょうか。愛の墓を残していこうというのです。愛の墓の中で生きられれば恨みはないというのです。人生というものは永遠において成功するものです。そのように皆さんが生きて死ぬ時には神様が祝福してくださるでしょうし、霊界では神様が息子、娘を連れて歓迎するために出てこられるはずです。

            *

 霊界では、神様の愛がなければ食べられません。食べる権利がないというのです。地獄は、見ながらも食べられず、知っていながらも行うことのできないところです。ですから神様の愛を中心として地上で霊肉が一つになって天国生活をした人以外には、永遠の理想的世界をもつことはできないのであり、天国を所有できないということを知らなければなりません。

            *

 あの世で必要なことは、世界よりも、自分よりも、自分の妻や夫よりも、自分の息子や娘よりも、神様をもっと愛したということです。愛の圏内の最大の人格を構成した人は、その世界では神様のような能力行使が可能です。

            *

 あの世は愛の空気でできています。愛によってすべてのものが生まれ、愛によって生き、愛によって「ため」に生きることのできる愛の道理によって満たされてこそ、今まで歴史時代に願われた神様の希望の実体を完成したという立場に立つことができ、天国のどこに行っても歓迎されるのです。皆さんの家庭が、天国に向かう修練所です。家庭で修練を受けたものを四方に拡大させて、「ため」に生きることのできる愛の圏をもって生きる人は天国に直行するのです。

            *

 霊界という世界は無限に膨大な世界ですが、何百万里の距離も瞬時に愛を中心として行ったり来たりできる世界です。愛は最大の速さをもっています。

            *

 霊界で神様が見る時、皆さんの心の中で愛の鐘の音が鳴るようになると明かりがだんだんと大きくなります。この光は神様の目にはダイヤモンドの光よりももっと美しく見えます。またその光は味のある、見れば見るほどいいものです。ですから神様は愛だというのです。

            *

 霊界の空気は愛です。愛が生命要素になっています。その世界は鼻で息をするだけでなく頭のてっぺんでも息をし、細胞全体が息をします。ですから完全な霊界生活をしようとするならば、地上生活で完全な愛の人格を具備しなければならないのです。

            *

 霊界に行ってみると父母、夫婦、兄弟姉妹、子女という、家庭生活で深い愛の経験をした人は多くの自由を得ることができ、その人はどこへでも、何の制限もなくどの方向にも行くことができます。その反対に愛の経験のない人は心が狭く、霊界でも自分一人で孤立していて自由がありません。

            *

 霊界では神様の愛がすなわち法です。

            *

 霊界とは、永遠の要素を望む永遠のところです。ですから愛を体験した霊人体は間違いなく、自動的に磁石に引っ張られてその世界に行くようになります。霊界はどのようなところでしょうか。すべてが愛で充満した、愛で詰まった調和の世界です。今日の人間は誰でも愛の関係を結ぼうとします。これは霊界の拍子に合わせるためです。愛の力で動かない存在はないし、愛の力の対象にならない存在もないので、愛の言葉で聞いてこたえないものもありません。愛はすべてのことを可能にすることができ、起こすこともできます。再現させることのできる能力があります。したがって霊界は、直感的な愛の心をもってすべてのことを可能にすることのできる自由自在の世界だというのです。

            *

 霊界を結束しなければならないのですが、霊界を収拾することのできない人は天下を統一できません。天運の根が天なのですが、天を収拾できない人がどのように世界を統一するのでしょうか。ですから地上を統一する前に、霊界を統一しなければなりません。

            *

 皆さんは全部先祖の顔に代わって生まれた歴史的な復活体です。その歴史がどのくらいになるでしょうか。何十万年にもなるというのです。そのように長い歴史過程は、結局は私自分一人をつくるために苦労したというのです。金氏ならば金氏という自分一人を誕生させるために、数多くの先祖たちが来ては去っていきました。ですから私たちは歴史的な結実体です。

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 おじいさん、おばあさんが亡くなったなら、お墓参りをしなければなりません。神様がお墓に埋められたと言って、お墓参りをしなければなりません。

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 今まで霊界に行った霊人たちは全部別れています。霊界では横的には通じません。縦的にはこの程度に通じます。

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 あの世に行けば殺人を犯した人、殺された人、様々な人が一箇所に集まっているので、そこでは包丁ざたが起こり、復讐しようとする出来事も起こります。ですから数多くの塀に囲まれているところです。ですから悪なる霊が怨讐の子供を捜し回って事故を起こさせて連れていくような、そういうことが起こるのです。これを全部解かなければなりません。解くためにはまず地上世界で解かなければなりません。解くためにはもっといいものをあげなければなりません。死ぬよりももっといいもの、怨讐関係になったものよりももっといいものをあげなければ解けないのです。

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 人はどこに行くのでしょうか。霊界に向かって行くのです。霊界は海と同じです。どうせ行かなければなりません。海にも流れがあるように、そこにはこの上ない調和の取れた変化があるのです。海では主流の流れを中心として、淡水にはない調和の存在があります。海には数多くの魚族があるように、そこには数多くの新しい天地家庭があります。あの世に行っても同じなのです。

 二 愛の人格体は地上生活で具備しなければならない

 地上にいる時の生活がどんなに重要でしょうか。地上生活は一度しかありません。瞬間ですが一度しかありません。地上生活を永生に比喩すると、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。この期間に肉身生活を越えて霊界のために準備しなければならないのです。常にそのような思想をもって、中心に立って一体をコントロールして征服できなければなりません。そうでなければ完成を成すことができません。それを知らなければなりません。

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 もし生涯の中で三分の二以上が罪の生活をしたならば、その三分の二の生活をすべて切り捨てることができるでしょうか。できません。切り捨てることができないのです。これは必ずついて回るのです。

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 皆さんの心をフィルムに撮って、その写真を自分が見ると思ってください。

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 完成は地上でするのであって、霊界でするのではありません。地上でこそ真の愛を中心として可能なのです。霊界ではありません。

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 今日、信仰生活をしている人は蕩減法を知りません。無責任な立場で天国に行くと思っている人は多いけれど、責任をもって蕩減し歴史的な罪を清算してから天国に行こうとする人はいないというのです。ですから私たちは肉身をもっている地上生活で責任を果たし、歴史的なすべてのことを清算した条件を立ててから行かなければなりません。霊界に行った人は蕩減できないので、もう一度来て蕩減しなければなりません。今まで来て去っていった歴史時代のすべての霊人たちは蕩減復帰をすることができなかったので、全部この法に引っ掛かって、霊界に行ってからもう一度来て蕩減条件を立てなければならない運命にあります。地上に住んでいる人が霊界の人より一つ有利なこととは何でしょうか。直接蕩減条件を立てることができる肉身をもっているということです。

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 皆さんが天国に行く人か、地獄に行く人か、確実に知らなければなりません。レバレンド・ムーンは霊界をよく知っている人です。いろいろな人が生きては去っていきます。死を避けることのできる人は一人もいません。死は避けることができないというのです。ここで生きて去っていくのですが、自分のために生きた人は、この世界に行ってぐるっと回って地獄に行くのであり、他のために生きた人はぐるっと回って天国に行くのです。

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 なぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するために結婚するのです。それでは、それがなぜ必要でしょうか。愛の空気が充満するところが霊界です。霊界の拍子に合わせる訓練をするためには、家庭をもたなければならないことを知らなければなりません。これを感じられずに行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような人は愛の空気をかぐことのできる鼻のない人と同じなのです。

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 父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係です。この三つの関係はすべて違います。それで地上でこの三つの違った方法によって深い愛の経験をもってこそ、霊界に行って制限なく縦的、横的、円として旋回できるのです。例を挙げると、父母が早く亡くなったことによって父母の愛を味わうことのできなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったので多少悲劇的な人であり、夫婦関係を経験できなかった人は、人生の重要な部分が不足しているので霊界ではとてもみすぼらしい人です。また兄弟姉妹がいない人はすべての分野が欠けているので、完全な人生を生きることができずに霊界で寂しい立場に立つのです。

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 地上で子女を立派に育てて残していかなければなりません。将来その子女すべてが霊界に行きます。霊界に行って天国の国民になるのです。自分が天国の国民として何人捧げたかという時、地上ではつらいことだったけれども、永遠の世界ではそれが高貴な光栄の道になるのです。

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 あの世に行くと、霊界に行ったすべての次元の高い人たちのことが、地上のことと同じなのです。地上とはどのようなところでしょうか。天国の国民を生産する生産工場です。分かりますか。広大無変の天国です。無限大です。あまりにも広いのです。人は数億年の間来ては去っていきましたが、どこにいるのか分かりません。そのように広いのです。一人が百人ずつ子供を生んでも天国は広いので、過人生産ということがありません。あの世は、いくらでも収容できる世界です。産児制限しなければならないでしょうか、してはいけないでしょうか。あの世に行く時、天国の民をどのくらい引き連れていくかということが問題になります。真の天国の息子、娘をたくさん引き連れてくる時、それが自分の権域になり、天上世界で表彰を受けることのできる等級の等差を設定できる資料になるということを知らなければなりません。

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 これから霊界に行って自分の所有権が何かというと、天国の民をどれくらい連れて入っていくかということです。それは自分の財産です。永遠の財産なのです。

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 道端の乞食や体の不自由な人を悪く言ってはいけません。皆さんの霊人体がその姿ではないかと思いなさい。

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 霊界には繁殖がありません。神様は縦的な父母の立場におられ、軸は一つなので一点しかないのです。

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 皆さんは霊界に行って保護官生活をしなければなりません。何千年も待たなければなりません。祝福を受けた人たちもこれから息子、娘がみな「お母さん、私をどうしてこんなふうに産んだの。どうしてここに引っ張ってきたの」と言わないと思いますか。皆さんの息子、娘がじっとしていると思いますか。皆さんの家庭によってレベルがみな違います。それで行くのも、自分の級に合うところに行って長い間とどまるのです。そうすると皆さんの先祖たちが、息子、娘が「なぜこうですか。なぜできなかったのですか、いったい何ですか」と言いながら讒訴します。皆さんはそれに該当するほどの長い時間そこにとどまらなければなりません。そのように簡単なことではありません。それで地上でしっかりしなければならないのです。

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 皆さんは父母として生まれました。その次にもっと根本的なことは、母親のおなかを借りて神様によって生まれたという事実です。皆さんは宇宙の父母を通して、肉身の父母を通して、真の父母を探していくようになるのです。肉身の父母は通過の父母です。それで死の瞬間は真の父母に会いに行く歓喜の時間です。そこを天上天国と言います。そこの構成要素は愛であり、父母の愛によって充満しています。その愛は私のためのものではなく、奉仕と犠牲の原則の元の法度を通すことのできる愛です。そこに合格するためには宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活はそのような愛のための訓練所です。皆さんはこのような内容が宇宙の根本だということを知って、生きている時にこのような観をもって愛を実践し、合格したのちにそこに行けば間違いなく神様に会えるという結論になるのです。

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 霊界に行くと、必ず行ったとおりに返さなければなりません。祝福を受けた家庭は先生が祝福を授けたので天国に行く門は開きますが、前進するにおいては心情の軌道に乗ってあちらから引っ張ってくれなければなりません。それで、これからそのような世界があらわになる時になると、皆さんはたくさんの審判を経て、初めて運命ではないかと思うようになるのです。

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 人が生まれたのは愛の実を地上に結ぶためです。地上で神様が望んだ愛の実を結実するのが地上に来た目的です。ですから短いのです。一つの季節にしかなりません。短いというのです。分かりましたか。

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 魚は水の世界を離れては生きていけません。水が絶対的な生命です。川の水に棲む魚が川の水だけにいてはいけません。海の水にも行ったり来たりして生きなければなりません。なぜそうしなければならないのでしょうか。淡水の魚は海水と接するその水を味わわなければ子供をはらめないのです。それを知らなければなりません。それを知っていますか。また、海に住んでいる魚は淡水に来て味わって子供を産むようになっています。二つの世界に通じなければなりません。地上と霊界も二つの世界ではありません。ですから二つの世界で生活できる、ある内容をもたなければならないということを知らなければなりません。

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