地上生活と霊界


第一章 有形、無形世界での人間の存在
第一節 人生路程

一 人生路程に対する祈祷文

 愛するお父様! 天が屈辱を受けるその恥ずかしさを恐れながら、幼い時から今迄戦ってきた小さな者を守って下さったお父様の恩賜に感謝申し上げます。

 この地に何が良いといっても、お父様が運行される本然の心情につながったもの以上に貴い基準がない事を思う時、その立場を無限に恋しがらなければなりません。お父様のその愛に接する人は、世の中の万事を皆放棄しても未練の残らない立場にあるという事を、私達は知るべきです。

 今私達は、お父様の愛で暮らす理想世界、本然を訪ねていかなければなりません。第三の生の自由権限をもち得る解放児として出生するその日を、今日この地上世界で準備しなければなりません。

 赤ん坊が胎中にいる時健全であってこそ、地上に生まれてからのその一生が健全であり得るのと同様に、地上生活が健全であってこそ、天国の生活が健全であり得る、という事を知らなければなりません。天と地が協助し、万宇宙の動的な運勢に拍子を合わせる事が出来る立場に立つ為には、今日の世の中とは相いれず、悪が主管する世の中である為に、死を覚悟しなければいけないという事実を、私達は知るべきです。私達の後孫達は私達と同じ立場に立てられては絶対いけない、という事を悟らなければなりません。(四九―三〇八)

 愛するお父様、今迄春の環境を開拓する為に、絶えず苦労されたお父様がいらっしゃるという事実を思う時、私達はお父様に無限に感謝し、無限に歓迎しながら、自分の生命と愛全体を、そっくり移してさしあげられる自らになれなかった事を嘆息し得る息子、娘に成るべきです。私達が新しい春を迎える為には、私の生命が同化する事が出来る因縁を持って、そこに完全に吸収されなければならないという事を知るべきでございます。

 そうしてこそ、初めて春を迎えて花を咲かせる事が出来るという事実を知るべきでございます。「一生で、どのひと時に春を迎えた事があるのか」と聞かれる時、何時だと答えられない、春を迎えられずに逝った可哀想な霊になってはいけません。一つの花が咲いて実を結ぶ為には、夏と秋を経なければならない様に、私達も一つの実を結ぶ為には、その様な過程を経なければならないのでございます。

 一つの生命が投入され、実が結ばれる迄には、夏の季節を過ごし、その根と幹と枝の全体から生命の要素を吸収してこそ、完全な生命力を持って第二の生を出発出来るという事実を思うものでございます。同様に、この体は死んだとしても、その心の中に、新しい世界に再び生まれ得る生命の気運が膨れ上がり得るかという問題を、自ら推し量る事の出来る息子、娘に成るべきです。

 いくら歳月が過ぎていき、暴風雨が激しく吹き荒れても、内的な生命力は、その環境の侵犯を受けずに絶えず発展の路程を行ってこそ、春を迎えて再び蒔かれ得る、第二の生命の母体である種になれる事を知るのでございます。

 同様に、私達の外的な姿はみすぼらしいものですが、無限の生命力を集約出来る母体、あるいは結実体として再び無限の世界に植えられ得る価値ある人がいるならば、いくら外的に悲惨であっても、悲惨な人ではないという事を思うのでございます。その外的な姿が悲惨になれば悲惨に成るほど、内的な価値はより充実するという事が保障されるという事実を、私達が知る様にお許し下さる事を切にお願い申し上げます。(三二―三七)

 お父様! お父様に侍り、謙遜に敬礼を捧げたい心のない人は、永遠のあの世でお父様と因縁を結ぶ事は出来ない、という事を知るべきなのでございます。

 今、私達が、心の門を開いてお父様の心情を感じさせてくださいまして、今日我々の心から聞こえてくる貴方の音声を聞き、失った自分の体を探す事ができ、お父様が私一人を探す為に、私の背後において艱難と苦労の歴史過程を経てきた事を感じて、自ら頭を下げる事の出来る私達に成る様にお許しください。(四―二八〇)

二 人が願う目的

 神様には体がありません。それで、全ての万物を神様の体として、アダムを神様の顔で表したのです。それが創造理想です。

 神様は、本来の霊的な焦点であり、アダムは本来の肉的な焦点です。その二つの焦点が九〇度をつくるのです。それが神様の創造目的であり、人が願う目的です。

 アダム・エバが堕落しなかったなら、あの世に行ってお父さん、お母さんとして永遠に現れる事が出来るのに、堕落した為にそう出来ないのです。堕落しなかったなら、自分の父母に神様の様に侍れば、誰でも皆天国に行く様に成るのです。(一一九―一〇九)

三 生まれた理由

 今日、この世界は丸くなっています。太陽も丸く、地球も丸く、星も丸く、口も丸くなっています。どんなものでも、皆その様になっています。それ故、宇宙は丸く丸く回りながら関係を結ぶのです。そして、丸くなっていても個別的に存在するのではなく、全体に連関性を結んでいます。

 では、何故自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせる為に生まれました。大宇宙と拍子を合わせる為に生まれたという事です。

 それで海の波がざぶんざぶんと音を立てれば、自分の心もざぶんざぶんと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放てると言うのです。(一〇四―一二二)

 愛から生まれ、愛から育って、愛から生きて、愛から死ぬ様に成る時は、生むのも有り難い事であり、生きるのも有り難い事であり、死ぬのも有り難い事です。

 皆さんは、母、父がこの上なく愛する場に同参して生まれたと言うのです。同参者であるという事です。

 皆さんは、父母の愛から生まれた為に、父母様の愛が差してある旗だと思いなさい。それ故、旗が動くのは愛を表示する為なのです。一生の間、愛の為に生きるのです。それで、母の為にも愛の旗を振ってあげ、父を見ても愛の旗を振ってあげ、兄弟たちの為にも愛の旗を振ってあげるのです。(一〇三―二五八)

四 瞬間(一日)と一生の関係

 皆さんの生活全体が栄養素を吸収し得る基盤にならなくては、生命体を完成する事が出来ません。これが、自然の現象世界で繰り広げられるのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬間にあるのです。

 瞬間を無視する人は、貴いものを持つ事が出来ません。偉大な人にもなれず、神様の王座と王冠を受け継ぐ事も出来ません。それ故、瞬間を輝かせる為に、皆さんは言葉一言、行動一つにも注意すべきであり、考える事も注意すべきです。自分の生活で繰り広げられる全ての内容が、世界と関係する現象として残るという信念で解決出来る所でのみ、勝利圏が決定されるのです。

 この様に、勝利圏が決定されるのは瞬間です。従って、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせる事の出来る無限の価値を感じて生活する人は、偉大な人に成る事が出来るのです。聖人にも成る事ができ、神様の息子、娘にも成る事が出来るのです。この様に、生死の分岐点は瞬間にかかっています。(三一―二一八)

 今日、我々の姿勢が問題です。まず、み旨にかなった国が来る事を願い、そのみ旨が成される事を願うのも必要でしょうが、それより、自体がどの様にすればみ旨と一致していくかという事が重要です。

 一時間なら一時間を、どの様にすればみ旨と一つに成るかという事が、み旨の国が成されるのを願う事より重要だという事です。それ故、まずみ旨を継承し得る個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を成してこそ、み旨の国と関係を結ぶ事が出来る為に、神様を中心として、一日の生活圏内で、一時間なら一時間をどの様にみ旨と関係を結ぶかという事が、重要な問題であらざるを得ません。

 復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ家庭とイエス家庭迄、四千年の歴史が下ってきていますが、彼らが失敗する様になった動機は、ある一年を中心としたものではありません。

 アダム家庭において、アダム・エバが堕落したのも、一年や十年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が、億千万年続いてきたという事を考える時に、その瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものであるかを知る事が出来ます。

 その一瞬の失敗で歴史時代に修行の道を行った数多くの人達が、受難の応報を受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、とてつもない蕩減の祭物の起源になったと言うのです。この様な事実を考える時、一時間、カチカチという瞬間が恐ろしいのです。それ故、永遠の天国も一瞬を離れてはあり得ないのです。

 永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに一日のうちの瞬間でも、時間の関係において飛躍があったり、どん底が生じれば、永遠は中断されるのです。

 それ故、我々が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年に行き、来年に行けなければ再来年に行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行きと、この様にしてはいけません。一生をこの様に生きていくなら、彼は、一生をみ旨と一つになった一日の生活を持ってみる事ができずに死ぬでしょう。もしその様に生きたなら、その人は天国に行けません。

 いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、一日の勝利基準をもてなければ天国に行く事ができず、一年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入る事が出来ないのです。それ故、信仰者は永遠を夢見ていく事も重要でしょうが、それより重要な事は、現実においてどの様に悪を清算して善の旗手に成るかという事です。この様な問題が何よりも重要です。

 この様な点から見る時、アダムの瞬間的な失敗が億千万年の恨を残してきたのです。アダム家庭で、カイン・アベルが父母の恨を解いて、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源を作らなければなりませんでした。この様に、復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。

 百二十年かかって箱舟を造ったノアの苦労の路程でも、神様が「願いを成就する日が来たので、船に乗れ」と言われた命令も、一瞬に下されました。この命令に同調した人は、永遠の神様の祝福を受ける事ができましたが、そう出来なかった人は、永遠の審判圏内に埋葬されたと言うのです。

 アブラハムも同様です。神様が「貴方の子孫をふやして、天の星の様に、浜べの砂のする。……もろももの国民は貴方の子孫によって祝福を得るであろう」(創世記二二・一七、一八)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチカチという一瞬に下されたと言うのです。アブラハムが供え物をした時間も、何十年間供え物をしたのではなく、たった一日でした。祭物を裂いて供え物をする時間は、一時間未満でしたが、ここで歴史的な全ての生死禍福の起源が組まれてくるのです。

 今日、信仰者たちが恐れるべき事は、終わりの日に訪ねてくる審判ではなく、一日一日の生活圏内で訪ねてくる時間です。それを、どの様にみ旨と一致させるか、どの様にみ旨と交差路を形成していくかという問題です。(三七―二一九)

五 幼児期と三段階秩序

 アダム・エバを神様が造ったのなら、それをどの様に造ったのでしょうか。土でこねて造ったなら、どの様な土で造ったのでしょうか。どこで出発したのでしょうか。どこから始まったのでしょうか。アダム・エバを、成人になった人として造ったとは考えられません。

 赤ん坊から造りました。神様が、赤ん坊をはらんだ母が、抱いて育てるのと同様な、その様な過程を経て造ったという論理を立てなくては、この全ての三段階の秩序を通じた存在の形成というものは、説明する道理がありません。それで、アダム・エバに幼児期があったと言うのです。その次に、成人期がありました。これは天理です。その次に完成期がありました。

 幼児期とは、どのよう期間だったのでしょうか。無形の神様が、無形の世界から有形の過程を経てくる事が出来る、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。(二二五―一九八)

六 我々の人生の道

 我々が暮らしている社会、国家、世界は、自分の意志に符合する環境になっていないので、全ての苦衷が生じており、善悪の分岐点が重なり合っています。百人なら百人、各々自分なりの一日の生活を営む為に環境と闘争しており、その環境を押して進んでいます。それ故、朝に計画した一日の仕事に対して誰も自信を持つ事が出来ないという事を、我々は一日の生活の中でよく体験します。その上に、その環境の範囲が大きければ大きいほど、自身の一日の生活を勝利として結果づける為には、それに比例した決意と推進力をもたなければなりません。そうでなくては、その日が勝利の日になり得ないのです。その様な一日一日が加わってひと月になり、ひと月ひと月が加わって一年になります。

 そのひと月も、我々が計画した通りに暮らせる環境になっていません。我々がひと月の勝利をもたらす為には、そのひと月の環境に備わった複雑な全ての事情、全ての与件を打破する事が出来る推進力と決意がなければなりません。それがなくては、ひと月の計画を勝利したものとして終える事が出来ないのです。

 一年を押し進める為には、三百六十日を克服する事が出来る闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そうでなくては、一年を勝利で飾る事は出来ません。この様な一年に十年が加わって、二十年、あるいは三十年が加わった日々を過ごしているのが、我々の人生の道です。(三一―三〇)

 今日、この地に暮らしている人間達は、時間性を外れる事が出来ません。人類歴史について見ても同様です。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界もその様な時間圏内で動いていっています。

 人が生きていく所には、必ず達成すべき目的があります。その目的を中心として、十年、二十年、三十年、七十年、一生の間行くべきなのです。目的が大きければ大きいほど、内的にもっと強く誓わなければなりません。そうでなくては、その目的に到達する事は出来ません。時間という過程を通じて、その目的を凌駕し得る内的な決意を続けない限り、その目的を達成する事は出来ないのです。(三一―一四九)

七 我々が訪ねるべき本郷

 皆さんは、霊界の事実を知らないかもしれませんが、先生は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。

 その世界の根本を掘り返してみると、原則は簡単でした。その世界は、神様の天地原則の世界である為に、生きた人だけが行く所です。その様な内容で形成された世界が、理想天国です。

 そこが、我々人間が訪ねるべき本郷です。今日、我々は堕落した人生として、本郷から追放された人間になった為に、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかしそこへは、その人間自体としては入る事が出来ない為に、神様は、人間が入る事が出来る道を歴史過程に設定せざるを得ません。

 それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統が異成る事によって、数多くの宗教を立てて収拾していきました。その様に収拾する為の訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入る事が出来る資格者を錬磨させる訓練場です。東西四方の文化背景によって、高い所に前進する事が出来る一つの統一された宗教世界を率いてきています。

 その様な本郷の所へ導くべき宗教である為に、宗教は何を教えているのでしょうか。「為」に生きなさいという事を教えていると言わざるを得ません。そして、高次的な宗教であるほど、「為」に生きるべきだという原則を強調しなければならず、「温柔謙遜」であれと言うのです。数多くの人を高め、彼らの為にする立場に立てと言うのです。「犠牲奉仕せよ」と教えるのです。何故でしょうか。その国の法度に合う訓練をしなければならないからです。(七八―一一七)

八 人生最高の行くべき道

 人生の行くべき道とはどの様なものでしょうか。神様の愛を占領する事が、人生の行くべき道です。神様の愛を占領する事が、人生の行くべき最高の終着点です。この道は、男も女も皆行かなければなりません。全ての人が行くべきなのです。

 人生の行くべき道は、無限であられる愛の神様を探す事です。十回でも百回でも、死の峠を経てでも、死んでも絶えず探していくべき、神様の愛を探すのが人生の最高の行くべき道です。

 欲望の終わりとはどこでしょうか。神様の愛を占領する所です。神様を占領したといっても、その中にもっと貴い愛を占領出来なければ、神様は自分の神様ではありません。それ故、神様の愛を占領しなければなりません。愛だけ占領すれば、神様はいらっしゃらなくても大丈夫なのです。彼のものが私のものであり、私のものが彼のものに成る時、初めて内外が一つに成るのです。その様な国が、上下の等級のない理想の本国に成るのです。

 その様な場に横たわる様になれば、天下にある存在の中で、良く見えないものがなく、天下にいる存在の中で、自身の為に存在しないものはないと感じるのです。その様なものが神様の愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で充満した所なのです。(三九―二一〇)

九 出生の基準と生涯の基準

1 過った出生の基準

 今日、世の中の人は、自分自身は高貴な人だと言っている人でも、いくら博士だと言っている人でも、自分の出生が間違ったという事を知りません。神様の怨讐であるサタンの愛と、生命と、血筋を持って生まれたという事を知らないと言うのです。重要な問題です。

 堕落によって人間は、サタンの愛により生まれたのです。サタンの愛がその父母に迄つながってきました。母の生命、父の生命にその血が流れていて、その血が今日、自分につながってきたと言うのです。その様な三種類の結実が、正に自分です。

 ですから皆さんは、サタンに属したのです。いわば皆さんの血管に乗ってサタンの血が流れているのす。従って、自動的にサタンは自分の理想的な結実を結んだのであり、神様は、その様な男女を本然の純粋な完成人間として救おうとされるのです。

 皆さんは、サタンの愛から出発したのです。皆さんは、サタンの血統を持って生まれたのです。それ故、出発が過ってしまいました。

 出発が過ったので、再び帰らなければなりません。帰るには帰るのですが、どこに帰るのでしょうか。原点に帰らなければなりません。偽りの父母として始まったので、帰って「真の父母」として再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻ですか。自分が、神様の愛と、神様の生命と、神様の血筋を再び引き継がなければなりません。

 それで、出発する時、血統転換式をします。それを、自分の生命よりもっと信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式として考えてはいけないのです。これは、死んだ立場から回生させる注射の薬と同じです。解毒注射です。

 我々の先祖が過ったのです。これの為に、歴史を経ながら多くの人々が犠牲になりました。これを知る私達は、再びその道を行く事は出来ません。絶対行けないのです。堕落天地に不倫の愛を残す事によって、歴史を通して受けたその代価が、とてつもなく大きかったのです。個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼした影響が、とてつもなく大きかったと言うのです。(二一六―一〇九)

2 生涯の基準

 ここで、生涯とは、永遠の生涯を言います。地上界だけを言うのではありません。それは生きている永遠の暮らしです。

 「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的であり、主体的な神様の対象が、正に自分です。神様の愛の相対が私というものです。神様が自分より、もっと貴く考えるものが、真の愛の概念です。神様は、絶対的であり、永遠であられる生命の中心です。そして神様の理想は、もっと永遠なものですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が自分です。

 愛の属性は、主体と対象が一つにする事です。それは、国家を一つにします。それ故、どんな場でも同参する事ができ、どこにで持ついていく事が出来ます。全財産を、皆相続する事が出来ます。神様の心情迄も、皆相続するのです。先生が悲惨な過程を経てこれを発見する事によって、その基盤の上に立つ様になりました。これは何とも換えられないし、崇高で高貴なものなのです。驚くべき恩賜です。

 それ故、神様と同じ立場に立つのです。永遠の真の愛の場に同参するのです。あの世界は、制限された地球星とは次元が違います。制限された所では自由に動く事が出来ませんが、あの世界は次元が高い世界である為に、何でも出来る所です。時間を飛び越えられるのです。愛を中心として何でも願いさえすば、何時でもどこでも、皆得る事が出来るのです。

 我々は元来、永生体として造られました。真の愛を中心とした対象体である自分は、永遠の生命体なのです。だから、霊界に行けば自由なのです。

 それで、生涯の基準として、第一が善悪の基準です。皆さんは、それを知るべきです。善悪の基準が第一であり、第二が本然の出発点であり、三番目は永生です。(二一六―一一五)
第二節 人間の位格

一 神様が人間を創造した目的

 神様は、人間を何故造ったのでしょうか。第一は、神様自身が父母の立場に立つ為です。その父母は、霊界でも無形です。形がありません。それで、形をもった人間の父母に成る為には、形をもたなければなりません。そうでなければ、中心になり得ないのです。

 二番目は何かと言うと、垂直線は一点にとどまります。面積がありません。すなわち、霊界では繁殖をする事が出来ないのです。垂直の次元で、それを横的に展開して三六〇度の球体になってこそ、多くの空間が生じる様になります。

 三番目は、愛の相対圏の永遠性を維持する為です。神様の相対に成るのは、アダムとエバだけではないという事です。アダム・エバが相対の位置に立つのと同時に、その子女たちも相対の位置に立つ様に成るのです。ですから、神様の相対の位置を永続的に保存する為、人間を創造したのです。

 アダムもエバも神様をお父さんと呼びます。では、その子女達は神様を、おじさんと呼びますか、お爺さんと呼びますか。お父さんと呼びます。

 相対というのは、平等なものです。神様の愛を横的に繁殖し、その愛の価値を完成しなければなりません。完成した愛の価値は、一つです。平等なのです。

 そこには、三つの理由があります。一番目は、形が必要なのです。形態が必要です。父母としての形が必要です。アダムの父の様な顔で、霊的にその形態を得るという事です。

 二番目は、天国の国民の生産地が必要です。ですから、夫婦は生産工場です。生産工場なら、大量生産するのがいいでしょうか、少量生産するのがいいでしょうか。大量生産するのがいいのです。

 生産工場が自動化され明確に大量生産する様になれば、天国は一杯に成るのです。ですから、女性は多くの赤ん坊を産む様になっています。(二二二―三三八)

二 人間は、霊界と肉界の媒介体

 本来、神様の創造過程を考えてみれば、神様は万物を造って、人間を造ったのです。神様を中心として全てが始まりました。人を造った事によって、神様と人間と万物が平行的な立場で統一を見るのを願われました。これが神様の創造のみ旨です。神様がいて、この被造世界があり、その中に人がいます。この様な中間的立場に立ったのが人間である為に、人間は霊界と肉界を接触させる事が出来る媒介体であるです。(六七―一四三)

三 体と心、そして霊人体

 今日、我々が暮らしているこの被造世界には軸があります。その軸にも、二つのものがあります。見える軸と見えない軸、二重構造になっています。

 一つの主体を中心として回るのに、その主体自身も回ります。体と心が授け受ければ、回る様に成るのと同じ事です。

 全ての存在物は、この様な原則によって存在します。同様に、今日堕落した人間世界からの復帰の道も、軸を直さなければいけません。

 人間において、体の中心とは何でしょうか? 心です。心を中心として、体がつながっている為に、体は霊を中心として回るのです。心の命令に体が動きます。心が「東に行け」と言えば、東に行かなければならず、「西に行け」と言えば、西に行かなければなりません。体は勝手に出来ません。(一三六―一四)

 人間には、体と心があり、心の上に霊があり、霊の上に神様がいらっしゃいます。それ故人間は、神様と完全に一つになってこそ、完全な人に成るのです。人は、たとえ小さな一つの個体であっても、全体の歴史に代わった存在であり、未来の全ての因縁に代わる存在である為に、天宙的な価値を持っています。

 人は、自分の生涯の因縁を訪ねていくのにおいて、自分の心を前に侍っていかなければなりません。これが天倫です。心の命令に服従しない者は、天がたたきます。今迄、天は、歴史路程で人間に良心の通りに生き、物質的な悪の条件に引っ掛かるなと言いました。

 では、人間の良心は、天倫に一〇〇パーセント似たのでしょうか。その様になっておらず、数多くの障壁で遮られているのです。天国の関門の前に、曲折の門が横たわる様に成ると言うのです。これがキリスト教で言われる審判の関門です。今日の思潮は、恐怖と不安と混乱の時期を迎えています。中心をつかもうとして持つかむ事の出来ない時代という事です。

 今日、我々は、物質を多く持っていてもいけません。何故なら、神様が人を造る時、体と霊人体を造りましたが、霊が中心であるからです。(四―二六八)

四 完全作動と共鳴

 共鳴とは、振動する時の周波数が同じ事をいいます。

 人間は、永遠に生きる事が出来る我々の内的人と、地上天国に暮らす事が出来る外的人が、愛を中心として共鳴する事が出来なければなりません。共鳴する時は、音波が同じであってこそつづられるのです。そうしながら回ります。回るには、そのまま回るのではなく、核を中心として回るのです。

 同様です。霊人体と肉身が神様の愛を中心として調和する様に成る時は、霊的細胞、肉的細胞が完全に作動するのです。

 それ故、目が完全作動する時は、目を開く様になれば、天上天下、地上天下が皆見えるのです。完全作動をする為です。マイクもそうではないですか。性能が良ければ、一〇〇パーセント響きわたります。

 同様に、愛の力で肉身と霊人体が一致して、爆発し得る境地になれば、天上世界、地上世界が、神様がする事なく、皆共鳴する様に成るのです。(一七一―一〇三)

 人間を見ると、心と体が二重構造になっています。男もそうであり、女もそうです。男も女も心の人と体の人から成っています。それで、男女を合わせれば四人だと言う事が出来ます。分けておけば四人ですが、これがどの様に一つに成るでしょうか。

 神様は、何故この様に四人に造られたでしょうか。神様の真の愛を中心としては、完全に一つに成るのです。真の愛で完全に一つに成るのです。

 皆さんには、霊的人、統一教会で言う霊人体があり、肉身があります。霊人体は我々の目に見えませんが、存在するのです。

 では、霊人体と肉身は何時一つに成るのでしょうか。これが問題です。これは、音叉と同じです。音叉の一つを鳴らせば、他の側も振動数が同じ様に共鳴するのと同じ道理で、神様の愛の作用が我々の心に来れば、自動的に体に反応するという事です。

 それ故、体と心を一〇〇パーセント共鳴させ得る圏内に追い込む事が出来るのは、神様の知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、ただ愛です。(一三八―二五四)
第三節 人間の生命の本質

一 霊的なものが人間の本質

 ある一つの核心があれば、それを中心としても相対的な存在が必ずあります。陽子を中心として電子が回っているのと同じ様に、神様と人間との関係もこれと同じです。電子の様な我々人間の心が、陽子の様な神様の心の核心と関係を結んで作用している為、神様が人間に対して復帰摂理をなさる事が出来るのです。

 我々が真理のみ言を探せば、神様の生命が躍動する事、神様の愛が和動するのを感じる事ができす。この様に、真理の道を経て、神様の生命と愛を探していくのが、価値ある事です。

 パウロが言ったのと同様に、世の中の光に成る事が出来る自分になったのも、中にある神様の愛の為です。

 真理は、永遠不変です。では、我々はこの悪成る世の中で、どの様に善悪を分別しながら真理を探していくべきなのでしょうか。自分を中心とした心を捨てて、何時も低い位置に下りなければなりません。聖書でも、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)と言いました。

 人間の本質は、霊的なものです。それ故、あの世に行けば、その様な人間の本質が人の為に成る様になっている事を、もっと実感する様に成るでしょう。所で人間は、どうして自分だけの為にという心で万事に臨んでいるのでしょうか。

 これは、全ての人間が、天倫に背いた天使、言い換えれば、サタンと血統的な因縁を持っている為です。(二―一三七)

 今我々は、霊的な御飯を食べなければなりません。皆さんは、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらが美味しくなければならないでしょうか。自分が生き残って神様の側に立つ為には、霊的な御飯の味が、肉的な御飯の味よりももっと良くなければなりません。霊的な力を中心として暮らす生活の味が、肉的な力を持って暮らす生活の味よりも、もっと美味しくなければならないのです。(一三一―二一一)

二 万物の霊長であるという意味

 万物の霊長という言葉は、何を意味しているのでしょうか。万物の霊長とは誰でしょうか。「人だ」と言っていますが、万物の根本となった霊長は神様です。皆さんは、霊があるという事が分かるでしょう。人間には、霊があります。人間は、その霊の中の長である為に、結局神様と直結させて霊長だと言うのです。

 万物の霊長だというのは、人間自体だけではなり得ません。人間も被造物であるのに、どの様に万物の霊長に成るかという事です。被造物とは、相対的な結果体です。被造物だけでは、原因に通じる事ができず、原因を占領する事が出来ないのです。被造物は、原因に占領される様になっています。

 皆さんは、結果的存在である事は間違いありません。霊長と言えば、長は霊の中で中心であるという言葉です。この言葉は、本来、神様と人間が一つになった関係について言う言葉です。

 それ故、霊長は、神様と通じるのです。しかし、人間が万物の霊長だといって、全てが霊長ではありません。霊長になり得る人は、別にいます。その霊長になり得るクラブに加入出来る資格者は、少なくとも個人の為に生きる人ではありません。全体の為に生きる人です。神様は、その様な人を中心として願いを成そうとされるのです。そうなれば、誰の天国に成るのでしょうか。神様の天国ではなく、その人の天国に成るのです。(三二―一三六)

 人は、どの様にすべきでしょうか。永生しなければなりません。悪成る世の中で、八十年ほど暮らしますが、犬が死ぬ事や、人が死ぬ事には、違いはないと考えるかもしれませんが、それは違います。人は霊長である為に違います。

 万物の霊長になり得るのは、何の為でしょうか。年を取らない心の為にそうだと言うのです。万物は、皆変わり得ます。純金も変わります。風化作用により、減少します。ですが、心だけはそうではありません。変わらない所において、最高の権威を持っています。(一五九―二七八)

 万物の霊長だという事は、何を中心として言うのでしょうか。お金を中心として、知識を中心として、権力を中心として言う言葉ではありません。それは、神様の最高の愛を中心として言う事です。(二一〇―三〇九)

三 内の人と外の人

 人間の本然の因縁とは何でしょうか。神様の絶対的な愛の圏内で、互いに完成した愛を楽しむ事ができ、褒め称える事と尊敬の価値を現す事が、本然の因縁です。そうする中で、天の因縁と地の因縁が、すっかり和合して、一つに調和して現れたのが人間です。それ故、見えない心があり、見える体があるのです。

 本来の因縁を持って生まれたなら、体と心が分かれて一つに成るのです。

 皆さんも、内の人と外の人が互いに闘っています。この闘いは、何時終わるでしょうか。約十年ほど過ぎれば終わるでしょうか、死んでも終わらないのでしょうか。神様が人間をその様に造ったなら、その神様は一つの目的をもった神様ではなく、二つの目的をもった神様です。その様な神様は、混沌とした神様だと言うのです。

 宇宙の全ての法則は、前後左右が行き違いなく秩序整然と一つのはっきりとした目的があります。これを見る時、人は本来この様に創造されたのではないのです。それで、体をほうり投げて、本然の心を探さなければなりません。(四四―一九四)

 我々人間の肉身と霊人体の中で、より重要なものとは何でしょうか。肉でなく霊なのです。肉は七十、八十年の時間圏、限界圏内で生きては去ってしまいますが、霊は時間圏を超越し、空間迄超越する権限を持っています。従って、歴史的な責任を悟って、責任を果たす事が人間の本務です。

 皆さんがいくら肉身を中心として豊かに暮らしても、結局は死ぬ様に成るのです。どうせ肉身は死ぬ様になっているのです。その様になっているのです。では、霊的な基準と肉的な基準のうちで、どちらがより重要なものでしょうか。我々は、肉的な基準を中心として生きてのではありません。肉は霊の為に、霊は肉の為に存在するのです。皆さんは、世の中の人達が生きていくのと同じ立場にすがってはいけません。

 皆さんは、肉を救ったという立場で、霊肉が合わさった実体を備えて、より甲斐のある立場から出発しなければなりません。(二〇―三二六)

四 地上生活の目的は霊肉完成

 み旨とは何でしょうか。結局、人間の霊肉を完成させる事です。自分自身を中心として、過去は霊的であり、今日は肉的です。過去は霊的であり、現在は肉的であるという事です。二つの世界の侵犯を受けました。現在の立場がサタン世界だから、サタン世界に勝った肉に成るべきであり、過去のサタン世界に勝った、霊的基盤を築かなければならないのです。過去と現在に勝利すれば、霊肉を持つ事が出来る基準が、未来に対する祝福に広がるのです。(七三―九六)

 我々が知るべき事は、霊界が主体ではなく、肉界が主体だという事です。完成させるのには、霊界が主体でなく、肉界が主体です。肉界の完成は、霊界と肉界の完成なのです。ですから、肉身生活が貴いと言うのです。(九一―一七八)
第四節 肉身生活の高貴性

一 肉身生活は霊界生活の為の準備

 神様が、万物と人間を造られ、良しとされたのは、互いに闘うなという事です。体を打って心の前に屈服させる事が、宗教の教えです。悪から善に越えられなければいけません。

 自分の体が完全に勝利したという事は、サタン迄も完全にその根を抜いて征服したという事です。天国へは、サタンを征服してこそ行く事が出来ます。サタンに勝つ事は、肉身を脱いでは出来ません。何故なら、肉身が地で事故になったので、直すのも肉身を使って、地で直さなければならないのです。地上ですべき事を皆出来なければ、永遠に地獄に行きます。

 それ故、地で勝利して天の側の善成る立場に立つ様になれば、永遠に天国に行くのです。(六五―二九四)

 この肉身世界は、短い期間です。長くありません。それを知る様になれば、寝る時間が惜しいのです。御飯を食べる時間が惜しいと言うのです。そう成ると御飯を歩きながら食べ、寝るのも、歩きながら寝て、遊ぶのも、歩きながら遊ぶのです。そうであるほど、世界の誰も受けられない福を受けるのです。(八〇―二二六)

 私がたとえ制限されたこの地で八十年くらいはいるといっても、我々の舞台は世界の祭壇です。それ故、ここにある万物は、世界の万物であり、自分の体は、世界人類の体であり、自分の心は、世界人類の心です。その様な心情は、神様と一つになっています。これが全部一つの祭壇です。(七五―一六六)

 偶然に物事が起きるのではありません。準備というものは、たやすいものではありません。それ故、一生について見る時に、少年時代は青年時代の為の準備です。壮年時代は、老年時代の為に準備しているのであり、老年時代は、霊界に行く準備をするのです。一生は、大宇宙の人格を備える為に、一つの訓練過程を経ている修練期間です。準備期間であると言うのです。(一四七―一八八)

 我々は、この世に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界があります。世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界につながるべきです。

 では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべき所とはどこでしょうか。もちろん、我々は肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人達は、世の中に生まれ、青春時代を過ぎて、壮年時代を過ぎて、老年時代を経て、沈む日の様に人生を終えます。しかし、霊界があるという事実を知る人達は、一生というものがしばらくの間であり、死んだ次に迎えるべき世界が永遠だという事を知り、準備するのです。ゆえに、一生の期間は、永遠の世界に入る為の準備する期間です。

 学生を例に挙げて言えば、一学年に単位を取るべき、学校で制定する単位の基準があるのです。その基準にどれくらい到達したかという対照によって、学校で認められる学生に成るのです。

 しかし、単位に達しなければ、学校が立てた価値基準から遠ざかるのです。それ故、ある標準を中心として、全てを測定する様になります。

 我々が肉身世界で暮らすのは、まるで学校で定めた単位基準に合わせようとして準備する期間と同じです。我々は、一生の間に積むべき実績を追求していると言うのです。言い換えれば、責任を追及するある基準の前に、どれほど一致するかという、その基準値を中心として生涯路程を行っているのです。(一四〇―一二一)

 皆さんは、全てを自分の為に消化してはいけません。神様の為に、天地の為に消化し、自分の国と自分の氏族と、自分の家庭と、自分の相対の為に消化するという事を考えるべきであって、自分の為にしてはいけないのです。

 一生の間、自分を中心として暮らせば、全部が心配です。しかしながら、「為」に暮らす様になれば、全てが自分の友達に成るのです。絶えず「為」にしてみれば、自分は真空状態に成る為に、真が訪ねて入ってきます。

 我々統一教会の誇りとは何でしょうか。第一が真の愛であり、第二が 「真の父母」です。これは、統一教会にだけある言葉です。辞書にもありません。第三が真の子女であり、第四が真の氏族です。これが我々の四大目標です。(二〇三―一〇一)

二 肉身生活の貴重性

 自分が解放されれば、神様が解放されます。家庭が解放されれば、天国の家庭がそうなり、この地上がそうなら、天国がそう成るのです。それ故、聖書に「貴方が地上でつなぐ事は、天で持つながれ、貴方が地上で解く事は天でも解かれるであろう」(マタイ一六・一九)とあるのです。この様な二重構造の一体性で解明されます。

 皆さんは、肉身を使ったこの期間が、どれほど貴いかを知るべきです。神様も復活させる事ができ、宇宙も復活させる事ができ、全ての天下を統一させる事が出来るのは、肉身を使っているこの期間しかありません。

 神様と万物を合わせても、この肉身世界と換える事が出来ません。何故でしょうか。神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ、完成されないからです。人間の体がどれほど貴いかを知るべきです。我々の肉身は、宇宙とも換える事が出来ません。聖書の「全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ一六・二六)という言葉も、それで成立するのです。(九一―一九一)

 肉身生活は八十年ほどにしかならない短い生涯路程で、歴史的に絡んだ全ての善の圏を収拾しなければならないのです。

 この短い肉身生活に因縁を結ぶべき善の圏が膨大だという事を知るこの心、良心は、どれほどせきたてるでしょうか。死ねば出来ないのです。生きている間に本郷の地を訪ねて、祖国の主権回復をすべきです。その様にして天の主権者に侍り、その国で生きていってこそ、天上天国に行くのです。(一五五―二七)

 霊界、無限の世界は永遠です。その様な世界に行く為には自分自体をどの様に収拾すべきでしょうか。そんな事を考えてみましたか。肉身生活をする間に収拾しなければなりません。これを正す事が出来るのは、この時しかないのです。それを正すのは、絶対自分の為にしては正す方法はありません。自分の為にして正す方法があるなら、統一教会の文先生が、今迄絶対苦労しなかったのです。(五九―五〇)

 統一教会が提示する原理の道は、千年、万年過ぎても行くべきです。生きている間に行けなければ、億千万年の永遠の霊界に行ってからでも行かなければなりません。(一三五―二九七)

三 習慣性が重要である

 今日、我々はサタン世界の習慣を捨てて、神様の新しい秩序を確立しようと言うのです。(二一三―一九)

 皆さんは、キムチとコチュヂャン(注:とうがらしみそ)が好きでしょう? (はい)。西洋人達は、キムチとコチュヂャンが好きですか? 見ただけでも逃げるのです。(笑い)このごろも、優れているという輩のアメリカ研修を続けていますが、今回も二百三十名ほどが行きました。行って、ホテルでキムチを出しておいて食べるから、西洋人達が、「ああ! これは何のにおいだ。何かのにおいより、もっとひどい」と、こう言っては逃げていくのです。しかし、韓国の輩はどうですか? 「ああ! 蜜の味よりいい」と言って、舌なめずりをするのです。

 習慣性を打破するという事は、とても大変です。その言葉は、今迄皆さんがサタン世界で自分を中心とした習慣性を持って生きてきましたが、その習慣性が固着したものです。その様に固着してしまったその習慣性は、韓国人達がキムチ、味噌、コチュヂャンを食べる習慣性よりももっとひどいのです。

 これは歴史性を持っているのです。悪魔が出発したその日から、根が刺さった習慣性を持っているますが、これをどの様に抜いてしまいますか。

 穴を掘って根迄埋めようとしても、埋められないのです。深刻な問題です。天国に行くには、神様を中心とした習慣性もたなければなりません。(二一三―二〇)

四 肉身生活の標準

 先生の生活は、神様の為に生きる生活です。この世界の為に生きる生活です。自分の為に生きるという考えをしてはいけません。それで皆さんは、神様と「真の父母」と人類の為にしなければなりまん。

 神様と「真の父母」と人類を結ぶ為には、自分を中心として四位基台をつくる為には、真の愛がなければなりません。神様も真の愛を願い、「真の父母」も真の愛を願い、人類も真の愛を願います。真の愛を中心として、真成るこの宇宙を相続する事が出来る人になければなりません。これを何時でも考えなければななりません。

 それ故、今迄皆さんがどれほど天が願う生活と一致したかという事を、比較しなければなりません。そして、人類を代表した自分に成るべきです。父母を代表した自分になり、神様を代表した自分に成るべきです。その様に生きた人は、霊界に行っても、地上のどこへ行っても、境界線がないのです。

 自分が千名の友達と共に食物を食べたい場合、その様な環境も、愛を通じた世界でだけ可能なのです。神様が創造主の能力を行使する時、その愛を中心として造ったのです。

 霊界の世界では、真の愛がつながれば、全てを調節する事ができ、全てを創造する事が出来ます。それが我々の理想郷です。真の愛と関係を結ばなければ、皆不可能な事なのです。(一四七―一一五)

五 肉身を使って記録される

 皆さんの生涯の中で、もし三分の二以上が口で言えない悲惨な生活をしたとするなら、その三分の二の生活を全て取り除いてしまう事が出来ますか? 取り除く事が出来ません。必ずついて回るのす。(三四―一三九)

 蕩減、何故必要ですか。復帰する為です。復帰とは、再創造でもあります。それ故、皆さんは価値のある生涯を残さなければなりません。ある人は、「ああ、年を取ったらイエス様を信じて、死んだら天国に行こう」と、この様に言っています。しかし、年を取れば、何かを正す事は難しいのです。

 それ故、若い人でなければならないのです。それで、二十歳に入ってくるより、十五歳に入ってくるのが良く、十五歳の時よりも、赤ん坊の時から知って大きくなったというのが、もっと価値があるのです。

 皆さんの中に、水が一杯になっていれば、それは清い水ですか、泥水ですか。そこに砂粒が混じっているし、小石が混じっています。大雨が過ぎた後に、川辺にありとあらゆる汚いものが引っ掛かっているのと同じで、皆さんの中にもありとあらゆる汚いものが混じっているのです。

 ですから、振り回して、皆排泄しなければなりません。濾過装置を経なければならないのです。従って自分があってはいけないのです。自分があれば、引っ掛かります。水自体に砂粒の様に汚い 塊 が混じっていれば、流れる事もできず、引っ掛かる様になっています。

 霊界に行く様になれば、その様な装置、レントゲン写真の様なものに照らされるだろうと考えてみませんでしたか。神様も、その様な濾過装置を経た人達を必要とします。(九七―六〇)

六 地での暮らしが余りにも重要である

 皆さんは、霊界に行って、保護官生活をしなければなりません。何千年も待たなければならないのです。

 皆さんの家庭の基準が皆違います。それで、行くのにも、皆自分の級に合う所に行って、長い間とどまるのです。では、皆さんの先祖たちが、息子、娘たちが、「何故そうしたの? 何故、その様にうまく出来なかったの? それは何?」と言いながら讒訴します。皆さんは、そこに該当するほどの長い時間、そこにとどまらなければなりません。その様に易しい事ではありません。それで、地ですべきなのす。先生が「しなさい」と言う事を皆しなければなりません。

 ボルトがあれば、これに合うナットを作って満たさなければなりません。ナットが合ってこそ、満たされるのです。分かりますか。それが合わなければいけません。

 この地上にいる生活がどれほど重要でしょうか。一度しかありません。瞬間ですが、一度しかありません。地上生活を永生に例えれば、これは一点にすぎません。余りにも短い瞬間です。これは重要ではありません。肉身生活を越えて、霊界の為に準備をしなければならないのです。

 何時もその様な主流思想を持って、センターに立って一切を調節し、一切を征服する事が出来なければなりません。そうでなければ、個性完成をなす事が出来ません。(二〇七―九九)

七 肉身を使って責任分担遂行

 皆さんは暮らしながら、神様を思い、「真の父母」を思わなければいけません。そうする事で、愛によって心身が円満で、安全な、満足な圏内に暮らす様に成るのです。

 その様な生活をした人は、霊界に行けば、そのままに成るのです。地上には内面的に拡大した生活がありますが、内面的に拡大したその基準は、霊界に行けば表面化されるのです。愛が内面化されている為に、神様と人類が一つの体の細胞と同じです。自分自身が、その細胞のうちの一つに成る世界が霊界です。その様な境地に入れば、神様が間違いなく自分の心の中に入ってくるのです。「神様!」と呼べば、自分の心の中で「誰が私を呼ぶのか。何だ?」と言うのです。すなわち、神様と共に暮らしていく世界です。

 責任分担は、それほど重要なのです。それで先生が責任分担という原則を立てたのです。皆さんが毎朝鏡を見る時、男として女として生まれて、責任分担をどの様に果たすかを考えなければなりません。それは深刻な問題です。五官が、責任分担を完成した愛に酔っていると思うのです。感覚の全ては、愛の実体圏に立つ為のものです。(二一八―一二八)

 責任分担を遂行するには、皆さんはどの様にしなければならないでしょうか。責任分担を果たす事が出来る人に成る為には、どの様にすべきでしょうか。サタンの情、サタンの血筋を受けて、生まれた全てを否定する立場に立つべきです。(一三九―二五六)

 人間が霊界に行けば、どの様に成るでしょうか。神様の体になります。アダムは、神様の体に成るのです。コリント人への第一の手紙に、「貴方がたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っている事を知らないのか」(三・一六)と記録されているのと同様に、神様が臨在し得る聖殿、家です。

 では、神様とどの様に似るのでしょうか。責任分担完成段階に至って、神様が臨んで一体化がなされるのです。(一三〇―二二)
第五節 祝福と永生

一 永生問題を知るべき理由

 何故今、世の中の家庭が壊れていっているでしょうか。また、お母さん、お父さん、子女が、怨讐に成るでしょうか。真の愛がない為です。

 一番重要なものは永生です。しかし、霊界があるか、ないかという事を知らずにいます。

 間違いなく永生するという事を知る様になれば、他の人が「罪を犯せ」と言っても犯さないのです。「自分の為に生きろ」と言っても生きません。これを知らなければ、既成教会を信じても、何かの宗教を信じても、絶対に天国に行けません。神様の理想世界に行けないのです。真の愛、生命を投入せずには、駄目なのです。(二〇五―二六一)

 我々の教会が原理で武装しておけば、永生問題が確実になります。この永生問題とつながらなければ、社会革命も不可能です。現在の立場で暮らしている事よりも、もっと疲弊して没落した環境に陥るなら、誰もがその場に行かないのです。

 しかし、永生問題、永遠の生命の問題と成ると、環境的与件を全て克服する事が出来るのです。宗教は、それで偉大なのです。永生問題が懸かっているのです。永生の概念だけしっかりと立てておけば出来ます。

 今迄宗教は、習慣性で結ばれた文化背景を消化出来ませんでした。越えられませんでした。何故そうでしたか。永生という概念をつくっておけなかったからです。

 キリスト教は、環境が変われば変わるほど、何故揺らぐのでしょうか。永生という概念がないからです。永生問題に自信がないのです。生命を差し出して、環境を越えていく事が出来るかという問題について見る時、皆そこに所属して、四方を見回しながら現在の生活に落ちていっているのです。

 その人達に永生の概念を入れなければ、中間に落ちるのです。では、永生の概念を入れるのは何でしょうか。人です。これは、統一教会だけが完全に入れる事が出来るのです。

 信仰の道は肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活の為の準備です。この様な信念さえ持つ様になれば、それはほっておいてもいいのです。人は、四十を越え、五十を越え、死ぬ日が近づくと、永生に対し、深刻に成るのです。年を取るほどに、だんだん深刻に成るのです。

 愛というものは、年を取るほど希薄になりますが、永生の概念を入れれば、年を取るほど、だんだん深刻に成るのです。それ故、宗教理念だけが、これから世界を料理する事が出来るのです。環境が頻繁に変わっても、悲喜劇がぶつかってこようとも、永生の概念さえ徹底すれば問題にならないのです。

 それ故、問題は、永生という概念をどの様に入れるかという事です。

 神様はアダム・エバを、愛の対象として造りました。それは間違いありません。その為に、愛の対象となって生きるべきなのです。それを言葉だけでなく、実感しなければなりません。また、体恤しなければなりません。

 真の愛の力が偉大だという事を知れば、「行くな」と言っても、行く様になっています。

 それ故、永生の概念だけ入れれば、皆終わるのです。これを入れるにも、理論的に一致し得る時、心にどかんと響き、体迄一番近い級で一つになり得る時が、青少年期だと言うのです。

 そして、十五歳以前は、堕落前の本性基準を一〇〇パーセント活用し得る時です。十五歳以前は、アダム・エバが堕落する以前だから、本性基準が生きているのです。それ故、青少年の時に、神様を知らなければなりません。神様を知る事によって、自分と神様との不可避の関係を知るのです。その関係が不可避だという事を分からせる為には、永生概念を入れなければならないのです。

 これさえ入れれば、我々統一教会の二世たちに、「他の道を行け」と言っても行きません。それ故、世の中を早く救い、全て天国に連れていかなければなりません。それが自分の所有に成るのす。その持っていった全てで、あの世での等級が決定されるのです。ですから天国は、今完全に空いています。(一九九二・四・一五)

二 永生の道

1 一生と永生問題

 皆さんは、どれくらい生きそうですか。全部「七十年、八十は生きるだろう」と、この様に考えているでしょう。その前には死ぬと思いません。皆さんは、欲張りです。一生を生きるのに、八十歳に死ぬとか、百歳に死ぬだろうと信じるとしても、あす死ぬか、きょう死ぬか分からないのです。皆さんの考えには、「ああ、私は若いので、今後少なくとも四十年、五十年は生きる」と、そんな欲を皆持っているでしょう。それが神様に保障されましたか。皆さんは、出来るだけ一年以内に死ぬものと思いなさいと言うのです。この短い時間に皆準備すべきです。この様な観念を持って生きなければなりません。出来るだけ短くつかむほど、幸福です。短くつかむほど、損害を見ないのです。その期間に真に成る様に、準備するその内容が、自分の永遠の生命の家を建てるのです。

 では、その短い期間に、神様を愛してみましたか。神様と一つになって愛したいのに、愛する事が出来ないのです。神様は、「愛せよ」と言われるのです。その様に生きて死ねば、それが永遠の生命の主体に成るのです。

 皆さんが、二年後に死ぬと思うならば、どれほど深刻ですか。共同墓地にも、葬式をする所にも行ってみるのです。これは、信仰生活に絶対必要です。それ故、「生きよう」と言う人達は死ぬのであり、「死のう」と言う人は生きるのです。その短い期間にみ旨の為死のうと、天の為死のうと思えば、永遠に生きるのです。同様な道理です。独身の時に死ぬと思って、愛する妻を迎える様になれば、どれほど有り難く思うでしょうか。結婚できずに死んだ男が、復活して結婚する事が出来る日を持つ様になれば、どれほど喜ぶでしょうか。

 さあ、皆さんは、何歳迄生きて逝きますか。神様の命令によって、すぐに死ぬ立場に進むならどうしますか。天が自分を褒める事が出来る何かを残すべきです。そうなれば寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しく思われます。心配し様にも、心配する間がないのです。

 一生と永遠の問題で、一生を短くつかむほど価値があるのです。個人を愛し、家庭を愛し、氏族を愛する事とは何でしょうか。全人類を愛する為の教材なのです。彼らを愛するのは、全体を愛する為の教材なのです。そして、時間と空間を超越したあの世界へ行って、全ての人を愛する為の教材だと言うのです。(一〇二―一二二)

2 人間は永遠の生命を追求

 永遠の生命の世界を追求するのが、信仰生活です。永遠な神様の愛を追求するのが、信仰です。永遠の生命とともに永遠の愛と一致する為に、神様の喜びを自分の喜びとして感じられる決着点を探していくのが、信仰の道です。それ故、信仰生活をする我々の個体が、どれほど前進的愛と生命力を持って生きるかというのが、何よりも重要な問題です。

 五官を通じて感じる感覚の一切が、生命、愛とどの程度の関係を結んで生きるかという事によって、人間としてどれほど価値を持っているかという問題が左右されるのです。それ故我々は、我々自身が生命力と加重された愛の心で社会生活をしてきたかという問題を考えなければなりません。もし、その様な立場に立っていられないならば、それは停止したり、でなければ後退するのです。(三二―一九)

3 永生と宗教

 人は永生するのです。宗教は、今迄地球星でなくならず、文化背景と風習が異成る全ての環境を経てきながら、世界的な版図を拡大させてきました。それは、人の一生が問題ではなく、永生すべきである為です。

 人が生きるには、宇宙と共に生活しなければなりません。一生は百年くらいの短い生涯ですが、生涯の限界でそのままなく成るのではありません。その限界線を克服すれば、限界としていた地球村を越え、超越した場で生存を続ける事が出来るのです。

 それ故、厳然と永生しますが、そうでないとしても今迄苦痛の中でうめいて生きてきた人類に同情し、助ける為には、仮想的な永生論であっても主張すべきであり、仮想的な神を中心とした理想国家形態を推理し抜かなければならないのです。その様な面でも、宗教が必要なのです。

 それで、皆さんの永生問題とともに、神様の問題迄解決しなければなりません。この様な諸般の問題がつながっているのです。(一六二―二六四)

4 永生しなければならない理由

 神様は人をどの様な存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値になり得る、愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。このごろ、一人の人間の生命の価値がどれほどになりますか。何文にもなりません。本来、その様な無価値な人間ではありませんでした。宇宙とも換える事が出来ない高貴な価値がありました。

 今日、全ての文学世界について見ても、その骨子は愛です。人は、愛から出て、愛で生きて、死にます。しかし、そのままなく成るのではありません。主体であられる神様が、永遠、不変、唯一なので、その前に対象の愛の立場に立つ様に成る時は、永生するのです。永生という理論が、ここから出発するのです。生命から始まるのではありません。(一四二―一四三)

 真成る人とは、どんな人でしょうか。神様と内外で一つの体になって、子女の立場で完全に愛される事が出来る人が、真成る人です。その様な人が暮らしていく生活を、真の人生の道だと言うのです。

 人は、誰彼を問わず最高を願っています。人間が最高の立場に行く様になれば、神様は自分のものです。また、自分は、神様のものです。その様になれば、自分は神様の息子になり、神様自身にも成るので、宇宙も私に成るのです。

 神様が一番愛して、貴く考える物があるなら、それを一日、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごした後に、ほうり投げる様に造りましたか、永遠に共にいる様に造りましたか。永遠に共にいる様に造りました。永遠に共にいる様に造られたのです。人も同じです。

 人は永生すべきです。何故でしょうか。絶対者の神様が、絶対的な愛を中心として、喜ぶ事が出来る対象である為です。一日や二日、あるいは十年、百年喜んで、投げてしまうなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたがるのです。愛する妻が死んだので、その妻のハンカチを持って独身で生きた人もいませんか。インドのネルーの様な方は、自分の妻が若くして死にましたが、その妻がバラを好んだといって、一生の間バラの花を身に着けて歩きながら暮らしたといいます。

 それなら神様が、一人しかいないこの上なく貴い息子、娘を造る時、百年ぐらい生きた後に滅びる様に造られたのでしょうか。違います。それ故、人は永生するのが原則です。永生するには、より強い力が排出され得る作用の基盤の上に立たなければなりません。それ故、愛の力は、時日が過ぎれば過ぎるほど、授け受けすれば授け受けするほど、消耗するのではなく、もっと強くなり、もっと大きく成るのです。そこでは、うれしかったらうれしいものとして終わるのではなく、その喜びが拡張して、無限の喜びとして発展し得るのです。その様な世界が、我々が理想とする国であり、神様がいらっしゃる天国です。

 では皆さんは、永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分に貴いものがあれば、避難する時それを持っていきますか、持っていきませんか。持っていきます。それを誇りたがりますか、誇りたがらないですか。誇りたがります。では、それを一日、二日誇ってやめますか。やめません。自分が死ぬ様になれば、それを自分の後代に永遠に残したがるのです。

 それは、神様も同様です。神様が永生される絶対者なら、その方が愛する対象も永生しなければなりません。それで人々は、昔から永生するのを願うのです。それ故、絶対者である神様は、永生の価値をもった愛する息子、娘を探さざるを得ないのです。(三九―四二)

 我々人間は、神様が造られた傑作品として、神様に似ました。神様が永遠であられるので、我々も永遠の性稟をもたなければいけない為に、我々の心は老けないのです。

 それ故、人は永生すべきです。永生してこそ、その傑作品の存在価値を持つ事が出来るのです。それで万物の霊長なのです。ここで、霊が出てくるのです。人は、永生しなければなりません。ですから、我々が八十年ほど生きて、死ねば終わりだとは考えられません。(一五九―二八一)

5 永生の為の人生

 人は誰でも、各自自分なりに生活しています。「生活」するとは、一日一日暮らす事を言い、「生涯」は、一生の人生、一生を生きる事を言います。さらには、宗教をもった人達は、永生という言葉を使っています。永生というものは、一生ではなく、永遠の人生を生きる事です。

 生涯路程を永生にどの様に繋げるかという事が重要ですが、それをすべきなのが、生涯の責任です。また、永生という事は、一日一日の生活をつなげてこそ決定されるのです。皆さんの一生というものは、日々がつながったものです。

 生涯の価値的な内容は、どこから決定されるのでしょうか。生涯を皆生きて、決定されるのではありません。一日一日の暮らしの日々が、決定する様になっています。それ故、うまく暮らさなければならないのです。

 では、いったい、うまく暮らす事とはどういう事でしょうか。うまく暮らすのは、生涯の全ての路程を代表し得る日々を、意味深く送る生活です。きょうをうまく暮らしたというのは、自分の一生で誇らしくあり得る記憶の日です。「うまく暮らす」様になれば、生涯路程において、必ず一番価値がある様に暮らす日でしょう。価値がある様に暮らした日があれば、生涯の中でその日は、忘れられない日に成るでしょう。(一九七―一八六)

6 永生論理とは

 それで、永生の論理をどの様に探しますか。神様は、知恵深いお方です。もし、神様が愛の理念を立てなかったら、神様は孤独単身です。喜怒哀楽を感じる事が出来ない神様だと言うのです。

 絶対的なこの愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験する事が出来ない、深刻で、あきれる、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も永遠に慰められないのです。本然の願いだった息子、娘を犠牲にして、御本人が夢見た希望の理想形態を再現させたものとして満足するのではなく、それを抱いて、千里、万里移動しながら、もっと輝く様に装って、もっと美しく表示する事が出来なければならないのです。万宇宙をその様に造ったのです。(二〇四―一〇一)

 大気が一〇〇パーセント絶対低気圧圏になれば、高気圧圏が自動的に生じ、循環運動が起こるのです。神様は、知恵の王です。その様に自動的循環原理を通じて、永遠の回転が始まる為に、永生論理が論理的に設定されるのです。

 投入して、投入して、また投入する所から、永生の論理が繰り広げられるのです。「為」にする所は、滅びません。(二〇四―一〇七)

 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすると、それは間違いなく人間です。それ故、「万物之衆、唯人最貴」という言葉が出てくるのです。これは何でしょうか。創造主の永遠な愛と一つになった愛のパートナーも、永生するという論理が生じる様に成るのです。永生というのは、自動的な産物です。永生は、ここから繰り広げられるのです。愛の関係を中心として、永生論理をどの様に立てるかという問題は、宗教において極めて貴重な話です。男に永生があり、女に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があると言うのです。(二一八―二一一)

7 一番重要な永生問題

 今日、キリスト教徒達は、「イエスを信じれば永生する」と言います。永生は、継続的な作用を続けていかなければなりません。人生の道を永遠に行こうとすれば、心臓の動脈と静脈の様な、循環器官が恒常的に動かなければならず、神経系が恒常的に動かなければならず、大脳、小脳の全ての作用が恒常的に動かなければならないのです。そうするには、莫大な消耗が繰り広げられます。(一二一―一七二)

 寝床に就く時、脱いでおいた靴を、次の日の朝に再び履く自信がありますか。いくら忙しいといっても、永生問題以上に重要なものは、この世にありません。それで、この世の中で永生問題を決定づける事以上に深刻な事はありません。(一〇―二四九)

8 結局人間は永生に帰結すべし

 新しい潮流の波である「真の父母」の愛の道理を植えて、堕落の恨を解消し、神様が君臨する事が出来る真の愛の家庭を築いてこそ、天国に直行し得る様に成るのです。

 地上天国と天上天国のレールは同じでなければなりません。レールが同じでこそ貨車が走る事が出来るのと同様に、地上と天上の世界のレールが合わなければなりません。地上天国から天上天国をつなぐ為の道が、真の愛の道です。それ故、個人が行く道、家庭が行く道、全部つながらなければなりません。方向が一致しなければならないと言うのです。

 それ故、一生の間、自分がする全ての事は、全部真の愛の為の実績として、自分の後ろに永遠に固着される為に、あの世に行く様になれば、一生の間残された功績にふさわしいその級に自然にとどまるのです。(二一一―二八八)

9 信仰と永生問題

 どの様に永生するでしょうか。キリスト教徒達は「イエス様を信じれば永生する、救われる」と言うが、とんでもないと言うのです。愛でだけ救いを受けるのです。神様の創造原則から見る時、真成る人だけが神様の愛の同伴者である為に、真の愛をもてば永遠に暮らす事が出来る様になっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上に暮らす様に成る時に、自分がどこで暮らすべきか分かる様になります。

 大洋を通う大きな船が破損する危険が生じれば、その船の中に暮らしていたねずみ達は全部陸地に逃げると言うのです。微々たるものにすぎない動物も、自分の生死圏をわきまえていくすべを知るのに、ましてや万物の霊長である人間はどうでしょうか。

 何故、そうなったのでしょうか。堕落の為です。この堕落の仮面を悪魔の愛と、悪魔の生命と、悪魔の血筋をどの様に解脱するでしょうか。この解脱という言葉は、抜け出すという意味です。完全に抜け出して、関係ない立場に、自主的な立場に立つという言葉です。(二一五―五三)

 九十歳を超えた母親は、七十歳を超えた息子がどこかに出掛ける時、「車に気をつけて、いってらっしゃい」と言います。九十の老年に成るほど、その様に毎日の様に繰り返しても、疲れません。それは、永遠に続いても疲れません。その様にさせる原動力とは何でしょうか。愛です。堕落した世界の父母の愛もそうなのに、本然の世界である神様の愛に属していればどうでしょうか。

 この様に成る時初めて、真成る神様の対象圏を確定づける事が出来ます。神様の愛が永遠不変な事を知る様に成る時、我々人間の愛を中心として、永生の論理を妥当化させる事が出来るのです。愛を中心として永生するのです。(一四三―二三〇)

10 統一教会と永生

 先生は、統一教会の教徒たちに、苦労を沢山させようとします。苦労させても逃げません。何故逃げていかないのでしょうか。永生がある為に逃げないのです。統一教会で離れられないのは、永生がある為です。(二〇四―八二)

 人々には皆欲望があります。全部神様の息子、娘になろうとします。孫も嫌で、神様の婿も嫌で、神様の息子、娘になりたいのです。誰でも欲望を成就、完成する所は、家庭なのです。(二二一―二五)

11 永生に必要な観念

 皆さん、「自分は永生する人だ。真の愛を実践する人だ」という姿勢で生きるべきです。ですから何をするのでしょうか。「永世の為だ」と「永世を訓練する事だ」と、考えなさいと言うのです。皆さんには、永生と真の愛との観念は、何時も必要です。永遠に必要なのです。(二一六―一二七)

三 愛と永生

1 愛と直結した永生

 我々は、永生を願っています。永生を願うのに、変わらないものとは何でしょうか。愛です。他のものは皆変わります。環境的に変わるのです。では、愛は何故変わらないのでしょうか。

 愛は、全ての生命力の中心である為に、変わらないのです。愛は理想的な与件の中心に位置を占める為です。中心は、その周囲が全部なく成る前には、なくならないという事です。愛は宇宙の中心になっている為に、愛と一つになれば、神様が残っている限り残っているのです。(一五七―二六七)

2 真の愛と永生

 真の愛とは何でしょうか。結婚する時、結婚相手が自分より良い人を願います。自分の息子、娘が、自分より良い事をを願わない父母はいません。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。神様が愛の相対が自分よりより良いのを願うのです。

 絶対的な神様が我々人類の父なら、その父は絶対的に行わないで、その息子、娘にだけ、絶対的に行えと命令出来るでしょうか。出来ません。神様が愛の相対を自分よりより良いのを願われる原則から見る時に、人間の価値が最大の価値です。愛は中心として神様より高い価値があるという事です。

 それ故、皆さんの心は、最高のものを願っているのです。それが不可能な事ではありません。万人平等に可能な事です。堕落しなかったなら可能なのです。

 高く貴い立場で、この宇宙を眺めて管理して主導する様になっているのであって、引かれて回り、服従する様になっていませんでした。皆さんの心がそうでしょう? 解放された心です。誰の支配も受けたがりません。これは、万民が共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国の宝座に自由に行く事が出来ます。神様の友達に成る事が出来るのです。

 愛の為に人間を造ったという時は、神様が永遠で、絶対的であるがゆえに、人間自体も永生を持つと言うのです。これは、自然的な論理です。それ故、真の愛は永遠です。永生するには、その真の愛の圏内で暮らさなければなりません。(二一一―二七二)

 真の愛により、永生が可能です。何故でしょうか。創造の出発、動機、過程、目的など全ての事が、愛を中心として完成するからです。過程を通じて結果が出てくるのです。

 自分の体と心の完成は、真の愛によって、根本的に可能になっています。理想の結実を結ぶものは、愛しかありません。真の愛しかないのです。真の愛により、神様も永存しています。

 永生は、愛によりつながるのです。それで、永生の環境を成すには、愛の環境を中心として生活しなければいけません。愛の実体圏を持つには、愛を中心として、実体的な体恤をしなければいけないのです。(二一八―一三四)

3 絶対必要な真の愛

 神様は霊界のどこにいらっしゃるでしょうか。絶対的な中心、愛の中心にいらっしゃいます。その愛は真の愛であり、直短距離を通じます。

 皆さんは第一に、神様を知らなければならず、第二に、永生を知らなければならず、第三に、真の愛を知らなければなりません。これは投入です。一〇〇パーセント以上投入します。一〇〇パーセント以上投入する所に永生があります。真の愛をもたなくては永生がありません。永生しない人は、神様に会う事が出来ません。(二〇五―一二九)

 これから、世界をどの様に収拾するのでしょうか。第一は利他主義、第二は真の愛、第三は永生に世界が収拾されるのです。

 真の愛とは、何でしょうか。自分の生命以上の投入をしなければなりません。生命以上を投入しない所には、真の愛はありません。生命以上に投入する所から真の愛が成立します。「真の父母」が成立しなければ、永生はないのです。

 何故そうなのでしょうか。皆さんがサタンの血を、サタンの血統を受け継いで生まれたからです。それで、聖書には、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主成る貴方の神を愛せよ』。これがいちばん大切な第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)とあります。この言葉の意味は何でしょうか。心を尽くして、思いを尽くせと言ったのは、生命迄懸けなさいという事です。これが第一の戒めです。

 第二の戒めは、「自分を愛する様に貴方の隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)という事です。「隣り人を自分を愛する様に愛せよ」というのはどういう事でしょうか。生命を懸けて愛しなさいという事です。生命を投入しなければいけません。何故、生命を懸けなければいけないのでしょうか。第一は、サタンを屈服させる事ができず、第二は、サタンの環境から抜け出す事ができず、第三は、サタンの血統から抜け出す事が出来ないからです。

 サタンの環境からは抜け出す事が出来るとしても、サタンの血統は仕方がありません。しかし、真の愛は生命を超越するのです。

 男女が生まれたのも、利他主義です。男が生まれたのも女の為です。これは、絶対的な真理です。永遠の真理です。何故、その様に生まれたのでしょうか。真の愛の為です。

 男もそうであり、女もそうです。世の中では、「二人で永遠に一つになりたい」と言いますが、二人が一つになって何をするでしょうか。神様を占領しようと言うのです。真の愛でなければ、神様を占領出来ません。

 皆さんの家の中で、主人には誰が成るでしょうか。その家の全体の為に、一生を生きていく人が、中心者に成るのです。神様の代わり、父母の代わりに中心者に成るのです。

 百名の友達がいる時、その百名の為に一生の間を生きれば、その友達百人からあがめられる中心に成るのです。ですから、永遠の世界で、永遠に「為」にする主人がいれば、永遠の主人に成るのです。その方とは誰でしょうか。神様です。所で、その方は我々の父である為に、全ての宇宙が「私」と共にいると言うのです。そこに永生があります。そうでなかった所には、永生がありません。

 それで、聖書に、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とあります。それはどんな言葉でしょうか。死を越えるべきで、越えなければ生きる事が出来ないという言葉です。(二〇五―二五八)

4 愛と関係した死後の世界

 皆さん、考えて皆さい。神様がおられますか。(はい)。神様には時間があるでしょうか、ないでしょうか。(ありません)。何故ありませんか。時間がなければ、永遠に終わると同時に永遠に始まるという、そういう言葉ではないですか。過去も、現在も、未来も、同じだという事です。その様になっても、嫌であり得ない作用を引き起こす事が出来る、神様が安息され得る本来の基礎とは何でしょうか。その様な事が問題になります。

 それは何でしょうか。全知全能であられる能力を持って可能でしょうか。駄目なのです。神様の知恵、全知全能、分からない事がない事を持ってしては、駄目だという事です。何にもならないのです。愛の力だけが可能なのです。神様も、「愛」と言えば「そうか!」と言うのです。それ以外は、神様に必要ではないのです。

 我々は結局、どこへ行くのでしょうか。霊界です。「死後の世界」と言いますが、死後の世界ではありません。何故、死後の世界になり得ないのでしょうか。愛と関係している世界である為です。愛と関係している世界である為に、死後の世界ではありません。真成る愛を中心として出発したものである為に、自分が真成る愛の立場に立つ様に成る時は、今ここが霊界です。それ故、愛は偉大なのです。

 球形運動をしてこそ、上下、前後、左右が和合する事が出来ます。縦は縦で、横は横になって和合が出来なければ、上下、前後、左右全体が和合出来ないのです。統一が繰り広げられません。愛だけが統一する事が出来るのです。

 それ故、統一教会が、真の愛を中心とした統一理想世界を論ずるのも、原理観において一致した結論です。(一四四―一九九)

 神様は、人間を率いてくださろうとします。神様も息をするのです。愛の呼吸をされるのです。愛を中心として、宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるのです。

 愛も息をするのです。宇宙の脈拍がこの様になっている為に、男や女が「ああ! 私、嫌だ」と言えません。拍子が合えば、互いが愛さなければならないのです。一方向です。全部神様を中心とした一方向だと言うのです。(二〇一―一九一)

5 「為」に生きてこそ永生する

 お爺さん、お婆さんも、千年、万年後代の後孫も、霊界に行っている霊人達も、永生出来るその公式的路程は同じです。

 永世へは、「為」に生きた人達だけがパスする事が出来るます。(二〇三―一九三)

四 祝福と霊界

1 愛の威力

 霊界も肉界も、愛によって動きます。真成る愛を中心として、環境的与件は拍子を自動的に合わせるのです。(一八五―二〇)

 過去の人も、現在の人も、永遠に出来る資格とは何でしょうか。我々人間世界で必要とするその全ての欲求の要因とは何でしょうか。それは愛です。つまらない愛ではく、真の愛です。

 では、真の愛とは何でしょうか。縦横を通じて、どこでも九〇度に合うのです。東洋の家にも合い、西洋の家にも合い、南型の家にも合い、北型の家にも合い、五色人種、文化背景、全ての宗教背景が全部違ったとしても、合わなければなりません。それが何でしょうか。真の愛です。(一八〇―八六)

 今日、この世には、多くの人達が暮らしています。その人々の中で、統一教会で言う祝福という意味を知る人は、多くありません。この祝福という言葉は、統一教会で初めて始まった言葉であり、その言葉を中心として、今迄祝福行事をしてきました。

 これから、人類はどこに行くのでしょうか。全ての人類は、祝福の門を通らずしては、天国に行く事が出来ません。数多くの人達が、既成教会を信じますが、その既成教会自体も祝福という門を通らずには、天に行く事が出来ないのです。

 この様に言うと、既成教会では、「統一教会のレバレンド・ムーンは独善的な言葉を沢山言う」と言うでしょう。統一教会で言う祝福は堕落した人類が、必ず行くべき道です。いくら反対したとしても、霊界と肉界をつなげて入らなければならない、非常に重大な問題に成るのが、この祝福です。

 今日、一般の宗教を信じる人は、「救い」と言うと、個人の救いだけを考えます。自分がよく信じれば、天国に行くと信じると言うのです。しかし、本来の神様の理想について見る時、天国は一人で行く様になっていません。愛する夫婦、愛する家族が共に入る様になっています。(一四三―二三五)

2 夫婦の霊人体

 我々は、愛の理想を探していく群れです。ですから、霊界の代弁者として立つ為に、愛の理想を横的な世界に扶植させるべきです。種として蒔くべきです。ここで愛の心を授け受けしながら育つのです。大きく成るのです。

 こうして、愛の実を結んで、その夫婦が霊界に入る様に成る時、神様の永遠の愛の圏内に抱かれ、神様と一つの体に成るのです。神様と一つに成るのです。(一四四―二二四)

 皆さんは、真の愛の論理を沢山習わなければなりません。我々統一教会の霊神(注:草創期からいるお婆さん)達は、五十になったのに、顔を見れば四十代のようです。五十歳を越えたのに、人々でいえば大体三十代しかならない様に見えます。ですから愛するほど若返るのです。

 人はこの地上で、殻(体)は老けていきますが、夫婦生活をして愛すれば愛するほど、霊人体は若く成るのです。どういう意味かと言うと、人間が長く生きれば生きるほど、内的人間である霊人体は、最高の円熟した美男、美女に成るのです。その殻は服の様に脱がなければなりませんが、若返ってくっついたらどうしますか。

 ですから、外的な殻は、老ければ全部駄目になりますが、内的な中身は、丈夫になって未来の相続者になり、美人に成るのです。それ故、秋の栗のいがの様に成るのです。秋になり、丈夫だった栗のいがが、熟れれば、殻はぶよぶよになって割れ、栗の実が落ちる様になっています。それと同じです。(一六四―一〇二)

3 結婚と霊界

 キリスト教では、神様を愛すると言いますが、漠然としているのです。聖書で言うには、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主成る貴方の神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛する様に貴方の隣り人を愛せよ』」(マタイ二二・三七~三九)とあります。そうなればいいのです。

 神様を愛する前に、皆さんが食べる食物を愛さなければなりません。万物を愛し、体を愛さなければならないのです。

 皆さんの第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。この地です。皆さんは地から、皆さんの体が大きくなれるよう、その要素を供給してもらうのです。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に入るのが死ぬ事です。第三の父母に行くには、そのまま入るのではありません。第三の父母に帰るには、本来の父母だった神様の形に似なければなりません。

 従って、結婚は何故するのでしょうか。神様の形に似る為です。神様は、二性性相が合体化した一律的な存在であり、その神様の分性自体が男女である為に、彼らも合性一体化して種の様になって、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。

 しかし、その種を繋げる為には、愛の道を通じなくてはいけない為に、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、行きながらも愛に帰る為に行かなければならないのです。

 その道は、「為」にする目標を中心として訪ねていかなければ、方向が異なってしまいます。(一三八―九八)

4 祝福家庭の霊界の立場

 我々統一教会の信者達は、霊界が確実にあるという事を知っています。信じているのではなく、知っているのです。多くの体験を通じて、否定しようとしても否定出来ないのです。今日、統一教会が世界的な基盤を形成する迄、多くの体験過程を経てきました。それ故、霊界がないと言う事の出来ない立場にいる人達が、統一教会の信者です。

 では、霊界の中心とは何でしょうか。霊界は絶対的神を中心として構成された世界です。その絶対的神がいるなら、その神は、宇宙の起源に成る方です。彼によらないものがありません。彼に属している為に、彼に属した全体は、彼と共に感じ、彼と共に因縁を持って過ごしているのです。

 その様な愛の圏が成される所には、サタンはいません。それ故、サタン世界は、自分を中心として愛するのです。天が一番ではなく、自分が一番です。天を否定し、地を否定して始まるのです。

 しかし、その反対に、天を認めて地を認め父母の平均的愛のもとで一つになれば、サタンが主管する事が出来ないと見るのです。それが本然のアダムの位置です。その基準を回復しなければなりません。

 ある町内に、統一教会の夫妻が住めば、その町内で話題になければなりません。先生がどこへ行っても話題に成るのと同じです。「あの夫婦は、この町内に実によく来た。あの奥さんは、この町内の全ての男たちが好み、おばさんたちが皆好む。子供たち迄好む」と、そうでなければなりません。

 それが出来なければ、霊界に行って再び帰ってこなければならないのです。帰ってくるには、先生がサインをしてあげなければいけないのです。祝福を受けた家庭たちが、地に勝手に来る事が出来ますか。先生が祈祷をしてあげてこそ、可能なのです。それで、まず行った人達が、皆縛られています。今迄統一教会の祝福家庭は、皆縛られているのです。

 それ故、地が問題です。(一四〇―一二三)

5 祝福は約束

 統一教会の祝福家庭は祝福を受けた時、永遠の家庭として暮らすと約束しました。先生は、永遠の家庭を治める人です。永遠の国を治める人です。永遠の国の家庭を設定するのです。その約束を守る人が、家庭はもちろん、永遠の国を引き継ぐのです。(二〇五―三五九)

6 祝福の栄光

 真成る女は、どうあるべきでしょうか。真成る男を中心として、男がしようと言う通りにしてあげなければなりません。家庭の為に奉仕して、氏族の為に奉仕する様になれば、その周囲が全部拍手する様になります。

 皆さんは、先生が好きです。何故好きでしょうか。苦労しながらも皆さんを生かしてあげようと、人類を解放させてあげようとするからです。先生が苦労しなければ、皆さんが霊界に行って、億万年待っても祝福を受けられないのです。不可能な事なのに、先生が苦労して、価値ある祝福の版図が繰り広げられたと言うのです。これは天の霊界とこの地上世界に、栄光なもので、華やかな事です。(一六二―六八)

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第二章 死と霊界
第一節 人生必然の道

一 永生と距離が遠い体

 地球も息をして運動をするのです。皆さんの細胞も息をします。

 皆さんは、地上で永遠に暮らしますか、無形の愛の実体になった所で永遠に暮らしますか。無形の愛の実体になった世界で永遠に暮らさなければなりません。神様が御自身を見せてあげたいと思われても、皆さんの体では神様を見る事は出来ません。ですから、霊人体が必要なのです。

 見えない精神の中心に成る神様ゆえに、神様は相対的存在である人間に、自分の永遠の理想圏を全部与えたいのです。(一一一―一一二)

二 大部分の生涯

 今、我々は、知る知らないにかかわらず、ある所に向かって行っています。私が動いている時間にも行っていて、休んでいる時間にも行っているのです。単に私だけでなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地迄も、ある所に向かって今行っているのです。これは、否定する事の出来ない事実です。

 一生を経た後に、自分はある所へ行くのでしょうか。これが、人間たちが解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決する為に、哲学も歴史もこの問題を解決する為に動員されています。ですから、皆さん自身も、この様な運勢に引きつけられ、率いられていっているという事を、否定する事が出来ないのです。

 では、どうせ行くべき自分自身だというのに、この体はどこへ行こうとし、この心はどこへ行こうとするのでしょうか。また、この生命はどこに向かって傾いていて、自分の心情はどこに行こうとするのか、自分の願い、あるいは希望と理念は、どこへ行こうとするのでしょうか。この問題を解決出来なかったとしても、我々はどうせ行くべき運命に置かれているのです。

 我々が生きて死ぬ日、この体は土に埋められて終わるのです。それなら、体が埋められるその日、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは希望迄も共に埋められてしまうのでしょうか。ここに、内容と、解決点と、目的観を提示しておかなければなりません。

 それで、行く歩みをつかまえて、動く心と傾く心情を妨げておいて、「お前はどこへ行くのか」と聞いてみて、これを解決しようと闘ってきた人達が、聖賢、賢哲であり、数多くの道主たちです。彼らはそれを解決する為に出てきたのですが、今迄「私の体はこの様な所に行き、私の心と私の心情、私の生命と私の理念は、この様な所に向かって走っていく。ゆえに、全天下に存在する全ての存在物は、ここに向かって行け!」と、自信を持って命令した人はいないのです。(八―一九四)

 宗教は、私的な欲望から出発したこの世の中が滅びるのを願います。公的な世界を、一つに統一された平和の世界を、数千年前から待ち望んできたのが宗教です。

 では、宗教人は、どの様に生きるべきでしょうか。自分の夫婦だけで面白く生きる事より、もっと面白く生きる事が出来るのは、この歴史的距離を短縮させ、世界とつなげて、天宙とつなげて生きる事です。その様な家庭が、解放された家庭なのです。また、その家庭は、絶対的な家庭にならざるを得ないのです。

 明洞の街を過ぎてみると、若い男女達は仲むつまじいのです。それは誰の為にそうなのでしょうか。一度しかない若い青春時代なので、楽しむ為にそうだと言うのですが、それでいいと言うのです。では、その楽しむ事において、主人は誰でしょうか。これが深刻だと言うのです。皆さんは、何時迄も楽しむ事が出来ますか。二十代から楽しく六十、七十、八十歳と過ぎる様になれば、楽しいはずはないのです。

 しかし、統一教会式は違います。食べるのも何の為に食べますか。世界の為に食べるのです。悪成る世界をなくす為に食べるのです。見るのも、悪成る世界を討ち払う為に見るのです。悪の側に成る為に見るのではなく、悪を討ち払う為に見るのです。聞くのも、考えるのも、歩くのも、行動するのも、全部世の中と違います。(三六―七二)

 もし、人を、何日間かいてなく成る、その様な存在として創造したなら、神様は絶対者ではありません。神様は、人間を永遠に見ていたい、貴い存在として創造したのです。

 人間が神様の喜び得る対象なのに、神様が永遠であるなら、人間も永遠であるしかありません。そして、永遠な神様は、永遠の世の中を相手にするのです。

 所で、人々は「八十年生きればいいのであって、死んでしまえば終わりだ」という考えで、今迄生きてきた人達が沢山います。しかし、歴史路程を通じて考えを深める人達は、「どの様にすれば人が死なずに永生する事が出来るのか、もっと生きる事が出来る道はないか」という考えをもちました。志を抱いた事がある人であればあるほど、「人生とは何か? 人間は何故生まれて旅人の様に行くか」と言い、「人生は苦海」とか、「草露の人生」とかと言いました。しかし、永生出来るなら、その様に悩む必要はないのです。(三九―二二九)

三 死は人生必然の道

 皆さんは、何時かは霊界に行かなければなりません。間違いなく霊界に行くのです。

 大韓民国に訪ねてくるのに、金浦空港に降りるといって金浦空港に来たのではありません。金浦空港からどこへ行くのでしょうか。全羅南道に行くか、慶尚南道に行くか、平安道に行くのか。平安道に行って、またどこに行くのでしょうか。郡を訪ねなければなりません。また郡でもどこへ行くでしょうか。面を訪ねていかなければなりません。また面に行って、どこを訪ねていきますか。里です。里でも、ある班を訪ねていかなければなりません。簡単ではありません。

 自分の居所を確定づけられない人間たちが出世して、何をするのでしょうか。問題です。

 神様が霊界から呼び出し命令をすれば、文先生もきょう偉いとしても、あすの夜に連れていけば行くのであって、他に方法がありません。どんなに大きな声を出しても、行くのです。私が声を大にしながら行く時には、正しい言葉を言って行くのです。国が行くべき道を提示しなければならず、世界が行くべき道を提示しなければなりません。過ってやれば死ぬのです。(一七七―四二)

四 生命の主人は神様

 先生の起源は何でしょうか。私ではありません。先生の起源も自分を超越したものでなければならず、目的も自分を超越したものでなければなりません。自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した絶対者である神様から始まったと言うべきです。動機を、絶対的な立場にある超越的な動機と結びつけなければなりません。時代的な因縁とか、環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。超越的な原因に結びつけ、超越的な目的に結びつけてこそ、飛躍して、超越して、脱出する事が出来るのです。

 自分の生命を超越的な動機に結びつけなければなりません。自分の生命の出発は、自分から始まったのではありません。絶対者であられる神様から出発したのです。自分を超越的な動機に結びつける様になれば、死んでも超越的な過程で、神様のみ旨によって死ぬ様に成るのです。(三六―六四)

五 生涯は余りにも短い

 人間は、何千年、何百年生きるのではありません。百年ほど生きて、皆死にます。

 数多くの歴史時代を経てきながら、多くの我々の先祖たちが死んでいきましたが、全体に良い事、全体の利益を考えたなら、百年生きた事が、千年たってもそのまま残された事でしょう。所で、個人を中心として現れたなら、全部滅びました。全体を滅ぼしてしまうのです。

 その様な人生の暮らしをしてきた為に、問題が起きたのです。ここで一番問題に成るのは何でしょうか。自分を中心とした全ての測定方向を、どの様に全体測定方向に代替するか、自分第一主義を強調したのを、全体に利益になり得る面で、どの様に投入するかという事です。

 それで、個人主義、自体の利益を追求する人生行路の出発を、ひっくり返えさなければなりません。ひっくり返すには、ただそのまま、何もなくひっくり返してはいけません。

 一着しかない服を着ているのに、これを誰かが脱がそうとすれば、死んでも脱ぐまいとするのです。春夏秋冬の服を持って、春に冬の服を着れば、春服を持っていき「これは冬の服だ、脱ぎなさい」と言い、夏に春服を着れば、夏の服を持っていって「脱ぎなさい」と言うべきなのです。その様な事を知らなかったのです。代替し得る、より価値があるものが何かを知らなかったのです。(二〇〇―九一)

 この地上には父母がいて、師がいて、親戚たちがいます。この地には、その様な因縁を結んでいく事が出来る道がありますが、霊界にはその様なものがありません。霊界では、全部神様を中心として全体の為に暮らすのです。位置が全部区別されています。それ故、上にいる人が下に来る事もできず、下にいる人が上に行く事も難しいのです。本来は、地上で完成してこそ霊界に行く事が出来る様になっています。一度あの世に入れば終わりです。どちらにせよ人間は死にます。

 生涯の路程は、余りにも短いのです。一生は余りにも短いのです。人の寿命が八十年だとすると、余りにも短いのです。霊界の時間では八時間にもなりません。永遠の世界の時間で考えれば、八時間にもならないのです。

 ですから、真の愛の力は偉大なのです。早いのです。真の愛の速度は、我々が認識出来ないくらいです。(二〇五―六五)
第二節 死に対する理解

一 「亡く成る」という言葉の意味

 間違いなく霊界はあります。間違いなく霊界はあり、我々人間は、どうせ霊界から生まれた為に、霊界に帰らざるを得ません。

 我々韓国の言葉の中で、おもしろい言葉は「トラガンダ(帰る、亡く成る)」という言葉です。どこに帰るのでしょうか。共同墓地に行くのは、帰る事ではありません。出発した本処に帰るという事です。その出発が共同墓地ではないと言うのです。果てしなく遠い歴史の起源を越えて帰るという事です。

 人間が帰る(亡く成る)という事は、韓国人として生まれて、韓国人として帰る(亡く成る)という事を言うのではありません。韓国人として死にましたが、韓国人として帰るというその道ではないのです。我々人類の先祖の根源の世界に帰るのです。

 それは何を言うのでしょうか。創造主がおられるなら、その創造主がおられる所に帰るという事です。そこから出発したので、そこに帰るのです。

 宇宙は、循環作用をします。山に積持っている雪が解ける様になれば、小さな渓谷を通じて流れていき、多くの支流を通じて大海に流れ込みます。大海に入る様になれば、それが水蒸気になって、再び帰るのです。

 循環運動をします。帰ろうとすれば、どこに帰るのでしょうか。高くあり得る所に、もっと良くあり得る所に帰るのを願います。

 誰も小さく成るのを願いません。しかし、全ての自然界の運動法則というものは、作用すれば小さく成る様になっています。作用すれば、だんだん小さく成るのです。我々が何かを転がしてみても、それが永遠に転がらないのです。早く転がって、だんだん遅くなり停止する様になります。(一一四―二六九)

二 我々が行くべき所

 我々は、この世の中に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界もあります。世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界としてつながっています。

 では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべきその所とはどこでしょうか。もちろん我々は、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人達は、世の中に生まれれば、十代、二十代、三十代、中年、壮年、老年時代を経ていきます。青春時代を過ごして、壮年時代に入る様になれば、だんだん一つの峠を越えて、その次には老年時代に入る様に成るのです。この様に沈む日の様に、一生を終えます。

 しかし、霊界があるという事実を知る人達は、一生はちょっとの間であり、死んだ後に我々が迎えるべき世界が永遠だという事を知っています。ゆえに、一生は、永遠の世界への準備する為の期間です。(一四〇―一二一)

三 亡く成る日は貴い日

 アダムが生まれた日と成婚の日、そして、亡くなった日を記念する、世界的な統一圏が形成されていたなら、その様な日々を記念する人類は、一つの兄弟になり、一つの民になったでしょう。すなわち、一つの世界に暮らす人間に成る事ができたという事です。その様になっていたなら、アダムが生活した全ての風習は、人類歴史に継承されたであろうし、その時に形成された文化は、永遠に継承された事でしょう。(三一―二三一)

四 二つの死

 皆さんがいくら「死なない」と言っても、死ぬ時になれば死ぬのです。

 霊界に行く人にも種類があります。自分の寿命どおりに生きて行く人と、自分の寿命どおりに生きられずに行く人がいます。自分の寿命どおりに生きられずに行く人にも、罰を受けて早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減する為に早く死ぬ人がいます。

 もしある町内で、屈指の若者が三人だけ死ぬ様になれば、その町内には福が来ると言うのです。ある一族を例に挙げるなら、その一族から期待を受けた若者が、三人だけ死ぬ様になれば、その一族には福が来ると言うのです。すなわち、蕩減を払わなければならないという事です。どこでもそうなのです。因果法則はどこでも作用します。

 神様が、千人の価値をもった一つの存在を中心的な立場に立てて、代わって死の道を行かせた時、千人がその人の恩徳の前に感動して、その人を慈しみ、その人の生涯を見習い、その人の様に生きるという様になれば、その民族はその人の様な恵沢圏内に入ってくるのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の思想を見習おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入る為にそうするのです。

 昨年も何人かが霊界に行きましたが、今年も何人かが霊界に行くでしょう。言いはしませんでしたが、先生は既に皆知っています。これは何故そうなのでしょうか。一段階越えていく時には、必ず蕩減を払わなければならない為です。(三三―一〇)

 この地上に生まれた人間たちの中には、希望を持って生きる人達がいて、希望をもてずに生きる人達がいます。しかし、希望は人間を中心とした希望と、天を中心とした希望の二つがあります。

 我々は、生まれたその日から、母の懐の中が何よりも自分に一番いいものと思って育ちますが、母の懐を離れ友達と付き合って、友達が一番いいものと思って過ごします。しかし、結局は友達とも別れてしまうのです。

 それで、人間達は、だんだん育ちながら、愛する父母も自分の希望の全体になれず、愛する夫婦も自分の希望の全体になれず、さらには、愛する子女も自分の希望の全体になれないのです。

 人間たちが多くの事を希望しますが、その心が薄れてなくなってしまうのです。家庭に対する希望、あるいは国家に対する希望、さらには世界に対する希望を持っていますが、年齢が多く成るに従って、その希望する心がだんだん弱くなっていくのです。

 地上に生きている人間たちの中に、その希望を自分の全体の希望として誇り、自分の生命を失う恨があっても、それを離れては生きられないという確固たる信念を持って生きていく人は多くありません。人間は、その様に生きて、最後には死と戦って越えなければいけない運命に逢着する様になります。

 人間は、一生の間、全ての希望を抱いて生きますが、後には死にぶつかり、自分が抱いていた希望を皆捨てたまま行ってしまうのです。きょうも生きるのを願い、あすも生きるのを願い、新しい希望を探してさまよっていますが、死にぶつかる様に成る時には、希望をもてなかったまま、絶望しながら最後の道を行くのです。

 人間が自分を中心として見る時は、希望をもったようですが、死の峠を越える事が出来る希望をもてずにいます。その様な希望をもてなかったまま、消えています。これを人生の手本と思って死んでいくのでしょうか。そうでなければ、死もあざ笑って、一つの希望を探して行くのでしょうか。これが今日、地上に生きている人間たちが考えなければならない、重要な問題です。

 今日、世の中の万事は、皆過ぎ去ってしまいます。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、世界あるいはある主義も、皆過ぎ去ってしまいますが、最後に残されるものとは何でしょうか。死と戦って勝利する事が出来る一つの希望です。我々にその様な希望がなければ、人生の敗北者です。

 反面に、生まれながら世の中の人達が願う一切の希望を拒否し、人間的なものを一切拒否し、天の希望、永遠の希望を抱いて生きる群れがあります。

 天は、人間的な希望を中心として生きている地上の人間をして、新しい希望を持って死の峠を越える事ができ、永遠の世界を欽慕しながら生きる事が出来る様にする為に、無限に苦労されました。それ故、信仰生活をする人達は、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死迄も越えて立つ事が出来る永遠の希望の世界を夢見て生活すべきなのです。(六―四四)

五 死の意味

 「死」という単語を使った目的は、人生の意味を知る為です。では、人生の価値は誰がよく知っているのでしょうか。生きると言う人は分かりません。死の窮地に入って、生死の岐路で、天にしがみついて人生の価値を打診してみた人でなければ分からないのです。(七四―二四三)

 今日世の中には、睡眠薬の様なものを飲んで自殺する人が沢山います。それは、女が多いですか、男が多いですか。女が多いのです。何故女が多いのですか。女は一方的にしか考えるすべを知りません。男はどんなに不細工でも、ああだこうだと考えるすべを知っています。女は決心が一つしかありませんが、男はああだこうだと引っ掛けて、死に得る道を避けていくのです。ですから、女より男に自殺が少ないのです。(二二二―七〇)

六 死は三世界を連結する過程

 自分も神様に似ようとし、そして自分が神様の息子、娘であるなら、神様も似させたいという観念を持つのは必然的です。ですから、自分は神様に似たいし、神様は自分を連れていきたいのです。これを可能にし得る道を模索するでしょう。それで人は、再び神様と似る事の出来る体を着て生まれなければなりません。その様に生まれる日を神様も待ち望むのであり、人間も待ち望むでしょう。その様な人として生まれる日が必要です。それが何ですか。死です。

 では人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはいけませんか。歓迎すべきです。死ぬのに、何の為に死ぬのかという時に、「神様の真の愛の為に死ぬ」と言うべきです。それ故肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同参する為であり、神様の愛の世界の為にそうするのです。

 神様の愛の中で生まれる事が、死ぬ事ですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。制限された愛の圏内から、無制限の愛の圏内に突入し得る喜びを迎える事が出来る瞬間が、死ぬ瞬間です。ゆえに死ぬ瞬間が、第二の出生の瞬間です。

 そうであるなら、神様は、皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか、第二の無限の世界の愛の為に活動する息子として生まれるその瞬間を喜ぶでしょうか。何故こんな話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱せずには、神様と関係を結ぶ事が出来ないない為です。

人は、蘇生、長成、完成時代を経ます。

腹中の水の世界、

地上の地球星世界、

その次には天上の空中世界で暮らします。

言い換えれば、腹中の水の時代、地上に生まれて生きる百年の地の時代、飛んでいく空中時代、この様に三時代を経ます。

 人は生まれる時、一番深い水の中から生まれるのです。腹中時代は水の中の時代です。赤ん坊がお母さんの胎中にいる時は、水の中に浮いています。水の中に暮らす為に、水を吸って送り出さなければならない為、赤ん坊はホースをおなかにつなげて生きるのです。

 赤ん坊は、栄養分をどこから供給されますか。へそから供給されます。へそが入り口なのです。ですから、それをばかにしてはいけません。「へそや、お前は昔苦労した」と言い、たたいてやれと言うのです。へそを沢山たたいてやれば、健康に成るのです。その様に運動しろと言うのです。へその運動を沢山すれば、健康に成るのです。いくら寒い部屋で寝たとしても、へそだけよく覆い被せて寝れば下痢になりません。

 腹中では、皆さんの口はへそです。この息をする器官が、へそを踏んで上がるのです。その次の口は何ですか。この口です。絶えず上がるのです。

 では、へそに緒をつけたのを、どの様にすべきでしょうか。切ってしまうべきです。

 同じです。空気の世の中で、霊人体が体にくっついて、胎児の様に肉身をすすっているのです。そうして、肉身が老いれば、捨てていくのです。胎児が生まれて、お母さん、お父さんの前に愛の対象に成る様に、霊人体が、霊的父である永遠の神様と相対する事が出来る人として、再び生まれなければならないのは、原理原則です。

 胎児が生まれて、お母さん、お父さんと友達に成る事が出来る所が、地上世界です。お母さん、お父さんと、愛を共にする事が出来る地上世界に生まれるのと同様に、霊的に無限の世界に通じる事が出来る父母の代わりの神様と、愛を分かち合う事が出来る霊界に生まれなければなりません。

水の中の時代があり、

陸地の時代があり、

飛んでいく時代があります。

今日、人間が飛んでいくのをどれほど待ちましたか。飛んでいくというなら、世界で一番の注目の的になります。

 地上で愛を呼吸する人は、死んだのではなく、生きたのです。腹中で呼吸する時は、パイプの仕掛けを通じていました。生きていますが、へそにつながった胎盤を破壊して生まれ出る様に成る時は、新しい次元、高い次元に上っていきます。高い次元で供給されるのです。空気を供給されて出てくるのです。

 腹中から出て何を発展させるのでしょうか。空気ではなく愛です。愛の要素を受けるという事です。御飯だけを食べていてはいけません。御飯だけを食べていれば、死んでいくのです。水を飲んで、皆この様に生きるのは、全部袋、水袋です。全部死んでいくのです。それは、第二の存在です。地上生活では何を満たすべきでしょうか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。

 この地上で、皆さんに必要なものとは愛です。お母さんとお父さんの愛を受けられない子供を、何故「孤児」と言うのでしょうか。あの霊界と永遠につながり得る愛がない為です。それで、一人で独身暮らしをするを、「可哀想だ」と言います。

 死ぬという事は、第二の呼吸をしていた肉体につながった器官を壊して愛の要素を受け継ぐのです。愛は見えません。父母の愛、夫婦の愛、愛を中心として、一つの内的な構造が育っているのです。

 それで、神様の法則の通りに胎内で正常的な赤ん坊として育つのと同様に、地でよく育つべきです。

 とんぼの卵が初め幼虫になって、水の中で泳ぎ回って、地上に上がってきてしばらくの間、はい回ります。その次には、ひらひらと飛び回り、地ではい回っている時には食べるだろうと思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として、飛び回るのです。

 昆虫類の中には、三段階の世界を経るものが沢山います。昆虫といえば、大概羽があります。昆虫も水で、陸地で、空中で暮らすのに、万物の霊長という我々人間に羽があるでしょうか。次元の高い羽があるのです。

 死が第二の出生の、幸福成る関門です。

 死ぬという事はどういう事でしょうか。地上生活は空気中で、胎内の様に泳ぎ回って暮らすのと同じです。空気のおくるみの中で、生きているのです。死ぬという事は、別に変わった事ではなく、第三の人生へと出生する事です。その瞬間が、死ぬ瞬間です。(一一六―一七二、四九―二八五、一三九―二一四)

七 死ぬ前にすべき事

1 最後の境界線を越えよ

 どうせ一生に一度は死にます。ですから、いくら恐ろしい暴風雨がたたきつけても、最後の峠を越えなければなりません。うまく進んで、境界線の前で倒れてはいけません。皆さんは、この様な境界線に立って何をするのでしょうか。皆さんは統一教会に入ってくるのは、うまく入ってきました。皆さんの姿は、各自で自分勝手にできていますが、よく入ってきました。しかし、気をしっかりして走っていっても終わり迄行くか分からないのに、慌てたなら、行って途中で終わってしまうのです。最後の決勝点迄行き、境界線を突破しなければ勝利者に成る事は出来ないのです。

 人として生まれるのは、価値のある事です。後ろから反対し迫害したとしても、自分の行くべき道を行けばいいのです。人が反対しても、関与する余地がありません。一歩一歩運命の道を経ていく人が、最後の境界線を越える事が出来るのです。皆さんは、その様に行かなければなりません。(二四―七七)

2 形状と心情と神性に見習え

 我々は、何時か肉身を脱いで霊界に行かなければなりません。それ故、この世に生まれた我々は、死を覚悟しなければなりません。また、善成る自己を永遠の世界に第二の自分として立てる為には、苦労をしなければなりません。お母さんの腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善成る赤ん坊として生まれるのと同様に、この地上世界での生活は、腹中での生活と同様なのです。

 それ故、神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の聖成る神性を見習って育たなければなりません。育って、また生命を懸けて越えていかなければなりません。(一四―一七)

3 罪を犯すな

 皆さんは「心がまっすぐだ」という話をします。電信柱がまっすぐだという時、一直線に立っている事を言います。心がまっすぐだというのも同様です。それで、人は立って歩くのです。垂直にならなければなりません。

 自分の心を完全に垂直に成る様にすべきです。そして体が水平線に成るのです。遠心力、求心力があるべきです。垂直から引いてくれる力と、回る力が均衡を取らなければならないのです。それ故、自分を探さなければなりません。

 自分が「自分だ」という時は、神様が「そうだ」と言うべきであり、「真の父母」が「そうだ」と言うべきなのです。その次に、親戚、一族、一国が正しいと言わなければならないのです。糾弾される者は、問題になります。

 これからは、大陸を中心として、寒帯地方と温帯地方を分けるのです。罪を沢山犯した人は、北極に送るという時が来るでしょう。

 伝染病患者を隔離する様にするのです。(二〇二―二八〇)

4 世界の為に生きて死ぬべし

 先生は、アジア情勢や韓国民族を中心として苦労したのではありません。世界的な分野で、どの様に責任を果たすでしょうか。その為に、死ぬ事が出来なければなりません。

 この様な事を考えてみる時、皆さんは世界の為に生きて死ななければなりません。世界的でなければなりません。では、どんな立場で死ななければならないのでしょうか。世界的な場に立って、愛する妻を抱き、家庭を抱き、氏族を抱き、民族を抱いて死ななければなりません。統一教会は、今、氏族を編成して、民族を編成していっています。

 それ故統一教会の先生は、死んでも、どんな立場で死ぬのでしょうか。民族と大韓民国迄そっくり抱いて、世界の為に死ぬでしょう。韓民族が一つになって、世界の為に死のうとする時は、世界と共に生き得る道がある為に、その道を探していくのです。(三四―一九三三)

5 多くの仕事をせよ

 皆さんは、どの版図で働くでしょうか。お金が必要なら、お金をかせいで、人がいなければ、人を育てる為に寝ずに、食べずにしなさいと言うのです。誰かに助けてくれと、絶対言うなと言うのです。本部にも絶対そうせず、助けてあげなければなりません。普通の人の三倍以上をすべきです。

 それ故、私が七十年を生きたとしても二百十年生きるのと同じです。皆さんも百歳迄生きると思わずに、七十歳迄生きても三倍働く様になれば、二百十歳迄生きる事になります。十倍する様になれば、七百年を生きるのです。二十倍する様になれば、千四百年を生きるのです。一生の間、二十四時間を働くのです。そうしてこそ、霊界に行って実を結び、愛の所有が多く成るのです。愛の財産が多く成るのです。自分の所有が多くなって、活動舞台が広く成るのです。(一〇二―三八)

6 公的な仕事をせよ

 天の法度とは何でしょうか。公儀を優先する事です。私的な事はサタンのものであり、公的な事は神様のものです。皆さんは、公儀の為に行くべきです。その様な路程で、全ての人達がいくら反対したとしても、自分に損害を受けずに、難しい道も生命力を持って行く人がいるなら、彼は春を迎える天国人に成るでしょう。(四七―二七二)

 皆さんが市場に行って見ても、店の主人が自分の欲ばかり張る様になれば、お客が物を買いに来ないのです。自分の欲ばかり張れば、誰でも嫌がります。公的な仕事や、私的な仕事を中心として見ても、治め得る方法と秘訣を知らない人は、一人もいません。それ故、「知らなかったので天国に行けなくなった」と言い訳をする事は出来ないのです。何故でしょうか。公的か、私的かという事は、教えてあげなくても分かるのです。

 例えば、皆さんのお母さんが、皆さんのお姉さんや皆さんに美味しいもちを全く同じに分けてくれたのに、皆さんは皆さんの分を皆食べて、お姉さんは食べずに真心込めて保管しておいたとします。それを、寝てからそっと起きて、一人で食べようとすれば、「こ何時!」と言うでしょう。その様な気がしないなら、人ではありません。そう成るべきなのです。何故でしょうか。皆さんの心は、公的なものを追求する為です。私的な事についていけば、滅びるのです。

 本来、天法に従っていけば、自分自身が滅びるのを防備してくれ、保護してくれようとする心があるのです。本来あるものとは何でしょうか。これは、神様に本来からその様な心があるので、人間にも本来からある様になったのです。自分が作った法でないという事です。「良心よ、私がこの様な為にこうだ」と、そう言いますか。「私の考えがそうである為に、そうであるべきだ」と命令するとして、良心が作用しますか。どこだか分かりませんが、他の所から命令を受けるのです。その様な感情が、自分を支配する事を見る時、これは公私問題を中心として支配するという事が分かるのです。(三一―二四一)

 今日、人々は、自分の生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で、内外にひっくり返って行ったり来たりして、結局は私的におぼれる場合が沢山あります。しかし、その様になれば、滅びるのです。ですから、過去は私的な生活であったと悔い改め、再び公的な生活の為にこれを歯を食いしばってやらなければなりません。そうして行ったり来たりして私的な側に入り込む時が多くなり、そうしてみると公的な善とは遠ざかる生活をします。これが今迄の信仰生活です。それ故、私的な生活をする全ての人達は、悔い改めなければなりません。(三一―二四一)

 皆さん、福を受けるのを願いますか。永生するのを願いますか。そうするには、公的な人にならなければなりません。子供を教育するのに、自分の息子、娘だけ愛するなと言うのです。世界の人の為の、祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子供を 懐に抱いてお乳を飲ませる時は、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した幼い赤ん坊にお乳をやるという心で飲ませなければなりません。そして、自分の子供だけかわいいという様に対そうとするのではなく、人の子も自分の子のようだという心情で対する母に成るべきです。その様な母のお乳を飲んで育つ赤ん坊達は、必ず偉大な人に成るでしょう。すぐには駄目でも、一代、二代を経ていく間、必ずその後孫の中に、世界を支配し得る人物が誕生するでしょう。これは公式です。(三一―一六八)

 では皆さんは、私的な蕩減の為に自分の一生を投入しますか。そうでなければ、公的な蕩減の為に自分の一生を投入しますか。一生を投入するのは同じですが、公的な蕩減の為に公的な環境に一生を投入すると生命を懸けて立ち上がる人は、偉大な人物に成るのです。その様な群れによって、新しい歴史は創建されるでしょう。

 では、その様な主管を前にしている我々は、残った時をどの様に埋めればいいのでしょうか。これが今から皆さんが行くべき試練の路程です。それで、自体の生活で、個人的な生活をするのか、公的な生活をするのかという事が問題になります。自分自身の生活で、自分が何を食べて、何を買って売ってという全てが、誰の為のものでしょうか。自分の為のものでしょうか、神様の為のものでしょうか。また、問題に成るのは、それが公的な生活か、私的な生活かという事です。そして、皆さんの感情が私的な感情か、公的な感情かという事も問題に成るのです。

 公的な道を行く為に誓うべきです。歴史を蕩減させるべき使命を負った人なら、誰でも願う立場迄進まなければなりません。それ故に、生活の中で私的な感情を超越して、公的な感情をどの様に体得するかという問題が、信仰者が重要視すべき問題です。

 罪とは何でしょうか。罪は、私的な所で生まれるのです。滅びるのも、私的な基準で繰り広げられるのです。悪も同様です。私的な事が度数を超える様になれば、悪として現れるのです。私的な事には限界があり、その限界を超えれば、悪くなり、滅びる様になり、罪を犯す様に成るのです。

 では、永遠に善であり得、永遠に繁栄する事ができ、永遠に福を受ける事が出来る立場とはどこでしょうか。滅びる事を避け得る立場、罪と成る事を避け得る立場、悪く成る事を避け得る立場とはどこでしょうか。それは、正に公的な立場です。御飯を食べても、公的な立場で食べなければなりません。仕事をしても、公的な仕事で、言葉を話しても公的な言葉で消化しなければなりません。この様に、一切を公的な事と関連づけて暮らさなければなりません。その様な人は、地獄に行こうとしても行く事が出来ないのです。(三一―一六四)

7 愛を体恤すべし

 皆さんは、自らが「私だけだ!」と、自分だけを考えればいいのでしょうか。皆さんは、皆さん自身だけで存在しているのでしょうか。皆さんから、お母さん、お父さんの要素を抜き出して、供給された全ての万物の元素を抜いていけば、皆さんはなくなります。それ故、「私」という存在とは何でしょうか。お母さん、お父さんに代わる立場です。お母さん、お父さんを通じて生じた腹中時代を経て、お母さん、お父さんの血と肉を受け継ぎ、供給されて生きるのです。

 それで、今日地上時代には、「宇宙の母、万物の母」です。これが地です。地球星が母なのです。元素を皆さんに供給してくれます。他の段階の元素を供給してくれる母なのです。母の腹中で育つ様に成る時に、腹中で呼吸するのに、何で呼吸するでしょうか。へそで呼吸します。へそが母の体とつながったホースです。

 しかしながら、第二世界、空気の世界につながった事を知っています。腹中で暮らしてから、けってしまって出てくれば破壊です。その時は、泣くのと同時に何につながるのかと言うと、ひよめき、鼻の穴で息をする様になっている、空気の世界につながるのです。鼻の穴が絶対補給路です。では鼻の穴をふさいで生きる事が出来るでしょうか。息が出来なければ死にます。二重構造になっています。

 腹で空気の世界に出てくる時は、腹中世界で暮らしたへその緒と水袋を皆破壊して出てこなければなりません。その器官、腹中のへそと胎盤は破壊されて死ぬのです。死ぬのと同時に、何が出てくるのでしょうか。この宇宙、地球星の母に現れるのです。こうして、口で元素を補給されて生きているのです。

 腹中から出て、この体は何をすべきでしょうか。腹中でへその緒で息をするのと同様に、空気のパイプである鼻の穴を準備して、どっと出てくる時に取り替えて息をするのです。そして、今この世界ですべき事とは何でしょうか。生まれてすべき事は、愛というものを体恤する事です。愛という空気を吸わなければなりません。お母さんから、お父さんから、愛の空気を吸わなければなりません。愛の空気を供給され、経ていかなければなりません。一家庭に赤ん坊として生まれて、サインカーブと同様に、上がれば下がらなければなりません。赤ん坊として生まれて成長して、年を取って死ねば分解されていくのです。赤ん坊として生まれて、赤ん坊に帰るのです。

 その様に成る時は、どの様に成るのでしょうか。第二の腹中世界をけってしまい、第三の愛の呼吸器官につながらなければなりません。父母の愛、兄弟の愛をけってしまい、大宇宙の神様の本体に和した愛の世界に入ります。霊界は愛の空気です。愛の空気で一杯に満ちています。それ故、皆さんは、今この地上世界で愛の息をする事が出来るパイプ装置をしなければなりません。それで、霊界の体験が必要で、霊的愛を感じる事ができて、呼吸する事が出来る人になってこそ、死なないと言うのです。

 この地球星の母の腹の中をけってしまって立ち上がる時、皆さんは愛の呼吸器官で息をするのです。第三の愛を受け継いでこそ、永生を得ると言うのです。それで、愛をつなげてどこに帰るのでしょうか。神様に帰るのです。愛の呼吸器官につながって、霊界に帰りますが、神様の本体に帰る道が残っているのです。種が出てきたなら、それは本体から出てきた為に、結果を結んで本体に帰るべきです。

 それで、人生行路は、旅人の行路ですが、ここで備えるべきものとは何でしょうか。愛の体恤をして行かなければならないのです。母と父の愛をよく受けられなかったのが堕落だから、真の父母の愛、真の兄弟の愛、真の夫婦の愛、真の息子、娘の愛を中心として、縦的な家庭をなして、横的な環境を、東西南北に多くの家庭たちを並べておかなければなりません。それで、彼らが縦横を繋げる事が出来る真の家庭の形態をなして、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏につながる様にする時、愛でつながったその世界を天国と言うのです。(一三九―二一二)

八 霊界に行く前に残すべき事

1 愛の墓を残すべし

 普遍的に人は永生を中心として十年、百年だけでなく、千年、万年、億千万年を考える様になります。人が死ねば、動物と同様ですが、それを残して何をするでしょうか。このごろは、宗教を信じないで、神様を知らない人も、「ああ、名誉を残さなければならない」と言いますが、その名誉を残して何をするでしょうか。アメリカの愛国者になって、記念館に入っていても、アメリカが滅びる様に成る時は、消えるのです。名前を残して何をするのでしょうか。ですから、滅びたり繁栄したりする歴史時代に残ったとしても、良いというものも、悪く扱われるのです。(一〇三―一六)

 地上に生きている神様の息子、娘を残す為のものが、神様の目的です。それ故、自分が霊界の神様の前に行っても、地上に生きた神様の息子、娘を残す立場に成る時は、自分も神様と同じ立場に立つ様に成るのです。それが聖書の「うめよ、ふえよ、地に満ちよ」というみ言の意味です。(一四六―二二三)

 生涯に何をすべきなのでしょうか。愛の墓を残すべきです。愛の墓を残していこう! 愛の墓の中で暮らせば、恨がありません。墓の様な所で、いくらじっと暮らしても、愛の中で暮らせば恨がないのです。我々が暮らしながら愛の墓を残せば、人生は永遠において成功するのです。その様に皆さんが暮らして死ぬ時は、霊界で神様が息子、娘を連れて歓迎に出てくるでしょう。その時には、指輪をはめられなかった手なら、天国のダイヤモンドをはめてくれるだろうし、服を着れなかったなら、天国の皇族たちが着る最高の服を着せてくれるでしょう。(九七―一六九)

2 霊界の所有権は伝道で決定

 霊界での自分の所有権とは何かと言うと、天国の民をどれほど連れていったかという事です。それが自分の財産です。永遠の財産です。今からは、それを問いただすべき時が来ました。一日に何百万が伝道される時が来ます。統一教会には、その様なすごい内容があるのです。世の中を見てください。今死ぬか生きるか、人生とは何か、空中にさまよい歩きながら、落ち着く事ができず、狂った様に回って自殺する人がどれほど沢山いますか。(二一八―二二七)

 霊界に行けば、愛の懐が大きいほど、その懐に入ろうと列をなす様になります。その人は、あの世で尊敬されるのです。千人、万人に囲まれて、「あ! この人と一緒に暮らしたい」という声を聞く様になれば、その人はそれほど領土が大きい金持ちに成るのです。

 あの世の金持ちは、どんな人でしょうか。愛の為に投入した人が金持ちなのです。

 伝道とは福を集める事です。愛の福を集めるのです。天のものを奪っていったサタン世界のどろぼうたちに、主人が愛で探すのです。お前のお母さん、お父さんを私がもっと愛するという、愛の心で訪ねていき、愛に因縁づけられた全ての福を取り入れるという事です。

 冷遇を受けるとしても滅びるのではありません。その後ろには数限りない聖徒が従い、万物がついてくるのです。ついてくるから、自然に金持ちに成るのです。(二〇五―三四七)

 霊界に入っていく時、お金を持って行くのではありません。サタンの息子、娘を収拾すべきです。一人が百二十名以上収拾しなければなりません。天国の民を皆失いました。それを接ぎ木して、失わなかったという条件を立てなければならないのです。

 霊界の十二の真珠門を経ていく為には、地上でサタンから天の民を探さなければなりません。そうする為には、涙と血と汗を流さなければなりません。再創造の真の愛の心情を中心として、サタンの父母以上、サタンの夫と妻以上、息子、娘以上の心情を投入して、涙とともに交差する過程を経ずしては、天国の自分の民を所有する事は出来ません。この数の比例に従って、あの世の栄光の立場に、神様の前に近づく条件が成立します。(二一一―三五二)

 これから、霊界に行く時、何を持っていくかと言うと、お金を持っていくのではありません。統一教会の名前を持っていくのでもありません。これから皆さんがすべき事とは何でしょうか。神様が愛する事の出来る息子、娘を、どれくらい沢山つくるかという事が問題です。人々が赤ん坊を産むとしても、何人かしか産む事が出来ません。それは、誰もが出来る事です。

 復帰過程で経ていくべき事とは何でしょうか。皆さんがサタン世界で、神様が愛する事が出来る多くの息子、娘をつくる様に成る時、その功労は先祖とつながって、また、先祖を解放させる事が出来る道が繰り広げられるのです。これが復帰路程において、自分が取る事が出来る最大の贈り物です。

 いくら教区長をしたといっても、信仰の息子、娘がいなければ、あの世に行く時、空き缶を持って行くのです。自分を中心として一人もぶら下がっていない為に、そうなのです。

 天国は、無限の世界なのに、そこでは愛の心情でつながる事が出来る橋がなければならないのです。それ故、自分が伝道した人が世の中に沢山広がっていれば、霊界に行っては、それほど広く往来する事が出来る道が生じるのです。全部が自分と因縁を結ぼうとします。

 地で解いてあの世に行く様になれば、霊界で解く事が出来る相対的関係になっているから、膨大な活動基盤に成るのです。それが全部、自分の所有に成るのです。それ故、自分が活動する舞台は、その基準を中心として全霊界に通じる事が出来るのです。それがなくなれば、コーナーに追われて活動しにくいのです。ですから、歳月を送って休む間がありません。

 御飯を食べて暮らし、息子、娘を食べさせて育てる事は、あの世に行く様になれば大した事ではありません。それ故、天国の民を訪ねていかなければならないのです。それが天国では自分の所有に成るのです。

 それ故我々が、早く世界人類を、この世を消化しなければなりません。早く消化すれば、霊界の全ての霊たちも再臨復活していく様になっています。今、長子権がサタンの基盤ですが、神様の基盤として逆さまになれば、アダムが長子権をもてば、天使長はアダムの言う事を聞いて、ついてくる様になっています。絶対服従する位置に行く様になれば、神様の愛とともに、アダムの愛の圏内にある為に、自然に天国に入るのです。原理がそうなのです。

 地上で人間が、この責任を果たせない事によって、裏返しになった為に、人間がすべき事は、裏返したものを再び解かなければならないのです。蕩減復帰して、道を開いてあげなければなりません。ですから、伝道という仕事がどれほどとてつもない事かを知るべきです。それ故、自分が何人を永生圏内に受け付けさせるかが問題です。統一教会という看板をつけては、何の役にも立ちません。

 イエス様がエルサレムに上った時、いちじくの木に実があると思って行ってみたのに、実がなくて、それを呪う事によって、いちじくの木が枯れて死んだのです。ちょうどその様に成るのです。うわべだけ良くてどうしますか。それ故、自分が祝福家庭を何家庭つくったかという事が、皆さんに収穫と成るのです。

 百二十名、何百名を伝道しなければなりません。それもできずに、自分の息子、娘を愛するというのはあり得ません。原理を見ると、百二十名を伝道しなければなりません。百二十家庭は、イエス様の世界国家を代表したのです。四百三十家庭は、一国を中心として、その中にある名字と同じです。四千三百年を中心とした四百三十家庭です。それは名字と同じ様に、国民が天国に入る事が出来る門を開いておいたのです。門を開いておいたのであって、入ったのではありません。

 これは、空論ではありません。理論です。歳月をそのまま送るなと言うのです。青春時代に息子、娘を産んで、育ててこそ、後代に誇り得る基盤を残すのと同じです。また、その子供たちが、立派な人になってこそ、歴史に誇る事が出来るのです。その様な歴史に対して、誇り得る実績がなければ、自分の一家や町内ではグループに入れますが、国には入れないのです。国に入る為には、歴史の伝統に残り得る実績がなければなりません。

 それ故、誰でも国に何かを残すのを願い、世界に何かを残すのを願い、天地に何かを残すのを願うのです。同様な道理です。それ故、自分の所有版図をどの様に確定するかという問題が、終生の目的だという観念を確実にもたなければなりません。それ故、み旨の道で「嫌だから辞める」と考える事は出来ません。

 先生が監獄に入って苦労を一人でしたとしても、その責任を持つという事は何の為でしょうか。その環境で、苦労する人達を救ってあげるという事です。苦労する環境で、自分たちが利益になり得るなら、ついてくるのです。ついてくる事によって、収穫に成るのです。霊界に行く時、これを全部公的なものとしてもてなされる為に、その人は天国の一番高い位置に行くのです。

 国民教育をよくすれば、その国が繁栄するのです。同様の道理です。天国の生命圏を中心として、これをどれほど悟らせて、精神を正して、自分以上の実績を残し得るかという事が問題です。その様に成る時、世界は早いうちに復帰されます。それ故、精誠を尽くして育てなければなりません。

 先生もそうです。先生が今迄み言を語る様になれば、五時間、六時間ずつしますが、その様にしたくてするのではありません。その骨子は簡単です。十五分話す内容にもなりません。しかし、それを中心として多方面の人達に、来た全ての人達に、いろいろな例を挙げて分かりやすく説明して、その人達をその圏内に共に同参させようとしてそうするのです。目的は、春が来る様になれば、何としてでも種を沢山蒔こうという事です。種を沢山蒔いておけば、沢山生えるのです。

 では、種を蒔くには、どこに蒔かなければならないのでしょうか。汚れない場に蒔こうとすべきです。汚れない場とはどこでしょうか。青少年たちです。分かりますか。その時一度植えておけば、一生持つのです。その時一度植えておけば、抜いてしまう事が出来ません。

 人は、どの時が一番鋭敏でしょうか。小学校の時が一番そうなのです。中高等学校に行けば、だんだん希薄に成るのです。大学に行く様になれば、その隣町を経ていくのと同じです。旅をしてきて何かをする様に成るのです。一番難しいのが小学校の時です。その次に中高等学校の時です。時がたつほど、だんだん薄らぐ様になります。ですから、その時に生命の種を蒔かなければならないのです。

 子供たちと遊びながら、童謡も教えてやり、話もしてやれば、それが自分の将来の為の永遠な財産を積むのです。年取った人達も、会いさえすればみ言を証すのです。統一教会の指導者達は、この様な事がよくできていません。

 バスに乗る様になれば、十人に、どこに行くのかと聞きながら、親しくなればもう一度会って話をしようと言って、また会えば原理のみ言を伝えるのです。いくらでも伝道する事が出来るのです。材料はいくらでもあるのです。伝道しようとするなら、自家用車に乗って回る事より、バスや地下鉄に乗って回るのが良いのです。通勤時間に一つのコースだけ行っても一年十二カ月を毎日通ってみると、顔が分かる様になります。ですから、挨拶する様になれば、互いが受け答えする事の出来る人脈がつながり得るのです。その様な道が通じているのに、何故歳月だけ送るのかと言うのです。

 御飯を食べる事よりもっと重要な事が、天国の民を取り入れる事です。それが我々には、うまくいっていないのです。それが本職です。この地上に生きる我々の本業です。生涯にすべき事の中で、それ以上貴いものはありません。就職して出世したり、お金を集めたりしたものは、皆流れていくのです。あの世で、お金は何の役にも立ちません。あの世では、物質が必要でなく、知識が必要ありません。習わなくても、心が先に分かるのです。一週間以内に、何でも皆通じるのです。

 そして、あの世では、権力が必要ありません。霊界で必要なのは愛を中心とした和合力です。愛を中心とした感化力です。それ故、愛を中心として感化力をもてなかった人は、愛で感化され得る本然の世界に行っては、本質的に和合をせず、反発するのです。それは地獄に行くのです。

 皆さんが、今迄統一教会に入ってきて、暮らしながら働くと言いますが、どの立場で働いたかを考えなければなりません。方向がどこで、位置がどんな場なのかを何時も考えなければなりません。その様になって、祈祷すれば、神様が自分と共にされると言うのです。その様になって、目をつぶりさえすれば分かります。祈祷をしなくても分かるのです。どこかに行って話せば、言葉がすらすらと出てきます。良心のある人に行けば、自分がずっと引かれて入っていくのです。

 全部が相対的です。花も、自分と相対し得るものを引っ張る力があるのです。自分の主体や対象になれば、引っ張るのです。初めて会ったと言って、相手にならないのではありません。磁石がそうです。その本質は、永遠に不変です。それと同じ様に、その様な所に行く様になれば、心がうれしく、言いたく成るのです。その境地に入れば、話すまいとしても口が開くのです。

 皆さんが、これからあの世に行って、復帰歴史をされる神様の前に、一人のアダムを探す為に、今迄苦労した神様の前に行って、何と言うでしょうか。神様は創世以後、今迄アダム完成者を探してきました。そして皆さんは、原理を知りました。これは数千、数万の民を救う事が出来る武器です。今迄神様が人間に教える事ができず、知らないうちに摂理されました。それに代わって、地上で神様の理想の仕事を我々がするのです。我々には原理で数百、数千のアダムを教化して連れていく事が出来る道があります。

 ですから、生命とつなげなければなりません。永生問題は、深刻な事です。春になれば、娘たちが山菜を摘みに探し回るのと同様に、自分が要求するものがどこにあるかを探し回るのと同様に、皆さんは一生をその様に生きていかなければなりません。そうして、相手が現れれば、夜通しで彼の為に原理のみ言を伝えてやるという心をもたなければならないのです。一度会って感動を与える為には、精誠を尽くさなければなりません。

 皆さんがすべき事は、天国に連れていく事が出来る息子、娘を探す事しかありません。いくら億千万の金を持って、豊かに暮らしても、その様に皆流れていくのです。自分の全ての物質と知識と生命迄、投入してでも、しなければなりません。それを別々に投入するのではなく、「一遍に投入して天国の民をつくる」と言うべきなのです。投入する全体が加重するに従って、その価値は比例していくのです。

 ここの統一教会の長という人達、肩に力を入れて誇り、その様に考えるかもしれませんが、恥ずかしい事です。自分を中心として、いくつの生命を救ったかが問題です。

 皆さんが、どれほど永遠に天の前に功績を褒めたたえられるかという事は、どれほど天国の民を収穫して取り入れたかという問題にかかっているのです。それを取り入れる鋤が今迄はありませんでした。知らないから出来なかったのです。ですが、皆さんには背負子があります。熱烈にみ言を伝える様になれば、爆発的な収穫を収める事が出来るのです。しかし、その様な内的な実力を持って歳月を送っているので、神様が雷を落としたいはずです。

 夜十二時が問題ではありません。明け方が問題ではありません。夜も昼もそれが問題ではないのです。天は、それを受け入れるのを願いますが、「ああ、私は眠りたいです」と、そう言えません。その立場は直行する立場です。

 永生問題を教えてあげなければなりません。これからは、皆さんが責任をもたなければなりません。それ故、今迄私は、統一教会に反対する人を呪う事が出来ませんでした。天は、自分と関係を結び、決定づけるのを願うのに、その人が落ちれば、我々の統一教会の責任だと言うのです。先生が責任を取らなければなりません。サタンによって、世の中が反対する様になりましたが、その反対される環境を早く克服すべき事が、我々の責任なのです。それが出来ない事によって、被害を受ける全ての環境は悲惨なのです。

 それは、赤ん坊にお乳を飲ませるのと同じです。赤ん坊を産めば、お乳を飲ませなければなりません。それ故、会いに訪ねてくるのです。訪ねてくれば、絶対冷遇してはいけません。先生も一生をその様に暮らしています。誰が夜十二時にここに入ってきても、その人が行きたがらなければ、自分が座り続けるのであって、「行け」とは言いません。その人は、必要なものがある為に行きたくないのです。それなら、み言を語ってあげなければなりません。先生は一生をその様に暮らすのです。絶対事務的ではありません。霊界は何時も覚めています。

 皆さん、統一教会員たち同士けんかをし、一人でも落ちれば、その被害は大きいのです。その人がこれからみ旨を知って、天の前に自分の責任を果たす時、何千名、何万名を救う事が出来る、自分よりましであり得る、驚くべき事もあり得るのです。ですから、人事措置を誤れば、全部引っ掛かるのです。それ故、自分が低い所にいて、皆高い所に置こうとすれば、引っ掛かる所がありません。それが謙遜だと言うのです。

 しかし、誤れば下がります。夜に妻と子供たちがいる部屋に入る時、父として責任を持って、夫として責任をもたなければなりません。夫がうまくすれば、あの世で妻が自分についてくるのです。もちろん、その父の家に入る為には、訓練過程がありますが、ただそのまま行く事ができれば早いのです。あの世は、許しのない世界です。その世界に拍子を合わせる為に、今準備をするのです。

 その事の為には、飢えてもしなければならないのです。「御飯を食べてきて、しよう」と言ってはいけません。今ダイナマイトの導火線に火がついて、爆発するはめになったのに、御飯を食べては出来ないのです。深刻なのです。それ故、永生問題をどの様に繋げるかという事が問題です。

 電気で言えば、全部送電所を経て、配線器具につながってこそ明かりがつくのと同じです。発電所の電気がここに来ているのです。つながってこそ残ります。

 それで、信仰の息子、娘を自分の息子、娘よりももっと愛し、信仰の息子、娘は、信仰の父母に、自分を産んだ母よりももっと「為」にしなければならないのです。自分を産んでくれたのは、サタン世界の父母ですが、信仰の父母は天の世界の父母の為に、自分を産んでくれた母よりももっと「為」にしなければならなりません。そして、信仰の息子、娘達は、全部自分を救ってくれた人の子供たちを精誠を込めて育てて、結婚させてあげるべき責任があるのです。み旨がそうなのです。ですから、その子供たちを全部育ててあげなければなりません。

 それ故、永生問題とつなげなければ、全てが無駄です。彼らがみ言を聞いたとして終わるのではありません。催促し、催促して、祝福の場に迄出させなければなりません。祝福を受けなければならないのです。それで、祝福を受けて伝道する様になれば、それは自然につながるのです。難しい環境のサタン世界で、迫害を超えていく事ができれば、その人は、既に生命の道に入るのです。祝福を受ける所迄行けば、終わるのです。

 そして説教をしても、「私」というものが生きていてはいけないのです。血と汗を流しながら、話さなければならないのです。出産の苦労をしなければなりません。涙を流しながらしなければなりません。皆さんの目から涙が乾く様になれば、それは偽者です。(一九九二・四・一五)

3 息子、娘を沢山生むべき理由

 統一教会の人達は、神様を知らない人がいません。霊界を信じます。愛から始まって、神様から分かれて出てきて、結局は神様に帰る路程です。

 霊界に行けば、本当に一心同体になった夫婦は、何時でも男が女になり、女が男に成る事が出来るのです。愛は一体だと言います。女の中をのぞいてみれば、男が入っています。その夫が入っているのです。神様の二性性相と全く同じです。性相と形状、それが分かれて出てきた為に、その本体に帰るには、愛のはしごに乗らなければなりません。創造の基準が愛から始まった為に、このはしごに乗って入らなければなりません。結局終着点は、神様と共にするのです。

 霊界では赤ん坊を産みません。霊界は縦的な世界です。神様を中心として円形を成した世界なので、赤ん坊を産む必要がないのです。横的な基盤が必要である為に、人間を、体として造ったのです。繁殖する畑です。霊界の民は、全部この地球から行くのです。この様に考えてみれば、今産児制限を何故すべきなのか分かりますか。それは、天命によるものです。悪成る血統をこれ以上繁殖させるなと言うのです。

 統一教会の祝福家庭は、どれほど天国の国民を繁殖させるかという事が財産です。信仰の息子、娘より、自分が生んだ息子、娘がもっと価値があるのです。信仰の息子、娘は、祝福という関係を知りません。その様な息子、娘をどれほど残していくかによって、天国で自分の位置が決定されるのです。(二〇五―九九)

 完成は地上でするのであって、霊界でするのではありません。地上で「真の父母」を中心として、可能なのです。霊界ではありません。それ故息子、娘を生まなければなりません。息子、娘が正に天国の民に成るのです。皆さんの息子、娘が、理想的な天国の民に成るのです。ですから、皆さんが息子、娘を沢山産まなければなりません。本来は十二方向以上にならなければなりません。それで、先生が十二方向以上を願います。(二一七―一三〇)

 息子、娘がいなければ、天国が繁栄しません。ですから祝福家庭達は、地上で産児制限してはいけません。飢えて死んでも、全部霊界に行きます。飢えて死んでも、愛の中で飢えて死ねば、天国に行くのです。それ故、サタン世界は産児制限しますが、統一教会では産児制限をしてはいけません。

 先生がみ旨の為に苦労しましたが、飢え死にはしませんでした。我々は飢えて死ぬ様な場に行っても、生きる事が出来るのです。その様な訓練が、皆できているのです。

 絶対的な愛の為に、全てを犠牲にする様に成る時、神様も調節する事ができ、サタン世界も調節する事ができ、天運も調節する事が出来るのです。調節するのは何でしょうか。神様がついてくるという事です。神様がついてきて、この世界がついてきて、天運がついてくるのです。(二〇一―一三三)

 皆さんは、地上で子女を立派によく育てて残していかなければなりません。将来、その子女は全て霊界に行くのです。霊界に行って、天国の国民に成るのです。自分が何人を天国の国民として捧げたかという時、地上ではつらい事でしたが、永遠の世界では、それが高貴な栄光の道に成るのです。

 地上では、教育とか、食べさせる事の問題で、とても苦労します。しかし、霊界では、食べるものは問題ありません。着る事は問題ありません。暮らす事は問題ありません。出来るだけ沢山、沢山いればいいと思うのです。(二一八―三一九)

 霊界に行けば、繁殖がないのです。神様は、縦的な父母の立場でいる為に、一点しかないのです。(二二一―二〇四)

 神様がする事とは何でしょうか。世の中を救う事です。霊界に行った全ての次元の高い人達の仕事とは、地の仕事です。地とはどんな所でしょうか。天国の国民を生産する生産工場です。広大無辺な天国です。

 一人が子供を約百人ずつ産んでも、天国は広いので過剰生産という事はありません。あの世は、いくらでも収容する事の出来る世界です。産児制限してはいけません。あの世に行けば、天国の民を、どれくら何時くって率いてくるかという事が問題になります。真成る天国の息子、娘を沢山率いてくる時、それが自分の権益になり、天上世界で表彰され得る等級の等差を設定し得る資料に成ると言うのです。(二〇二―四〇)

九 死の前での姿勢

 イエス様が皆教えてくれました。「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と教えてくれました。世の中に、その様なでたらめな言葉がどこにあるでしょうか。その様な言葉はありません。しかし、その言葉は事実です。

 では、死ぬのは何故死ぬのでしょうか。死ぬ目的とは何でしょうか。生きる為にです。生きる事には何かの目的があるのです。生きていく人間の目的は、全部違います。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主成る貴方の神を愛せよ」(マタイ二二・三七)というのは、何の為でしょうか。神様の息子に成る為です。神様を愛する為に、首を差し出せという事です。その首が一つしかないのに、差し出せと言うのです。どこに行って死ぬべきでしょうか。あのどん底に行って死ぬのではなく、最高の立場で死ななければなりません。

 それ故、天国を中心として死ぬべきです。天国は世界のどの国よりも大きいのです。天上天下の、一つしかない天国で死ぬのです。

 では、どこで死にますか。これが問題です。死ぬのにも方法があるのです。死ぬのにも場所があるのです。つまらない韓国的なものを持ってしてはいけません。韓国的なものを持ってしては、いくら死んでも駄目なのです。最高の立場、神様の心情の国を中心とした、最高の立場で死ぬべきです。天国の真ん中で死ぬべきなのです。その天国が一番です。天下が、旗を掲げて歓迎する立場で死ぬべきです。(三四―一八四)

 今日、我々は最後の復活の一日、希望の一日を願っています。全ての人が願っている、その希望の時は、万民が楽しむ事が出来る希望の時とはいえ、その時はたやすく近づいてくるものではありません。そして、その希望は、死に勝った者だけが所有する事が出来ます。その希望は、神様と共に、サタンと戦った者だけが占有するでしょう。その希望は、天の為に、神様と共に迫害を受けた者であってこそ、占有するでしょう。

 この様な時が、我々の前に来るという事を考える時、この生活環境を乗り越え、死の恐怖迄も乗り越える事が出来る切成る心をもたなければなりません。その様な切成る心が、皆さんからわき出なければ、その希望の一日を皆さんの生活圏内に引き込んで暮らしていく事が出来ないのです。

 それ故、真の生活をするという人は、「私がどんな姿で死ぬのか」という事を考えるのです。八十年生きて死ぬその時間になってやっと、「私はどんな姿で最後の一日を飾るだろうか」と言ってはいけないのです。イエスは死の場に行って「全てが終わった」、「父よ、私の霊をお受けください」と言いました。やはりその方は、人生行路に勝利された方でした。

 皆さんは、これからある一日に死ぬ様になります。そして死を前にして過去を回顧しながら、その時、どの様な一言の言葉を残して行くか、という事を考えなければなりません。

 この道は、友達もいないのです。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人で行くべき道です。再び行ってみる事もできず、行って帰ってくる事もできず、一度行けば永遠に帰ってくる事が出来ない道です。この様な道を行く様に成る時、皆さんはどの様な心を持って行くのでしょうか。皆さんが死に逢着するその瞬間に、その死を乗り越える事が出来る希望がなければ、そこで最後です。

 今日迄神様のみ旨を奉じて、神様のみ旨を立ててきた数多くの人達は、どの様な人達がいるかと言うと、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と乗り越えた人達でした。その様な人達が、天の道を立ててきました。

 皆さんは、死に逢着する様になっても、それを乗り越える事が出来る希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えてしまえば、自分は天の前に堂々と立つ様に成るだろうという希望と、心で憧れた本郷に向かって、喜びで走る事が出来なければなりません。神様の理想世界を希望する心が切実であってこそ、死に勝つ事が出来る存在に成るという事です。

 世の中の万事は、皆過ぎ去ってしまいます。愛する父母、愛する妻、愛する全ては、皆過ぎ去って、あとには死の前に逢着する様になります。しかし、その死迄も過ぎ去ってしまう様に成る勝利的な希望をもった人であってこそ、この天の前に立つ事が出来ます。

 今日、地上に生きている人間達は、苦痛の道や悲しみの道を願いません。ある喜びの場面があれば、その喜びの場面が過ぎ去るのを惜しく思い、懐かしむのが人間の心性です。

 我々が生きているこの地は、悲しみと喜びがひっくり返っている世の中です。我々が楽しんでいるこの全ての喜びは、死とともに消え去る喜び、すなわち死を越えて残り得る喜びになり得ないと言うのです。

 では、悲しみが死とともに消え去り、楽しみも死とともに消え去れば、人間が喜びを探して、もっと良いものを願い、永遠の世界に憧れるその心も、死とともに終わるでしょうか。違います。心がその様な方向に動き、心情がその様な方向に動くという事は、その様な世界が実際にあるという証拠です。

 人間は、霊的な存在であるゆえに、その生命は永遠です。天の前に忠誠を尽くし、天の為に死の道も行き、多くの人が嫌だという道も希望を抱いて行った人がいれば、彼は普通の人達が感じられないものを感じ、普通の人達が分からない価値を知ったのです。そうなったので、死の道も行く事が出来ると言うのです。

 皆さんの憧れる事が、現実生活でぶつかるどんな逆境と困難と悲しみ、あるいは死よりも、もっと強くなれなければ、皆さんは死の前で後悔する者であり、悲しみと苦痛の前から後退する者にしかなれないという事です。イエス様が死の峠を越え、永遠の世界に行かれたので、復活の世界を建設されたので、今日我々も、どうせ死の峠を越えなければならない運命に置かれているのです。

 では、天の希望を抱いて生きる人は、どんな人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も喜びで乗り越える事が出来る人です。それは人が天の希望を抱く者です。それ故、皆さんは死を前にして、世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、天の前に立って自分の死の価値を誇り得る人に成るべきです。天は、この様な希望の息子、娘たちを探しておられます。

 この様な立場に立って、天の喜びを感じた人がいるならば、彼は神様が愛すまいとしても愛さざるを得ないのです。その様な立場で天に対して泣き叫ぶ群れがいるとしたら、天がその泣き叫びに答えまいとしても答えざるを得ないのです。(六―五三)

 み旨の為に「死なんとする人は生き、生きんとする人は死なん」というこの言葉はどういう意味でしょうか。み旨の為に死ぬべき立場では、死ななければならないのです。

 では、死ねばどの様に成るのでしょうか。死ぬ前迄は自分のものですが、死んだ後には神様のものになります。それは、我々が堕落した血統を受けた為です。それ故、死ぬ前迄は、我々の生命が、サタン側の因縁を逃れられないのです。しかし、死んだ後には、神様と因縁が結ばれるのです。

 生命と死について見る時、どちらが強いでしょうか。死より生命がもっと強いでしょうか。生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。それ故、み旨を知った後には、死ぬべき立場で死ぬのを嫌がってはいけないのです。

 サタン世界では、どうせ死ななければなりません。死ななくては、復活する事が出来ません。一つの時代が過ぎなければ、他の時代を迎える事は出来ないのです。

 では、聖書で言う、「死」とは何を言うのでしょうか。神様が、永遠に持つ事が出来る生命を殺せというのではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せと言うのです。ですから、み旨の為に死のうとする人は、生きるのです。この言葉が、逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見る時、その様にしなければ復帰が出来ないのです。これは、復帰の正常的な論法です。

 それ故、生命を差し出す事が出来るかというのが、最も大きな問題です。先生がこの道を出発する時、生命を差し出す事が出来る覚悟ができているかを考えました。

 先生は、死ぬ覚悟をしました。死ぬ時、どの様に死ぬかも考えました。そうしながら、死ぬ時は、どんな言葉を残して行くのかを考えました。どの様にすれば生きるかを考えたのではありません。

 大韓民国を中心として、役事しなければならない為に、死ぬ立場を訪ねていったのです。死ぬ立場とは、どこでしょうか。怨讐と対決する立場、すなわち怨讐を訪ねていったのです。怨讐の本拠地を訪ねていったのです。韓国のキリスト教を中心としたみ旨の基盤が、サタン側に回った為に、それを探す為にサタンの巣窟である北韓に行ったのです。

 先生が、今後の世界的な共産党と戦わなければならない為に、それの為に北韓を訪ねていったのです。手錠をかけて牢屋の身に成るのを覚悟して、不倶戴天の敵の国を訪ねていったのです。いくら暴悪な試練が私に襲いかかってきても、私はそれに屈服しませんでした。いくら極限の飢えの立場でも、神様の威信を失いませんでした。組織的な生活圏内で、いくらつつかれる生活をしても、天の法度に背きませんでした。

 先生は、全ての事が拘束されても、その拘束される基準で、全てを探す事ができ、さらに神様の前に新しい出発の動機と、新しい生き甲斐を探してきました。その様にして出発したのです。先生は、「ありとあらゆる重労働をする立場に入っても私は負けない、他の人は皆死んでも私は死なない」という信念を持ってきたのです。

 統一教会は、生きようとする所から出発したのではなく、死のうとする所から出発したのです。しかし、皆さんは統一教会のみ旨を知ってから、死を覚悟しましたか。自由党時代の特務隊長金昌龍殺害事件の首謀者である、許大領(大佐)が死刑を受ける時に、「今回の事を計画して指示した者として恨がないか」と聞くと、彼は「何の恨もない」と言いながら男らしく死んでいきました。その様な殺害事件や銃殺事件が起これば、それを自分と比較して皆さいと言うのです。比較して皆がら、自分は果たしてどの様に死ぬだろうかと考えなさいと言うのです。

 怨讐の謀略で、国家の大反逆者として追い込まれて死ぬ事もあるでしょうし、同志の妨害や、友達の妨害、あるいは愛する人の妨害など、いろいろな事によって死ぬ事もあるでしょう。しかし、死ぬ時には、世の中の為に成る心で死ななければなりません。恨みを抱かずに死ななければならないのです。どうせ死ぬからには、恨みを抱かずに何かを植えておいて死ななければならないのです。怨讐を怨讐ではない友達として愛しながら死のうという事です。その様な意味から見る時、イエス様が十字架上で怨讐の為に祈ったのは、偉大な事です。(三四―四七)

十 霊界に入る時

1 死が差し迫った時

 人生の勝敗は、何十年の期間によって決定されるのではありません。それは一瞬に決定されるのです。我々の人生について見ても、皆さんが生まれるその瞬間は、長い時間ではありません。もちろん、生まれる前迄の腹中の時期がありますが、その腹中の十カ月という期間は、出生する一瞬の為の準備期間です。所で、十カ月間いくらよく準備したとしても、決定的な一瞬をうまく越えられなければ、生まれるその赤ん坊は悲運の運命を迎える様に成るのです。

 十カ月の期間を安全な生命体として絶えず育ててきたのは、生まれるその一瞬を飾る為です。言い換えれば、出生を見通す目的の一瞬の為に、腹中時代があるのです。それ故、腹中時代がいくら立派だったとしても、生まれる一瞬に誤る様になれば、悲運の結果を迎える様になります。(三一―一八五)

 この地上に生まれて、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔いる人がいるなら、その人の心には、過去の全ての事実が、映像として過ぎていくでしょう。これこれこういう人だという事を、誰が教えてくれなくても、自ら分かるでしょう。先祖から受け継いだ生命体を持って、今迄因縁づいた環境と、残しておいた事情など、過去の全てが一生の最期の瞬間に、自分の心に映像として現れるでしょう。

 その中で、「真があった、自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるなら、彼はたとえこの地に生まれて死んでも、甲斐ある一時を残す人に成るでしょう。しかし、「生まれて死ぬこの一生の行路が、通行人の様にただ通り過ぎるものだった」という人もいるのです。その様な人の全ての過去の事情を回想してみる時、その全ての事情が、頭を振って回想したくない過去をもったなら、彼は悲惨な人です。過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜があふれ、自分の全ての問題が理想に浸る事が出来るなら、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。

 この様な事を見る時、過去を回想する瞬間が、恐怖の瞬間でなく、他の何かを残したなら、彼の過去も死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。そう出来る過去をもった人は、必ず民族が従ってくる事が出来る因縁をもった人であり、世界万民がついてこざるを得ない因縁を残した人だと見る事が出来ます。

 では、それはどの様な事情でしょうか。ある民族に、当面した問題を解決出来ない悲惨で非情な時がある時、その問題を自分が責任を持って解決する為に、命を懸けてそこにぶつかった時があったなら、それはその過ぎ去った時の中で忘れられない一時であるでしょう。

 生涯路程で、自分の為に死の場迄行く事より、兄弟なら兄弟、親族なら親族、他人なら他人の為に、自分の命を皆捧げて彼らを救ったなら、彼らを救う為にぶつかった時があったなら、その様な事実が最後の運命の場で、彼の心の線上に映像として現れ得るという事に成るでしょう。いくら自分を中心とした幸福な時があり、数多くの群衆から歓迎されて、自分が光栄にたたえられた聖成る時があったとしても、それはその瞬間には効力を発揮出来ない様になっています。

 善であったか、真になったか、神様の前に一人立つ事ができたかという問題について見る時、真と善は自分から始まり、自分に終わるのではありません。自分から始まり人に結果を結ばせるとか、人によって始まって自分に結果をもたらす事ができてこそ、善になり得るのです。我々の原理で、天地の全ての存在は与えて受ける因縁を経なければならない、というのと同じです。

 過去の生活が与える生活だったなら、死の道にも恐怖がないでしょう。人の為に全てを与えて、人の為に犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人によって流し、自分の命も人によって投入し、自分の願いも人によったものなので、自分の脈拍から流れ出る全ての生命力を引き集めて、人の為に投入したというなら、その過去は輝き得る過去でしょう。

 その様な過去を懐かしがりながら、民族を思う様に成る時、希望の民族はこの様な民族であるべきだという結論が出てくるでしょう。彼がその様な過去を懐かしがる様に成る時、人の為に犠牲になり、希望する本然の善は、こうであるべきだという決定を下す事が出来るのです。「私がそれの為に戦ってきた過去がある為に、必然的にそうする事が出来る未来がなければならない」という内容を持って、神様の前に行くという時、その内容は、自分の永遠の生命の基盤になります。

 聖賢が行く道と、凡人が行く道は違います。聖賢は、歴史とともに生きようとし、世界とともに生きようとし、未来とともに生きようとした人です。しかし、凡人は、自分によって生きようとし、世界も自分によってある様にしようとした人です。

2 霊界に入る時

 我々人間が暮らす生活を見ると、生まれて皆同じ生活をします。転がっていっていますが、これがだんだん弱く成るか、だんだん強く成るのでしょうか?

 自分を知って、ある決心をしたのに、その決心したものが十年になり、二十年になり、三十年の生涯路程を経て、五十、六十、七十、八十年、老後の生活圏に入っていけばいくほど、だんだん小さくなります。これが問題です。作用すればだんだん小さく成る様になっています。自然力学世界でなされるのと同様に、ある力があれば、その力を中心として作用すれば、小さく成るのです。

 それ故、入力、入ってくる力、電気で言えば入ってくる力が、どの様なモーターを回しても、作用をしていく時には小さく成るのです。ここには、必ず消耗が起きます。

 この様に見る時、我々は一生の間、停止している事が出来ません。一生の間動くのです。否応なしに動くのです。動くのに、正しく動くか、間違って動くか、いろいろあります。

 では、人間が行くべき、自分が転がっていくべき方向とはどこでしょうか。どの方向に行くのでしょうか。それを知らずに転がっています。岩にぶつかるか、あるいは、ある下水のたまりに落ちるかもしれない立場で転がっていく生活をするという時に、それがどれほど危険千万な事か。どれほど不幸な事か。どれほど不安定な事か。これが問題です。

 霊界に入る様になれば、今日我々人間たちが、空間と時間圏内の内容を持って測定した全てのものでは、相関関係もなす事が出来ません。その世界は、時空を超越した世界です。(一四一―二七〇)

 霊界に行く様になればどうでしょうか。心霊基準があります。一度なら一度の限界内においての心霊基準がある為に、一番最初にあの世に行く時は、祝福された人達も、ある時は分かれます。何故でしょうか。心霊の程度が違うからです。(一六四―六二)

 皆さんは、天国の何に成るでしょうか。大使になりますか。その大使館で使いをする僕になりますか。大使にならなければなりません。大使に成るのは易しくありません。死ぬ事があれば、彼が先に死ななければなりません。

 私達は、霊界があるという事を知っています。この世界よりももっと確実なのです。その世界は、どんな世界でしょうか。神様が良いと言う事が出来る構想で、全てが可能な世界です。(一〇七―五六)

 皆さんは、天国に行く時に、礼物として持っていくものがあるでしょうか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずっと並んでいるのに、彼らの前に、皆さんが包んでいった風呂敷を開いておく事が出来るでしょうか。

 統一教会が何の苦労をし、皆さんが何の苦労をしましたか。それだけの苦労もせずに、どうして国の為、世界の為だと言いますか。「苦労をしたにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。

 まだ行くべき道が残っています。霊界に行って風呂敷を開いておいて、「これは一生の間、私が準備した贈り物なので、お受けくださいませ」と言えなければならないのです。女たちが嫁に行く時は、一包みずつ持っていきながら、天国に行く時は、ひょいひょいと体だけ行く事が出来ますか。(三二―七一)

 皆さん自身において、自主性をもたない人は、霊界に入れません。霊界にも霊界なりの世界があり、国があり、氏族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見る時、「そこで絶対的に必要な存在だ」と言う事が出来る自主性がなくては入れない所が、天国です。

 家庭を中心として見る時も、氏族を中心として見る時も、やはり「自分が絶対的に必要だ」と言う事が出来る、その様な自主性がなければなりません。そこで自分が絶対的に必要だという自主性があってこそ、行く事が出来る所が天国です。(一九―四五)

 霊界では、天地というもの、地球というものは、ほこりの一点の様なものです。霊界はどれほど広大か知れません。時空を超越した無限の世界です。そして、「ある時代に、これこれこういう心情を持って、地上で生まれて暮らして行った人がいれば、ここに直接出てきてみろ!」と言えば、瞬く間に現れます。その様に、直感的感覚が現実化する世界です。

 一度に百万名の宴会をすると言っても問題です。「私がこの様な理想的な愛の喜びを、皆に分けたくて、晩餐会をもとうと思いますが、女はこの様な服、男はこの様な服を着て現れろ!」と言えば、すぐに現れるのです。食事も、果物も問題ありません。瞬く間に願う通りに現れます。そして、おなかが一杯になれば、残ったものはどの様に成るのでしょうか。

 そこでは炊事場もありません。そこでは、何の心配もする必要がありません。そこには食糧を作る工場もなく、自動車を造る工場もなく、何もありません。花は、いろいろな花があります。家も、愛の心情の基準に相応する、その様な家を自分が願う通りに、いくらでも造る事が出来ます。(二二四―一〇五)

 凡人は過去を思えば暗黒ですが、聖人は過去を思えば光明です。その光明とは何でしょうか。それは、自分の為のものではなく、希望の民族を描き出す事が出来るのです。それ故に希望の天国があるなら、その天国は彼らによって出発を見なければならないのです。それが天国です。

 皆さんは、見るからに険しい環境を備えたこの堕落圏内で、皆さん自身が行く姿を図表を書いてみる様に成る時、一年はこの様に行き、一年はあの様に行くだろう、あるいは十年はこの様に行き、十年はあの様に行くだろうと言って、自分なりに一生の行路を計画しながら、高低を予測するでしょう。その高低が、自分を中心として高くなった、低くなったという人は、最後の運命を迎える様に成る時、自分の為に生きながら、人を犠牲にしたその全てが、自分をがんじがらめにするでしょう。(三一―三〇八)

 皆さんが「七十になっても私はこの様に行く」という事を一度考えてみましたか。「年が八十になって死ぬ瞬間にも、私はこの様に行く」という事を考えてみましたか。死ぬ場でも、「私はこの様に歴史を明らかにし、今迄この時代にこの様な事をし、これからもこの様な事をする事が出来る私が死ぬが、お前たちが代わりにしてくれ」と言える証拠物を提示出来なければなりません。

 それを言葉だけで言ってはいけません。彼が死んだ時に人々が彼にしがみついて、涙を流して「そうだとも、そうだとも」と、その様に言えなければなりません。(七三―一一六)

3 霊界の手続きに必要な証明書

 皆さんは、最初にどこで証明書をもらってくるのでしょうか。「私はこの様になった。この様な事をした。これが勝利の証明書だ」と言い得る証明書をもらうべきでしょうか。

 その様な証明書を自分自身が使う事は出来ません。では、誰が使うのでしょうか。初めには、サタンが使います。神様は使う事が出来ません。サタンから、その勝利の証明書をもらわなければいけないのです。イエス様は、それはよく知っていらっしゃいます。それで、三年の公生涯路程の出発の時に、四十日間サタンを呼び出して証明書をもらう戦いをされました。それが三大試練でした。

 イエス様が三大試練を勝利すると、サタンは「貴方は、民族的に勝利しています。ですから、私が証明書を書かざるを得ません。そうでなければ、私の活動舞台を全て天の側にすぐに捧げなければならない為です」と言ったのです。

 それ故、皆さんは、まずサタンに証明書をもらい、イエス様の証明書をもらわなければなりません。その次に、神様の証明書をもらわなければなりません。この三つの証明書が必要です。(一五―一二一)

十一 死んでみてこそはっきり分かる

 皆さんが、祈祷で霊界と通じる様になれば、霊界では後孫たちを天の前に近く立てる為に努力しているという事を知る様に成るでしょう。しかしここでは、先祖の悪口でも言って、自分だけよく生きようとします。

 それ故、死んでみてこそ分かるのです。先生の言葉が合っているかいないか、死んでみれば分かります。しかし、死んで生き返る事ができればいいですが、死ねば終わりです。ですから、人々は、統一教会の文先生が恐喝をしても、とてもすてきな恐喝をする、誰も出来ないとてもすてきな恐喝をすると言います。しかし、死んで皆さいと言うのです。先生が何か言う事がなくて、この様な事を言っているのではありません。(二二―三三八)

 神様の最高の愛は、どこで発見するでしょうか。王宮ではありません。死んでいくあの地獄のどん底に、血を流して倒れていくその中に、神様の最高の愛を占領し得る道があります。

 先生が共産地下の監獄にいる時、言葉を話さなくても霊界から伝道しました。それで、先生の為に死を覚悟して、どんな事でも出来る弟子たちを持っていました。私が世の中の悪党なら、監獄を爆破して出てくる事が出来る道が、いくらでもあったと言うのです。その様な立場に神様が共にするのです。(九一―一七五)

十二 「為」に生きれば神様の近くへ行く

 霊界は三段階になっています。霊界では、誰が高い所に上がるのでしょうか。より「為」にした人です。

 自分の為にした人は、反対の世界が繰り広げられます。それも同様に、三段階です。「ふん! 我々はお前の様なのは嫌だ!」と反対するのです。自分の為に生きた人は、全部反対し、人の為に生きた人は、全部歓迎します。

 地上に生きて霊界に行った人達で、高い所に行く人達は、全部人の為にした人達です。世界四十カ国なら四十カ国を回りながら、自分の母と家庭を拡大した様な心情で「為」に生きた人達、世界の人々を全部悪から救ってあげる聖人の心をもった人達が、高い所に行くのです。

 それで先生は、「私は一人の男として、歴史時代の孝行者を代表した総大将であり、愛国者の総大将であり、聖人の総大将だ。神様の息子という名前をつけた全ての人達は失敗したが、私は勝利した息子として生まれた」と考えます。その様に言える様にしてくれるものは、たった一つありますが、それは何でしょうか。簡単です。絶対「為」に生きる事です。与えて忘れ、「為」にして忘れてしまって生きる人だけが、その世界を消化する事が出来ます。

 皆さんが天国に行く輩か、地獄に行く輩か、はっきり知るべきです。レバレンド・ムーンが、ただ考えて言う言葉ではありません。霊界をよく知っている人です。

 死を避ける事が出来る人は一人もいません。死を避ける事は出来ないのです。自分の為に生きた人は、地獄に行くのであり、人の為に生きた人は、天国に行くのです。この二つの世界が、死から分かれるのです。(二〇三―一〇〇)

 これからどんな事が起こるかと言うと、自分の財産を天のものとして捧げる為の仕事が繰り広げられます。「為」に生きなければなりません。全体の為に、より大きい事の為に生きなさいと言うのです。世界の為に、神様の為に、人類を解放する為に生きなさいと言うのです。自分によって、新しい血筋に転換させなければなりません。血筋が引っ掛かっている為に、今迄神様が無力な神様になりました。今は、転換時期に入ってきたので、自由天地が訪ねてくるのを知って、皆さんが善の種を植えなければなりません。自分がどの様にすべきか、よく分からなければなりません。これから、メシヤの一族、天国の国民、永遠の天国とつながり得る、永生をもった群れに成るべきです。(二〇三―一八七)

 これから何の競争が起こるでしょうか。互いが「為」にしようとする事です。何故でしょうか。天国では「為」にする人が高い位置に行く為に、その高い人の為に自分がなれば、その人に乗って飛躍出来るからです。ケープ・ケネディ(現ケープ・カナベラル)に行けば、人工衛星の発射台がありますが、そこで人工衛星が発射されて空に飛んでいくのと同様に、その様に成るのです。

 その人の為にする事は、神様が創造して相対を造ったのと同じである為に、その人の愛の対象圏に立つと言うのです。誰かについていって、「為」にするのも、皆その為です。

 先生の為にするのは、先生を利用しようしてしまおうという事です。先生の愛の対象になって、飛躍して、神様を占領しようと言うのです。

 人工衛星が出てきたのは、今日信仰者たちが跳躍して、天国にどの様に行き、何千里、何万里をどの様に行くかという事を表示するものです。

 どうせ、人間は本然の故郷に帰る様になっています。世の中の故郷もあるでしょうが、それよりも本然の故郷に、永遠の故郷に帰る様に成る時、そこで歓迎され得る内容を備えられなかった人は、悲惨なのです。グループに入れないという事が、どれほど途方もない事かが分かるでしょう。(二一三―一九四)

 今迄は家庭がありません。しかし、今から家庭の組織が始まるのです。全部分かれていったのです。何故でしょうか。文化背景が異なり、心情的背景が異なり、暮らす風習が全部異成るので、皆分かれたのです。

 ですから、家庭とは何かと言うと、新しい風習と新しい文化をつくって、習慣化する所です。しかし、家庭がないから、社会があり得ません。一国の社会がありません。その次には国がなく、世界がないのです。

 それ故、今主流を成しているのが宗教です。仏教圏とかキリスト教圏とか言って、ここにとどまるのです。他の国の人同士は共にいられませんが、宗教圏は共にとどまる事が出来るのです。宗教圏は、一つの世界を願ってきて、一つの神を祭ってきた為に、共にとどまる事が出来るのです。しかし、全ての宗教が神様の圏に属しているのに反して、全ての国は神様の圏に属していないのです。

 統一教会から、個人が生じ、家庭が生じ、氏族的メシヤ、国家的メシヤ、世界的メシヤが出てくるのです。個人が行く道が家庭につながり、家庭が行く道は氏族が行く道につながるのです。

 では霊界は、どんな世の中なのでしょうか。真の愛を中心として、他の人の為に生きる所が霊界です。自分の為に生きるのではなく、全体の為に生きる所です。ここの地上でも、一〇〇パーセント人の為にする人は、「私を踏み越えて行け!」と言うのです。いくらアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領より、その国の民の為にもっとする人がいるなら、その人が大統領を踏み越えていっても皆歓迎するのです。しかし、自分の利益だけを取る様に成る時は、全部怨讐に成るのです。

 霊界に行っても同じです。より大きな事の為に生きるという時は、自然に通過するのです。より大きな事の為になれば、自然に通ずるのです。ですから、世界の為に生きる人は、アメリカの為に生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれるのです。韓国も同じです。全ての国が含まれるのです。

 では、行くのにおいて、家庭もそのまま通り過ぎて、全てが歓迎し得るその方向の内容とは何でしょうか。それは「為」に行く、愛の道しかありません。

 この二つは、地上のサタン世界でも妨げられません。この二つは、サタン世界も絶対順応しなければならないのです。いくら悪徳な父母、いくら悪い者でも、真の愛を持って自分の為に与えようとする人は、全てが歓迎するのです。(二一五|一七四)

十三 審 判

 皆さんに霊界の大審判の法廷に出廷しろという命令が下るだろう、という事を考えてみましたか。何時かは大審判の法廷に出廷しろという命令が下るのです。

 その法廷を管理して支配する為には、判事がいなければならず、検事がいなければならず、弁護士がいなければなりません。では、その判事は誰で、検事は誰で、弁護士は誰でしょうか。判事は神様であり、検事はサタンであり、弁護士はイエス様です。(一七―一七七)
第三節 高い霊界に行くには

一 宗教人達の標準は霊界

 宗教を信じる人達が、信じない人と違う事とは何でしょうか。彼らは一生の間、霊界を標準として信じます。宗教というものは、神様に会って生活しようとする所から始まるのです。

 全ての教祖たちが、残していった経書の内容は、人間の暮らしを紹介したものではありませんでした。これは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様なら神様がおられる所を中心として、我々が関係を結ぶ事が出来る内容を教えてくれたのです。(一八七―二八六)

二 霊界での所有権決定基準

 昔、我々は、麦飯もなく、食べられずに冷たい部屋で震えていた、その様な日が多かったのです。かえって、その様な日が神様の前に近かったのです。その時は、国を心配し、世界を心配しました。全てが大きくなって、全ての基盤が拡大されるに従って、「私」という人を、無数の人が、どの様にすれば喜ぶのかを考えたのです。

 知識が多くても、権勢があっても、お金をもったとしても、その様なものは皆流れていくのです。死ぬ時、皆置いて行くのです。持って行くべきものは、神様の愛を中心として、この愛を世界に拡大する為に努力したのです。人類を愛し、神様を愛した事が最後に残って、あの世の所有権決定の基準に成るのです。(一二七―三八)

 復帰の道には、値引きというものはありません。我々がこの世に来る時は、一人で来ましたが、行く時は一人では行けないのです。多くの人達を連れて行かなければなりません。(一四―一〇五)

 皆さんが霊界に行けば、伝道した人の数によって、皆さんの霊界の所有権が決定されます。自分は責任者だった、という看板を持っていくのではありませ。(一二五―一七)

三 人を愛すべし

 霊界では、神様の愛がなければ食べられません。食べる権利がないのです。地獄は見ながらも食べる事が出来ない所であり、知りながらも行う事が出来ない所です。

 それ故、神様の愛を中心として、霊界と肉界が一つになり得る、この様な価値的な中心を立てておいて、神様の愛を中心として、地上で霊肉が一つになった天国生活をした人以外には、永遠の理想的世界を持つ事が出来ないのであり、天国を所有する事が出来ません。(九一―一七三)

 霊界に行って、誇るべき事とは何でしょうか。先生は霊界に行ったのですが、「お前は地上で何をしてきたか」と神様が尋ねるならば、「お金を沢山使ってきました」と言う事が誇りではありません。どれほど人を恋しがり、愛して生きたかという事が誇りです。(一八七―三一〇)

四 神様をもっと愛すべし

 あの世で必要な事は、ほかでもありません。世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子、娘よりも、神様をもっと愛さなければなりません。それが原則です。

 あの世に行けば、金もうけをしますか、億万年眠りますか。億万年眠るのも、金もうけも必要ありません。自分の程度によって、食べる事は何時でも出来ます。(一二六―一四二)

五 家庭の基台を成すべし

 何故息子、娘がいなければいけないのでしょうか。必ず愛がなければなりません。神様がいなければなりませんし、夫婦がいなければならないし、男女がいなければなりません。その次には、血が混合しなければなりません。神様の血、愛の血、縦的な血、横的な血が混合して生まれたのが後孫です。それ故、後孫をもたなくなれば、あの世に行っても、遊んで休む事が出来る場がないのです。

 夫妻が八十になって、九十に成る迄、二人だけで、額を突き合わせて暮らしながら「幸福だ」と言いますか。面白く暮らす事は出来ません。息子の嫁がいなければならず、孫がいなければなりません。お爺さん、お婆さんは、孫を連れていって抱かせてあげれば、それ以上の幸福はありません。孫をもてなかった人は、霊界に行って天地の調和を成せず、東西南北に拍子を合わせられないのです。(一九七―三二)

 仕事をしてから「ああ、大変だ」という考えをする余地がありません。「ああ、大変だ。眠れなくて疲れてだるい」という考える余地がないのです。そうすれば、霊界が開かれます。霊界が見えるのです。皆さんが目を開けて霊界を見、霊的に御飯を食べれば、一日御飯を食べなくてもおなかがすかないのです。その様な事が起こります。体が軽く、一日中走っても疲れないのです。

 その様な事を体験すれば、世の中がおもしろいのです。横的に、息子、娘を産んでそうする為に必要であって、事実上世の中にいる必要がないのです。あの世に家庭を連れて入らなければならない為に、仕方なくこうしているのです。(九一―一七六)

六 心情圏の伝統を中心として暮らすべし

 霊界で宗教が必要でしょうか。必要ではありません。そこでは長老派とか、カトリックとか言う必要はありません。神様との生活圏内に入るのです。ですから、宗教は必要ありません。

 では、何が必要でしょうか。貴いものが必要ですが、その貴いものとは何でしょうか。神様の愛を受けられる事が貴いのです。

 今日、統一教会では、心情圏という事を言いますが、心情圏の基地とはどこでしょうか。神様を中心とした、真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛が普遍化し得る世界が、心情圏の世界です。

 その様な本然の世界では、夫婦を主にするのではありません。天地、天宙を主にした夫婦の愛なのです。それ故、天宙をもっと重要視するのです。また、夫婦の愛をなしますが、世界を主にした夫婦の愛をなすべきです。

 ですから、その世界に合格し得る愛の基盤をどこで築くか、どこで探すかという事が、この上なく深刻な問題です。それ故、今日統一教会は、この世でそれを築こうとするのです。数多くの宗教、この世で貴いという、数多くのその何かと異なり、世の中で初めてこの様な事を始めた所が、統一教会です。ここでは何を教えてくれるのでしょうか。心情圏の世界における合格者に成る事を教えるのです。

 では、あの世に行く様になれば、民族を愛する数多くの人、数多くの夫婦、愛国者、忠臣、烈女、聖人達が、皆いるでしょう。しかし神様の本然の心情圏の伝統を中心として生きた人は、一人もいません。(一二六―一三九)

七 あの世にパスするチケット

 今からでも、何かの事を出発させる時は、神様を中心として出発すべきです。これが原則です。霊界に行けば、その様な原則にどれほど同化して、どれほど一致するかという事が、地獄から中間霊界、楽園、天国に迄、全部つながるのです。

 そうかといって、世界的に有名な学者だからと言って、霊界に行けば、天国に行けるのでしょうか。行けないのです。それ故、宗教界は、全てを捨てて行けと教えるのです。皆捨てて行かなければならないのです。その様な論理が成立します。

 では、何が一番貴いものでしょうか。天の為にどれほど苦痛を受け、世界の為にどれほど苦痛を受け、涙を流したかという事が、あの世にパス出来るチケットです。

 それを神様の立場から見れば、神様は、うれしい神様でしょうか。うれしい神様だと思う宗教は、頭もなく、ただ常識外れの輩です。一番悲しい方が神様なのです。その神様が、今迄涙を流し、苦痛を受けたなら、それは神様自身の為ではありません。神様が造ったこの宇宙の為に、堕落した人類の為に、今も涙を流しているという事です。何故そうなのでしょうか。心情の神様である為です。(九七―一七二)

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第三章 霊 界
第一節 肉身を持って体恤可能な霊界

一 霊界と時

 今我々が、どの段階迄来たかと言うと、霊界と肉界を世界的舞台でつなげ得る段階に来たのです。

 霊界と肉界が世界的に一つになり得る場は、静かな場ではなく、世界が揺れ動く場、天地が揺れ動く場です。世の中は出来ない様にし、天はしようとし、二つが粘り強く戦いをして、天が勝つ事によって出来るのです。それが何時かと言うと、ワシントン大会の時なのです。

 一九七六年を起点に、サタン世界が神様に対して讒訴出来なくなったのです。サタンは直接神様を讒訴出来ないのです。霊界に行った先祖たちを讒訴する事はあっても、神様を讒訴する事は出来ません。

 そして、霊界の全ての霊人達を動員して、地上にいるサタン勢力を追い出すのです。それで今迄、サタンがやった以上の善成る事を出来る基盤が形成されるのです。

 「統一教会を信じろ」と教えてくれるのです。イエス様が現れて、孔子が現れて、釈迦牟尼が現れて、マホメットが現れて、自分の先祖が現れて、統一教会を信じなければ全部霊的に制裁をし、霊的に罰を与えながら追い込むのです。

 霊界が今迄分かれていたのを全部収拾して、今日世界が分かれたのを全部心情的に結んでいくのです。超民族的基準を中心として、ここに世界的代表を集めて、心情的に一つに成るこの様な運動をする為に、霊界も一つになって接触する様になれば、ここから光を発して世界的な運動が大々的に繰り広げられます。

 今迄は、西洋の霊界と東洋の霊界は互いに異なっていました。それを、どの様にして一つに結ぶ事ができたのでしょうか。一つの愛で結ぶ事ができました。神様の愛を中心として、東洋、西洋の人々を統一教会の合同結婚式を通じて、民族として結んできました。それで、個人的基準、家庭的基準、氏族的基準、民族的基準、国家的基準、世界的基準を皆築いておきました。天国、霊界は、永遠に我々にかかっているのです。(九一―一六二)

二 これからの時代

 最近、統一教会に新しく入ってきた食口たちを見ると、霊的に先生と出会い、教えを受けて来た人達が多いのです。その様な人達は遠くない将来に、一国の王に成る事もでき、一国の大統領に成る事も出来るのです。何時、どの様に成るか分からないのです。全世界的にその様な人達が沢山いるのです。

 これから、アメリカの様な国には、一人で歩きながらぶつぶつ話す人が絶えず増える事でしょう。

 これから全霊界が、地球上に襲撃して入ってくるでしょう。その様になれば、これを誰が総指揮しますか。これは先生の責任です。(六七―七七)

 皆さんはこれからいい加減にしては、先生の前に絶対に現れる事が出来ないない時が来ます。その時になって、先生が霊界の門をすっかり開くでしょう。門の前に来ていて、その様な者が現れれば「こ何時、何しに来た」と言いながら、門前から追い出してしまうのです。これからは専門的な面を中心として、世界を収拾する時に入るでしょう。

 今世界には、どんな人達がいるのでしょうか。イエス様の時と同様の人達が、世界にいるのです。復帰時代であるからには、そうなのです。先生がまだ、その様な事を言ってはいけない為に、言わないのです。

 神様はさせませんが、先生の代わりに、ありとあらゆる事をする人達が世界にはいます。空中を飛ぶ人もいるし、水の上を歩き回る人達もいるし、千里、万里を瞬く間に行く人が、今いくらでもいるのです。間もなく先生がその様な人達を、あのヒマラヤ山脈から、修行の世界から呼んでくる時が来るでしょう。

 その様に成るのに、世界が統一されますか、されませんか。神様の全権が平面化して、再創造歴史に、理想的な愛にこたえられない一切の与件は全部破綻して、新しい世界に入るでしょう。

 これが先生の見る、今後における超感覚時代の世界観です。愛だけが超感覚時代の世界観をなす事が出来るのです。超感覚時代で愛する様になれば、ただしがみついて離すまいとします。神経線を越えようと、それ故、神様の愛だけが、それを平面的に歓迎し得る世界時代に入るのです。

 先生は祈る中で、その様な事を知っています。皆さんの知らない、その様な何かがあるのです。皆さんに話をしないから、先生は何も知らない人のようですが、皆知っているのです。今がどんな時かと言うと、実体の体で霊界を完全に支配する時です。

 先生が霊界の内容を持って、真理と体をもった為に、サタンも屈服しなければならず、天使世界も完全に屈服しなければなりません。それ故、仏教に精通した人とか、キリスト教に精通した人達は、全部先生の前に屈服しなければなりません。

 霊通する人達が、先生が「死ね」と言えば死ぬ事ができてこそ、実体完成圏をなして、地上天国を開門するのです。

 「その様な世界になった」と思った時、仕事をする時がありますか。その時、先生の考えを知ったなら、皆さんはあきれかえるでしょう。「どうして、あの様になったか。どうして私があの様にしたか」と、そういう時が来るのです。冗談ではありません。恐喝、脅迫ではないのです。(六〇―一九四)

三 霊的体験も必要

 皆さんは涙を流しながら、「私はこの顔では、そのまま帰れません。死ぬ事があっても、帰れません。死ぬよりもっと悲惨です」と、その様な祈祷をして回らなければなりません。皆さんが祈祷しながら霊的体験を沢山すれば、復活するのです。

 そう思いながら、「ああ! 自分はアメリカ人として生まれなくて、本当に幸いだ」と思うのです。今、アメリカに来て仕事をしながら感謝するのです。人間の習慣は実に恐ろしいのです。ですから、皆さんもその場に行くには、苦労をしなければならないのです。苦労を通じなければ、行くべき道がないという結論を下す事が出来るのです。

 皆さんが考えに先立って、何時もその様な心情で立ち上がる様になれば、神様が役事するのです。皆さんが言葉を話して教える全ての言葉の前に、神様の心情を感じるべきです。言葉のあとに立つのではなく、言葉の前に神様の心情が先立たなければなりません。それ故、何時も謙遜でなければならないのです。

 ですから、自分は言う事ができずに、後ろに行かなければなりません。しかし、見れば神様の心情が前にあるのを感じるのです。それは何ですか。自分を絶えず引いていくのです。その様な場に行けば、多くの群衆が集まっても、皆教育する事が出来るのです。

 そこでは何だか分からずに、全部教えてくれます。それでも自分が言う声だから、自分の耳にも聞こえます。自分が話す声を聞けば、不思議なのです。その境地に至れば、言いながらジェスチャーをしても実に自然なのです。どんな表情をしても、それが皆自然なのです。ぎこちなくないのです。その様な事を感じながら働いてこそ、生命の運動が繰り広げられるのです。(九六―一六八)

 霊的世界を体験するという事は、四次元の世界に通じるという事です。また、そうする時に、何千年前に生きて死んだ先知先烈たちも、今日の自分と因縁を結んで対話する事もでき、相談もすると言うのです。すなわち、今日、実際生活的な時間圏内で、自分が経験する事ができ、また肌で感じる事が出来るのです。(四―二二五)

四 霊的体恤の過程

 我々が信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。

 主体は確定していますが、自分は感じる事が出来ないのです。我々が五官で分かる様に、そうだという事を確定づける事が出来ないのです。これをどこから調べる事が出来るかという問題を考える時、主体から調べる事は出来ません。神様から調べる事は出来ないのです。これはどこ迄も、自分から調べなければなりません。

 自分という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を中心としてはこれを調べる事が出来ません。心を中心として調べなければならないのです。

 今日、堕落した我々人間たちを見る時、その心自体が千人なら千人、万人なら万人が全部同じでしょうか。その根本は同じかもしれませんが、心自体は素性に従って違うのです。

 全部が同じではないのです。それは、何故そうなのでしょうか。顔が違い、趣味が違い、我々の感じる感情が違うのと同様に、その度数を描く事が出来る平行線と垂直線が違うのです。その度数を合わせなければならないと言うのです。

 そうするには、どの様にすべきでしょうか。天が主体なら、その主体の前に自分が対象的な立場に立つのです。主体と成る神様は、人間に対象として感応する事が出来る基礎を必ず与えた為に、平面的な心の根本の基準の前に垂直に向かう、その様な方向がなければなりません。必ずあるという事です。

 我々が水平線を見る様に成るなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つ様になれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、そのゼロ点基準をどの様に合わせるかと言うのです。こちらに行けば、必ず反対に成る為に、そのゼロ点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器が沢山あります。メーター器にゼロ点基準の様なものがあって、それを中心として全ての加減の調整をして、その方向というか、力というか、量の対比をつかむのと同様に、その様なゼロ点基準がなければならないのです。

 では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもある様な位置です。その位置があるのです。それ故、今日座禅をする人達が、「無我の境地」とかという言葉を使いますが、それもやはりその様な境地なのです。その様な霊的基準に接近する事が出来る自分にならなければなりません。その様な基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応する事が出来る、その様な何かがあります。

 それ故、心も見てみると、心の門があります。心門と言います。そうでありながら、その門が何時も一面でだけ開かれているのではなく、心自体が回っている為に、その門も移動するのです。それ故、この門を通らずには、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶ事が出来ないのです。人にはこの様な心門があるのです。

 皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前一時に祈祷するのと、三時に祈祷するのとは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、全て違います。

 その様に、我々の心の状態からも、感じるその基準が違うのです。我々の肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。それ故、祈祷をするにも、どんな時間にうまくいくかを知るべきです。それはどういう事かと言うと、神様との感応の度が近いのです。うまくいくというそこに、だんだん入る様になれば、門に出会う様に成るのです。神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準迄合わせて入る様に成る場合には、神様が感じる事を体恤する道が生じるのです。

 皆さんがこの様な場に入る為には、どの様にすべきでしょうか。心を磨かなければなりません。神様のみ旨を中心として広がった宗教もありますが、サタンの意を中心として広がった宗教もあります。これらが全部混ざっている為に、それをより分けて行くという事は、限りなく難しいのです。

 この様な結果と同様に、我々の心の世界も同じなのです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ! 私は善だ」と、この様に考えていますが、その様な心自体も善ではありません。堕落の結果によって成された為に、悪の心の圏、悪成るサタン圏に感染した心をもった人もいて、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差で広がるのです。

 それ故、信仰生活で一番重要な事とは何でしょうか。心の門をどの様に合わせるかという事が、最も重要な問題です。それ故、皆さんが信仰生活で何時も注意すべき事は、心の門が開く時を知って、天の心の門とどの様に合わせるかという事です。それは、皆さんが何時も準備しなければならなりません。随時、探して合わせる生活態度が必要です。

 それ故、何時も深度をわきまえていきながら、心の門を開く様にして、そうしながら天が向かう門とどの様に一致化させるかという問題が、信仰生活で最も貴いと思います。

 だんだん、この相対的立場に立てば、どんな現象が起きるでしょうか。今迄感じた事のない、新しい立体的な感じが来るのです。それが、何だか分からずに来るのです。

 昔には、冬の様な気分だけ感じたのに、秋の様な気分を感じる様になり、秋の様な気分だけではなく、夏の様な気分も感じられ、春の様な気分が感じられるのです。何故そうなのでしょうか。この宇宙は回っています。心も回ります。それ故、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、我々の心の世界も、回りながらその様に変化する感じを感じる様になっています。

 それが一年について見れば、春夏秋冬があり、一年を縮小したのが一日ですが、一日にも春夏秋冬があるのです。朝は春に該当し、昼は夏に該当し、夕方は秋に該当し、夜は冬に該当するのです。

 この様に、春夏秋冬の季節的形態が、一日の間に繰り広げられているのです。また、春に該当する朝にも、そうです。そこでも、春の様なものを感じ、夏の様なものを感じ、秋の様なものを感じ、冬の様なものを感じる事が出来ます。大きなものは大きなものを中心として単位の形態を備えていますが、小さいものも相対的なその単位の形態を備えているのです。

 我々の心もそれと同様です。それ故、心に感じられる感じが何時も同じではないという事です。季節によって自分が春だというのを知ればいいのですが、分からないのです。秋だという事が分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「あ! 今、こんな時に処しているな」という事を、わきまえるすべを知らなければなりません。

 その様な境地に入る様になれば、どんな現象が起こるのでしょうか。我々の言葉に暗示という言葉あります。それはどういう言葉でしょうか。自分が道を何気なく行くのに、ある良い家の塀にとどまっていた鳥が飛んでいくのを見た時、鳥は飛んでいってしまうのですが、ばたばたと鳥が飛んでいくそれ自体を通じて、内的に何かを教えてくれる事が繰り広げられる様に成るのです。

 実際の生活において、その様な形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多く成るのです。ある人が偶然に言った事に何かを悟らされる様になります。この様な事実が、だんだん多く成るのです。

 この段階を過ぎる様になれば、どんな形態が起こるでしょうか。夢のお告げの様な事を体験する様になります。夢の中で起こる事ですが、夢も深い眠りの中での夢ではありません。パウロも、夢うつつの間に第三の天を体験しました。

 その様な事を、何気なしに流して過ごすなと言うのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につぐ為に現れるのかという事を、科学的な面でデータを出せと言うのです。必ずその結果が現れます。それ故、皆さんが忘れる事が出来ない夢のお告げの様な事は、一〇〇パーセント的中する様になります。そんな体験があるでしょう。

 夢うつつの間に、ある人なら人、物なら物が因縁づけられたので、それが事実の中で実際につながるのです。誰かが夢の中で誰かと歌っているのに、その歌が夢の中の歌ではなく、そばで誰かが歌う歌が正にその歌だった、この様な事が起こるのです。これはどういう事を言うのかと言うと、霊的次元において、心の状態が共鳴する事が出来る圏内に入る事を言います。音叉というものがあります。共鳴する事が出来る圏内に入る事を言います。この様な事を、限りなく貴く思わなければなりません。

 その様になれば、どう成るでしょうか。神様がいるなら、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じて現れるのです。皆さんが、そんな事を感じられないのは、何故でしょうか。心がまだ存在を確立出来なかっ為であり、体に引きずり回される人になったからです。その心が存在を確立して、また他の一つの主体だという、その様な人格的な次元の立場が形成されれば、それは必ず違ってきます。

 祈祷をして次元が高くなれば、心と話すのです。共鳴する現象が起こるのです。これは次元の高い事ですが、その様になれば、心の中で言う事を自分が聞くのです。その様な境地で発展していくのです。最初の段階では、暗示の様な事実が皆さんの生活で起こります。

 それ故、信仰者はこの様な膨大な資料を収集しなければなりません。接する人がいれば、何気なく接するなと言うのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、何時もおなかのすいた者の心情に成るべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、その様に探す心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分が何時も主体に成るとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。

 それ故、主体となり得る存在が現れて、対象的な存在が現れれば、一遍に分かります。自分が誰か伝道する人がいれば、一遍に分かるのです。むしょうにただ心がうれしくて行くのです。それを「心波」と言います。心の波長があるのです。そんな事があるのではないですか。皆さんを見れば、肉の商売をする人は、肉屋のにおいがして、布(生地)の商売をする人は、布のにおいがします。皆さんの体からもにおいがするのと同様に、心のにおいがするのです。その心のにおいをかぐのです。そんな形態が繰り広げられるのです。

 我々の体には、触覚の様なものがあって、全部接触します。それで、見えない電波の様なものを発射して、対象を探しています。

 それ故、信仰する人の態度は、全部自分と関係していると考えなければなりません。何故そうすべきなのでしょうか。堕落によって、全ての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、全部切断してしまったのが堕落です。切断した関係の世界を、我々が再び接続させる為には、何時も自分自体が接続させる事の出来る作用をしなければなりません。その様な作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ開拓されません。

 皆さん全部が何かを探す心がなければなりません。皆さんが朝に祈祷し終えると、「あ、きょうは良い事がある」というのが分からなければなりません。「良い事があるから、ただ良い事が現れるだろう」と、これではいけません。それを探さなければなりません。この様な生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければなりません。それ故、体恤と実践という事は、生命の因縁をもたらすと言うのです。夢うつつの中に、この様な事実が繰り広げられます。

 その段階が高くなれば、どの様な事が起こるでしょうか。啓示とか指示とか、この様な事が起こります。啓示というものを、我々は分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。それ故、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲皆がら、遠い山を眺める、この様な幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。その様に、いろいろな幻想が繰り広げられるのです。

 その様な事は、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発する為の、天の役事です。何故そうすべきなのでしょうか。我々の心の畑というものが、ガラス板の様に平らになっていないのです。でこぼこしているのです。形は水平の様な面をもちましたが、それ自体はでこぼこなのです。でこぼこしたここに、天の感度が反射して来る様に成ると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていくのです。それで、全部が違うのです。部分部分を啓発しようとするので、その様な役事をするのです。

 啓示の段階を過ぎる様になれば、次は黙示の段階です。一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。その様な世界に迄つながるのです。神様に対する、生活的な感情圏迄到達する事が出来ます。皆さんがこの様な体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、我々の生活の場、生活舞台に適用させる事は出来ません。それ故、体験をもたない信仰者は、信じる事が出来ません。体恤的な信仰が高貴な為に、啓発していかなければなりません。

 我々食口達は、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同様に入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧電気に接した様な、我々の意識より強い力が入ってきます。超自然的な、超人的な感情が訪ねて入る様になれば、我々の体が、堕落性を持っている為に、必ず反発する様になります。神様の神性と反発する様になります。

 それ故、堕落した人間の前に、どんな神の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化され得る立場になれないのです。これが入ってくるには、プラス・マイナスの様に、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力も一遍にすっと入ってくるのではありません。強く入ってきたり、弱く入ってきたり、こうしながら開拓して入ってくるのです。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。それが役事として現れるのです。

 この様な役事を絶えずする様になれば、どう成るでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が純化され、自然に一〇〇パーセント受け入れる事が出来る様に成るのです。その様になれば、その様な現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれる事を皆受けながら、寸分も違わないのです。この様な現象の過程を経て、純化される立場迄上がらなければなりません。その過程で、啓示とか指示とかいう過程を皆さんは経なければなりません。

 皆さんがその様な体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこの様に話をしようとするのに、言葉が話せない様にするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人の為に言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。この様な現象が起こるのです。この様に理解出来ない現象が時々起こる為に、これを調整するすべを知らなければなりません。過ったなら、狂人として扱われやすい為に、それを調整するすべを知らなければなりません。

 この様な体恤的信仰を、必ずもたなければなりません。心で感じた事を、体恤した事を持って、実験を通じた体験の立場に入る様になれば、その人は強く成るのです。誰の言葉も聞かないのです。体恤と実践、これは我々の信仰生活に最も必要な事です。

 その様な境地に入るには、どの様にすべきでしょうか。大概、我々人間は二つの種類に分けられます。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人です。また他の一つは、その様な道理よりは、思いで把握する人です。それを我々統一教会の術語で言えば、「知的だ」、「霊的だ」と言うのです。霊的な人は、内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていき、もう一つは入ってくるのです。この二つの種類があります。

 その様な立場にある為に、知性的な人は、大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようであり、信ずる事ができず、自分自体が否定される様な感じがするのです。これは、知性的な人です。理論を明らかにして、何かを探そうとする人、その様な人がいるのと同時に、生まれつき「神様!」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前に無条件に喜ぶのです。「お父様」と言う様になれば、御飯を食べなくてもいいと言うのです。その様な人がいます。

 大抵霊的な運動において、革命的な運動をする事が出来るのは、どの様な人でしょうか。知性的な人は出来ません。大抵信仰世界で偉大な事をする人は、知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。その様な人は、霊的な人です。

 世の中がどうであれ、感じるままにするのです。神様が「せよ」と言ったからするのです。やってみると、それが実践する環境に伯仲する、その様な事が起こるのです。これによって、偉大な人物として登場する事が出来るという事も起きるのです。パウロの様な人も、知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求する事よりも、内的に爆発的な道があるという事を感じた為に、全部否定して尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になったのです。

 それ故、理性的に問いただす人は、宗教的な心霊世界では指導者になれません。

 我々人間には、二種類がありますが、自分はどんなタイプの人かという事を知るべきです。大抵霊的に感じる人は、霊的には大きいのですが、真理の面では大きくありません。初めは太いのですが、細くとがれば始終如一(注:始めから終わり迄同じ調子である事)でない為に、永遠に行けないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。また、真理は大きくても、霊的な面が小さければ、永遠に行けません。それ故我々は、これを調整する生活をしなければなりません。

 祈祷と真理、心霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かと言うと、平行をつくって和する場に入れと言うのです。我々人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。その様な人間にならなくては、完全な立場に立つ事は出来ないのです。(七六―一二五)

五 霊的感覚の発展方法

 ある人を恋しがる心情を持っていれば、その人に接する事が出来ない様に塀で妨げておいても、その塀を乗り越えるという事が起こります。

 先生が口をつぐんでいても、その様な事が起こります。霊界からその間隔を埋めてくれます。私が興南の監獄にいる時も、言葉では伝道しませんでした。無言で伝道したのです。霊界が動員されて、協助してくれました。してくれなければ大変な事に成る為です。

 同様です。それ故、皆さんが地方に出ていっても、この様にしなければなりません。先生は一九六〇年代に、名が知られた所へは皆行ってみました。

 きょう、道を歩いていて、「どんな人に会うだろうか」と考えなければなりません。最初に会う人はどんな人か、二番目に会う人はどんな人か、三番目に会う人はどんな人かを考えて、「お父様、どんな人ですか、私はこの様な人に会うのを願いますが、どんな人ですか」と祈らなければなりません。自分が考えて、祈ったその基準とぴったりと合うなら気分がいいのです。この様な体験をする事によって、皆さんの霊的触覚が発達するのです。

 その様になれば、道に出ると「きょうはある人に会うだろう」という感じがするのです。人の霊は、無限的に通じるのです。「きょうはある人に会うだろう」と思うのに、実際その様な人に対する様になれば「ああっ!」と言ってびっくりする様になります。この様に、自分の思いと霊界から教えてくれた霊感が、実際の事実と一致する時が多いのです。この様な体験を積んで、上がらなければなりません。(三〇―一五〇)

六 君臨(実体役事)

 霊と肉は、本来真の愛を中心として一つに成る様になっているのであって、偽りの愛を中心として一つに成る様になっていません。それ故、真の愛の起源を探さずには、これが一つにならないのです。その立場を皆さんが越え、天の祝福を願って行かなければなりません。

 寂しい立場に行くほど、何故天が近くにいらっしゃるのでしょうか。世の中の愛を忘れ、天の愛の圏内に入るから、天が近くに来るのです。

 天が直接的に現れて、関係するのです。神様の直接主管圏内という事です。神様が現れても、皆さんは分からない為に、たが現れて代身に成るのです。その様に直接主管を受ける圏内で生きなければなりません。(九一―一八四)

 皆さんは、先生とどんな因縁がありますか。祈祷の中で、あるいは夢の中で、先生を毎日見なければなりません。

 世界の統一教会の信者は、その様な体験を皆しなければなりません。霊界に対して知らなければならないのです。また、目を開けても、先生を皆見なければなりません。その様な人もいるでしょう。それで、これは歴史始まって以来、世界に初めて起こる事です。それは、前にもなく、あとにもない事だと言うのです。

 その事がだんだん強くならなければなりません。アダム・エバが堕落する以前に、神様に干渉を受けたのと同様に、皆さんの生活圏を先生が干渉しながら、全部指導してあげるのです。

 先生が「せよ」と言う事を、うれしい心で、浮かれて動けば、その世界に入るのです。先生は、一番難しい事、出来ない様な事をさせましたが、「先生よりもっと楽しんでしよう」と言えば、その世界に一遍に入るのです。自分の生命を捧げてその場に立ち上がれば、一遍に先生が指導してあげるのです。(九一―一七四)

 我々統一教会の信者達は、祈祷や夢のお告げの中で先生から指導を直接受けなければなりません。我々食口たちの中には、どこへ行っても、その立場で先生の指示を直接受ける人達が沢山います。

 イエス様の時以上に実感のわく事が沢山起こります。我々統一教会の信者達は、先生に直接侍って暮らすのです。それで統一教会では、イエス様の時にあった事以上の事が時々あると言うのです。その様な事がある為に、世界が統一教会と一つに成る事が出来るのです。

 今日、この死亡圏を通り過ぎようとすれば、決死的な祈祷をしなければなりません。祈祷は、一瞬だけするのではなく、二十四時間しなければなりません。この様な自由な時代に、その様な体験をできずに直接侍りながら暮らせない人は、可哀想な人です。

 祝福を受けた人は、本来その様な基準と経験があって、その様な内容に全部結びつかなければなりません。本来は、先生と霊的に接ぎ木して、一つになってこそ祝福対象者として祝福を受ける事が出来るのです。(三一―三三一)

 我々は、「神様の心情」を言います。神様の心情は、どこにあるのでしょうか。祈祷の中で声を聞いてみれば、「先生の言葉をよく聞け。先生を悲しくしてはいけない。先生を喜ばせてさしあげなさい」と言うのです。それしかありません。その様に教えてくれるのです。そして、先生に会いたくて眠らずにいると、霊界が開いたと言うのです。それ故、体恤がなくてはいけないのです。(七六―一五二)
第二節 霊界はどの様な所か

一 霊界と肉界

1 霊界、肉界の中心

 皆さんは、霊界について相当に気掛かりでしょう。世界には、多くの宗教がありますが、その宗教が行く道は、霊界と関係を結んで、永生という世界、永遠に生きる世界、すなわち神様と共に生きる世界を探して行くのです。その様な世界が宗教の目的地です。

 しかし、今になっては、宗教はどの様に成るでしょうか。だんだん脱落して、「宗教は、弱者たちが信じるものだ。我々人間に必要ないものだ。それは道義的な一つの表象として、人間たちが操作しておいたものだ」と、この様に結論を下す時代に入ってきました。

 宗教の中心に成るキリスト教だけを見ても、その様になりました。アメリカが全世界のキリスト教国家の代表国ですが、その様なアメリカの家庭で育った人達が、宗教を離れて、今迄自分勝手に暮らしています。

 世界の中心であり、全ての理想の中心が神様なのに、その神様がいらっしゃる霊界を中心として理想を描いたその様なキリスト教の中にいて、何故出てくる様になったのでしょうか。

 第一に、永遠の霊界がある事を確実に知らなかったからです。知能をもった比較の能力がある人間である為に、良い所があれば、悪いものを捨てて、そこへ行く様になっています。より次元の高い価値のある所があれば、そこに行く様になっています。それが人間の本性です。

 第二の原因は、神様を知らなかったからです。

 第三の原因は、霊界の中心になり、神様の中心に成る愛と関係を結べる事が分からなかったからです。この三つが分からなかったのです。たとえ神様を知り、霊界を知ったとしても、愛を中心とした世界という事が分からなかったのです。

 愛がある所では、上がっても良く、下がっても良く、間にいてもいいと言うのです。愛する夫が自分より高いといって嫌だと、愛する妻が自分より低いといって、それを憎みますか。一つになれば、勝手に低い所から高い所に上がる事もでき、高い所か低い所へ下りてくる事もでき、中間にいる事もでき、どこでも行く事が出来ます。制限がありません。それで世の中では、「この世界は、一つの世界であるべきだ」という言葉を沢山言います。

 霊界と肉界、霊的な存在と肉的な存在も同じです。ここは神様の愛、神様が中心になっています。我々が普通考える堕落した人間は、神様が中心になっていません。

 人間は、心と体から成っていますが、それは違います。次元が違うのです。心と霊界は違うのです。霊界と肉界とは、神様の愛を中心として言うのです。従って、霊界と肉界が一つに成る為には、必ず神様が介在しなければなりません。神様の愛を介在せずには霊界はありません。神様を中心として霊界というものがつながるのです。

 皆さんには良心があります。良心と霊界は、どの様に違いますか。心と霊界は、どの様に違うのですか。「自分の心も霊だろう」と、この様に考えるかもしれませんが、混同しています。

 心は霊界ではありません。堕落した為に、心は霊的世界と関係を結んでいません。いわば、骨のない人の様なものが、堕落した人間たちの心です。「骨のない人の様なものが、堕落した人間たちの心である」と考えれば実感がわきます。骨のない人の様な形態が、堕落した人間たちの心というものです。

 霊人体を見る様に成ると、霊人体も体的な要素があり、心的な要素があります。霊人体の心の様なものが、霊的世界です。それは必ず神様と関係を結んでいます。

 それ故、神様と関係を結ばずには、霊人体の心の様なものが生じないのです。霊と心が違うという事を知るべきです。心は、神様と関係ないのです。神様が離れたのです。神様自体が関係する事は出来ません。神様が直接主管する事は出来ないのです。

 皆さんの心は、「こうだ、ああだ」と変わります。しかし、霊的世界、霊的存在は変わりません。それは、永遠に一つの目標を立てて、絶えず行くのです。それは、何故そうなのでしょうか。神様の側に立っている為です。心は、人間内に属しています。行ったり来たりする人間内にいるのです。

 皆さんは原理を習っているので分かるでしょうが、生心とは何でしょうか。生心は、心と霊と合わさって、新しく一つの目的に向かって動くものです。神様を中心として、我々の良心と一つになって、理想的な自分をつくり上げる事の出来る動機的心です。それで、その生心がなくては、霊界と真成る愛と関係を結ぶ事の出来る、自体の根源を探す事が出来ません。

 生心が自分に生じれば、体も喜び、全部それについていきます。自動的にこれらが一つに成るのです。今迄、人間において一番問題に成る事とは、体と心が互いに離れているという事です。霊的な力が自分に臨んで生心的起源にさえ成る様になれば、心と体が自然に一つに成るのです。その様な根本から革命が起こり、根本から是正する根源を発見出来ない限り、我々は理想を尋ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てくるのです。

 宗教は生心を植えておこうという事です。生心を中心として多くの宗教があります。ありとあらゆる形態があるのです。(九一―一四〇)

2 霊界、肉界の一体

 神様は、尊厳な方です。それで、霊界と肉界は一体化を成さなければなりません。真の愛が現れなかった為に、霊界、肉界が統一出来なかったのであり、真の愛が現れなかった為に、個人と体が分かれたのであり、真の愛が立たなかった為に、宗教と政治が分かれたのです。

 真の愛を中心として、全部一つに成るのです。個人、家庭、社会、国家、世界、天宙が、皆つながるのです。我々の手で、その様にしなければいけないのです。そうでなければ、本然の天上天国、地上天国を相続する事は出来ません。

 霊界と肉界の一致をどの様にするのでしょうか。真の愛で一つにするのです。(二一六―一〇六)

二 明らかに実存する霊界

 世界三十億の人類の中で、霊界を知らない人は八○パーセントになります。信じる人達も、霊界があるか、神様がいらっしゃるか、はっきり分かりません。しかし、霊界はあります。

 考えてみてください。世の中の金持ちが、これから幸福の郷をつくろうとする時、自分の全ての財産を使って持つくりたい気持ちがあるのと同じ様に、天地創造の天の神様が自分のお住まいに成る所をいかにつくったでしょうか。霊界はある部分を探して凝視して、千年を眺めても飽きない美の世界です。想像も出来ません。ああ、何やら、「世界一だ」と言っても何でもないのです。霊界の一角にもなりません。だから、この地上が欲しい所ではないのです。先生に言わせれば、この地上は先生の目的にかなわないので、帰りたいのです。(一五―一五四)

 一般の人の大部分は、今も霊界を考えません。生まれたから、ただ父母に仕えて、家庭に暮らすと思って暮らします。

 その様に暮らす全ての生活の中心とは何でしょうか。どの様に暮らすかという事です。それ故、一番重要な事を衣食住ととらえます。

 どの様に暮らすかという問題、どの様に食べるかという問題、どの様につくろって暮らすかという問題、これが中心だと言うのです。そこは、もちろん人間関係において、人倫道徳があって向上する、互いが発展して、互いが良くあり得る内容がありますが、民族が異なり、国家が異なり、世界全ての文化背景の違いの差によって、道徳基準であるとか、社会制度が全部変わるのです。

 この様に見れば、今日、歴史上に生きている人間たちが行くべき本然の基準、本来の基準と、今日、我々が暮らしている生活の標準として立てていく人倫道徳の基準が、いろいろな方向に向いているのです。これが一つに収拾され得ていません。

 本然の世界に基づいて、我々が生まれて生きていくべき所とはどこでしょうか。これが確実ではないのです。それ故、一般の人達は、霊界があるのか、ないのか、神様がいるのか、いないのか、分からないでいるのです。

 しかし、我々統一教会の信徒達は、霊界が確実にあるという事を知っているのです。信じているのではなく、知っているのです。何故でしょうか。多くの体験を通じて知っています。今日、統一教会がこれほど世界的な基盤を形成する迄の背後を調べてみる時、多くの体験過程を経てきているのです。それ故、「霊界はない」と言う事が出来ない立場にいる人達が、統一教会の信徒たちです。(一四〇―一二二)

 我々統一教会の信徒達は、どんな道を行くべきでしょうか。神様が願う道に従っていかなければなりません。天意の道に従っていくのです。天意とは何でしょうか。個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会が、国家が、世界が、霊界迄が行くべき天意の道があります。その専門家が、先生です。霊界は、間違いなくあります。(一二一―一四六)

 神様がいて、霊界があるなら、どの様に成るでしょうか。ある人は、「神様がいるとしても我々と関係がない」と思うかもしれませんが、それは考え違いをしているのです。「霊界があるとしても、私と関係がない」という言葉はまるで、「自分は家庭の一人として、国が必要なく、世界が必要ない」と言うのと同じです。

 それ故、もっと大きな神様がいて、もっと大きな霊界があるなら、もっと大きいものと自分は、関係を結ぶ事を願います。関係ができて、そして何をするのでしょうか。一つにならなければなりません。天の目的に向かって行くべきなのです。(一〇四―一一九)

三 霊界は信仰の原動力(使徒パウロが見た第三の天)

 聖書を見れば、パウロが十四年前に見た第三の天について述べています。十四年間パウロはどのよう生きてきたのでしょうか。第三の天を見た事、それが力になって、十四年間を生きてきました。

 パウロは、それ以上の事を知った為に、パウロは第三の天の事を述べても、また行く事ができたのです。(六二―四七)

 使徒パウロが霊界の第三の天の世界を見て体験した事は、彼が十四年間絶えず宣教活動をし得る原動力になったのです。分かりますか。その様な体験がなければならなりません。先生もそれと同様です。(二七―一二八)

 先生は、死を恐れません。何がその様にしたのでしょうか。愛です。獄中にいくらぶち込んでも、文先生はそれも消化する事が出来ます。ですから、今日この様に反対する環境を消化して屈服させなければなりません。私の手で全部屈服させておいたのです。(二〇二―二七)

四 霊界を創造された時

 霊界は天使世界と似たり寄ったりです。分かりますか。そして、今日の世の中は、アダム・エバの様な立場にあります。所で霊界は、アダム・エバを造る前に造られました。

 霊界が神様のみ旨に反対する事によってサタン世界が生じた為に、霊界が神様のみ旨を歓迎してこそ、その世界が復帰されるのです。また、霊界を屈服させずには、地上世界に主が来る事は出来ません。それで、統一教会が今迄霊界を屈服させてきたので、霊界は統一教会に協助しなければならないのです。(二五―二三三)

五 霊界とはどこか

 霊界とは、どこにあるでしょか。皆さんの体の中にあります。ですから、霊界を背負って回り、侍って回るのです。ですから逃げる事が出来ません。(一六二―一一六)

 霊界はあります。霊界は、この世界の為にあるのです。この世界も、永遠の世界の為にあります。世の中に神様がどこにいて、霊界がどこにあるのでしょうか。神様がいらっしゃる所が霊界です。(一一七―三〇七)

六 霊界はどの様な所か

 我々の人生が七十、八十年で終えれば、別に問題がありませんが、永遠の問題を中心として生きていくから深刻です。

 では、霊界があり、死後に霊界に行く様になれば、何を持って考えるのでしょうか。 霊界は広大な世界です。皆さんは知りませんが、広大無辺な世界です。

 この地に、民族間の差別があり、文化的な格差とか、相いれない生活像があります。もまれて暮らしながらも、自分の主張と自分の価値を残したかった事が過ぎ去るのではなく、霊界に行っても生き生きとよみがえるのです。(一八七―二八五)

 今日、電気とか、宇宙とかと言って大騒ぎするのは、愛の理想世界を成す為の一つの内的な潤滑剤の様なものです。霊界という所は、愛の電気で充満した世界なのです。

 愛の電気を持ってして、出来ない事はありません。ここから、我々の意識構造を持って治め得る可能圏が霊界だといえます。霊界とは何でしょうか。永遠の要素を願う所です。

 霊界は、全てが愛で充満した、愛で一杯になった調和の世界です。ですから、愛のボタンを押せば、宇宙が作動するのです。

 地上天国とは何でしょうか。全ての愛のバルブに火がつく所が地上天国です。天上天国とは何でしょうか。愛のバルブに火が完全につく事の出来る所が天上天国です。

 それ故、皆さんが愛の心さえ抱いて、愛の綱さえ引けば、皆引かれてきます。後ろに引けば後ろに行き、前に引けば前に行きます。思うがままに操縦されるのです。嫌でそうするのではなく、自動的にそう成ると言うのです。

 それで、霊界という所は、「愛の空気で充満した所」という概念を探す事が出来ます。愛の神様が、愛の心で、世界の人類に一度に全部食べさせ、喜ばせたくて、「御飯よ、生じよ」と言えば、生じるのです。

 霊界では、愛の食べ物を食べます。互いに見るのも、愛の目で見るのです。そして神秘さが形容出来ない所です。聞いても絶えずもっと聞きたいし、眠りとか、疲れとかという観念はあり得ないのです。

 霊界とは、愛の電気で充満した所なので、今日人間達は、何でも愛に関係を結ぼうとします。何故、愛の関係を結ぼうとするのでしょうか。霊界に拍子を合わせる為です。その様になっている為に、そこに応じるしかないのが我々、存在物です。その位置を離れる事が出来ません。

 皆さん、夢で先生を見る様に成るのはどうしてでしょうか。それは神様の愛の波長を通じて現れるのです。そうしようとすれば、自分があってはいけません。自分があってはならないのです。自分を犠牲にするという事です。真空状態を作らなければなりません。真空状態になった次には、抵抗がない黄金に成るとかしなければなりません。黄金というのは他の要素がないのです。純粋な、そのま迄す。黄金を何故宝物と言うでしょうか。黄金は抵抗力がないのです。(一一二―一七)
第三節 霊界の内容と状況

一 堕落で生じた霊界に対する無知

 我々の体には、百兆に達する細胞があります。先祖達は死んで霊界に行きましたが、我々の体の一部分には、先祖たちが愛を受けた細胞が伝授されています。

 生命を中心としてつながった細胞が伝授されており、血がつながった細胞が伝授されて、生きて動くのです。

 秋になれば木の葉が落ち、新しい春が来れば、新芽が出てきて、夏になれば青い園に成るのと同様に、我々人間も、自分の中にある数多くの先祖たちの血縁的因縁を経て出てきたのです。今は後孫的立場にいますが、自分自身の人生は、その先祖たちを代表して生きるのです。先祖の真成る愛を中心として、先祖の生命力に従って、先祖の血筋を残す為なのです。

 ですから、先祖を圧縮したのが、正にお爺さん、お婆さんです。天の前に我々の氏族の代表として、我々の家庭の代表としてつながった方が、お爺さん、お婆さんです。

 お母さん、お父さんとは何でしょうか。お母さん、お父さんは、家庭の中心です。この世界の全ての家庭たちの母、父を代表しています。お爺さん、お婆さんが過去の時代なら、お母さん、お父さんは現在の時代です。

 息子、娘とは何でしょうか。未来の永遠な神様の理想世界、天国と一体化され得る、天宙統一を完成させ得る後孫として、我々の家庭の出発存在として抱いているのが息子、娘です。

 ですから、過去の世界の代表者、現在世界人類の家庭の代表者、未来の後孫を代表する代表者を抱いて、一つの所に圧縮させておいたのが家庭です。

 それで、堕落しなかった家庭はその様な立場に立っている為に、霊界と肉界に皆通じる事が出来ます。地上世界が、父子の関係の愛を貴く考えるのと同様に、その愛を持って生きたなら、天上世界も神様を父母として侍り、息子、娘の様な立場で暮らす事になります。(二一四―二六八)

二 霊界は即時的感知可能圏

 霊界では何でも一遍に分かる様になっています。挨拶をしなくても、何億年前に、何千万年前に、何百万年前に生きていたなにがしとかいう、その様な者が来るのです。その様に早い世界です。

 先生も難しい問題について、三角地帯で「この点だ」という時、その点がどこなのか、指が、体が分かる時があります。それ故、何時でも焦点を合わせて、正しい心を持って歩かなければなりません。

 人に接する時、その人を利用しようと思わず、利益を得ようと思うなと言うのです。そうしてはいけません。本性が一度ぺちゃんこに成ると、修正するのに半年から三年迄かかります。それで、行動が恐ろしいのです。その様になれば、地獄の中でもその様な地獄はありません。それを分かる人達は、最初から考えもしません。(二〇四―三〇四)

 我々の根源には、まだサタンの血がうごめいています。サタンの愛が、自分の体に根を下ろしました。その愛が、自分の生命の血筋を通して、神経を通してつづられています。そこで百兆ほどにも成る細胞でできた「私」という体が生じたのです。

 サタンの血とともに生存権を維持するこの悲惨なありさまを自ら嘆き、これを破壊させる為の行動を一生の間、何百倍するという覚悟と決意をしなければいけません。

 それなのに、この体を抱き締めて愛する事が出来るでしょうか。おなかがすいたと、狂った犬の様に口を引きずって歩けるでしょうか。この様な体を中心として、情欲を満たす為に、相手を訪ねていけるでしょうか。

 霊界に行く様になれば、挨拶は必要ありません。さっと会えば分かる様になります。何千年前の人であるという事が分かります。何百年前の人だという事が分かるのです。今日、「聖書の歴史は六千年だ」と言いますが、分からない事を言うなと言うのです。彼らは霊界を知らない人達です。

 聖書の歴史は、何百万年、何千万年です。その時代の我々の先祖を呼べば、一遍に現れるのです。さっと見れば、話さなくても既に分かる様になっています。自分の全てが現れる様になっています。高めてあげるべき人なのか、下げてもいい人なのか分かる様に成るのです。それ故、挨拶は必要ありません。自動的に秩序が維持されるのです。

 全ての秩序は、何でなされるのでしょうか。愛でなされます。愛で位が決定されるのです。それで、神様の息子、娘にならなくては、天国に行く事は出来ません。

 神様の愛に接する為には、垂直線に入らなければなりません。聖書に「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主成る貴方の神を愛せよ」(マタイ二二・三七)とあります。それはどういう事でしょうか。全ての中心は、愛というものです。それで、あらゆる作用と意識する全体を合わせて、主成る神を愛する事しかないという時、そこからエレベーターに乗って垂直圏に上がっていくのです。その様な驚くべき世界です。(二〇三―一四二)

三 霊界の中心

 霊界の中心は何でしょうか。それは、一つの絶対的神を中心として構成された世界です。その絶対的神様がいるなら、その神様は、この天地創造の時の宇宙の起源であられるお方です。彼によらないものがないのです。彼に属している為に、彼に属した全体は、彼と共に感じ、彼と共に因縁を持って過ごしているのです。

 例えて言うなら、我々人間は百兆ほどにも成る細胞を持っていますが、全ての細胞自体がどの様な部分でも感じさえすれば、直接頭脳に連絡されるのです。天地創造の時の創造主を中心としてつながる全ての存在も、それと同じです。しかも人間として生まれて、意識しながら生きており、善でより次元の高い価値のものを追求しながら、悲哀を感じる全部が人間から始まったのではなく、人間の根源から始まったのです。それ故、過程を経て、根源と通じる事の出来る結果の世界に行っているのが人生であると、この様に見るのです。(一四〇―一二三)

四 霊界の組織(階級体系)

 霊界はまだ未完成です。何故未完成なのでしょうか。本来、霊界の階級体系は、神様と真の父母、真成る子女を中心としてつながっていなければならないのに、それができていないのです。地上もやはりできていません。

 言い換えれば、堕落しなかったアダム主義であると同時に、真の父母を中心とした階級体系に成るのが霊界ですが、それができていないのです。今迄、その中心の中には、仏教を中心とした釈迦牟尼クラブがあり、孔子クラブがあり、マホメット・クラブがあります。

 それで、霊界では真の父母主義とアダム主義が現れるのを、イスラム教や、儒教や、仏教などが、皆願っています。ですから、統一的な方向を経なければならない為に、地上にも真の父母の歴史が世界的な基準を探して上がっていく様になれば、全ての宗教の境界線はなくなり、統一運動が霊界の動きである事によって、自動的に現れる様になります。

 それで、統一教会が世界主義になれば、どんな事が起こるでしょうか。霊界の霊人達が霊界に存在しない、という事が起きます。目的が、地上で完成して、逆さまに入らなければならない為に、全部再臨する様になります。全部活動するのです。

 世界の至る所にいる統一教会員たちが行動する事は、霊界の数千億の霊人達の願いです。

 霊界の組織体系の中心とは何でしょうか。第一は神様、第二は真の父母、第三は真の息子、娘、第四は真成る国です。ここで真の子女は、真の父母の直系の血統を受けた子女です。ここで国を中心として、全部分かれて国民に成るのです。

 天国の王宮で、一番先に暮らすべき方とは誰でしょうか。天国の王宮の席に座って、統治する方とは誰でしょうか。本来神様を中心して真の父母になったアダム・エバが、天国の王権を支配出来る立場にいなければなりません。堕落しなかったなら、その様になっただろうけれど、堕落した事によって、その様になれなかった為、再び真の父母が出てきて移さなければなりません。

 この様な原則で霊界ができているのに、肉界にこの様なものが現れれば、どれほど引っ掛かりますか。神様を中心として、真の父母が現れ、真の子女が現れ、第四は真の国民を通じた真の国家が現れなければならないのです。(一六一―二二三)

五 霊界での衣食住

 皆さんが、けさ御飯を食べたといって、あすの朝は食べなくてもいいですか。皆さんの生命が死ぬ迄、「ああ、御飯! ああ、パン! ああ!」と言いながら死んでいくのです。

 同様に霊界では、毎日の様に神様のみ言を食べなければなりません。ですから、ここで訓練をしなければなりません。あの世に行っても、「神様がどんなみ言を語られたか。あのみ言はどんな意味か」という事を知るのが願いです。

 見てください。あの世にパンの工場がありますか、ないですか。コーラやジュースを作る工場がありますか、ないですか。ありません。そこに自動車を造る工場がありますか、ないですか。あの世に行って、「私は良い車に乗って回る」と言いながら、こうして回りますか。ここでは、何かベンツに乗って回り、何がどうだこうだと誇りますが、そこでは、それらは皆必要ありません。

 あの世に行って何をするのでしょうか。食べるでしょうか、食べないでしょうか。それで、食べるのに何を中心として食べるでしょうか。愛を中心として食べる様になっている為に、愛をもてなかった人は、行って食べようとしても、口が開きません。それが決まりです。

 自分を愛する心だけあり、全体を愛する心が中心になっていなければ、口が開きません。箸で食べる物をつまんで口に持っていこうとしても、箸が他の所に行くのです。ですから霊界は、真の愛を持ってこそ、全てが可能な世界であって、真の愛のコンセプトをもたなければ、全てが不可能な世界です。

 レバレンド・ムーンが教える事は、心情の潮流です。天国の神様の宝座と神様の心情迄経て、万国が通じる事ができ、全体と関係を結ぶ事が出来る心情の潮流を言うのです。

 霊界ではいい家があるという時、その家に暮らす人が、自分より級が低ければ自分の家にする事が出来ます。それは、その家に訪ねていくと、自然と分かる様になっています。

 神様の息子、娘になれば、膨大な宇宙が、全部自分のものになります。皆さんが霊界に行けば、先生に付いて回れません。それは、皆さんの心情の門が狭いからです。真の愛は、大きい門でも、小さい門でも自由に行く事が出来ます。真の愛でなければ行けません。(二〇七―九四)

 霊界は、我々の故郷の地です。本然の故郷の地です。この地は、本然の体の故郷の地であり、霊界は、本然の心の故郷の地なのです。この次に行く所が、心の世界、霊界です。それ故、地上で霊界に合わせて訓練をしてこそ、霊界に行っても支障がありません。(二〇七―七二)

 霊界には、自動車もなく、食べ物もありません。我々は霊界で創造主であられる神様の様に、全ての種類のものを真の愛を中心としてつくる事が出来るのです。

 愛を中心として、どんなもので持つくる事が出来ます。「ある工具、現れよ!」と言えば、すぐに現れます。また、晩餐会場に、数十万、数百数名が参席した時、どんな食べ物でも願いさえすれば、準備されて出てくるのです。金色の正装を願えば、即時にその様な正装が出てくるのです。

 また霊界では、眠りません。霊界は眠りがない為に、真夜中にも自分の体を通過して、全ての部分で踊りを踊る事が出来るのです。霊的に自分がそうするのは、永遠に楽しみが満ちる様にする為です。

 空気も愛の空気、食事も愛の食べ物、服も愛の衣服を、真の御父母様が真の愛を中心として下さるのです。(二一七―二九三)

 地上では、御飯を食べて暮らすのが心配です。ですから、自動車工場、肥料工場、服の工場、食べ物を作る工場など、工場が必要です。家でも食べ物の為に大騒ぎです。霊界に行く様になれば、それが皆ありません。自動車が必要なく、飛行機が必要ありません。瞬く間に億万里でも行く事が出来ます。太陽の光よりも速いのが、この霊力です。神様がつくった太陽の光でも、一秒間に三億メートルを走るのです。

 所で、神様の本然的な愛の力、生命の力というものは、それより何千倍も速いと言うのです。誰かに会いたいと言えば、何億万里、何百万里離れているとしても、すぐに現れます。広い天国に行っていますが、自分が会いたい人、自分が愛した人に会いたいと言う様になれば、その場で相手が現れるのです。

 それ故、今から何百万年前に生きた人も来て、挨拶するのです。何千年前と今の時が、どれほど変わったかと言うのです。その時、人達は今暮らす人より、心では天をよく感じる事ができたのです。

 ですが、文化生活の面では、反対なのです。文化生活とともに、霊的世界の啓発が共になって出てくるのです。知識に通じる様になれば、知識の測度によって理解し、全てを分析するのにおいて鋭敏なのです。それ故、霊感を摂取する事が出来る基盤が、もっと拡大されていくのです。それ故これからは、自然にその様な知識が多くなり、世界の流れを心配する人達には、すぐに霊界から教えてくれるのです。

 霊波を通じて、どの様に成るのかが分かるのです。最高の立場に行く様になれば、終わりは一つしかないのです。(二〇六―一三八)

六 霊界での知識と権力の使い道

 霊界ではお金をいくらでも作る事が出来ます。神様は知識の王です。知識とお金と権力は、一生において追求する価値的なものの一部分にしかなりません。

 教授たちの知識を千年、万年誇る事が出来るでしょうか。持って回りながら誇れるでしょうか。一生にとどまるのです。それが自分と共にあるのは、一生だけです。お金もそうであり、知識もそうです。ですから知識を、お金を、権力を誇るなと言うのです。神様は、それを無価値なものの様に見ます。霊界では全部無価値なものです。(二〇三―二九一)

 神様を知るべきです。神様は、人格的神でなければなりません。神様が漠然としてはいけないのです。我々自身が具体的です、知情意を備えた人格的人なら、その主体であられる神様も知情意を備えた人格的神であるのです。

 では、神様が持っている多くの属性の中で、一番の中心は何でしょうか。情です。愛というものです。神様も生きるのに、愛が一番必要なのです。天国では、知識で暮らすのではありません。

 皆さんは霊界を知らないからそうであって、霊界に行って知るという事は、一週間以内に皆終わります。心を鏡の様に見る事が出来る世界が霊界です。

 霊界は、いくら優れて、いくら立派な知識人がいるとしても、彼が持っている知識を一週間以内に凌駕し得る、直感の世界です。

 心の光を通じて見る為に、そこに関係している因縁の世界は、自動的に理解されるのです。それは、情の心情を通じて見てこそ、自分と相対的関係を持つとか、主体的関係を持つのであって、知識とか、神様の他の属性では駄目なのです。(二一〇―三一二)

 霊界では何億万里の距離にいる世界の人でも、愛の心が強くて会いたいと言えば、さっと現れる事が出来ます。「どの様に来たか?」と言えば、「貴方が呼んだから現れました」と言うのです。「どれほど遠くから来たか?」と言えば、「何億万里離れた所から来た」と言うのです。距離を超越するのです。宇宙が自分の活動基地です。

 所で、その世界にはない物質で首を絞めています。お金、知識、権力で首を絞めているのです。その世界は、その様なものは一つもありません。この世界では、お金、知識、権力が必要ですが、その世界ではその様なものは必要ないのです。今迄サタン世界の人々が、それを願ってきたのです。

 霊界は権力の真空地帯です。それは、皆さんがどこにも暮らせないとう事を意味するのです。霊界のどんなものも皆さんを歓迎せず、霊界がいくら皆さんに関心を持って一つになろうとしても、皆さんは何も持つ事が出来ないのです。反対的なもの、本質とは反対のもの、それは一つに成る事が出来ないのです。霊界が関心をもてる立場とつなげられません。(二〇五―一二八)

 神様も、愛の為に創造しました。神様に、何を一番好むかと聞いてみれば、どの様に答えるでしょうか。神様は、好むものがありません。お金も必要なく、知識も必要なく、権力も必要ありません。

 我々統一教会員たちには、何が必要でしょうか。同様です。愛の中では、お金もあり、知識もあり、権力もあります。愛の権力は、万年権力です。本当の愛が分かる人は、天上世界に行って習うものがありません。

 その様な人は、何時でも神様の心の中を出たり入ったりします。神様の体を通じて、東西南北を自由に行ったり来たり出来ます。これが中央停車場の様になっています。それは何の話か分かりますか。それが何故必要でしょうか。そこに入って出てくる時は、東西南北の力が集中する為に、強力な力で出てきます。見知らぬ国も、その中央を通じて出てくる時は、高い神様と対等な位置に上がるのです。愛には、この様な偉大な力があります。

 知識とは何でしょうか。知識がある事によって、知る事によって、全て環境的与件を所有する様になります。知識の中で、最高の知識である愛だけもてば、天下が皆つながります。知る人が支配者です。知る事が力だと言いました。力のある人が支配するという論理です。それ故、愛をもった人には、知識は必要ありません。あの世では、習わなくても皆分かります。

 先生は、その様な事を明らかに知っている為に、地上で暮らしたいという考えはありません。その膨大な世界が、愛を中心として全部つづられているのです。その愛に和する神様の心情圏を所持する様になれば、全て終わります。創造歴史は、永遠に続くのです。その様な境地の心に和して、自分が構想した全ての事をすべきです。決心して命令すれば、即座に成るのです。(二〇二―八六)

七 霊界での人間関係

 神様は、天地を創造された方であり、今日この世の存在の起源に成る、最も母体であられる方です。その方は、存在価値の起源です。その方がいらっしゃる事で、今日この現象世界が始まりました。

 その様な絶対的な方は、ある時代に変化があったとしても、変わる方ではありません。絶対的なものは、変わる事はありません。また、時間や空間に制限を受ける事もありません。全ての制限を超越した立場に立って、全ての制限を主管される方です。神様を、その様な方だとばかり言うではありません。

 その方は「父」です。皆さんは「天のお父様」と呼ぶべきです。その父は、皆さんを生んでくれた父です。人間が堕落をしたので、再び生むという言葉が必要なのであって、その方は本来皆さんを生んだ父です。肉身の父は、皆さんへの橋渡しを頼んだ父です。その父を霊界に行けば、「父」と言うのではなく、「お兄さん」と呼ぶ様になっています。母に対しても、「お母さん」と呼ぶ様になっていないのです。

 父母の根をもった人達は、神様を何と呼びますか。全部が、キリスト教で呼ぶ様に、神様を「父」と呼びます。一つの家の中で、お爺さんも神様を「父」と呼び、お父さんも神様を「父」を呼びます。孫もやはり神様を「父」と呼びます。家の中の家族全てが、神様を「父」と呼びます。

 この様に、神様は人間全てに父になられる方です。それ故、神様は人間に父となられ、人間は互いに兄弟に成るのです。先生は時々、本当にその様に成るなら、霊界に行けば実におもしろいだろうと思ったりします。

 人間は互いに兄弟だと言いました。それでは、霊界で一番近い兄弟とは誰でしょうか。霊界で一番近い兄弟は、横的な兄弟ではありません。この世で父子関係と兄弟関係のうち、どちらの関係がより近いですか。兄弟の関係より父子の関係がより近いから、霊界に行っても自分の父が一番近く、次はお爺さん、その次はお爺さんのお爺さん、またその上のお爺さんに成るでしょう。その様に上がっていけば、最後のお爺さんとは誰でしょうか。その方が正に神様です。

 それ故、世の中に友達がいないと寂しがる事なく、一人で暮らして死んだといって悲しがる事もありません。霊界に行けば、上を見ても横を見ても、近い兄弟が無尽蔵にいます。しかし、兄弟にはそのまま成るのではありません。神様を父として侍る事が出来る特権を備えてこそ、この全ての方たちと兄弟に成る事が出来るのです。

 父を兄にして、お爺さんを兄にしたとしても、気分が悪くありません。ある考えでは気分が悪いでしょう。世の中においては父と呼んだのに、霊界に来たといって「お兄さん」と呼ぶとは、お父さんはどれほど気分が悪いでしょうか。しかし、その様に呼ばなければなりません。

 何故そうであるべきなのでしょうか。それは位置でだけ本家の息子に成る為です。そうであるなら、「本家の息子は一人しかいないのに、全部本家の息子になればどの様に成るのか」という思いがするでしょうが、霊界では全部本家の息子に成る事が出来ます。神様を中心とすれば、全てが本家の子孫になれるのです。世の中でも、金持ちの主人が死ねば、その財産を子供に相続してやります。その時に、本家の孫に成る長男に財産を半分やって、それ以外の息子達は残りをもらうのが通常の礼法となっています。

 しかし、霊界ではそうではありません。霊界にいる霊人達は、全て本家の子孫にならなければならない為に、神様は持っておられる全ての財産を分けてやる必要はありません。それ故兄弟が一つになれば、お兄さんのものに成ると同時に自分のものに成るのです。

 それ故、兄弟同士が一つに成るのが問題です。皆さんが先祖の代数を計算してみれば、代数は互いに差が出るでしょう。所が、本家の先祖たちが完全に一つにさえなれば、それ以後の後孫達は宇宙を相続するのです。言い換えれば、その本家の子孫を中心として、天上世界を治めるという事です。(二一―二四九)

 あの世ではお婆さん、お爺さんが、皆さんよりもっとかわいいです。愛があれば、その様な世界にとどまる事が出来るのです。そこは統一された世界であり、とても美しい世界です。自分の先祖のお爺さんとは誰ですか。一番最初のお爺さんとは誰かといえば、神様です。(二一六―一八〇)

 霊界に行って見てみれば、男女が一つの大きな人の様に見えるのです。人々とは何でしょうか。皆さんは全て、一つの細胞と同じです。全宇宙が全て男女の様に見えます。その様に見えると言うのです。それが合わさったのです。その間に入った人達は、神様の細胞と同様です。一つの体になっているのです。(二〇七―九八)

八 霊界の中心は愛。。。。。。。。。。。。。。

1 霊界の空気は愛

 霊界は、どんな組織になっているでしょうか。あの世では、空気が愛です。愛が空気になっています。体と心が、この様な地上で愛の感触を受けて和する事が出来る要素として、体恤しなければなりません。体恤圏をつくっておく様になれば、ただそのまま通じない所がないのです。木の樹液が木の芽と木の根を通じる様に、通じるのです。神様が喜ぶのを自然に自分が感じるのです。東方に向かって、神様のうたげが繰り広げられるという事が分かるのです。(一六二―二八七)

 霊界には、愛のねじがあります。愛の機械があれば、そこに軸があります。モーターで言えば、回る軸があります。あると言うのです。軸を全部解けば愛です。

 回るものも愛の為に回るのです。その秩序の調和というものは、心配する必要がありません。本質的な愛を中心として生きていけば、その世界はどこに行っても皆、細胞と同じです。(一二六―二四〇)

 霊界で、呼吸出来る空気は、愛です。愛の道理を果たしてこそ、神様が歴史時代に願った希望の実体を完成したという格を持つ様になり、天国のどこに行っても歓迎するのです。

 それで皆さんの家庭は、天国に行く事が出来る訓練所です。修練所なのです。そこにはお爺さん、お婆さんの様な人も暮らします。拡大すれば全く同じなのです。お母さん、お父さんの年齢級、自分の夫、妻の年齢級、息子、娘の年齢級を拡大したものです。家庭で修練された者を四方に拡大して、「為」にする事が出来る愛の圏を持って生きる人は、天国に行く事が出来ます。家庭は、天国に直行する事が出来る修練所です。ケープ・ケネディ(現ケープ・カナベラル)の様に、人工衛星を飛ばす事が出来る基地の様な所です。この様に、愛の原子爆弾を、愛の衛星を撃つ事が出来る基盤が、皆さんの家庭なのです。(一四三―七二)

2 霊界は愛中心の暮らし

 あの世では、霊人達が愛を中心として暮らします。それ故、愛の福を沢山分けてあげなさいと言うのです。そこには涙が流れなければなりません。

 人は、良い時に、悪い時にも涙が出ます。良い時にも涙が出るでしょう? 笑うのと泣くのには何パーセント差がありますか。笑う時は目を開けて笑いますが、泣く時には目を閉じて泣きます。笑う時、余りにも笑うと涙が出ます。顔の形も別に差がありません。目一つの差です。(二一二―一六六)

 これから、芸術だけが残ります。愛に対する詩を詠む事が出来ない人は、落第です。(二一一―二四六)

 宇宙の核、愛の核はどこにあるでしょうか。愛の核があります。前にアメリカでウプシロンという一つの素粒子を発見しましたが、「人間の能力ではその素粒子に接近出来ない」と言いました。それを見ると、霊界を自動的に公認すべき段階に入ってきたのです。

 驚くべき事実です。科学的に証明できてこそいいのですが、そう出来ないのは一つの良い契機ではないかと見たのです。それ故、それが四次元世界の起源を備えたのです。自動的に物質の世界が限界線に来る事で、霊界が明らかに成るのです。限界線があるのではないのです。霊界と我々の心の中に限界がありますか。我々の心も霊界と同じなのです。程度の違いはありますが、同様の感覚がある為に、霊物だと言うのです。(八三―二〇九)

 我々が霊界に行く様になれば、真の愛の力でいくら遠い所にいる人でも、瞬く間に会う事ができ、いくら遠い所にいる人でも、愛の為訪ねていく時は、瞬く間に故郷に帰る事が出来ると言うのです。

 霊界は、無限に膨大な世界ですが、何百万里、何千万里の距離も、瞬く間に愛を中心として行き来する事が出来る世界です。

 愛は、最高の速度を出す事が出来ます。しかし、皆さんの体と心の統一的愛の基台をもてない時には、その世界と自分は関係ないのです。ですから、統一の起源が相対世界から起こるのではなく、自分から始まります。(二一六―一九二)

九 霊界は心情の世界

 霊界とはどの様な所でしょうか。霊界について話せば「精神病者だ」と言う為に、話をしない様にしていますが、霊界とはどんな世界でしょうか。神様の心情と同級に立つ事が出来る心情をもてば、何でも可能な、その様な世界です。

 心情の世界は、無限な幸福の世界です。しかし、そこへ行くには、千段、万段の訓練の階段を踏んで教育を受けなければなりません。無限の試練を受けていきながら、一段階、一段階、何億万年もかかって行かなければならないのです。誰でもその様な運命の歩みをすべきなのです。西洋人や東洋人、皆行かなければなりません。自分の為に涙を流す人ではなく、人の為に涙を流す人でなければなりません。

 それ故、まごまごしないで、「さあ、しなさい。私は死ぬ。死んでも行く。さあ、しなさい。勝手にしなさい。この心情の中で死ぬ」と立ち向かい、「お前が死んでも、私の心情が生きている限り、殺せない。私は霊界にこの心情を持って行き、接ぎ木するだろう」と、「お前が神様の心情圏を侵犯する? サタンの心情圏を侵犯する事は出来るが、神様の心情圏を侵犯出来ないのが天理の原則ではないか」と、神様の側から言うのです。

 サタンは、サタン世界の心情圏は主管しますが、天の心情圏は主管出来ません。

 それ故神様の心情圏を中心として、サタン世界を同化させてきたとすれば、霊界も同化されると見るのです。その様になれば、天国の王国になり、東西南北十二の真珠門の中のどの真珠門を通っても、妨げる者がいないのです。皆歓迎するのです。

 何故その様に成るのでしょうか。神様の心情を通じれば、どこからでも一つに成る事ができ、どこからでも和する事が出来る為です。(一〇六―二二九)

 世の中の「主義」というものは、良心基準で意識革命の段階に成るかもしれませんが、これからは宿命的に勝利する事ができ、最終的に勝利する事が出来るものが出てこなければなりません。それが正に「心情」です。

 これから人類の心情を革命して、天道の基準を立てる事の出来る新しい歴史観が出てこなければなりません。この歴史観を基準に、新しい人生観と世界観を創建する事が出来る心情的な主義が出てこなければなりません。では、その主義とはどの様な主義でしょうか。それは心情的な人生観、心情的な世界観、心情的な宇宙観を中心としたものであり、統一教会は、正にこの様な事を教えてくれるのです。(一六―二五二)

十 霊界の状況

 愛以上に和した神様の前に相対に成る事の出来る人は、考える全てを即座に実現化する事の出来る人です。何千万名が宴会をするという時、瞬く間に準備をする事が出来る世界が霊界です。自分が服を豪華絢爛にして、愛の対象として神様を一度楽しくしてさしあげるという時は、豪華絢爛になります。想像する全ての事が可能な世界です。

 その様な世界が分かる人は、地上では生きる楽しみがありません。それ故、先生を監獄にぶち込んでも、先生にはそれが問題とはなりませんでした。しばらくの間と成る世の中での暮らしは、永遠の世界で息を一息つくかつかないかの間と同様です。(二一一―二四四)

 霊界に行けば飛び回るのです。真の愛は最高のスピードを持っている為に、広大な二百二十億光年にも成るこの宇宙も、真の愛をもった神様は、ぴょんと一歩で飛び越えるのです。皆さんも、全て同じです。霊界では、いくら大きい宇宙があっても、そこは自分自身の活動舞台です。(二一三―二七七)

 霊界に行けば、羨ましい事はありません。愛の化身体をダイヤモンドと比較出来ません。黄金の塊や、真珠と比較出来ません。宝石が問題ではありません。愛と化した化身体は、もっと美しいのです。

 あの世で芸術家に会う様に成るなら、自分が芸術的な全ての素質を瞬間的に啓発して、ついていけます。万事が可能な世界です。ですから、あの世に行く様になれば、歌う所では歌い、踊るのです。

 神様は、絵を描くのも一番だと言うのです。神様が傑作品の絵を持ってきて、張り付けて眺めるでしょうか。傑作に行動する創造物を眺めるでしょう。どちらが好きでしょうか。行動する創造物が好きなのです。そして、その世界は愛の心に酔う最高の立場にある為に、老いません。

 何時も晴れた日だけであれば、退屈なのです。そこに霧もかかって、月にかさもかかって、そうしてこそ退屈ではないのです。それが美術の世界です。芸術の世界です。

 地上で何時も、晴れたり雲がかかったり、ありとあらゆる変化無双の気候を見る時、それが芸術的なのです。(二〇一―一〇一)

十一 霊界の生活

 霊界の生活はどうでしょうか。食べる事の心配、生きる事の心配、着る事の心配は必要ありません。何故でしょうか。自分の心霊状態どおりに、願う全ての事が可能だからです。あの世でも食べます。あの世でも、自分をまず見れば、血筋が、脈拍がどきどきするのを感じる事が出来ます。同様です。霊的な体ですが、同じです。

 自分が何かを食べたいと言えば、食べたい物が食べる事が出来る様になって現れるのです。それがどこから来るのでしょうか。根源の世界を動員する事が出来る、能動的自主性を行使する事が出来る世界が霊界です。それ故、全体を動員する事が出来る主体的能動圏をもったものとは何でしょうか。権力でもなく、知識でもなく、お金でもありません。愛です。

 神様がいくら高い存在だといっても、「神様!」と愛の心で呼べば、「何だ」と自分の心の中で答えます。「神様、どこにいらっしゃいますか」と言うと、「どこにいるかとはなんだ、お前の心の根本にいるだろう」と言うのです。神様が、本来根本です。心の根の根本にあります。

 自分の愛に酔って、直感で感じるのを実現する為、命令すればそれがただそのまま繰り広げられるのです。そして、あの世に行く様に成るなら、乙女で暮らして一人で行った人達や、男一人で暮らして行った人達は困ります。

 その様な人達はどこかに行っても、和合が出来ません。女たちの世界に行ってもそうであり、男たちの世界に行ってもそうであり、行く所がありません。(一九四―四一)

十二 霊界ですべき仕事

 我々が死んだ後には、どの様になりますか。死ぬ事で皆終わるのではありません。

 お父さんが持っている愛を引き継いだ息子は、その家の中など、どこへ行っても歓迎されます。それが原則です。霊界にいる全ての霊人達も、全て歓迎します。霊界は、永遠の世界です。一生の間、愛して疲れた人は、老いて死んでも、あの世で愛の若者として生まれるのです。愛の美男子として生まれるのです。思春期の愛の歌を歌っても余りある、その様な無限で永遠な生命体として生まれると言うのです。

 皆さんが霊界に行って、する仕事とは何でしょうか。その国でする仕事とは何でしょうか。そこで金もうけをしますか。服が必要で、家が必要ですか。皆さんが願うものは、即座に補給されます。霊界は、自分の程度で解決する事が出来る世です。

 願うものは全て、「現れろ」と言えば即座に現れるのです。しかし、自分の為に現れろと、いくら「死ぬ」と大声で大騒ぎしても駄目です。反対に、天国の王子の立場で王に侍る中で、「全てが必要だから現れろ」と言う様になれば、即座です。想像出来るものは皆可能な世界が霊界です。(一二九―一〇〇)

 霊界に行って何をしますか。愛の歌を歌うのです。愛で言葉を話すのです。霊界では、対象がオペラ式に言葉を話せば、自分もオペラ式に答えなければなりません。踊りで言葉を話せば、踊りで答えなければなりません。ただ永遠に喜び、飽きません。一箇所で踊りを踊れば、天国が全部踊り、一箇所で歌えば、全部歌うのです。

 霊界では何時も、全ての器官が働いています。どんな事をするのですか。永遠に寝なくても喜ぶ事が出来る、その様な事とは何でしょうか。愛です。その様な愛の理想だけもてばいいのです。そこで、愛を除いておけば何の話がありますか。そこでは愛を持って、本然の愛を中心として暮らすのです。

 その様な世界を知る為に、世の中にいくら難しい事があっても越えていく事ができ、好きだった事も断つ事が事が出来るのです。普通の人が出来ない事を、無慈悲に断つ事が出来ます。我々は、それを基準として測定していくのです。(一〇七―三三一)
第四節 霊界の立場と実像

一 霊界の立場

 皆さんがこの時代に考えるべき事は、霊界です。今迄の霊界は、天使世界と似たり寄ったりです。

 我々統一教会の信者達は、堕落しないアダム・エバと同じです。すなわち、堕落しなかったアダム・エバ圏にいるのです。これは霊界から見れば、この地上に現れた楽園と同じです。(五一―二二九)

 霊界は、時間と空間を超越した世界である為に、六千年前の悲しみも、歴史時代圏内に永遠に残るのです。もし、自ら祭物を捧げたという体験で喜びを感じたなら、それが生活圏の内容であっても、一生において忘れられないのです。歳月が過ぎれば過ぎるほど、その幅と広さが大きくなってあがめられる対象になり、それが無限の根源と因縁が結ばれるのです。

 これから皆さんがこの様な神霊的な体験をして実行する様になれば、神様が今迄受けてこられた悲しみが一時的なものではなく、連続的につながって出てくるという事が分かるでしょう。それは、間違いない事実です。(二九―二九四)

 人間世界で生じるたった一つの問題とは何でしょうか。愛の光は明るくなければなりません。愛の光が明るくある為には、内的、外的に燃えなければなりません。何で燃えるべきでしょうか。愛する為の発動力で燃えるべきです。その様な事が皆分かってみる時、世の中の万事は、過ぎ去る一つの旅行地での事です。(一九四―五六)

二 霊界の実像

 霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人に見えます。それで、主体である神様と、大きな一人と一つに成るのです。そうなれば、全霊界と肉界が、皆とろとろになります。神様が跳ねれば、地も跳ね、神様が笑えば、地も笑い、その様になっています。

 霊界に行ってみれば、一人の様な組織になっていると言うのです。(九一―二八〇)

 霊界に行けば、通じない所がありません。霊界の動きを妨げるものが何もないからです。天の本性稟の存在なのに、それを妨げる様になっていないのです。皆通じる様になっています。時空を超越しているので、何億年前にいた人が、今もいます。その人達も、自分が願う年齢で現れるのです。それ故、その様な人達にいくらでも会う事が出来ます。

 ですから、説明が必要なく、弁明が必要ありません。さっと見れば、すぐ分かる様になっています。あの人が自分の下なのか、横なのか、高い位置なのか分かるのです。何億の愛の位階が分かるのです。その位階は絶対的です。その位階が高い人は、自然にその位階に合わせて、自分が立つべき位置に立っています。地上世界と違います。謀略中傷して出世する人は、逆さまに成るのです。その反対になります。それで正道を見ろ、正道を見ろと言うのです。(一九四―一三三)

三 霊界の誇り

 年が多い人達がみ旨の道を行くには、これからどの様にすべきでしょうか。肉身が老衰すれば、生理作用でも制約を沢山受ける様になりますが、これを何で補強すべきでしょうか。先生はこれを研究しています。霊と肉を中心として活動しなければならない時代に、絶えず弱化したとすればどうするでしょうか。先生がそれを今準備している所です。

 では、問題は何でしょか。新しい出発をしなければなりません。新しい出発をするには、毎日の様に新しいものを発見しなさいと言うのです。新しいものを発見する人は、絶対に落伍者になりません。難しい所にやられても、絶対に失望しません。かえって楽しみがわくのです。

 霊界に行けば、誇るべき事とは何でしょうか。生命をどれほど生かしてやったかという事です。これが誇りです。甲なら甲、乙なら乙、あるいは氏族を超越して、数多くの民族を立てた生命と関連させて、どれほど生かしてやったかという事が財産です。財産はそれしかありません。

 霊界には、ない物がないので懐かしい物はありませんが、最も懐かしいものがあるとするなら、真成る人です。それ故、真成る人を養育する為に功を捧げたその功臣は、天上世界で当然、栄光の息子、娘に成る事が出来ます。それ故、誇る事が出来るのは、それしかないのです。(三〇―一四七)

 霊界で、皆さんの心が愛の鐘の音が鳴る場に入る様になれば、明かりがだんだん大きくなります。この光は、五色燦然としたものなのです。神様の目には、ダイヤモンドの光より、もっと美しく見えるのです。

 そして、その光だけが良いのではなく、その光の中には味があるのです。それは、見るほど良いと言うのです。絶えず、見れば見るほど酔ってしまいます。それ故神様は、愛という言葉を言うのです。

 それ故、愛の涙をどれほど流したか、愛の切なさをどれほどもったか、それが皆さんの財産なのです。(一〇三―二八)

四 統一教会と霊界

 神様は、どれほど大きいでしょうか。この宇宙を創造した方です。この太陽系だけでも、とてつもなく大きいのです。

 統一教会員達は、世界の主権をもった天国の民です。それだけでなく、天国の大使です。大使は、自分の命を捧げる恨があっても、怨讐と徹底して談判する時には、天命に従って絶対譲歩しないのです。我々はサタン世界に入ってきていますが、サタンの命令を受けるのではなく、天国の命令を受けて生きる、天の国の大使です。

 統一教会は、背後の霊界という膨大な基盤を持っています。アメリカの国民が、あのアフリカの一つの村で暮らして被害を受ければ、アメリカの国務省で直接問題になって、ホワイト・ハウスで直接問題に成るのと同様に、我々があの田舎の悲惨な場で、もし被害を受ける立場にあるなら、天国で問題となって、統一教会で問題となって、損害賠償請求が論議されるのです。自分がこの様な立場に立っているのです。皆さんがその様な立場に立っていると思ってみましたか。その様に考えてみましたか。ですから、卑屈に成るなと言うのです。悪口を言われても堂々と受けて、堂々と行かなければなりません。(九六―八五)

 統一教会は、霊的な個人を動員する事ができ、先祖を動員する事が出来る能力を持っています。今迄の宗教は、霊界と肉界をつなげられなかった為に、霊的な精誠を捧げて、縦的な面に拍子と波動が合ってこそ接触をしましたが、今はその放送局自体に入ってきました。振動板の様な立場に立ちました。波動ではなく、波動を起こす送信機自体だと言うのです。

 ここから何千周波数にするとか、何十周波数にするとか、短波にするとか、持っていってつければ、その波長の電波を全部出す事が出来ます。自分が放送局をもった為に、「霊界にいる我々の先祖たちが来て、私に協助してくださいませ。善の先祖よ、来て協助してくださいませ。その様な震動が必要です」と言えば、来る様になっています。個人を呼んで動かす事ができ、家庭を呼んでも動かす事ができ、氏族圏、民族圏、世界圏を中心として繋げる事が出来る基盤が、地上にできて入ってきた為に、それが動いて降りてくるのです。この様になって、今迄自分の体が自分も知らずに引かれていくのです。(一六二―一〇五)

 天の前に行く時は、死ぬ様に成る時は、うまくやった事から報告するのではありません。過った事から報告して、うまくやった事を報告しなければいけません。世の中は「お前は何をした?」と言えば、「私はこれこれこの様にしました」と悪い事は皆隠します。しかし、霊界は違います。霊界は、悪い事から報告しなければなりません。順序がそうです。何をしたかという時、悪い事から報告するのです。

 統一教会の信者達は、いったん地獄に入ります。入ってから弁護士を立てて、全部抜いてこなければなりません。この人は、過去にみ旨を中心として御父母様の時代にある仕事をしたと、弁護して引き出すのです。適当に暮らしてはいけません。適当にしてもいいなら、先生が監獄を何しに訪ね回り、一生の間、「あ何時はたたき殺す者だ」と指さされて暮らしますか。その様に暮らさなくてはいけないのです。ちょこちょ事は出来ません。(一九六―二八五)

 我々は、すてきな人達です。世界がうらやましがり、天地がうらやましがり、霊界の全ての聖人と賢哲たちがうらやましがる、堂々とした人生の生涯を歩んでいる者たちです。天が捨てる事ができず、天が褒めるだけでなく、訪ねてきて「愛する」と言える、その様な背景と内容を持って暮らす、すてきな男たちです。(一七一―二九)

五 韓国の風習と霊界

 韓国民族は、長い歴史を持っている特殊な民族です。他の国を一度も侵犯した事がありません。今迄打たれてきました。強国の間で残った事は奇跡です。天が保護して下さった為に残りました。

 韓国の全ての風習は、ユダヤ民族の風習と、かなり似ています。先生が霊界を知ってみると、その霊界の風習ととても似ています。赤ん坊を産む時とか、結婚する時とか、また生活態度とか、する事を見ると、霊界の原理型と同じものを沢山発見する様になりました。

 韓国の食卓を見れば、箸が二つ置かれています。そして、その横には必ずさじがあります。食卓には、何時もそれが主に成るのです。また、お膳の上に置かれた器を見ても、必ずプラス・マイナスの相対的関係、すなわち陰陽に調和させて食べ物を準備し、食べます。

 そして、七数を中心とした数を合わせています。赤ん坊を産んだ後には、三日の聖別期間があり、結婚後にも三日の聖別期間があり、死んだ後にも三日の聖別期間があります。そして、伝統的なものを相当に尊重視する歴史的な伝統があるのです。(五四―二三七)

六 韓国語と霊界

 天国に入る時、「祖国語」というのが一つのタイトルになったなら、どうしますか。「祖国語を話せるか、話せないか」と聞くのです。その様な原理観です。原理原則に入って、アダム・エバの息子、娘が、アダム・エバが話していた言葉を話す様になっているのであって、他の言葉を話す様になっていません。英語は天使長の言葉なのです。堕落した天使長のものです。それは恥ずかしい事です。

 それが原理観です。皆さんは霊界に行けば、皆さんの先祖たちに「先生に侍って暮らしながら、韓国語を習えなかったか」と言われながら、指さされて讒訴される様になります。

 韓国語は「真の父母」の言語です。韓国で生まれたから仕方がありません。(一二八―二四五)

七 霊界の活動舞台

 宇宙は、霊界の活動舞台です。この地上も霊界の活動舞台であると同時に、膨大なこの宇宙も、霊的な活動舞台です。

 この地上に、その様な外的な世界、宇宙と関連を結ぶ事が出来るという事は、神様の摂理で見る時、地上に暮らしている天国の民たちが、あの大宇宙に拡大されている数えきれないほどの先祖たちと、何時も連絡する事が出来る基準になったという事を、象徴的に見せてくれるのです。この外的な世界で、それを象徴的に表示する事が、衛星を通じた宇宙探索です。(一九六―二一五)

八 霊界の所有

 大宇宙を眺める時、ダイヤモンドの星の様な宝石の星があるはずです。それが全部自分の所有なのです。その楽しみで暮らすのです。宇宙を愛する全ての群れが、神様の愛する群れが、大移動をしながら暮らす事が出来る理想世界です。そこに同伴者になり、同参者にならなければなりません。

 同役の者として、犠牲を自任して立ち上がる事ができれば、あの世の主役、堂々とした責任者に成るかもしれませんが、適当にする人達はあの世で、脱落者であるしかありません。(一二六―一四五)

九 神様と霊界

 霊界に行っても、神様は見えません。霊界に行っても、神様は絶対見えません。声は聞こえますが、皆さんの目には見えません。ですが、誰が神様の代わりに、形状的な実体として現れるのでしょうか。今迄はイエス様が現れました。これから来られる主がいれば、その主が神様の形状を身代わりします。では、イエス様は何に成るかと言うと長男、息子に成るのです。イエス様はどの様に成るかと言えば、息子に成るのです。(一五五―三二〇)

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第四章 天 国
第一節 天国に対する理解

一 天国の所在

 聖書に「神の国は、実に貴方がたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)とあります。天国は、この世界の果てにあるのではなく、自分の心にあります。その心とは、どんな立場でしょうか。死のいか成る要素も内包している立場ではなく、それを克服して一つの生命が波及し得る立場です。

 天国は、肉身の世界では探す事は出来ません。この世界ではありません。ですから、天国の起点というものは、心の中に描く事が実現される、ある所です。そのある所を探す事によって、天国を迎える事が出来るのです。

 それ故、天国はある終末世界を経て来るのではなく、自分の心で描く一つの起点とともに来るのです。はかりを水平にする事が出来る一つの支持点と同じものです。はかりは、水平に成るのが目的ですが、これは水平から右に傾かなければなりません。重さが左に傾いてはいけません。右に傾く事が出発です。

 それで、天国は心から始まってくるのです。心のどこからでしょうか。世の中に勝った心から始まるのです。いくら環境的に天国が築かれたとしても、自分の心が悪で、それを描く事ができず、そこに動ずる事が出来ない立場にいるなら、天国が来ても、その天国は役に立たないものです。それ故、天国を迎え得る基盤に成るのは、環境ではなく、自分自身です。自分自身が問題です。天国を維持する事が出来る支柱、支持するその支持点とはどこかと言うと、環境に先立って、自分の心なのです。(四六―二三)

 イエス様は、従っていた弟子たちが現実を清算できずに、これから天国で幸福の基盤を備えるという出世意識を持っているのを見て、その根本を撃破してしまう為に、「神の国は貴方がたのただ中にある」と言われたのです。心の天国を描けない人は、天国の環境になっても、その天国を動かす事は出来ないのです。心で決心ができずには、完全な行動をする事は出来ないのです。完全な決心から、完全な行動が生じるのです。

 それ故、自分の心が善にどれほど憧れるかが問題です。歴史的善を憧れながらその善と同行する為に、いくら血のにじむ様な環境があったとしても、それを克服して、いくら孤独な環境の中で闘争の路程があるとしても、それを避けていくのではなく、撃破していくという心で、不変の道を開拓しなければなりません。その心に、一体となり得る体の生活環境を開拓すると決意して誓う所から天国が始まるのであって、心と体が別々に行動する所に天国があるのではありません。心と体が一体となった所から、天国に向かった前進が繰り広げられるのであって、心と体の行動が分かれる所には天国は出来ません。

 その様な観点でイエス様は、心と体が一致し得る内容をもち、左右に傾く環境を除去しながら前進出来る主体性を備えてこそ、天国を迎える様に成るという事実を教えて下さったのです。

 天国は、他人によって来るのではありません。自分によって来るのです。我々は堕落した人間である為に、自分を否定しなければなりません。自分自ら天国を提示出来なく成る時には、他人を通して提示する様に成るでしょう。その様になれば、私は天国を提示した人と一つになってこそ、天国に行く事が出来ます。ついていかなければなりません。絶対的に歩調を合わせなければなりません。彼が東に行けば、自分も東に行かなければならないのです。彼が東に行くのに、自分は西に行く、彼がこの様にしたのに、この様にしてはいけない、という心を持ってはいけません。そこに批判があってはいけないのです。(四六―二四)

 天国は、自分の心にあると言いましたが、その天国とはどの様な所でしょうか。神様の愛を中心とした環境圏を設定した所が天国です。では、その圏に行ってとどまる人は、どんな人でなければならないでしょうか。神様の愛の本質と和合出来る人でなければなりません。その様な人以外には、行く事は出来ないのです。

 神様の愛の本質と和合出来る人とは、どんな人でしょうか。自分を中心にする人は、価値がありません。相手の為に自分の生命を投入し、自分の全ての精誠を投入し、自分の全てを投入しながら与えようとする人だけが、神様の愛の圏内に存続し得るのです。歴史上の偉人もその様にし、聖人もそうしました。(四六―三六)

二 キリスト教と天国

 教会に何百年通ったとしても、自分を中心とする心を持って通えば、天国には行けません。救いを受けられません。もしここで、文なにがしが言う事が間違いだと思うなら、死んで皆さい。そうなのか、違うのか。天国には行けません。

 真の宗教とはどの様な宗教かという事を知るべきであり、真成る人とはどの様な人かという事を知るべきであり、真成る国とはどの様な国かという事を知るべきです。(七八―一一八)

 霊界に行ってみれば、昔に殉教した信徒たちの中で「私がこの様に殉教すれば、天国に行けるだろう」と言った人達は、天国に行けないと言うのです。

 反面、「天の父が私に訪ねてくる為に受難の道を歩まれ、血を流されたのだ。主に恩返しをする為には、どんな道でも行く」と言いながら、「その恩返し出来る立場で、私が同参出来る栄光の一時を迎えた事は、どれほど有り難いか」と言いながら死んだ人は、間違いなく天国に行ったと言うのです。

 その様な人は自分の為に死んだのではなく、天地の為に死んだのです。「私がこの様に信じて死ねば、天国に行くだろう」と言って死んだのなら、それは自分の為に死んだのです。堕落した人間は、自分を主張しては、絶対に天国に行けないのです。(四一―三五五)

 聖書に「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主成る貴方の神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)と言いました。ここに引っ掛かる人は、天国に入れません。二番目の戒めとは何でしょうか。「自分を愛する様に貴方の隣り人を愛せよ」(同二二・三九)と言いました。神様を第一に愛し、隣人を第二に愛する人が、孝行者に成るのです。(一九八―二五九)

 キリスト教で言う様に、イエス様を信じて天国に行けますか。イエス様御自身も、相対理想を成さなければ行けないのです。イエス様お一人で、真成る人を成す事が出来ますか、神様も成せなかったのに。ですから、再び来なければなりません。そうであれば、雲に乗って来ていいですか。今は、現実的内容を皆目で数える事ができ、測る事が出来るこの民族が、私についてくる様になっています。(一七六―二一〇)

 今日キリスト教を信じる人達は、「イエス様を信じれば救われて、天国に行く」と言います。天国に行くにも、「自分一人で行く」と言い、「自分の母や父を連れて天国に行く」と言う人は少ないのです。これから、宗教は個人の救いのみを主張してはいけません。神様が立てた真の宗教なら、宇宙的で、最後迄残り得る宗教にならなければなりません。

 人類が願う最後の宗教があるなら、その宗教は「個人だけを天国に行かせるのがみ旨だ」とは言わないでしょう。天国を個人だけに紹介してはいけません。母と父にも紹介しなければなりません。その様に紹介して、族長迄その内容を知る様になれば、一遍について入る様に成るのです。(四一―三四一)

三 イエス様と楽園

 「イエス様を信じて天国に行こう」と言いますが、誰が天国に行くと言うのですか。自分個人が行くのですか。今迄お母さん、お父さんに仕えて、家庭が共に天国に行こうという、その様な宗教はありませんでした。今迄の宗教は、個人圏を中心にしました。しかしこれからは、「家庭が共に天国に入らなければならない」と言う宗教が出てこなければなりません。家庭が一時に救われ得る宗教理念が出てきてこそ、天国の門が開かれるのです。今迄の宗教は、一人で綱にぶら下がってぶらりぶらりと上がっていく様な、個人の救いの宗教でした。

 それ故、修行の世界では、独身生活を強調したのです。家庭を持っている事が怨讐なのです。イエス様も、「家の者が、その人の敵と成るであろう」(マタイ一〇・三六)と言いました。皆上がってきては、地の主権をつかまなければならず、独身男女は祝福行事に入らなければならないのです。天国は、本来の息子、娘が結婚して、神様の愛を受けて入る所です。それが、本来人間が堕落しないで完成すべき天国です。

 イエス様は、霊界に一人で行きました。その為に、天国に入れず、楽園に行ったのです。楽園は、天国に行く為の待合室です。楽園は、理想的な天国ではないのです。天国は、夫婦が家族たちを連れて入るべきなのです。それ故イエス様は、再び来て、新郎新婦を迎え、新しく編成された家庭と民族を連れて天国に入らなければならないのです。その様にする為に、神様がイエス様を楽園にとどめさせたのです。それ故、再び地上に来て、その原則的な内的基盤を築いて、天国に入らなければならないのです。大ざっぱな計算にはなっていません。

 それで、これからはお母さん、お父さんが救われるのです。家庭が全部天国に行く事が出来る宗教、その様な救いの道理を教えてくれる宗教があれば、そこから国が立てられるのです。個人では、国が立てられないのです。それ故キリスト教には、国がないのです。結婚出来なかった独身男女を集めておいたのが、キリスト教なのです。カトリックの神父と修道女を皆さんは見たでしょう。

 この地上に、キリスト教国家が沢山ありますが、その国家の主権者は、キリスト教指導者、すなわち教区長や牧師ではありません。厳然として違います。キリスト教は、霊的な国です。地上には国がありません。地に国がない為に、今迄数多くのキリスト教徒が殺されたのです。地上に主権があったなら、キリスト教徒は国家の保護を受ける事が出来る為に、死なないと言うのです。しかし、国がない為に、流離弧客(注:さすらいの一人旅)をして、群れを成して歩き回り、集団で殺されたのです。これから我々は、世界のキリスト教徒を合わせて、その国の主権を持って、自分の家、自分の国、自分の世界を探さなければなりません。それをキリスト教徒はしなければなりません。(四一―三四六)

 今迄神様は一度も、霊と肉が完成したという条件を備えた人を抱き締めて、愛してみる事が出来なかったのです。イエス様も愛してみる事が出来ませんでした。それ故、イエス様は今も楽園で祈っていらっしゃるのです。

 我々は我々の霊と肉、その全体を抱こうとされる神様の愛を知り、その様な圏内で初めて神様の子女という名分を立て、万物を主管する事が出来なければなりません。その様な世界が、神様が復帰しようとされる主管世界であり、安息の園である事を知るべきです。そうであれば、今我々は個体の問題に帰り、復帰の運命に置かれた事を知り、新しい理念を探してさまよわなければならないという事です。そうすべき時が来ました。これからは、真の人生観の問題、宇宙観の問題が台頭するでしょう。(五―四九)

 イエス様が、どうして天国に入れなかったのでしょうか。天国は、堕落せずに生きた者が入る事が出来る様に、神様が人間に造って下さったものです。人間は、本来の原則的な基準に立ってこそ、天国に入る事が出来ます。それ故、イエス様御自身も堕落した人間を救い、堕落しなかった人類の父母であるアダム・エバの立場で、息子、娘を率いて入らなければならないのです。しかしイエス様は、一人で生まれて、一人で死んだので、子孫がいません。いない為に、楽園に行く様になったのです。天国に入れずに、楽園にいるのです。天国に行く為の待合室の様な所に行っているのです。

 それで、イエス様は再び来て、新婦を探さなければならないのです。本来のエデンの園で、アダム・エバが新郎新婦になってこそ天国に行く様になっています。人類始祖は堕落しましたが、その原則は残っている為に、その原則どおりに花咲かせる為、イエス様は来られなければならないのです。「再び来て、地で解かなければならない」という聖書のみ言と同じです。(四一―三〇〇)

 堕落がなかったなら天国は、ひとり子、ひとり娘が神様の愛を中心として神様の家庭をつくり、神様の愛で暮らしてから、引っ越していく所です。天国へは家庭が入る様になっています。個人は、天国に入れないのです。イエス様は、家庭を成せなかった事によって、天国に入れず、天国の待合室に行って待っているのです。それが楽園です。楽園は、天国に入る準備をする為の待合室の様な所です。

 この様に見る時、天国は空いています。これを考えれば、神様の復帰摂理歴史は、悲しい歴史なのです。

 神様は、アダム・エバを失ってしまいました。二人を失ってしまった事だけで終わるのではありません。アダム・エバを失ってしまったという事は、アダム・エバの一族を失ってしまった事なのです。その一族が拡大して、民族になり、一つの国家を成し、一つの世界に拡大したはずですが、それらを失ってしまったのです。ですから、アダム・エバを失ってしまう事によって、天国の王権を中心とした王国を失ってしまった事になり、ひとり子、ひとり娘迄失ってしまったのです。(一四三―二五)

四 心情と天国

 天国とはどの様な所でしょうか。準備したものを持って誇る所であり、侍る生活をしたのを誇る所です。では、その天国とは、どの様な人が行く所でしょうか。主を信じて福を受けようと、福を先立たせていく者が行く所でしょうか。違います。天国は、侍る為に心情的に準備する生活をした人が行く所です。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活を残して、喜んで逝く事が出来る者が行く所です。そこに復活があるのです。

 生活の内幕は現れていません。どの様に生活すべきかという事が、今我々が侍る生活の中で、考えるべき重大な問題です。(八―三〇四)

 天国という所は、心情を通じなくては行く事が出来ない所です。天国は、全体を主管し得る本然の国であり、本性の国です。その国は、事情を持っては所有する事は出来ません。深く染み込む心情の因縁を持ってこそ、所有する事が出来る国です。それ故キリスト教は究極的に、事情に通じる教会ではありません。心情に通じる教会です。地に対して摂理される天には、事情の因縁を越えて、心情をうたう事が出来る基盤を築こうという目的があるのです。

 堕落とは何でしょうか。神様の事情を論ずる事が出来ないのではなく、心情を論ずる事が出来ないのが堕落です。堕落した人間を探してこられる神様は、失った息子、娘に対する心情は持っていても、その心情を分かち合う事が出来る人がいないので、その人達を探して立てる役事をされます。それが救いの役事であり、その人達を立てる為に送られた者が、救世主です。

 我々は、天国を望む前に、神様の心情を願うべきであり、また神様の心情を願う前に、私自身がどの様に生きていくべきかを考えなければなりません。私自身が、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものについては、頭を下げて恋しがるのが、人間の本性です。堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたがるのが、我々造られた人間の本然の心情です。心情に通じる事が出来る、侍る生活をしてみる事が出来なかった人は、天国と何らの因縁もないと言うのです。

 侍る為には、侍る事が出来る様に成る準備が必要です。その準備の過程を経た後には、侍る生活が必要です。侍る為の準備の過程を経て、侍る生活を経た後にこそ行く所が天国です。心情で侍る人が行く所が天国です。侍る事が出来る準備と、侍る生活をたたえ、高くとどろかせる世界が天国です。我々は、この様な目的の世界に向かっていくべき運命に置かれているのです。

 堕落の血統を受け、生まれたその日から今日迄、全世界の人類が心情を尽くして天に侍った一日があったかといえば、なかったのです。堕落する前に、我々の先祖のアダム・エバは、創造理想を通じて育ちましたが、心情の因縁を立てて神様に侍った事がなかったのです。

 神様の恨とは何でしょうか。心情を中心として神様に侍るべき人間が、侍る事が出来ない立場に落ちたので、心情を中心として侍られるべき神様が、侍られる事が出来なかったのです。信じる者がいないのが恨ではなく、神様を知る者がいないのが恨ではありません。心情を通じて神様に侍り、心情を通じて神様に対し得る人がいない事が、天と地の恨なのです。(八―二九〇)

 今日、数多くの宗教人達は、「天国は自分の宗教を通じてのみ成される」と言います。それは、全て妄想的な言葉です。数多くの宗教が、各々その教祖が教える教理を通じて天国がなされる、と言います。キリスト教だけ見ても、数十の教派に分かれています。自分の教派でなければ異端視し、サタン視する現実において、その教団が神様から公証を受けてそんな言葉を言うなら分かりませんが、ただ自分の教派を立てて、自分の教派を残す為の欲からそう言うのなら、動機が純粋ではありません。その様な教団は、全て滅びる様になります。もし統一教会がそうなら、統一教会から滅びるべきです。

 この様に見る時、宗教の先決問題は、天国を成す事ではありません。それが一次的な目的ではありません。天国が出てくる前に、天国を受け継ぐ事が出来る、一つの特定の民族が必要なのです。神様は、その様な民族をつくる為に選民を立てられたのです。歴史上にこの様な選民思想があるという事実は、悪の世の中に善の一派を残す為の主導的な思潮が歴史の背後にある事を証すのです。

 悪の世界で選民が出てくる様になれば、天国は成され始めます。しかし、天国の民が出てくるには、天国の子孫が出てこなければなりません。また、民と国が出てくる前に、天国を成す事が出来る家庭が出てこなければならないのです。家庭が出てくるには、天が保障し得る一人の男性が出てこなければならず、一人の女性が出てこなければなりません。

 その様な男性と女性だけが出てくればいいのでしょうか。違います。その男性と女性を通じて、息子、娘が出てこなければなりません。そうして、神様が永遠の息子、娘だと保証する事が出来る、一つの家庭が出てこなければなりません。この様な家庭なしに、氏族と民族を成す事ができず、その様な民族なしに、国家と世界を成す事が出来ないという事は、極めて当然な事実です。

 神様が訪ねてこられる拠点は個人です。個人に囲いを巡らせているのです。それで、今迄宗教は、個人の救いを目的にしてきたのです。しかし、神様が探している救いの目的は、個人の救いではありません。家庭です。それ故、天国の家庭の基盤を探して立てる前に、天国氏族、天国民族、天国国家、天国世界などはあり得ないのです。(四七―二五〇)

 天国と地獄はどこから分かれるかと言うと、聖書をよく知って、言葉をよく話す事で天国と地獄が決定されるのではありません。実績と心情が問題に成るのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線に左右されるのです。(三二―二三一)

五 肉身と地獄

 アダム・エバは神様の体です。コリント人への第一の手紙第三章に、「貴方がたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っている事を知らないのか」(一六節)と言われた様に、この体には、神様が臨む事が出来るのです。その体は、今日堕落した人間たちの体ではありません。イエス様を信じて救われようとする、故障して修理工場を経てきた体に、神様が臨むというのではありません。純粋な、初愛を含んだ創造理想的人間でなければなりません。しかし、神様の愛の圏内から脱した人間なのです。

 地獄とは何でしょうか。悪魔の愛の圏内を言います。悪魔は、憎悪と嫉妬とねたみと分裂と破綻だけを崇拝するのです。それで、悪魔の圏はその様なものだけが盛んなのです。それが戦争として現れます。その様な悪魔をなくしてしまわなければなりません。

 神様の胸にくぎが刺さった事情とは何でしょうか。悪魔が生じた為です。悪魔の血肉を愛で植えたという事実、悪魔の種を植えたというこの無念な事実、悪魔の家庭を見たというその事実のゆえです。神様の管理下で千年、万年愛し合いながら暮らす事が出来る家庭が、悪魔の家庭の顕現とともに、破壊されたのです。その代わりに、悪魔の氏族を中心とした家庭が、世界的に広がりました。今、世界には百八十余りの国があります。それも、数多くの氏族が互いに戦い、弱者が強者に吸収されたので、この程度です。これを神様のみ旨の中で一つにしなければなりません。

 では、サタンはどこに根拠地を立てたのでしょうか。サタンも神様が分かります。神様は、創造本性の起源であり、悪魔は本来その起源を通じて造られた為に、相対的基準に立っているのです。愛で見る時、この起源的基準が良心です。良心は、誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。それで、神側だと言います。体は誰に似たのでしょうか。悪魔に似た為に、サタン側だと言います。

 良心が、体の為にどれほど犠牲になりましたか。夜も昼も自分を管理するのに疲れたものが、良心です。それでも疲れを見せずに、体が悪い行動をしようとすれば妨げるのです。自分に一番近いもの、父母の代わり、神様の代わり、師の代わりに成る存在が、良心です。心自体には教育は必要ありません。しかし、体には教育が絶対必要です。

 それ故、体がしようとする通りにすれば、地獄と通じるのであり、心がしようとする通りにすれば、天国と通ずるのです。天国と地獄の分岐線が自分です。三十八度線を中心として南北に分け、サタンが乗っています。それが分かる為に、分けておいたのです。これを分けておかずに死ねば、個人的な三十八度線によって霊界がふさがってしまいます。家庭的三十八度線、国家的三十八度線で全部ふさがってしまいます。世界的三十八度線、宇宙的三十八度線をどの様に越えますか。

 皆さんが、胸の痛むほど悔しく思うべき事とは、正に自分の体が悪魔の舞踏する場になっているという事実です。悪魔たちの愛の場になっています。悪魔の愛を通じて、悪魔の血統を受け継ぎました。その血が今、自分の体から本然的人格を蹂躙する為に、その勢力圏で自分を支配しているという、この驚くべき事実を知らなければなりません。これを清算するには、国でも清算する道がありません。自分自身がしなければなりません。

 宗教というものは何でしょうか。罪の根と闘うのが、宗教の本質的闘争歴史です。しかし、自分は全部地獄に行く版図になっていながら、自分自身が悪魔の舞踏する場になっていながら、宗教の旗を掲げて社会を救うと、大騒ぎするのです。

 自分を憎まなければならないのです。この体を憎むべきです。自分の体に怨讐の血が蠢動するのに、これを刀で断つ事もできず、火で焼く事も出来ない自分である事を知るべきです。神様の保護を受ける事の出来ない立場に立って、万物を消化し消耗する、消耗工場になっているという悲痛な事実を知るべきです。(二一四―二八一)

 復帰摂理で見て、これが最後のみ旨だと思うなら、瞬間瞬間を深刻に考える自分になったかを反省して皆ければなりません。世の中に巻き込まれて回る姿勢ではいけません。

 一度も深刻な場に立てず、一瞬も深刻な瞬間をもてなかったなら、彼は神様の前に恥ずかしい人です。

 私は、どれほど天地の公法をよく守って、天地が公認する事が出来る立場で生きているでしょうか。死が差し迫って、今迄どの様に生きたかと自問した時、生涯を通じて善に生きるという心が、六〇パーセントを越えなければ地獄行きです。

 体は制限を受けても、心は制限を受けまいとする闘争の歴史をもたなければなりません。天と地、歴史と現実を、そして後孫についても、「私は解放されるのだ。だから、私の伝統を受け継げ」と言う事が出来なければなりません。その様な瞬間をもてなかったなら、彼は容赦なく地獄行きです。(一九―二七)

 世界も混乱です。では、霊界はどうでしょうか。その様な混乱した人間の群像が霊界に行って一箇所に集まっているので、混乱せざるを得ません。どろぼうする事も習慣になれば、何時もどろぼうする様になります。ですから、地球星でどろぼうしていた者たちが天上世界に行っても、ただで得ようと願います。それで、処置に困るので、地獄というものができたのです。

 地獄は、神様が造ったものではありません。地獄は生まれたのです。ごみ箱を作っておいて、家を建てたりはしません。家を建ててみると、ごみ箱が必要になったのです。同様です。既成教会員達は皆、根本を知りません。(一四八―二八)

 もし、偽物の包みを持っていたなら、何時清算するでしょうか。皆さんには、その様な心がありませんか。片方の目が見えなければ、その目を抜いてしまうとか、治しておかなければなりません。分別しなければなりません。神様がいらっしゃるなら、この様な事を是正出来る方法を教えてあげなければなりません。それで宗教が出てきたのです。

 神様は、ねたみの心や嫉妬が多い為に、地獄を造っておいたのではありません。偽物が生じて、偽物を処理する処置の倉庫として、地獄を造ったのです。誰がごみ箱を先に作って、家を建てるでしょうか。キムチを漬けようと、良い白菜を買ってきたのに、漬けてみると虫が食ったくずの様なものが出てきたので、ごみ箱に入れる様に成るのです。堕落は、人間の最初の先祖が犯しました。それ故、これを蕩減して罪を清算する為には、「真の父母」の資格を持ってこそ可能に成るのです。(二〇―一一八)

 宇宙の最高のお爺さんとは誰かといえば、神様です。その次に、この世界を一つにするのに、全天地を一つにするのに、その終わりの子孫とは誰かと言うと、未来の後孫です。これをつなげなければなりません。何で繋げるかといえば、家庭です。国ではありません。天国に行くのに、「アメリカ人だ」と言っても認めてくれません。「後進国の者だ」と言っても排斥しません。

 

 この主流家庭の組織を中心として、神様のみ旨とともに、過去、現在、未来をつなげ得るモデル型だけを認めます。これが公式だという事を知るべきです。その様になった実を持っていって、貯蔵する倉庫が天国です。

 今迄、人間の世の中に生まれた人達には、神様が救う事が出来る条件が一つもなかった為に、全部地獄行きでした。虫が食って、うじがわきましたが、それを豚にでも食べさせるとか、他のものに使うとか言って、仕方なく持っていって貯蔵した所が地獄です。地獄と楽園があると言うのです。この様に話せば、天国は空いているという事を実感出来ます。(一三五―一一八)

 霊界に行ってみれば、人々が、いろいろな段階の所にとどまっていますが、その人達は、どの様にしてその様になったのでしょうか。どれだけ愛の道理に従い、孝行をし、国に忠誠を尽くしたのか、世界で聖人の道理を果たしたのかという度数の差に従い、該当する立場にとどまっているのです。

 人間がこの地で行くべき道は、正道です。正道には個人の正道があり、家庭の正道があり、氏族の正道があり、民族の正道があり、国家の正道があり、世界の正道があり、宇宙の正道がなければならず、神様御自身にも正道があります。この様な、たった一つの道がなければならないのです。その道とは、何の道でしょうか。本然の愛の道です。(一四七―一八三)

 あの世に行く様になれば、愛の理想に符合し得る、訓練された素性を備えられなかった時には、反作用が働きます。誰かが「地獄へ行け」とは言いません。それ故、聖書には「怨讐を愛せよ」とあります。本当の愛は、怨讐にその愛を及ぼして、一次、二次、三次、四次さえ過ぎる様になれば、怨讐は必ずなくなります。この様な偉大な力をもった為に、イエス様も怨讐を愛したのです。

 今日、キリスト教徒達は、怨讐とは個人の怨讐であると思っていますが、違います。無限の価値をもった、この愛の法度に背いた者です。サタンとは誰でしょうか。サタンとは、神様の前に姦夫だったという事実を知るべきです。

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 私があの霊界に行って、持ち上げて出して調べると言うのです。この様な事を言って、「異端だ」と言う声を聞きました。「異端の魁首だ」、「キリスト教世界を滅ぼす」とか、「死ぬべきだ」とかいう、ありとあらゆる悪口を聞きました。ですが、「死ね」と悪口を言った牧師の死んでいくのを見ても、私はまだ死にませんでした。それは何によってでしょうか。天意によってです。まだすべき事が残っているからです。(一二一―一七三)

 皆さん! 自分の子供の中に、殺人強盗に成るとか、国家の犯罪を犯して、死刑を受ける息子がいるとしましょう。息子が死ぬ場に行く時に、その父母がついていって、「お前は死ぬ場に行くが、死ねばいい」と言う父母がいますか。その息子にしがみついて、自分も死ぬ場に共に臨もうとするのが父母です。

 子供の死が永遠に続くなら、父母がそれを眺めてじっとしているでしょうか。永遠をかけて死んでいくというなら、永遠をかけて生かしてやりたい心を持つであろうし、子供を生かす為にいか成る苦労もいとわないはずです。この様に考える時、神様は可哀想なお方です。

 人間が死んで地獄に行くのを見る時、神様は永遠に生かしてやりたくて、やきもきするのです。そうすべき父母の立場で責任を果たすのであって、「えい! 皆掃いて捨ててしまおう」と言えば、父母の立場に立てはしないのです。それ故、地獄迄解放しなければならないという論理が成立します。

 息子が、自分を生かす為にやきもきする情景を見れば、「うちのお母さん、お父さんは、私のゆえにあんなふうなのだな」と言い、千万回罪を悔い改める様になります。そんな母がいて、父がいれば、その子供は、骨が溶け、肉がやせ細るほど悔い改める様に成るのです。父母によって、そうし得る道が生じるのです。

 サタンも、人類を救おうという神様の愛の前には、讒訴出来ないのです。父母の愛を通じては、悔い改める者を許せない法がありません。

 それで、その様な心情を通じて、地獄迄も解放しなければなりません。それが真の孝行者として行くべき道ではないでしょうか。それで統一教会では、地獄迄も救おうと言うのです。何故でしょうか。それは、神様がその様なお方だからです。(六二―五一)

 地獄という所は、一度引っ掛かれば、永遠に脱する事が出来ない所です。それなのに皆さんは、自分のお母さん、お父さん、そして親戚が、地獄に行くという事を実感出来ません。ただ「何とか成るだろう」と言って、おしまいです。しかし、愛する父母が、本当に地獄に行くと考えてみてください。世の中の監獄にさえ入るとしても、泣き叫びながらありとあらゆる事をしてでも、引き出そうとするのが人情なのに、まして天情で結ばれた息子、娘が、自分の父母と親戚、兄弟と姉妹全てが、永遠に出てこれない監獄に行く事が分かるなら、その様にしますか。

 皆さんは、まだ何も知りません。地獄があるのか、ないのか、あるにはあるようだが、どの様なものか知らずにいるのです。確信がなく、ぼんやりとしているでしょう。しかし、死んでみれば分かるのです。死んでみれば、一遍に分かりますが、その時はもう遅いのです。

 それで、今迄死んだ父母たちが霊的に現れて、伝道を沢山します。自分たちが、統一教会に通う息子、娘に反対して死んで、霊界に行ってみると大変になったのです。それで、霊的に現れて、伝道する霊人達が沢山います。その様にしなければ、三世界で引っ掛かるからです。自分の息子、娘が統一教会に通うのを反対して、行けない様にすれば、三世界で引っ掛かるのです。

 それ故、天上世界であらゆる精誠を捧げて、善成る先祖の名前で特使を受けて、自分の子供に現れて教えてあげるのです。誰にでも現れる事が出来るのではありません。その様な世界に行ってこそ、統一教会がとてつもない所だという事が分かる様に成るのです。その時、どれほど驚くかと言うのです。

 「統一教会は、ただこの様に集まって別かれる所だ」と言うでしょうが、そうではありません。ここで線を引けば、永遠に引けるのです。この門を閉めれば、永遠に開ける者がいないし、開けば再び閉める者がいません。地上で結ばれた事は、地上で解かなければならない為に、皆さん自身が結んだ事は、皆さん自身が解かなければなりません。これが問題です。それ故、皆さんが伝道をするにおいて、これからは他の所に行ってするなと言うのです。(三四―二六六)

六 地獄人も天国を願う

 死に際に、「神様、私は今迄神様のみ意のままに出来ませんでしたが、私の心としては、天国に行こうとしました。ですから、私を蕩減条件を立てた事にしてください」と言えば、神様も公平である為に、その様な人は、天国に行けそうな場所に連れていくのです。

 どんな場所に連れていくのでしょうか。行こうとした為に、天国に行こうとする場所に連れていくのです。行った通りに返して下さるのです。行くには行くのですが、天国に行こうとする場所に行きます。その場所は、楽園以下の場所です。地獄にいる人も天国に行こうとするのです。(五七―二六五)

七 地上天国と天上天国

 個人が安息しようとするなら、家庭の安息圏をつくるべきです。言い換えれば、家庭の囲いをつくるべきなのです。家庭が安息するには、氏族的囲いをつくるべきです。囲いがなければ、何時も侵犯されます。

 その次に、氏族が安息するには、民族が囲いに成るべきです。その次に、民族が安息するには、国家が囲いに成るべきです。そして、国家が安息するには、世界が囲いに成るべきです。それ故、私達が、国家の囲い、世界の囲いをつくっておいて、中で安息する事が出来る時が来ます。

 この世界が安息するには、霊界と肉界を統一させて、囲いを作らなければなりません。そうした後にこそ初めて、神様の愛が地上の全世界のどこにでも及ぶ事が出来る地上の天国が完成し、天上天国が自動的に完成するのです。(六八―二〇)

 我々が暮らしたい所は天国です。天国には境界線がありません。天国では二つの言葉を使いません。人種の差がありません。人は全て神様の懐から生まれたので、人類は皆兄弟です。神様を中心として見れば、神様の息子、娘だから、皆兄弟で、地上天国を中心として見れば、全てが民です。地上天国の民というものです。

 国を形成するには、三大要因があります。

 国が形成されるには、第一は主権、次には民、そして国土がなければなりません。その為世界は、神様が統治する世界になれませんでした。地球星全体が、我々の国になれずに、世界の民が、一つの国の民になれませんでした。我々は、天国についていろいろ言いますが、天国はこの様な条件が備えられた後に成立するのです。これが成されなかった為に、いまだにカイン・アベルが戦いを続けるので、我々は安息する事が出来ないのです。

 我々は、復帰過程で暮らしたいのではなく、天国で暮らしたいのです。それ故、我々が天国を築くというのは、我々が暮らす所を準備しようという事です。我々の暮らす所は、天国をつくっておいてこそ生じるのです。これをつくれなければ、我々の後孫は何時も追われる民族に成るでしょう。我々はあらゆる精誠を尽くして、後孫にその様な荷を残さない先祖にならなければなりません。(六六―二八一)

 天国に行こうとすれば、「罪を犯さなかった」、「神様の愛を直接受ける事が出来る」、「イエス様を信じる必要がない」、「救いが必要ないという息子、娘の資格を得る事が出来る」、これらの過程を経なければなりません。その様に生きた人が天国に行ってこそ、神様の理想の天国がなされます。

 イエス様は、血族を通じてそれを成せませんでした。それ故、イエス様が再び来て、これを解怨成就しなければなりません。そうせずには、天国に入れません。天国を開く条件は、どこにあるのでしょうか。地にあります。それ故イエス様は、天国の鍵を地に残して逝かれました。

 イエス様と十二使徒が家庭を成せなかった為に、今日統一教会で祝福家庭を通し、七十門徒、百二十門徒の家庭を再び探し立てなければならないのです。そうしてこそ、天国が開きます。(一六〇―八九)

 神様がアダム・エバを創造しておいて、婚姻のうたげをしてあげようと、相続する事を待たれましたが、彼らが堕落したので神様はみ旨を果たせず、四千年ぶりに堕落しない立場でイエス様とイエス様の新婦が合わさって、偽りの父母が出発する事によって失った、真の父母の基準を再び探すのです。

 真成る父母が産んだ息子、娘達は、偽りの息子、娘ではなく、真成る息子、娘です。そこから真成る家庭が出てくるのです。真成る家庭が出てきて、真成る氏族が出てきて、真成る民族が出てきて、真成る国が出てきて、そうする事によって真成る世界になります。その世界では、神様を中心として、家庭で天国生活をして、氏族で天国生活をして、民族で天国生活をして、世界で天国生活をしなければなりません。それでこそこの地が、地上天国に成るのです。

 その様に生きて、この地上で体を脱いで永遠の天国に入れば、そこが霊界の天国です。これが、神様の摂理の概観です。

 今日、この地にサタンの血統を受けて生まれた人間は、真の息子、娘とは血統が違います。それ故、ローマ書第八章を見れば、養子の立場で「アバ、父よ」と呼ぶとあります。血統が異成る為、橋を架けて神様を呼べるのであって、直接には呼べない様になっていると言うのです。

 しかし、イエス様だけは、神様の直系の血統の因縁を持って来ました。それで、「ひとり子だ」と言ったのです。(一六〇―四四)

 今、再臨の一日が来れば、天国でない楽園と地獄のどん底に、新しい理想圏をつくっていかなければなりません。

 地獄のどん底で、カイン・アベルを探して、新しい神様の家庭圏を形成するのです。新しい神様の氏族圏、新しい神様の民族圏、新しい神様の国家圏、新しい神様の世界圏を成して、地上にいる人達を、全部蕩減復帰しなければなりません。カイン・アベルを蕩減復帰して、全てを吸収、消化して、統一した世界を地上で編成せずして、天国を築こうとする神様の希望を、解怨成就する道はありません。

 それでイエス様も、「貴方が地上でつなぐ事は、天で持つながれ、貴方が地上で解く事は天でも解かれるであろう」(マタイ一六・一九)と言いました。地で天国を成さずには、天上世界に天国が生じません。地上に天国の主権を立てなくては、霊界で善の主権を回復する事が出来ないという、とてつもない事情が内在しているのです。(一四三―三〇)

 皆さんは、天国に行くという考えをしてはいけません。地上に天国を建設するという考えをすべきです。天国を建設する前に、まず皆さん自身が天国人にならなければなりません。天国人に成るには、「父の心が自分の心であり、自分の心が父の心である」と自信を持って言う事が出来る程度に、父と心情一体をなさなければなりません。それで、地上で父の心に代わり、主と先祖たちの心に代わらなければなりません。それでこそ、歴史的な全ての問題を解決する事が出来るのです。(三―二九五)

八 天国に対する正しい観

 風が吹き、暴風雨が吹きつける恨があっても、自分が死んで滅びても、「この信念だけは間違いない。自分が間違う事はあっても、み旨は間違いない」という確固不動の信念をもたなければなりません。朝の信仰と、夕の信仰が違う信仰姿勢を持っていながら、天国を恋しがるなら、それは余りにも愚かな事です。

 天国に接近する事が出来る道とは、どんな道でしょうか。自分を考える立場では、天国に行く事が出来る道は生じません。自分が天国と距離が遠いという事を発見する様になれば、自分というものを打破してしまわなければなりません。自分を攻撃する所でのみ、天国、あるいは間接的な天国でも開放され得る道が開かれます。しかし、自分を擁護する立場で、相対を自分に適用させようとする人、自分自らを主体的立場に置いて相対を引っ張っていこうという人は、天国とは関係を結べません。

 明らかな事は、天国は自分から成されるのです。いくら相対的天国が完備されたとしても、その天国が呼ぶ時に、答える事が出来る自分自身になれないでいるなら、その天国とは関係がなくなります。

 天国とはどの様な所でしょうか。サタンを屈服した所です。自身を屈服した所ではありません。自体だけを屈服した所ではありません。堕落した世界圏、習慣的な環境圏、あるいは常習化した所には、天国は臨む事が出来ません。この常習化された環境を、サタンが凝り固まって支配している為に、サタンがここに寓居している為に、このサタンの環境を克服してしまってこそ、天国が来るのです。天国は、サタン世界の内容と相反する所で成されます。もし、そのようでなかったら、天国に成り得ません。天国という名前がついていても、それは環境をたぶらかす為のトリックにしかならないのです。

 天国という概念は、サタンを屈服した場所で、サタンが相対する事が出来る一切の要因を否定した場所で、否定するだけでなく清算した場所で、成立する事が出来ます。サタンの否定的与件が残っている、歴史的な遺物であるとか、生活の全ての内容を否定して清算した基盤で、天国が肯定され得るのであって、それを残しては、天国の内容を提示する事は出来ないのです。天国は、この様に高貴なものです。

 絶対的基準の前に一致し得るものが天国だといいますが、我々が描く天国の概念は、余りにも混み入っています。余りにも邪となった立場で、天国を待ち望んでいます。この様な生活環境で、絶対的な信仰基準を持って克服する所から天国が始まるのは間違いありませんが、それだけでは天国は決定され得ません。その基盤で、数千年間神様を苦労させ、数多くの人類をもてあそんだサタンを克服してこそ、天国が繰り広げられるのです。

 そのまま素直に信じてだけ行く立場では天国が成され得ないという事は、言う迄もありません。信じる心だけ持っては、絶対に天国が成され得ません。その過程でサタンが何時も戦いを提示する為に、戦いの路程を克服してこそ、天国が成されるのです。ここには主権がなければならないし、数多くの民がいなければならないのです。数多くの家庭が、国家なら国家自体を成して、一つの目的の為に克服していかなければなりません。

 神様の立場から互いに相いれない事なく、主体と共に、どんな時、どんな環境、どんな所でも、こたえて和動する事が出来なければならないのです。生命を捧げる覚悟をして信じる立場では、心に臨在する天国を感じるかもしれませんが、実体的な天国は成されません。二千年の歴史を通して、数多くの殉教と受難の代価を払っても、現実の舞台で天国は成就され得ませんでした。天国は、その様に簡単に成されるものではありません。

 聖書に、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主成る貴方の神を愛せよ」(マタイ二二・三七)という句があります。「主」という言葉は、永生について忘れられない、絶対的な内容を備えた立場で認識する事が出来る言葉です。主成る神を信じる所から、天国が到来するのではなく、主成る神を愛する所から、天国が来るのです。父のみ旨は愛する所から成されます。信じる所からではなく、愛する所から成されます。

 今迄我々の信仰がどれほど至らず、原則に到達するのに、どれほど遠い距離にいたかという事を悟るべきです。ひょっとして、ここに初めて来た人がいるかもしれませんが、個人を中心としては、慰められ得る立場に行く事が出来るかもしれませんが、まともに天国は成されません。個人の心に天国が成されて、個人を中心として神様が喜ばれるといって、天国に成るでしょうか。それが、個人の天国には成るかもしれませんが、全体の天国にはなれません。

 神様が願う事は、個人の天国ではありません。個人が成立させた天国を眺めて喜ばれるのではありません。一人が喜ぶのを見て、天国がすっかりできたと言えるでしょうか。神様は、喜ぶ事が出来る一人、イエス・キリストをこの地に送ったのは、彼を中心に万国を横的につなげて、全体の天国を模索しようとされたのです。それ故、メシヤをこの地に送り、犠牲にしたのです。(四六―七四)
第二節 天国に行く為の準備

一 天国の拠点

 我々が真理に近ければ近いほど、真理に心酔するればするほど、その真理は、もっと誰もが奪っていけない中心に成るでしょう。千万回混乱する地であっても、宇宙がにわかに破壊されても、中心を心にはっきりと立てた人は、決して変わらず、動揺もしないでしょう。

 しかし、心の中にその様な中心を受け入れる準備をしていなければ、いくら真の真理が現れても、それを知らず、真の生命が現れても知らず、真成る愛が現れても知る事が出来ないでしょう。

 今日のキリスト教が、真成る真理と真成る生命、そして真成る愛を探そうとするなら、終わり迄自分を捨てて、誰も奪っていけない心の中心を立てる宗教に成るべきです。

 今迄地球は、新しい大陸が発見され、だんだん広く成ると思ったのに、むしろ日がたつほど狭くなってきています。言い換えれば、文明が発達出来なかった時には、世界が広い様に感じましたが、歴史が流れて文明が発達しながら、世界はだんだん狭く感じられる様になっているのです。この様な事を見る時、真理の歴史を経てなされる理想世界は、全てが自分と直接的な関係を結ぶ様に成る宇宙的な世界である事が分かります。

 天国人の基準、すなわち天国の生命と、天国の愛は、私達自体から結実されなければいけません。

 真理と生命と愛は、一つの家庭の様なものである為に、真理には必ず愛と生命が伴うべきであり、愛にも生命と真理が伴うべきなのです。生命について見る時にも、同様です。そこにも愛と真理が伴うべきなのです。

 真理と生命と愛は、何故この様につながっているのでしょうか。一つの物事が存在する為には、必ずその物事を中心として、上下、前後、左右がなければならないのです。存在するものは、何でもこの様な三数の圏を脱する事が出来ません。これが存在の基本形態です。

 この様に、三つが出会い、一つの統一的な形態を成していますが、力が逆順に進めば、本来とは異なった力の作用が現れるのです。

 それ故、本来、愛と生命と真理の神様であられますが、堕落した以後の人間が、愛と生命と真理が均衡の取れた三角形態を成せなかったので、神様はみ旨を成せなかったのです。(二―一三三)

 イエス様に従う弟子達は、イエス様がローマ帝国を一時に占領して、イスラエルの王として君臨する様になれば、自分達は一つずつの職位をもてると思ったのです。その様な事は、問題ではありません。まず、自分の心の中に天国の基盤を築くべきであり、その心を中心として、体が神様と一つになり得る基盤を築くべきです。これが一番大きな問題なのです。天国は、自分自身から始まるのです。それ故、天国の拠点は、自分の心であるのです。(四七―二七三)

 天国の拠点とは、どこにあるのでしょうか。キリスト教徒の中には「イエス様を信じて天国に行く」と言う人が沢山います。それならば、天国の拠点はどこにあるのでしょうか。「天国はどこにあるか」と聞くペテロにイエス様は、「貴方の心の中にある」と言いましたが、その天国の拠点とはどこでしょうか。悲しむ心が天国の拠点になり、自分を主張しようとする心が天国の拠点に成るのでしょうか。それは、我々が願う内容の拠点ではなく、神様が賛同する事が出来る天国の拠点ではないのです。

 天国の拠点を探す人は、この地上の誰よりも孤独な立場にぶつからなければならなりません。それは、何故そうなのでしょうか。神様が孤独である為に、その人も孤独でなければならず、神様が克服の歴史を経てきた為に、その人も克服の歴史路程を経ていかなければならないのです。

 天地に悲しみが一杯だとして、人間がその悲しみを感じながら悔い改め、慟哭の涙を流すなら、その立場が天国の拠点になり得るでしょうか。それを持ってしても、駄目なのです。新しい喜びを感じ得る時を願いながら教団に仕える反面、この世の罪悪を解決しなければならないと決意出来なければなりません。その様な責任を誓う一つの方向がなくては、天の拠点はあり得ないのです。

 人々の中には、自分は良心的で、社会的に人々が仰ぎ見る立場にいる為に、「天国は自分から始まる」と堂々と主張する人がいますが、それはその人が、善と悪は共に出発するという認識をもったからです。しかし、善と悪は、同時に出発し得ないのです。悪が東に行けば、善は西に行くべきであり、悪が動けば、善は停止しなければならないのです。また、悪が欲望をもてば、善は欲望を持ってはいけないのです。善と悪は反対です。

 天国を探す為の出発は、人間の世の中に対する希望を皆失ってしまった所から始まりました。それ故、現実生活で満足する人達の中には、真の宗教人は存在し得ないのです。

 世の中が行き違う運命にぶつかり、自分の存在を認識出来ない絶望に落ちる時、習慣的な生活におぼれているのではなく、自分の生命迄も否定しながら、新しい価値を探していかなければならないのです。この様に進む所から、真成る善の出発が出来ます。

 この様な観点で見る時、「自分の人格が天の拠点である」と自信を持って言える人がいるでしょうか。いないのです。また、「私が今率いている家庭が、天の拠点である。神様がおられるなら、うちの家庭を知らないとは言えない」と自信を持って話せるという家庭も、やはりないのです。また、「我々の氏族は、これこれこの様な善の功績を持っている為に、神様が我々の氏族に知らぬ振りをする事は出来ない」と、自信を持って言える氏族がこの世界のどこにいて、その様な民族がどこにいるか、国家がどこにあるか、主義思想がどこにあるかという時、呆然としてしまいます。

 それで、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言うのです。では、その言葉はどういう意味でしょうか。悪の世界で、自分自身を千年以上守る為に努力する人であってこそ、千年生きるという夢を見る事が出来るのであり、自分自身を万年以上犠牲にしても、それを有り難く考える事が出来る心を持ってこそ、万年生き得る希望を見いだすのです。

 同様に、永遠の生命、永遠の幸福、永遠の天国を叫ぶ人がいれば、彼は永遠を目標として現時点を克服しなければならず、現時点で自分を犠牲にしながら、耐えて越えていかなければなりません。この様な立場に立ってこそ、永遠の拠点が生じるのです。(四七―二四七)

二 天国に行く基準

 神様を愛さずには、サタン圏内を脱する事が出来ないのです。それ故、自分の妻より、自分の夫より、神様をもっと愛さなければいけません。堕落した人類がサタン圏内の愛のなわ目の中から、端迄出てきましたが、まだ完全に出てこれませんでした。それ故、自分の父や母を神様より愛してはいけないのです。(四一―二九九)

 天国に入る事が出来る人とは、どんな人でしょうか。まず、神様の心に合う人でなければなりません。どのくらい合わなければならないでしょうか。神様が永遠の目的を中心として、永遠の理想を描いていく方であるなら、永遠の基準で心が合うべきです。十年ぐらいは合っていたのに、また合わなくなってしまったのではいけないのです。永遠な神様に、永遠に心を合わせるべきです。そうするには、どの様にすべきでしょうか。永遠に互いに好む事が出来る息子に成るべきです。その様な息子に成るには、悲しみの対象としての姿を見せてはいけません。

 その次には、神様の体に合わなければなりません。ここで体というのは、方向性をいいます。考えは四方の中心点に代わりますが、体は方向性として現れるのです。神様の心に合う息子になろうとするには、神様の体が東に行く時、神様と共に東へ行かなければならないのです。神様は、温かいものを好むのに、イエス様が冷たいものを好めばいいでしょうか。神様は今、笑いたいし、話したいのに、イエス様が「寝たい」と言えばいいでしょうか。外的な体を中心として現れる全てが、一致しなければならないのです。

 それだけでいいでしょうか。違います。神様は、和気あいあいとした雰囲気を好むのに、殺伐としていてはいけません。神様が和気あいあいとしている時は、和気あいあいとしていなければなりません。内と外が合わなければならないのです。この様に、内外だけが合えば済むのでしょうか。その次には、神様のみ旨と一致する事をしなければなりません。そうするには、心にない事があり得ますか。体が嫌がる事があり得ますか。体と心が好む事をしなければならないのです。神様がいらっしゃるなら、神様が好まれる事があるのです。また、イエス様が神様の息子なら、イエス様もその様な事を好まなければならないのです。(四七―二五七)

 天国は、命を懸けなくては絶対に行く事が出来ない所です。命を懸けない人が天国にいるか、いないか、天国に行ってみてください。信仰の本質がその様になっているのです。(三七―二五〇)

三 天国の始まり

 天国は、どこから始まるのでしょうか。神様の悲しみを解かずには、天国に入る事が出来ません。我々人間が、堕落して以来今迄、悲しい歴史をつづってきた為に、悲しい歴史の全ての因縁を直接探さなければなりません。アダム・エバから、六千年歴史から、その因縁を探さなければならないのです。その様な悲しみの神様を教えようというものが、統一教会の原理です。

 世の中の人達は、悲しみがあれば、皆嫌だと逃げます。そのある悲しい事情よりも、もっと悲惨な神様の悲しみを教えてくれるのが、統一教会の原理です。世の中なら、悲しい事があれば回避して逃げますが、統一教会の原理は、この悲しい所を経ていこうとするのが信条です。世の中では、悲しい事があれば全部避けていこうとしますが、本来人間は、そう出来ない様になっています。

 神様に対する悲しみを知れば知るほど、神様の悲惨な内容を知れば知るほど、実際においての統一教会は、強力な力が出てきます。それを解いてさしあげようとする力は、無限に爆発作用を引き起こす動機になります。これが、統一教会がもった偉大な力です。(二一―一一三)

四 天国の本質

 天国とは、どんな世界でしょうか。そこは、本然の世界である為に、サタンに讒訴され得る個人や家庭や氏族は、入る事が出来ません。天国に入ろうとすれば、個人と家庭と自分の親戚である氏族が一つにならなければなりません。言い換えれば、三代が一つにならなければなりません。アダム家庭について見る時、アダム一代、カイン・アベル二代、カイン・アベルの息子が三代、この様に三代が一つにならなければなりません。神様を中心として見る様になれば、神様が一代、アダム・エバが二代、カインとアベルが三代になります。(二一―五四)

 天国は「為」にしてあげる世界である為に、「為」にするという観念だけ中心に持っていかなければなりません。「為」にされるという考えだけをもてば、壊れていくのです。

 天国は、神様の愛が充満した世界です。愛の本質は「為」にされるのではなく、全体の為に成るというものです。それ故、天国は世の中とは違います。

 宗教の教えは、「為」にして、絶対服従して、犠牲奉仕せよというものですが、世の中にはこの様な事はありません。これは、世の中の何も分からない乞食の輩がする事のようですが、天法を知らなくとも福を受ける事が出来る様にする為の、サタン世界に対する神様の暗号による作戦でした。(四六―四二)

五 天国の枠

 私達は、本郷の地を見つける事が出来ませんでした。本郷の地を見つけられなかったから、本郷の祖国を失ってしまいました。本郷の祖国は、地上天国をいいます。天国といえば、地上天国があり、天上天国があります。

 国に成る為には、三大要素が必要です。第一は、主権がなければならないし、その次には、国土がなければならず、国民がいなければなりません。しかし、神様には主管出来る主権がありません。主管し得る人類がいません。ですから、祖国がないのと同じです。この様なものが、本然の人間が暮らすべき世界ではないのです。(一五五―二六)
第三節 天国に行く事が出来る要素と条件

一 天国に行く事が出来る要素

1 苦労が必要

 永遠に残るものがあるなら、それは公的な苦労です。公的な苦労をして霊界に行ったのに、そこで滅びたなら、先生に抗議をしてもいいです。

 民族と世界、天地の為に働いて霊界に行く人は、知恵深い人です。(一九―三〇)

 一国の責任者が怨讐に捕まっていき、優待を受ける様になれば、責任者を失う国の人々は団結が出来ません。捕まっていった責任者が悲惨に死ねば死ぬほど、彼と因縁をもった人々は、鉄の石の様に団結するのです。

 その為、霊界が我々と結束され得る内容は、苦労だと言うのです。我々が苦労すれば苦労するほど、霊界は私達と関係ができて団結するのです。

 そうしないで、ただうかうかしていれば霊界も同じです。その様な意味で、神様はサタンを通じて作戦されるのです。執拗に苦労させ、殺したりもするのです。死ぬ事自体は、可哀想ですが、反作用で結合する様になります。(四九―一〇八)

 天国に行こうとする人は、「悲惨に暮らせ、悲惨に死ね、悲惨に行け」と言うのです。その言葉は善い言葉ですか、悪い言葉ですか。善い言葉です。それでは、「死ぬほど出て伝道しなさい」という言葉も善い言葉です。「人の為に命を捨てろ」と言うのです。自分の為ではなく、人の為に、世界の為に、天下の為に命を捨てれば、大宇宙の主人として立てて下さるのです。

 貴いものは、万物と人間と神様ですが、「この世界を善成る立場で抱く」と命を懸けて犠牲になった人は、その三つを懸けて犠牲になった為に、神様は、その三つ以上のものを返してあげなければならないのです。イエス様はその様な観点で、「貴方の家の家族が怨讐だ」、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言ったのです。そうしなくては天国に行けない為に、これが一番幸福な教訓に成るのです。一番高く、一番貴く、一番なくてはならない、絶対的な福音なのです。

 それで、統一教会に来る様になれば、地上で豊かに暮らそうとしません。ひどく貧乏で、ひどく苦労して死んで、道端に倒れて犬もかみついていかない死骸になったとしても、その場には花が咲く日が来るでしょう。そこには、全ての聖成る人達が集まって、城を築くでしょう。統一教会の群れを、国の為に、世界の為にひどい苦労をさせて、孝行者、忠臣にしてみようというのが、先生の考えです。「行かない」と言うなら張り飛ばすべきです。足でけって、現在の悲惨さを、現在の困難を克服させるのが愛です。

 それ故、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主成る貴方の神を愛せよ」(マタイ二二・三七)とおっしゃったのが、第二の戒めではなく、第一の戒めです。

 その次に、「自分を愛する様に貴方の隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)とおっしゃいました。貴方の隣人とは誰ですか。世界万民が隣人であり、兄弟です。世界万民の為に心を尽くし、精神を尽くし、命を懸けなさいと言うのです。命を懸ければ、すっかり成したという事です。み旨の為に一度死んでみようと言うのです。どこで死ぬのでしょうか。自分の死ぬ所を探さなければなりません。

 一つの爆弾として生まれたら、きれいに岩に落ちて爆発すべきであって、下水のたまりに落ちるなと言うのです。我々は撃ってしまった爆弾です。「磐石の上に落ちよう。ひどいもの同士、一度やってみよう」と言うのです。この様な決心をした為に、今日統一教会の文先生が五十を越えても、まだ行くべき道が遠のかず、躊躇しません。

 あすの希望を実現する為に精誠を捧げながら涙を流し、努力と精誠を、熱と誠を尽くすのです。この目標に符合し得る一つの帰一点、その一点を備える為に、命をちりあくたの様に捨てる覚悟をしていくのが、統一教会の先生がもった主流的な思想です。ここには、冒険が内外につながっているのです。無慈悲な決闘を展開していっているのです。

 命を限りを尽くしても、死なずに生き残る基盤に成るなら、これは人類歴史に手本に成るであろうし、万民の幸福の基調に成るでしょう。全天下がそれを和動の起点として、大運動を展開する事が出来る軸に成る立場で、神様を動かして、人類の希望を結束させ得る立場で、自分が動ずれば全体が動き、自分が静ずれば全体が静ずる様にするという宇宙史的な責任感を感じながら暮らす男なら、決して臆病者ではないのです。(四九―三〇三)

 修行の道に入っては、人は死ぬ時迄死の道を行かなければなりません。死んですべき苦労を、生きて蕩減しようとするから、その様な道を行かなければならないのです。死んで億千万年苦労する事を、縮小して、生きている間に蕩減してしまおうと言うのです。この様に修行の道は、永遠に行くべき受難の路程をこの地上で苦難の道を歩んでいく事で蕩減しようと言うのです。(三一―三二〇)

2 愛が必要

 天国へは、愛の軌道に乗って行くのです。この様に話すと実感がわくでしょう。その愛のひもを引けば引くほど細く成るのではないのです。ゴムひもは引けば引くほど細くなりますが、愛のひもは、引けば引くほど、反対に太くなります。

 ですから、み旨の為に苦労の親分に成る事が、世界を占領し得る秘法なのです。苦労の親分が、天国の栄光を独り占めするのです。

 今日、宗教を信じる人達が「天国に行こう」と言いますが、天国にそのまま行けますか。まず、地上で天国を迎えてから、行かなければならないのです。地上で天国を迎える為には、愛の法度を経なければなりません。

 皆さんの家庭に、子女たちが沢山生まれれば生まれるほど、神様の国をもっと愛すべき十字架が加重されるという事を感じなければなりません。その家庭に息子、娘を沢山送るのは、背負う十字架が多いという事なので、国の為に捧げるべき責任が多いという意味です。その様な内容を知って、責任を果たす人に成るべきです。その様な家庭であってこそ、その家庭に後代を相続する事が出来る運勢をもった息子、娘が生まれるのです。(三二―二三二)

 どの様に天国に行くのでしょうか。神様の愛に狂って生きるべきです。理想のアダム・エバとして、神様を愛すべきであり、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ以上にイエス様を愛すべきです。そうしなければ、神様の国を愛して、真の愛の相対圏を復帰する事が出来ません。これだけ復帰する様になれば、万事が思いどおりになります。

 お金がないと心配せず、息子、娘がいないと憂慮せずに、十年、二十年その道を続けて行ってみれば、大きな山や険しい峰にも登れる様になります。自分には、だんだん下っていき、苦労ばかりする様に感じられるのですが、だんだん高く成るのです。統一教会は、打たれながら大きくなります。一つの家の中で、十人が暮らしているとすると、公的目的の為に九人の反対を受けながらも我慢する人が、その家庭の主人に成るのです。すぐ天国の主人に成るのです。(一四二―二八九)

 皆さんは、五色人種の息子、娘を抱いて、その孫たちを抱く事が出来なければなりません。それで、神様の真成る愛を持って、真成る父母として、世界人を愛する家庭の主人になったという立場に立つべきです。神様の愛を中心とした、本然の父母の因縁の中で、真の愛の家庭基準を代表し得る立場に立つ事によって、初めて天国に入る事が出来るのです。

 天国に入るには、真成る神様と真成る父母の、真の愛に一つに成るべきです。その血統的関係から生まれた息子、娘と共に、この地上に生きてから行く所が天国ですが、今迄その様に生きて行った人は一人もいません。それ故、天国は空いているのです。(一七六―二一〇)

 天国に行く道は、兄弟を神様の様に愛する所から開かれます。皆さんは、先生についていこうとしますが、その心で兄弟に従って共に行こうと努力しなければなりません。

 天国に一番高く、早く、良く導く者は、神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下す様になります。(六六―一二五)

 では皆さんは、世界天国に向かって行きますか、個人天国に向かって行きますか。世界天国に向かって行くと言えるでしょう。先生も欲が深くて、世界天国に行く愛の綱をぎゅっとつかむ為に四十年間、迫害されながらこの事をしたのです。個人の愛の綱を残して、家庭の愛の綱、氏族の愛の綱、民族の愛の綱、国家の愛の綱、世界の愛の綱をぎゅっとつかむ為にです。ぎゅっとつかんでどこに行くのでしょうか。世界の愛の綱を探した次には、福を受けて出世したから、還故郷するのです。故郷に行って、可哀想な人達を生かしてあげるべきではないですか。(一四三―一四一)

3 実績を持つべし

 過去には、祈祷をして精誠を捧げても、瞬間しかその宗教の教祖と会えませんでした。会っては皆別かれました。それで、また上がらなければなりません。しかし、今は全部宗教圏を中心として、地上に再臨する事が出来る時が来ました。その様な時代が来た為に、皆さんが過去と、現在と、未来を動かせる実績をもてなければ、天国に行けません。

 過去の時代は、天使と善成る霊人達の時代であり、現在の時代は、父母の時代です。そして、未来の時代は、神様の時代です。それ故、霊界を動員し、父母様を動員し、神様を動員した実績をもたない人は、天国に入れません。アダム・エバに天使が動いて協助し、神様が動いたのと同じです。そうした次に、宇宙はアダム・エバが動かさなければならないのです。

 皆さん、神様を中心とした三世界すなわち、過去、現在、未来を支配し得る人だけが、本然の天国に入ります。そうしてこそ、本然の世界である天国に行くのです。(一六一―一九九)

 天国に行く事が出来る条件は、自分の息子、娘よりも神様をもっと愛すべきなのです。夫より、妻よりも、主をもっと愛するべきなのです。自分の体よりも、聖霊をもっと愛するべきなのです。これが三位一体です。(一〇―一〇〇)

 では、天国に誰が入って暮らすのでしょうか。神様を喜ばせた息子、娘が入って暮らすべきなのです。所で、堕落という名詞が生まれた以後、数千年の歴史を経てきながら、数多くの人類が膨張、繁殖しました。その様に繁殖した人達の中で、神様を幸福にしてさしあげた人が、この地に生まれませんでした。(四三―二三)

 皆さんは、統一教会を信じて天国に行くのを願っているかもしれませんが、自分がこの地上で実績を積む事が出来なければ、たとえ天国に行くとしても、恥ずかしいのです。我々は、観念的に信仰生活をして、天国に行くという群れではありません。全ての努力と精誠を注いで、天国を建設するという群れです。これに反対したり、制止する人がいるなら、許す事が出来ません。天国を建設する為には、自分の心身はもちろんであり、自分の全ての所有物と環境迄全部投入しなければなりません。そして、国家の運命に責任を持つべきであり、さらにアジアの運命に迄も責任をもたなければいけません。(二二―二二六)

4 「為」に生きるべし

 皆さんが五十年の生涯の中で、二十五年以上をこの宇宙の為に、天倫に従って生きたなら、天国に行くのです。それならば、あの国に行って良い霊界にとどまる事が出来ますが、自分を中心にして生きた事が多くなったなら、残念ですが善成る本郷の世界に行くのではなく、自分だけの為にしようとする悪の本郷の地獄に行くのです。その様な事実を知り、今から皆さんは自分の為に生きた過去の生活を清算して、全体の為に、国の為に、世界の為に、天地の為に、神様の為に生きる余生を残す為に努力しなければなりません。そうするなら、ここから地獄ではなく、天上の理想世界に行進するであろう事は間違いありません(七八―一一九)

 霊界がどの様になっているかという事実については、誰にも負けない体験をし、また、霊界は私の専門的な分野です。あの霊界の秩序的起源を尋ねてみれば、どの様になっているでしょうか。「為」に存在する様になっている世界が、天国です。その所は、我々の本郷です。

 我々は良かれ悪しかれ、どうせそこに行くべき運命に置かれています。それが我々の一生の道です。我々は、そこに向かって旅人の道を行っているのです。では、ここで問題と成るのは、自分の為に暮らしたか、人の為の生活をしたかという事です。その差に従って、人の為に生きた事が多いという時は、天国に行く事が出来るのです。その反対に成る時は、地獄へ行くのです。この原則は、この場では信じられないでしょうが、死んでみれば分かる様になります。

 神様は、人類を救う為に、宗教を立てて摂理してこられます。それ故、高次的な宗教であるほど、その本郷のみ旨と本郷の原則に一致する教訓を述べざるを得ず、「犠牲になれ、奉仕せよ」という勧告をせざる得なかったのです。

 この様に、神様が歴史と宗教の背後から摂理しているという事実を否定する事が出来ません。この様な原則について見る時、「為」になろうとする宗教は発展する事が出来ますが、自分を中心にして世界に問題を起こしながら、主体的な立場に立とうとする宗教は下っていくという結論も、ここから見いだす事が出来るのです。(七四―五一)

 天国は愛の世界であり、中心者である神様の為にある世界、神様の為に生きる世界です。(九八―三五)

二 天国に行く事が出来る生活

1 我々の立場

 人間の創造は、神様が人間を神様の愛に同参させた事です。神様の愛から出発し、神様の愛の懐でそれを相続し、次に家庭を成して世界的な愛をつなぐ完成者になり、神様の愛の懐に帰らなければならないのが、人生の道です。

 堕落する事によって、これが根本的に破綻しました。神様と人間との関係が隔離されてしまったのです。いくら神様の前に帰ろうとしても、帰る事ができず、また、神様が我々人間の所にいくら来ようとしても、来る事が出来ない間隔が生じました。壁が生じて、国境が生じたのです。

 その壁は、神様も越える事ができず、神様を父母として侍る人間も越える事が出来ません。

 この壁が、我々個人の心と体の間に入り込む様になりました。夫婦の間にも、壁が入り込む様になりました。家庭がそうであり、氏族と民族と国家と世界、全霊界の天国と地獄の間にも、この様な塀が生じたのです。この塀を取り除かなくては、神様がいくら天国の栄光の宝座にいらっしゃるとしても、地上にいる我々は、包囲されたこの塀を越える事が出来ません。

 これが、この地上に生きている人間の悲劇です。この悲劇をどの様に打破するか。我々人間が、神様を父母として侍って生きるべきであり、神様から全ての生活を指導されるべき立場にあるのにもかかわらず、神様がいるのか、いないのかも分からず、あるいは「決定的に神がいない」、さらには「神は死んだ。我々人間世界で神を掃いて捨てなければならない」という悲惨な歴史的な環境が、我々が生きている世界に展開されています。(一三五―二六七)

2 天国に行けない場合

 み旨が動機に成るでしょうか、自分が動機に成るでしょうか。自分が動機になってはいけないのです。それなのに、何時もみ旨をあとにして、自分を動機とする時の多いのが、今日の人間たちです。み旨は受難の道を要求していますが、「私」はそれに背こうとします。相反する立場なのです。み旨は右に行けというのに、自分は左に行こうとします。「私が統一教会に入ってきて、誰ほど苦労出来なかったか」という条件を提示して、自分を弁明しようとします。

 自分を弁明しようとする者は、天国に入る事が出来ません。絶対的な信仰というものは、自分を弁明する立場ではないのです。弁明される立場に成るべきです。そこには一言半句、何かを提示する内容もありません。弁明される立場です。うまくやっても、「うまくやった」と言える立場ではありません。自分が一〇〇パーセント認める事の出来るものだとしても、神様が見る時は一つです。自分が百と認めるものが、神様には一つなのです。それ故、天国は自分を中心として提示する立場では、訪ねていく事は出来ないのです。

 天国はどこから始まるでしょうか。絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張出来るものではありません。その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずには、絶対的な信仰が出てくる事は出来ません。皆さんが、世の中の万事を肯定しながら信仰の道を行く時には、絶対的な信仰が出てきません。

 この様な根本問題について、今日大部分の人を見てみれば、一日の生活圏内で、朝に起きて御飯を食べてする習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。その様に信じる人が沢山います。その様な人達は、天国を所有する事は出来ません。堂々とする事が出来ないのです。自分を公認する相対的な要因がなくては、絶対的信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服してしまった後にこそ成される天国が成就され得ますか。とんでもない事です。何故そうなのでしょうか。その立場には、サタンがとどまっている為です。(四六―七九)

 今迄の歴史上に、神様の前に呼ばれた人達は、全部五十代以上、六十代以上でした。年が多くて、やつれて、間もなく共同墓地に行くしかない人達、葬送曲を歌う日が近い輩だったのです。その様な背後から、神様は今日、この様にやつれてやせた老年層を捕まえて摂理しますが、これからは壮年層を捕まえて摂理しなければならないのに、彼らを捕まえてどの様に摂理を展開させるかという心配をされたのです。神様は、その様な事情を抱いて歴史路程を歩んできたのです。

 老年時代が過ぎて壮年時代に、壮年時代が過ぎて青年時代に、青年時代が過ぎて少年時代に、少年時代が過ぎて幼児時代に、その様に皆さんは再び生まれなければならないのです。そうでなけば、天国に行けないのです。皆さんは、少しも汚れなく無邪気な幼子の様に、かわいがられる事が出来なければなりません。それで、イエス様はニコデモに、「新しく生まれなければならない」(ヨハネ三・七)と言いました。生まれ変わらなければ、すなわち「重生しなければいけない」と言われたのです。それで、神様は最高の収拾する役事として、母の腹中から救いの役事をしようと言うのです。どれほどすごい事でしょうか。(二〇―九五)

3 天国の為の我々の生活

 皆さんが七十年、八十年を生きると見る時、その中で三分の二が悲しい生活だとするなら、この三分の二をどの様にすべきでしょうか。神様を中心として、うれしい生活にしなければなりません。天国化させなければならないのです。天国は与えながら生きる所です。神様も与えなければならないのです。父母は、子供に与えなければならないのです。良いものを与えてしまっても、もっと良いものがあれば、それもまた与えたいのが父母の心です。(三四―一四一)

 皆さんは、今戦っています。自分の一生の間、大砲を撃っているのです。世の中に対する前に、自身の体と心が戦っているのです。これをどの様に平和にするか。この戦いで体が勝つか、心が勝つか。「私は間違いなく心が勝つ」と言える人にならなければなりません。心が勝つ人は、善の側であり、体が勝つ人は、悪の側です。

 では、体と心が戦っている戦場で、心が体を倒して勝つ事が出来る秘法、または体が心をたたいて捕まえる秘訣とは何か、その戦法とは何でしょうか。これが問題です。その武器と全ての装備が、どの様な方向を経て動員されるかという問題が、善に成るか、悪に成るかを決定づけるのです。ここにおいて重要なのは、この対立を解決し得る要因とは何かという事です。悪の世界に暮らしている人間に、善が成立し得る必要要件とは何でしょうか。悪が成立する要件とは何でしょうか。これを知って、取ったり、取り除いたりしようと言うのです。この要件は、知ってみれば簡単です。(三六―六一)

 優れているという男、優れているという女がいる時に、男が男の権利を持って「祝福を自分一人で受ける」、また、女が女の権利を持って「自分は一人で祝福を受ける」と言えますか。神様のみ旨を絶対視して、人類の希望として提示された全ての条件を越えなければならないのです。そのま迄は、出来ないのです。これからの地上天国でする事とは何かと言うと、夫婦が互いの相手から世界的な歓迎を受け、世界から尊重される妻と夫に成る為の道を尋ねていくのです。それが、地上天国で暮らす生活方法です。(一六二―六九)

 「私」という一人は、善だけを捕まえて行く事は出来ません。これは世界的に善が占めるとか、悪が占めるとかになれば解決されますが、善が占める時には生き、悪が占める時には滅びるのです。この様にこの世界は、死ぬか、生きるかという興亡の道を走っているのです。

 個人は、歴史的所産物です。家庭も歴史的所産物であり、国家と世界も歴史の所産物です。その歴史の所産物の中で、善の所産物がどれほどに成るでしょうか。自分の個体について比重を計算してみる時、善の所産物がどれほどに成るでしょうか。我々が暮らしている生活環境の中で、善の所産物が何パーセントになり、個体の人格の中で、何パーセントに成るかというのが問題です。

 悪に接する要因を沢山持っているか、善に接する要因を沢山持っているかを見る様に成る時、全体が悪に接する要因として囲まれています。悪が行く道においては、教育は必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行く事が出来るのです。悪から始まった歴史である為に、教育を受けなくても誰でも行く事が出来るのです。悪の道を行く様に教育する必要性がありますか。自らその様になった為に、今日人類道徳を中心として、良心の標準の前にわきまえて行けと教育するのです。

 何を中心とした教育でしょうか。善を中心として、良心を中心として教育をしたのにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人がどれほどいるでしょうか。悪の事は習わなくても、誰でも皆する事が出来るのです。誰でも、満点に成る事が出来るのです。

 この様な環境の中で暮らしている我々に、良心は何時も「善であれ」と勧告します。我々の心は、何時も善の人になれと、休まず自分を刺激し、自分に勧告するにもかかわらず、善の自分になったでしょうか。この様な問題を考えてみる時に、きょうも嘆息であり、あすも嘆息であり、今年も嘆息であり、青春時代も嘆息であり、中年時代も嘆息であり、老年時代も嘆息なので、嘆息で一生を終えるのではないでしょうか。言い換えれば、悪の事で終わりを見るのではないかと言うのです。この様な結論を下すしかないのです。悪から生まれた為に、悪でのたくり、悪に行くのが、今迄この世の中に生まれては死んだ数多くの人間たちの生涯であり、今この地に生きている数多くの人類の行路というものです。

 今日、統一教会は何をする所でしょうか。悪くなれと教えてくれるものでしょうか。それなら統一教会は必要ありません。悪は教えてやる必要がないのです。悪の道は教えてやらなくても、楽に行くのです。(三六―五六)

4 我々と天国

 イエス様は死を目の前にしても、「わが父よ、もし出来る事でしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いました。死に際にも、神様に抗議するのではなく、父のみ旨がもっと大きい様に、もっと大きな犠牲も当然捧げますという姿勢でした。この立場では、もっと深く入れる為に、神様ともっと近い立場に入るのです。その様な人の前には、神様も微動だにされません。その様な人を打つ人は、すぐに滅びます。神様自らが制裁をされるのです。それ故、「右の手のしている事を左の手に知らせるな」(同六・三)と言いました。

 ある日、「誰かに何千万ウォンをあげたから、それに対する利子をいくら持ってこなければならないのに」と言いながら、与えたものを記憶する人は、天国の主人になり得ません。与えたものを忘れなければなりません。父母が子供を育てる時、いくらいくらを投資したから、その利子をもらうと言う、そんな父母がいますか。与えても、皆忘れるのが父母の心です。与えたものを忘れるだけでなく、もっと良いものを与えられなくてふびんに思うのが父母の愛です。その愛は永遠に続く為に、父母のいない人を孤児と言い、孤児に成るのを好む人はいないのです。(三六―八五)

 天国とはどんな所か分かりますか。「為」にする人達が行く世界が天国です。自分の為にする人は、絶対行けません。その様な人は、地獄に行くのです。有名な牧師だからといって行けますか。行ってみれば分かります。我々統一教会は、怨讐迄救ってやり、共産党迄救おうとするのに、共産党は統一教会を全部首を切ってなくそうとします。これが違うのです。

 ですから、どんな思想がこの世界を支配すべきでしょうか。我々は共産党よりもっと強くなければなりません。悪成る人になって強くてはいけないのです。「為」にする愛を中心として強くなれば、世界を救っても余るのです。

 今我々は、天国で暮らす人ではなく、天国に行こうとする人です。この様な生活がどれほど続くでしょうか。きょう終わるのですか。十年、百年かかるでしょうか。しかし、死ねばどの様になりますか。それで接ぎ木されなければならないのです。ぷつりと切ってしまって、接ぎ木されなければならないと言うのです。(九一―一七三)

 最後に、どの様な世界に行くでしょうか。地獄に行くでしょうか、天国に行くでしょうか。皆さんは行きながら、「先生! 私を助けてください」と言う人になりますか、「先生! どうぞ来てください」と言う人になりますか。死ぬか生きるかなのです。皆さんは、「結婚して豊かに暮らす」と言いますが、先生が「豊かに暮らせ」と言うのは、「変わらない夫婦になれ」という事です。変わらない夫婦に成るには、変わる夫婦の世界に行って、共に修練を受けて、四方に分かれて暮らす世界に行っても、分かれてはいけません。この様な修練をされた立場に立たなければなりません。(一二九―一八二)

三 四位基台と天国

1 天国は家庭が入る

 先生が、今迄家庭的にだけこの事をしてきたなら、迫害を受ける事がありますか。先生は、お父さん、お母さん、親戚一家、姻族の八親等迄、全部集まった場で、み言で彼らを感動させる自信があります。間違いなく、親戚や一家全体をみ旨の前に立てる自信があるのです。それが天のみ旨ではない為に、そうする事が出来ませんでした。イエス様もそうする事が出来なかった為に、自分の親戚の前から追い出されました。

 しかし、皆さんはその様な全ての時を過ごした立場なので、親戚を伝道する事ができ、父母を捕まえて涙でも流しながら、自分の切成る心情を吐露する事が出来る時代的環境を迎えました。その為、皆さんの立場は先生の立場よりいいのです。今は、皆さんの親や親戚たちがみ旨を受け入れまいとするなら、泣き叫んでどんな手を使っても感動させる事が出来る時です。

 お兄さんは、どうしても対話するのが少し難しいですが、弟ぐらいは、「やあ、お前、信じるのか、信じないのか」と言いながら、小突いて強制的にでも信じる様に出来る自由な時が来ました。この様な時を迎えているのに、皆さんが責任を果たせなくては、天の前に面目がないのです。先生もこれからは、その様な人達に対する事が出来ません。これをしなければ、天国に行けません。天国へは、家庭を成してこそ行けるのです。(二一―六六)

 統一教会は、個人では絶対救われ得ないと見ます。個人としては、天国に行けないのです。一人では行けません。原則がそうです。エデンの園のアダム・エバが二人一緒に天国に行く様になっているのであって、夫または妻だけ天国に行く様になっているでしょうか。夫婦が合わさり、家庭が合わさらずには、天国に行けないのです。それが理想であって、父は地獄に行き、母は天国に行けば何の天国ですか。天国は、夫婦が行くべきなのであり、家庭が行くべきなのであり、家庭だけでなく、家庭の一族が行くべきなのであり、国家全体が行くべきなのです。(五〇―六三)

 天国は、どこから始まるのでしょうか。自身が生まれた心情的起源迄も否定する所から始まるのです。それで、修行の道を行く人は、独身生活をするのです。しかし、ここには難しい問題があります。再臨主が来て、この問題を解決してあげる時迄は、個人的問題に逢着するする様に成るのです。

 個人の救いを中心にしては、これから行くべき道がない為に、人類を救う為には、家庭を救わなければなりません。この様な家庭全体が救われ得る道を開いてあげる為に、再臨主が再びこの地に来られるのです。今日キリスト教徒が、「イエス様を信じて天国に行く」と言っていますが、全部個人主義に陥っているのです。本来天国には、一人で行く様になっていません。アダム・エバが堕落しないで、神様の愛の圏にとどまっていたなら、彼らは天国に行くでしょうか、行けないでしょうか。その様になったなら、地獄はありもしません。

 天国は、夫婦が息子、娘を率いて行く所です。息子、娘、孫たちと共に、その一門を率いて行く所です。さらには、国全体が行く所です。それ故、天国に成るのです。天国は、この様にして成される所です。(四一―三〇〇)

 一人で座って「ここが天国だ」と言えば、神様が考える時、どれほどもどかしいでしょうか。これを持って「良し」と言えますか。しかし神様が、人間世界を見る時、宗教の世界を見る時、どれほどもどかしいですか。(九六―七一)

 我々統一教会は、どの様な水準に迄成るべきでしょうか。釈迦牟尼よりも立派な人に成るべきであり、イエス様や孔子よりも立派な人に成るべきです。今迄の宗教の目的は、個人を救う事でした。しかし統一教会は、個人の救いよりも、家庭の救いを目的とするのです。統一教会が一般宗教と違う点は、これです。救いを目的としますが、家庭を救い、天国に行っても自分一人で行かないのです。

 統一教会の救済観は、夫は天国に行き、夫人は地獄に送ろうというのではありません。二人とも天国に行こうと言うのです。母、父を地獄に送るのではなく、母、父を連れて、息子、娘も連れて、天国に行こうと言うのです。統一教会は、自分が愛する家庭、自分が愛する氏族迄そっくり連れて、天国に行く事が出来る道理を教える宗教である為に、他の宗教とは次元が違います。それ故、今迄の宗教は、独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は、世界の為の家庭であり、神様の為の家庭です。これが統一教会の信徒が行くべき道です。(三四―三五九)

 今日、幸福とは何でしょうか。一番最初に話しましたが、我々人間の本性が、より次元の高い未来の幸福の基盤の為に前進する時、現在暮らしている家庭で幸福の対象者が誰かという時、夫には妻であり、妻には夫であり、父母には子供であり、子供には父母です。この基地から天国建設が可能なのです。

 「天国は貴方個人にある」という話はされましたが、「天国は貴方の家庭にある」という言葉は言えなかったイエス様が、どれほど可哀想であり、孤独であられたかを考えてみてください。それでも、皆さんは家庭をもち、幸福を謳歌しています。ある時は、靴を脱いで、世の中が何だかんだ、国が何だかんだと反対しても、それをけ飛ばして、漢江の橋から二人が投身自殺して流れていって、魚の餌になっても有り難いと言えば、それが幸福なのです。そうでしょう。我々にはそうする事の出来る一瞬があるのに、天下を救う為の求道者の主人であり、神様のひとり子であられるイエス様が、この様な環境、天国基地を夢にも見る事ができず、「天国は貴方の心にある」と言いながら、心で天国を犠牲にしようと歩き回って三年も満たせずに十字架に帰られたので、その方の生涯が、どれほど孤独であり悲惨かと言うのです。

 イエス様が願った天国が心の天国ならば、心の天国を越えて環境の天国を築くという事は永遠に不可能なのです。家庭天国を越えて、社会天国を築き、国家天国を築くというのは永遠に不可能です。世界天国は何時成されて、天上天国は、何時、成し遂げられるのでしょうか。メシヤには、万民を救い、霊界を解放して、神様を解放させるべき責任があるのです。この様な立場を考える時、どれほどあきれるでしょうか。イエス様は、十字架にくぎ打たれて死んだのは何でもないのです。そこから倒れれば、天の前に面目が立てられないのです。天国理想、理想社会の覇者として立つ様に成るから、面目を隠す事ができ、覆ってくれる風呂敷があれば訪ねていきたかったのです。百回死んでも、その恥ずかしさを免れる道がないイエス様の心情を分かる者が、誰かいたかと言うのです。(一二〇―四八)

 天国という所は、一人では行けません。天国という所は、必ず相対理想を決定づけてこそ入る様になっている為に、堕落人間が天国に入る為には、復帰の歴史、復活の歴史、再創造の歴史を経なければなりません。皆さんに祝福をしてあげるのは、天国の門をすっかり開けておく事です。祝福は、閉じている天国の門を開けてあげる事です。

 その門から家庭が入るのです。息子、娘を持って入らなければならないのです。家庭は、全ての実績をもった歴史的な実にならなければなりません。神様の六千年の復帰歴史が、一次アダム、二次アダム、三次アダムの時代を経たので、家庭でも三人の息子を経て、その三人の息子にも相対を立てておかなければならないのです。それで、家庭的に入るのです。(一五二―二四〇)

2 イエス様と家庭

 神様を中心として、永遠に共に暮らす事が出来る愛の家庭を標準として教えてくれた宗教が、キリスト教です。神様が人間に会おうとするのも、家庭をつくる為です。人間の願いがこれです。これ以上の願いはないのです。

 イエス様が家庭を成そうとしましたが、そのみ旨を成せずに十字架に亡くなりました。新郎新婦の名前を残して逝かれたのです。それでイエス様は、再び来て小羊の宴をすると言いました。これは何かと言うと、神様が安定し得る理想的な家庭を出現させる事です。それによって、イエス様は「真の父母」の立場に行く様に成るのです。「真の父母」の立場から、真の子女を生んで、真の兄弟を成し、この様な真の家庭を中心として、真の氏族と真の民族を成し、新しい民族と新しい国家を形成なさらなければならないのです。これをする為に、イエス様は再び来なければならないという結論が出てくるのです。(三九―三四四)

3 四位基台と天国

 うちに一緒に暮らす夫と赤ん坊たちと、うちのお母さん、お父さん、お爺さんは、天国を案内する三天使だという事を知るべきです。お爺さん、妻、息子、娘なので、三天使です。対になっているから、三天使の代表者たちである事を知るべきです。それで、お母さん、お父さんは、お爺さんに習い、息子、娘に習うのです。分かりますか。夫は妻に習い、妻は夫に習うのです。これは事実です。これが家庭の伝統です。

 結婚とは何でしょうか。女は男に対して知らなかった事を習う為のものであり、男は女に対して知らなかった事を習う為のものです。これを知るべきです。結婚とは、異性について習う為のプログラムです。それは、学校に入学する事が、結婚であるという事を知るべきです。それで、単位も百点を取らなければなりません。それでこそ夫も喜び、妻も喜ぶのです。百点を取らなければなりません。その様な話を全部細密に話せばいいのでしょうが、時間がありません。皆さんが微動だに出来ない様に話をしたらいいでしょうが、時間がありません。

 息子、娘を生むのは、また息子、娘の為にする事は、世界を愛する事を習う為です。息子、娘が世界とつながって、未来とつながります。息子、娘がいなければ、未来とつながらないのです。未来と世界につながり得る教育の資料として、息子、娘を与えた事を知るべきです。その次には、先祖たち、お婆さん、お爺さんは、霊界に対する教育の為です。お爺さん、お婆さんの前に孝行をすれば……。霊界にそのシステムができているのです。霊界に対する教育を受ける為のものです。これを知るべきです。

 それは何を中心としたものでしょうか。愛というタイトルのもとに、全部つながります。愛を中心として、全部がつながります。お爺さん、お婆さん、夫、妻、息子、娘が、愛を中心にして全部つながっているのです。その愛をもてば、霊界にいる千万代の先祖にも上がっては下がり、あの後孫にもこの愛だけが通じるのです。血管と同様の組織が、霊界の組織であり、この宇宙の組織だという事を知るべきです。愛の圏がどれほど素晴らしいでしょう! 驚くべき事だ! ライト(right:正しい)? (はいそうです)。ライトにはマイト(might:権力、力)とパワー(power:力)という意味もあるのです。全ては正義に従いたがります。皆さんはどうですか。愛の僕になり、愛の奴隷に成るのが、最大の幸福だという結論が出てきました。(一三五―一二〇)

 復帰といえば、四位基台復帰を言うのです。四位基台復帰をするには、父を復帰し、母を復帰し、息子、娘を復帰しなければならないのです。それ故、祝福された皆さんは、夫婦が完全に復帰されて、息子、娘を生んで、堕落しなかった立場に立てておかなければなりません。そうする為には、新しい伝統をほうり込まなけばなりません。そうしようとすれば、聖人より良くなければならないと言うのです。(五八―三五)

 家庭天国を成す所で、初めて神様が理想とする地上天国が落ち着く様に成るのです。これが四位基台に成るべきです。「統一原理」の創造理想の完成は、四位基台完成だと言います。

 それが何故そうでしょうか。神様とアダム・エバを中心として、三段階を経て縦的世界と横的世界が繰り広げられると、四位基台を成そうとするからです。アダム・エバの息子、娘がいてこそ、横的な世界が繰り広げられるのです。この様になれば、縦的な世界が自然的に生じるのです。体を中心としては、体の横的基準が息子、娘であり、心の横的基準が霊界だと言うのです。そこで初めて神様が臨在なされる事が出来る為に、地上に天国が実現するのです。(九六―二九)
第四節 天国の門と天国入城

一 人間の心門

 釈迦牟尼の様な方も、神秘的な境地に入って、「天上天下唯我独尊」という言葉を言いました。修道しながら精神を統一して、霊的世界に入って神様の前に完全な対象の位置に入ると「天上天下唯我独尊」という言葉が可能なのです。先生が世の中をぎゅっとつかめば、世の中がこの握りこぶしの中で溶ける気持ちがするのです。その様な境地に入る様になれば、奇跡は自動的に生じます。病気を治すのは、自然に信仰生活の付属物としてついて回るのです。

 それ故、心門に合わせて、心田を啓発しなければならないのです。この心の畑を啓発して、方向基準を開拓する為には、必ず主体であられる神様を発見すべきです。所で、主体であられる神様は曖昧です。曖昧な神様につながるには精神を集中させて、自分の心から出発する道以外にはないのです。心から、心を明らかにしておけば、必ず方向を知る様に成るのです。自然についていくのです。皆さんもそれを感じるでしょう。東に向かって祈祷をしたのに、神秘の境地に入れば、方向が変わるのです。その様な事が繰り広げられるのです。それ故、心の門があるのです。

 祈祷は良く出来る時もあるし、いくら斎戒沐浴をし精誠を捧げても、出来ない時があります。部屋によって、また部屋の位置によっても違います。一つの中心には東西南北がある為に、その位置によって違うのです。また、方向によって違うのです。山に行っても、祈祷が良く出来る所もあります。また、サタンが集まっている所もあります。それは陰地です。陰地と陽地は、霊的にその様になっているのです。何回か体験すれば、その様な事が皆分かります。

 全ての暗示や夢のお告げや、啓示や黙示が繰り広げられるのは、人間と神様との関係を結ぶ為に広がる、開拓的で発展的な不可避の現象である為に、これをおろそかにせず、生活に適用出来るよう努力しなければなりません。

 その為に皆さんは、心の門を開いて、心の畑を啓発する事を今迄してきているのです。心の畑が啓発される場合には、それで終わるのではなく、それを相対的な世界に適用させる事が出来なければならないのです。(七六―一四三)

二 開天門とは何か

1 開天門すべき理由

 何故、開天門がある様になったのでしょうか。アダムとエバが失敗しましたが、全ての責任を神様がもったのです。責任をもった神様が、門を開いてあげなければなりません。個人が行く門を開くべきであり、家庭が行く門を開かなければなりません。その次には、氏族が行く門を開かなければなりません。全ての門がふさがっています。民族が行く門もふさがりました。国家が行く門もふさがりました。世界が行く門もふさがりました。これを皆開いておかなければなりません。レバレンド・ムーンが、統一教会の家庭を通じて門を開こうとするのです。

 神様は、もっと大きなものを探す為に、小さいものを準備してくる作戦をします。個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、その次に天宙、霊界迄も、地獄と天国にふさがっています。これが、誰の為にその様になりましたか。アダム・エバが真成る父母になっていたなら、これが一つの世界になったのに、堕落して偽りの父母が生じる事によって、地獄と天国がふさがる様になったのです。

 この歴史的な恨みの塀を、誰が克服してしまうべきでしょうか。真の御父母様が克服してしまうべきです。その事は、国の王権をもち、宝座でするのではありません。人類が地上の地獄に暮らしていて、霊人達が霊界の地獄で苦痛を受けているから、地上地獄の門と天上地獄の門を全て開いて、地上の個人から国家と世界を連結させ、その次に、地上から天上世界迄通じ得る様に道をつなげなければなりません。ハイウェイをつなげなければなりません。主流と通じる事が出来る、たった一つの道としてつなげなければなりません。それで、皆さんの心と体が一つになり、一つになった基準で家庭を経て、氏族を経て、民族と国家、世界を越えて、天上世界に行ってもふさぐ塀があってはいけません。皆克服してしまうべきです。

 最後の問題は、ふさがっている霊的な地獄の門と天国の門を開く事です。地上地獄の門を開き、天上地獄の門を開かずしては、天国に入る事は出来ません。地獄に勝った人だけが天国に行く事が出来ます。何によって勝つべきでしょうか。祈祷で勝つ事が出来るのではありません。神様の愛を持って勝つべきです。そうせずしては、天国に入れない為に、レバレンド・ムーンは神様の愛を中心として地上を経て、天上世界の地獄の門迄開いて、地上から天上迄行ける道を築いておきました。国際平和高速道路という言葉も、それで出てきました。ふさがった塀を壊してしまうのです。

 イエス様が、天国の王子、ひとり子の権威を持つ事ができたのは、サタン世界だけを愛したのではなく、霊界迄愛した為です。

 霊的世界も塀でふさがっています。これを全部、より高い神様の心情を通じて払いのけておかなければなりません。天上世界の高い宝座から、存在する塀を壊してしまい、逆さまに下りてこなければなりません。何万年の我々の先祖の塀から、その次に何千年の我々先祖の塀、何百年のこの時代の塀、今何年前に行った全ての人達の塀迄、全部壊し、地上の全ての塀を壊して、これを地獄迄繋げる事が出来る道を築かなければ、開天門がなされないのです。(一四〇―四三)

2 開天門の始原

 今回、先生が有り難く思うのは、お母様です。お母様は先生がダンベリーにいる間、たびたび深い次元の心情的谷を経験しただろうと思います。分別のなかったころに出会って、その時から平行線で上がってくる人生でした。その様に生きた為に、基準がだんだん上がってきているのです。その前には、心情の深い谷は体験出来なかったでしょう。ダンベリーによって別れてみたから、先生の貴い価値を知る様になったのです。女性が、夫に対して、その孤独な事情がどうであるかという事を知る事ができたのです。

 それで、二月一日を期して、天上世界と地獄の門を開く式をする様になったのです。今は、駄目なのです。極と極の立場に立てておいてこれをつなげ得る立場でだけ、初めて一つの解決点が生じるのです。霊界と肉界をつなぐのです。一九八五年二月一日午前三時(アメリカ時間)ダンベリーとイースト・ガーデンで、その様な基準を立てたのです。

 神様の心を持って、愛の力がつながり得る事を、皆さんがしなければいけません。ずうずうしい責任者になって、神様が救ってあげるべき立場で行こうとするのか、この垂直線から行こうとするのか。

 天性に向かって行く道は、男と女が一つになって行くべきですが、どこで一つに成るのでしょうか。軸で一つに成るべきなのです。軸で一つになって、軸に従っていかなければなりません。上がっていく時は、軸に向かって上がっていくべきであり、下がっていく時も、軸に向かって下がっていくべきなのです。その様な道を、家庭を中心として、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏迄蕩減復帰の原則により、誰でもが行かなければならないのです。誰でも、その様な道を経なければなりません。何故なら、堕落圏にいる為です。(一三六―四七)

 先生は一生の間、怨讐を愛する事をしました。個人段階からその事をし、家庭段階でその事をし、氏族、民族、国家、世界段階、その次に天宙段階迄その事をしました。ダンベリーに何故入ったのでしょうか。霊界と肉界が塀でふさがっています。堕落した父母によって持つれてしまったものを解く為には、霊界と地獄に道を築いておかなければならなかったのです。

 一九八五年二月一日午前三時を期して、お母さんと特別祈祷をする事によって、その様な条件を立てました。その時から、地獄の全ての塀が崩れて、誰でも努力すれば、天上世界に上がる事が出来る道が生じました。また、霊界において自分の親戚たちの中で善の霊がいれば、地獄に来て教育をして、率いていく事も出来る様になりました。霊界の救世主の役割が始まったのです。救世主の役割が霊界にはなく、この地にだけあったのに、この様な道を築いてあげる事によって、あの世の善の霊たちが地獄にいる悪の霊たちを教育して、善の先祖が救世主の役割をしながら、発展して上がる事が出来る道が開かれる様になりました。(一三六―一八七)

3 真の父母と天国の門

 統一教会の使命とは何でしょうか。統一教会は、過去の宗教とは異なり、個人的な救いだけを願う宗教ではありません。堕落しなかった本然の理想世界を願う宗教です。本然の理想世界は、完成した人間が、神様の愛の中で夫婦の因縁を結んで、息子、娘を生んで天国に行く所を言います。

 お父さんが地獄へ行き、お母さんが天国に行っては、それが何の天国ですか。父母は天国に行って、子供が地獄に行けば、それが何の天国かと言うのです。天国は、父母と子女、氏族、民族、国家が皆入る天の国です。

 人類が偽りの父母として出発したので、天国の門を開いて入るには、「真の父母」が出てこなければなりません。神様も、自ら天国の門を開く事が出来ません。神様が自ら天国の門を開く事が出来るなら、その様な能力がある方が、何故しないでしょうか。堕落は、人間がした為に、罪を犯した人間が罰を受けなければなりません。人間が天国を失ってしまったから、人間が探さなければならないのです。それで六千年もかかったのです。

 では、天国を開門する為には、どの様にすべきでしょうか。僕の僕の立場にいる人を、養子として直系の息子と因縁を結ぶ様にして、その直系の息子に絶対服従させなければなりません。ここにおける直系の息子とは誰かと言うと、堕落する前のアダムです。また、養子は誰かと言うと、堕落する前の天使長です。本来、養子は僕の立場なので、愛する事が出来ません。(四二―二八六)

 堕落しなかったなら、霊界に行った人達が、神様の愛と「真の父母」の愛の核につながって天国に入るでしょうが、歴史始まって以来、その様な因縁をもてなかった為に、天国行きが全部保留になりました。どこで保留になったかと言うと、地獄で保留になり、その次には楽園で保留になっています。それ故、天国は空いているのです。

 天国には誰が先に入るべきかと言うと、「真の父母」が先に入らなければなりません。「天国は空いている」と言えば、レバレンド・ムーンを見て「ばかげた話をする」と言うでしょうが、イエス様も天国に入れませんでした。天国は一人では入れません。人間の先祖が、思春期を過ごし、神様を中心とした愛の理想をなして生き、真成る愛の種を残して父母になり、先に入るべき所が天国です。しかしまだ、神様の愛を中心として、父母としてこの地上に愛の種を残した父母がなく、その様な後孫を残した基盤が生じなかった為に、天国は空いているのです。

 天国に行くには、地獄を経なければなりません。天国に行くには、地獄に勝たなければなりません。地獄に勝った人が、天国に行くのです。地獄を越えて、天国に入る道端にとどまっている所が楽園です。

 人類を一人の男と一人の女として見なさいと言うのです。四十億の人類がいるなら、「四十億の人類の半分である二十億の人類は男であり、二十億の人類は女である。二十億個の細胞をもった男が生まれ、二十億個の細胞をもった女が生まれた。私は、これを愛する」と、この様に考えなさいと言うのです。四十億の人類を植えて、アダムの再創造とエバの再創造の役事をするのです。

 その言葉はどういう意味かと言うと、二十億の人類の中から、初愛をする事が出来る一人の男性を選び、二十億の人類の中から、初愛を持って結ばれ得る一人の女性を選び出す為のものなので、この様な代表者を二十億の人類の愛の実として見るのです。それで、「二十億の人類の愛の実に成る実体を、自分を生んでくれたお母さん、お父さんよりも、もっと愛し、四十億の人類を自分のお母さん、お父さんより、もっと愛する」という様になれば、神様の愛の圏を中心として、一つになった立場で、人類を愛する事が出来るので、自分はサタン世界とは関係ない立場に立つのです。

 その代表的な方が真の父という方であり、真の母という方です。「真の父母」を愛する以上の心を持って人類を愛せば、万事がOKです。天上地獄の門も開いて、地上地獄の門も開くのです。その様な人に成る所は、どこでもハイウェイです。その代わりに、ガソリン代は皆さんが出さなければなりません。

 本然の世界では、天国に行く道は、真の御父母様が導くのではなく、天使たちが導くのです。

 真の御父母様が皆さんを導くのは、原理ではないという事を知らなければなりません。真の御父母様が道を築いておいたから、真の御父母様を愛すれば、この道をついていく様になっています。今、その道についていきながら、真の御父母様を愛する立場に立って、人類を真の御父母様以上愛する様になれば、皆さんが行く道は、万事が都合よく運びます。ふさがる道がなく、小道がないのです。ですから、皆さんは地上から天国迄直行する事が出来るのです。(拍手)

 世の中を眺めれば、二人、男と女がいます。父母様の愛する心を持って、皆さんはサタン圏を超越した心情圏に入るのです。父母様の前に引っ掛かる条件があれば、皆さんはまた行かなければなりません。それで、先生が一生を経て、父母の立場で子女たちが行くべき道を、責任を持って皆築いたのです。

 皆さんが父母様を愛する心で、人類を愛する立場にあるなら、皆さんは、「真の父母」と一つになって水平線に立つ様になります。そうなれば、堕落した心情圏は下に成るので、サタンが皆さんに触れる事は出来ません。皆さんは、天国に直通する事が出来るのです。その様な事を始める為のものが、開天門の日の宣布です。(一四〇―四五)

4 開天門に先立つ我々の姿勢

 「真の父母」が地上にハイウェイをつくっておき、天上において勝利の覇権をもたらして伝授してあげたから、伝授してあげたその立場で、体と心に神様の愛の根を張り「真の父母」と一つに成る事によって、サタンは皆さんを離していく事が出来ないのです。

 そうなれば、皆さんはどの様に成るのでしょうか。「真の父母」と世界の為に代表として、カインの息子、娘を救ってあげる蕩減復帰の役事をしたから、皆さんも「真の父母」を愛する以上の心情を持って、世界を愛したという様になれば、皆さんが地上世界や天上世界に行く道を、邪となったものが妨げる事は出来ないのです。皆さんが地上から出発して、世界を越えて、天上世界、天国に迄直行する事が出来るのです。しかし、その様に出来ない時は、皆さんの行く道が、幾重にも重なった大きな山と険しい峰になります。これを先生が知った為に、今迄命を捧げて準備して、今日皆さんに開天門の日の記念に参席する事が出来る特権を与えたから、どうか、その様な心情圏をなして、皆さんが無事通過する事が出来る勝利者に成る事を願います。(一四〇―六二)

三 責任分担を通じた天国行き

 皆さんは、今どこにいますか。自分の位置を知るべきです。皆さん自身が、どこにいるか知るべきです。サタンと神様が、人間の責任分担の遂行可否について、「これは、貴方のものであり、これは私のものである」と分けています。人間は責任分担を果たせなければ、神様のものになれません。サタンが、「これは私のものだ」と主張します。

 皆さんが、神様の愛、夫婦の理想的な愛、子女の理想的な愛を慕いながら責任分担を果たす様になっているのであって、「お金が必要で、何が必要だ、知識教育しなければならない」と、この様な言葉を言いながら責任分担を果たす様になっていないのです。

 天国に入ろうとすれば、門番が責任分担を尋ねるのです。「貴方の責任分担を果たしましたか」と。堕落した世界には、絶対天国に行く人はいないのです。それ故神様は、アダム、イエス様の時代を経て、再臨時代を迎え、三次アダムを立てて、責任分担基準を撃破する為の運動をしてくるのです。

 今、全ての宗教人達が、宗教を信じるのは、全部天国に行く為の責任分担を果たそうという事です。責任分担についてサタンは、全ての宗教人達を一遍に燃やして祭物として捧げても、責任分担というものを人類の前に出してやる事が出来ないと考えるのですが、神様は、この宗教人達を犠牲にする恨があっても、責任分担を探してこなければならないと思うのです。(一四九―三二三)

四 天国と地獄は自身が選択する

 信仰生活をしながら、我々は不平を言ってはいけません。不平を言える内容がありません。喜ばなければなりません。涙を流しながらも、喜んで行かなければなりません。涙を流しながら、笑って行くべきなのです。この様に教えてあげましたが、それをどうしますか。しなければ、出来ません。神様も出来ません。先生も出来ないのです。

 それ故、天国に行き、地獄に行くのは、自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのではなく、神様が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言う所を感謝していけば、天国なのです。(九六―一二二)

 天国へは、誰かが教えてあげて行く様になっていません。良心的に生きる人は、自動的に行く様になっている所が天国です。太陽の光が差せば、全ての木の芽は太陽に向かいます。草木迄も、自ら方向性を持って回るのに、まして万物の霊長である人間が、自分の行くべき道を知らないはずがないのです。この様な現象が起こるのです。(七五―四二)
第五節 天国と地獄に関係した指示のみ言

一 天国、地獄観設定

 自分の家庭を中心に、氏族圏を復帰する事は、メシヤの使命です。この様な氏族的メシヤの使命を果たす事によって、天国、地獄観を設定し、「そこに行けば天国であり、ここに行けば地獄である」という事をはっきりと分別して、地獄側に行かず、他の人も行かない様にしなければなりません。氏族がその様になった場合には、その周辺の多くの氏族、町も皆追いかけてこざるを得ないのです。

二 永生と地上生活の重要性

 地上の生活と霊界の生活とは、別々ではありません。地上の生活も重要であり、霊界の生活も重要です。霊界の生活は、地上生活からつながるという、その事です。二つとも重要ですが、今日この地に生きる人達は、永生の概念が分かりません。この地の生活が重要だと思っているのです。これが問題なのです。我々統一教会員にも、現在の生活が永生を保障する基盤であるという事を知らない人が沢山います。

 それ故、「永生は今からだ」という天国観を設定した基盤上に、永遠の生命の為に、自分が生きるという、その重要性を何時でも感じなさいと言うのです。これを知らなければ、他の事をするのです。今自分がする全ての事で、永生の価値が決定するという事です。

 地上世界と霊界は、互いに見つめ合って動きます。地上世界が上がれば霊界も上がり、地上世界が下がれば霊界も下がります。一方が回れば、他方も同様に回ります。それで、現世においてそれを実感して、永生にプラスさせる生活をしなければなりません。永生と現世は分かれないのです。天国と地獄を明らかにしなければ、それが分かりません。永生と地上生活の重要性を感じながら、働きなさいと言うのです。それは、誰も面倒を見てくれる人がいません。誰よりも自分自身が、神様をよく知っているのです。その様になれば、皆さんが進んでいく時は天運が抱擁し、その村を離れれば、その村の人達が、「あの人はどこに行ったか。何日間見ないけれど、どの様になったのか。朝晩に聞いたその声が懐かしい!」と言いながら探す様に成るのです。その様にならざるを得ません。天運が共にある為に、良心をもった人は、自動的にその方向に、鉄粉が磁石にくっ付く様に、全ての生命が光を向けるのと同じで、合わさるのです。

 先生がいなければいけません。日本人も、韓国人も、アメリカ人も同じです。何故そうなのでしょうか。永生の観念は、一致化させようとする主体があるべきだからです。それを、全ての地上的な標準、永遠の標準にする事が出来ます。それは、最も重要な事なのです。(二一七―八四)

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第五章 メシヤと霊界
第一節 イエス様と霊界

 イエス様は、洗礼ヨハネの使命を果たす路程で、十字架を背負って亡くなられました。それで、息子の使命を果たす事が出来ませんでした。イエス様は亡くなられたのち、今迄どんな事をされたかと言うと、天使長を探されたのです。天使長を探した次には、息子の道を行かなければならないのです。それ故人間は、僕として行くべき道と、養子が行くべき道を探すのです。イエス様は、直系の息子の使命を果たせなかったのです。天使長の道、僕の道、養子の道を行ったのです。

 それ故、イエス様を信じても、せいぜい養子にしかなれないのです。この養子は、血筋が違う立場にあるカインと同じ存在です。今迄摂理歴史は、その血筋を繋げる為の戦いをしてきているのです。

 イエス様は、十字架で息子として死んだのではありません。イエス様が霊と肉が一つになった息子の立場で、神様に勝利をお返しする立場で祭物になっていたなら、再臨する必要はありません。完全に捧げられませんでした。半分しか捧げられませんでした。体は失ってしまい、霊だけ捧げられました。これでは、霊界の天使世界と似たり寄ったりです。

 それ故、キリスト教を信じていく人達は、天国に入れず、楽園級以下の霊界に行って待つのです。楽園級以下の霊界は、天使長が支配する霊界、すなわち天使長圏に該当するのです。それ故霊界で勝利圏を保障される為には、地上に勝利圏をつくっておかなければなりません。それを継承させるのが、神様のみ旨であり、イエス様が生まれて死んだみ旨である為に、キリスト教は霊界の勝利圏と地上の勝利圏を一遍に探して立てて、天使長圏を継承しなければならないのです。これがキリスト教の使命です。キリスト教では、実体的完成があり得ません。霊的完成だけがあるのです。それ故キリスト教は、霊界を主にして来たのです。

 再び来られる主は、霊界の天使長圏を屈服させ得る権限をもたなければなりません。それがなくては、地上での出発を見る事が出来ないのです。再び来られる主は、洗礼ヨハネから継承されたのと同様に、霊界で勝利したイエス様以下の霊的世界全体を継承される立場で来なければなりません。言い換えれば、イエス様が洗礼ヨハネから継承されたものと同様に……。洗礼ヨハネが、イエス様に霊的な継承はしましたが、その約束どおりには実践出来なくて、分かれました。それで、これを再度なす為に、キリスト教を立ててきたのです。(四七―一五七)

 イエス様は、この地で十字架に亡くなった事だけでも無念なのに、死んで三日間地獄に行っていました。それが試験です。人間には、死が最高の恐怖なのに、イエス様には、地獄に行く事が最高の恐怖だと言うのです。ではイエス様は、その地獄で恐怖の主人になったか、でなければ幸福の主人になったでしょうか。イエス様は地獄に行って、三日間、苦痛を克服する為の試練がありました。(三四―一四四)

 神様は公平であられるので、メシヤは平等な思想を持って訪ねてこられるのです。メシヤは、堕落した人間を全部救う為の救い主として来る為に、どんな人間にも公平に対してくれます。公平な目的と、公平な時代的環境を持って来ます。それ故メシヤと一つに成る人は、メシヤの弟子に成る事が出来ます。

 メシヤは、人間世界の一番底の地獄から、一番栄光の立場迄行くという言葉が成立します。人類の救いの為に生命を差し出して、行かない所がないという結論が出てきます。

 この様な原理で見ると、メシヤが雲に乗って空中に来るというのは、全く荒唐無稽な事です。真っ赤なうそです。その様に言う人は、霊界に対して何も分からない人です。先生の教える事が事実であるか否か、霊界に行って皆さいと言うのです。死んでみれば分かります。メシヤは、その様な公式によって動きます。

 何故、霊人達が人間の世の中と接しようとするのでしょうか。これが今迄分かりませんでした。それが、何故そうですか。地で解決しなければ完成の道を解決出来ない為に、そうなのです。優れた人も、劣った人も、この法度に皆引っ掛かっているのです。

 この様に、メシヤと共に霊界を全部開いていくのです。これをなすには、地で相対的関係がなされなければならないのです。ですから、メシヤの個人時代があり、家庭時代があり、氏族時代があり、世界時代があります。これが、霊界迄つながるのです。地で個人の勝利基盤、家庭の勝利基盤、氏族の勝利基盤、民族の勝利基盤、国家の勝利基盤、世界の勝利基盤迄築かなければなりません。この為に、全ての霊界を地上に動員するのです。中心を探していく為には、メシヤが世の中に来て、苦労しながら行かなければなりません。苦労しながら個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を順番に復帰しなければなりません。それで今、人々が一つの目的点を、一つの世界を探して入る様になります。(九一―二七八)
第二節 再臨主と霊界

 再臨主は、第三イスラエルだけではなく、第一、第二イスラエルの先祖として来なければなりません。統一教会員は、イエス様当時の第一イスラエルが疑ったのと同じ立場を越えて、父の心情を通じて、父の腹の中にある子女の様な立場に立つべきです。

 再臨主は、霊界を収拾しなければなりません。霊界を収拾する事によって、第一イスラエルを立てた基台の上から出発しなければなりません。霊界にいる人達は、「真の父母」と因縁を持つ事が出来ないので、この過程を経なければなりません。霊界には十二支派型がありますが、第二イスラエルに成るべきキリスト教は、支派を編成する中心を失いました。ゆえに、統一の理念を立てて、支派編成をしなければなりません。(一〇―二一八)

 神様は無形なので、霊界に行っても見えません。それ故神様は、体をもった父にならなければならないのです。体をもった父に成る事によって、無形と有形が一つに成るのです。それは、宇宙が一つに成る事を象徴します。

 神様は、体をまとう為に、アダム・エバを造りました。体をまとえる様にする事は、愛だけが可能なのです。愛があってこそ、神様の形状に似た体を備える様になります。神様が、アダムとエバが神様の体を備えれば、彼らの心の中に神様がいらっしゃって、地上世界と無形世界を統治すると言うのです。神様の王宮を造るのです。神様の王宮は、愛の王宮だと言うのです。愛を中心としてのみ、霊と肉が合わさる様に成るのであって、他のものを持ってしては合わさる事が出来ません。(一四三―九三)
第三節 「真の父母」と霊界

一 肉身の父母と「真の父母」の違い

 肉身の父母と「真の父母」は、愛に対する概念が違います。肉身の父母は、肉身を中心とした愛を教えてくれて、「真の父母」は、霊的な世界を中心とした真の愛を教えてくれます。

 肉身の父母だけでいいのに、「真の父母」が何故必要ですか。堕落した為です。今迄堕落した父母は大きなものを皆取ってしまって、自分を中心として絶えず下っていく事を教えてくれました。それで、父母の愛を中心として、このサタン世界に永遠に存在させる為の一つの決定的な線が引かれました。これを断つ道はありません。

 では、「真の父母」とは何でしょうか。この様な基盤から、上がれば上がるほど、だんだん大きい事を教えてくれるのです。天国、永遠の国に行って拍子が合う様に、呼吸に支障がない様に教えるのです。肉身の父母から教育を受ける人が霊界に行けば、全て壁の様なコーナーに行って、とどまっていなければなりません。振り返って見れば、全部自分を否定して、犠牲に成るという人達だけなので、窒息するほどなのです。

 誰がこれをつくったのでしょうか。サタンがつくりました。それで、「真の父母」が来て解放してくれるのを願っています。それを解放するには、そのまま解いてはいけません。反対に解かなければなりません。(一二九―九九)

 神様に帰るには、三次元の世界である霊界の訓練迄も受けなければなりません。霊界を愛し、霊界と一つに成る訓練場所が、神様を愛して、「真の父母」を愛する場所です。この地上で「真の父母」として霊界と実体世界に神様を繋げる使命を果たす為に、メシヤが来る様になります。メシヤの使命は、それしかないのです。

 メシヤは本当に我々を愛し、その誰よりも我々の為にしているのです。

 メシヤ、すなわち「真の父母」がこの地に来る前迄は、霊界が全部分かれていました。世の中が一つになっていないのと同じです。この様に多い塀を、「真の父母」が実体を持って全部崩していくのです。そうしてこそ通じるのです。それで「真の父母」は、肉身世界だけでなく、神様に代わって霊界を代表するのです。

 初めて「真の父母」に侍り絶対愛する事によって、霊界と通じる道を築く事が出来るのです。メシヤの前に絶対服従する事によって、霊界のある霊人にも絶対服従したという条件を立て、神様の命令の前に絶対服従したという条件を立てる様に成ると言うのです。神様の代身である「真の父母」に絶対服従すべきだと言うのです。それは何故、そうすべきなのでしょうか。天国の民と一つになり得る伝統を立てる為です。

 「真の父母」に何故侍らなければならないのでしょうか。「真の父母」が、霊界と神様を代表する為です。その次に、第一父母、第二父母、第三父母が心情的絆を結び、愛の中に結んでおく心情的勝利圏に同参出来る資格を得る為です。(一〇五―一一二)

二 「真の父母」が軸である

 真成る父母がどこにいて、真成る兄弟がどこにいて、真成る家庭がどこにあり、真成る社会がどこにあり、真成る国家がどこにあり、真成る世界がどこにあるのでしょうか。ここになければ、不幸の中から出て、不幸の中に行く人生ですが、これが本然の人生の道ではありません。それ故、真を探し、身もだえしてもがくのが我々の人生です。これは、今迄宗教や哲学を動員して、いくら解決しようとしても解決出来ないのです。これを人間の力で解決する事は出来ません。(一五五―二八二)

 我々は、「真の父母」と世界を一つにしなければならないと言うのです。何を中心としてでしょうか。「真の父母」です。神様の心情で、霊界の軸と地上の軸が「真の父母」と一つにならなければなりません。霊界でも地上でも「真の父母」というのは、中心から抜く事は出来ません。

 悪成る父母が生じる事によって、横的な面で戦いが起こり、二つに分かれました。また、縦的な善の神と、悪の神の世界に分かれました。偽りの父母が生じ、この様になったので、ここに「真の父母」が来る事によって、これらが授け受けするのです。偽りの父母によって堕落が生じたので、これに対峙する為には「真の父母」が出てこなければなりません。真が出てこなければならないのです。(一四九―二七九)

三 「真の父母」中心

 民主世界は右翼を代表し、共産世界は左翼を代表します。これらが今崩れています。アメリカも同じです。両世界には中心がありません。今必要なのは、頭翼思想と神主義です。どんな人道主義も、神様の前に立ち上がる事は出来ません。神様だけが絶対的であり、永遠のセンターです。頭翼思想だけが、全人類の中心になり得ます。

 「真の父母」は、真の霊界と肉界の中心になります。頭翼思想と神主義は真の愛を中心として見る時、全て同様の概念です。(二〇五―二六三)

 「真の父母」を必要とする限界線とはどこでしょうか。これには限界線がありません。世の中もそうであり、霊界もそうであり、どこでも永遠なのです。ですが、アメリカの大統領の限界線とはどこでしょうか。四年から八年後になれば、転がり落ちます。しかし、「真の父母」は転がり落ちません。限界線が違います。アメリカの大統領は、四年から八年にさえなれば、風呂敷を包まなければなりませんが、「真の父母」はその様になっていません。

 この地上世界だけが真の御父母様を必要とするのではなく、霊界も同じです。どうしてでしょうか。そこには、地上で愛を持って暮らした人が行って宮殿を作らなければならないのに、人がいないのです。愛の宮殿は神様持つくれずに、霊界の人持つくれないのです。真の御父母様が作らなければなりません。

 霊界において、愛の宮殿は「真の父母」から始まるのです。霊界に宮殿があっても、「真の父母」が行って「ここを宮殿にします」と言って宣布すれば、それを中心として全霊界が落ち着くのです。その様な責任が残っている為に、霊界でも「真の父母」を絶対に必要としています。(二〇五―一五五)

四 「真の父母」と結ばれた因縁の強度

 「真の父母」は、人類が探すべき真成る父母です。その「真の父母」がいる事によって、真成る善が成立するのです。「真の父母」とは、どんな方でしょうか。父と共に行く事が出来る一つの足場に成る方です。「真の父母」は、人間と神様との間隔とくぼみを埋める為の一つの祭壇であり、死亡世界を越え得る橋だと言う事が出来るでしょう。

 その立場は、神様と自分が共にいる事が出来る立場であり、神様と父子の因縁を結ぶ事ができ、神様と一体をなし得る一つの焦点です。すなわち、堕落によって分かれた神様と、再び一つに成る事ができ、分かれた二つの境界線が一致し得る一つの起点になります。蕩減の祭物の立場に立たれた方とは誰でしょうか。「真の父母」なのです。

 我々が切迫して神様を呼ぶ時、神様が千年の事情を皆忘れて、自分と因縁を結ぶ事が出来る立場があるなら、その立場は世の中のいか成るものとも換えられない立場です。

 救いが必要な我々自身において、父と共にいる事が出来るたった一つの因縁、神様と共にいる事ができず、神様と因縁を結ぶ事が出来ない人類が、自由な環境で神様と因縁を結ぶ事が出来るよう神様が送って下さった方が、「真の父母」です。

 では、「真の父母」を自身に無条件の因縁を結んで下さった神様に、何を持って感謝しますか。皆さんは、どれほど感謝を捧げましたか。そして、皆さんが救われる様にしてくれた、その恵みに対して、歓喜で和合しながら勝利を誓わなければならない自身であるという事を、どれほど考えてみましたか。無限の希望を持って、無窮の価値を持って、再出発するという考えを、どれほどしてみましたか。これが問題です。

 息子、娘を探してこられた歴史的な願いが、「真の父母」を通じてなされるという事を御存じの神様が、その「真の父母」をどれほど憧れてこられたか! それなのに、「真の父母」を憧れる基準と、死亡世界で救いを憧れる我々の基準を比較してみるなら、我々は「真の父母」を神様よりもっと貴重に思って、神様よりもっと貴く思って、神様よりもっと価値ある様に感じるべきなのに、今迄そう出来ませんでした。

 人間が「真の父母」と共にいる事ができ、「真の父母」と因縁を結ぶ事ができ、「真の父母」と再会する事が出来る立場を、神様がどれほど期待なさるでしょうか。その様な立場に自分が行き、「その様な勝利の基盤を自分が築こう」と言えなければなりません。どんな困難があっても克服し、その成果を自分の生涯の価値を左右する転換点として、また、その因縁を自分の生涯の原動力にしようと、どれほど誓うかが重要です。この様に見る時、我々がどれほど偽りであり、流れていく風の便りの様に落ちつ着かず、彷徨するのかを悟らなければなりません。

 神様と共にいる事が出来る自分になっているのでしょうか。そうではありません。救い主が必要なのです。救い主は、どの様な方でしょうか。「真の父母」の因縁を備えた方です。この様に見る時、この「真の父母」の因縁とは、どれほど驚くべき因縁ですか。「真の父母」によって、自分の真成る一生が始まるのであり、新しい生命が因縁づけられるのです。この生命の因縁によって、新しい家庭が出発するのです。新しい社会と国家と世界が出発するのです。そして、二千年の全ての生死の道を解決する勝利の与件が備えられるという事実を、悟らなければなりません。

 そこには自分がないのです。神様は、堕落した世界を救う為に受難の道を歩まなければならない方ではありません。堕落した世界に対すべき神様ではありません。神様は真の愛の因縁を持って出てこられる方です。新しい希望と、新しい復帰の基盤を備えて来られる方です。その様な立場で、神様と自分の因縁が結ばれるのです。四方が一致し得る因縁が、一つの起点からつながって、死亡の世界を爆破して、新しい光明の天地の基盤を持つ様に成るのです。この様に、父母と子供の間の因縁が実現する事によって、世界は新しい出発をする事が出来るのです。

 「真の父母」と皆さんの因縁は、どんな剣や、権力を持っても断つ事ができず、サタンの力でも断つ事が出来ません。何故でしょうか。この因縁は、今日の全ての問題を突破して、人間たちを救う事が出来る勝利の特権を持っている因縁であり、人間たちが歴史的に願ってきた力が結集している本拠地である為です。ある一時代的な力を結集させては、歴史的な力が結集したこの関係を断つ事が出来ないのです。この様に、全ての悪を除去して、新しい因縁を備えて、勝利の為の出発点に神様が歴史的な祭物として立てた方が、「真の父母」です。

 神様が深刻な立場にいらっしゃるならば、自分も深刻な事情にいるべきです。父の事情が、自分の事情として感じられなければならないのです。子供の道理を果たし、神様を慰めてさしあげる人がこの地に出てこなくては、歴史的な問題を解決する道はありません。

 我々は、限りなく難しい立場に立っても、神様の同情を願うのではなく、神様に同情してさしあげるべきです。その様な因縁に従ってきた歴史の結晶体が、イエス様でした。ですが、イエス様がみ旨を成せなかった為に、再び来られる主が、そのみ旨を成さなければなりません。再び来られる主も、その道を行かなければなりません。「真の父母」は、歴史的な希望の集約体です。神様が、全体に代わる歴史的な実体として立てた方が、「真の父母」なのです。

 「真の父母」との因縁には、霊界からではなく、地上からつながらなければなりません。「真の父母」は、実体を備えて地上に来られる為、自分が呼べば答えてもらう事ができ、自分が難しい立場にあれば、同情してもらう事が出来るのです。この様に平面的な途上で「真の父母」に会う事が出来るという事は、人間たちにとってどれほど幸福な事か分かりません。

 神様は、今迄どんな困難があっても、それを克服して、決定的な勝利を収めようとされました。ここで、自分が勝利の王者に成るか、なれないかという事が問題です。その心情に一体となって、「離そうとしても離す事が出来ない自身になった」と言えなければなりません。言い換えれば、神様と共にいるという信念、「真の父母」と共にいるという信念が、生涯路程の軸にならなければなりません。それで、我々が行く方向で動揺がなく、千年、万年持ちこたえ得る自我になってこそ、地上天国と天上天国がつながるのです。すなわち、天上の主人として臨むのであり、地上の主人として臨むのです。ここで初めて、天上天国と地上天国が開かれるのです。

 この様な因縁は、楽な立場で結ばれるのではありません。難しい立場、それ以上ない深刻な立場、死ぬか生きるかというさなかにおいて、より一層冒険する立場で結ばれるのです。

 それ故、聖書を見れば「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。これは、イエス様の時代錯誤的な言葉のようですが、この様に行くのが復帰の道を行くにおいて、心情の世界に似ていくにおいて、正常な姿勢であり、正常な態度だと言えます。この様な境地を追求していく自分である事が明らかであるなら、自分の行く道は真成る路程に成るのです。(三一―七四)

 皆さん、今四十を越えて五十になった人が多いけれど、「それ迄何をしたでしょうか」と聞くならば、何と答えますか。十年、二十年以内に死ぬかもしれません。死を前にした時、み旨を知り歩んできた過程を振り返り、私が、悪魔の後孫として残った世界人類を復帰する責任を果たせない事によって、神様がまだ落ち着けず、僕の様に恨めしい仮面を脱げなかったと考える時、霊界に行ってどの様に顔を上げるでしょうか。どの様にそこへ行って、自分の姿勢を備えて回る事ができ、どの様に暮らしていくべきでしょうか。ただとどまっていなければならないのであり、そうでなければ、白日のもとに一〇〇パーセントがあらわに成るのです。

 霊界に行かないという事はありません。皆行くべきです。何を持って行くでしょうか。

 貧しい家の娘が、自分のみすぼらしい姿だけ見ても一族の前に頭を上げる事が出来ないのに、婚礼家具も備えられず、その兄弟の一族だけでも、百名近く世話すべき人が元気でいる中、四代の組が集まって暮らすお金持ちの息子の家に、入って暮らす事が出来ますか。手ぶらで行って、その嘲弄をどうやって避けますか。「うちの伝統によれば、誰々はこうであり、おばさんは全部こうであり、うちの姉さんもこの様にこうこうして、皆そうなのに……」と言う様に成る時、そこで落第生の様な身の上になって、顔を上げて座って御飯を食べる事が出来ますか。さじを持つ事が出来ますか。考えてみてください。

 軸に入り込めない事は、我慢出来ない事なのです。皆さんは、何を持っていきますか。統一教会を四十年信じたならば何を持ってきました!

 霊界は、ここよりひどい所でしょうか、いい所でしょうか。皆さんが死んだ時、行く所がここよりひどい所でしょうか、いい所でしょうか。千万倍いい所です。自分が、全てのものを正確に測定出来る世界です。

 霊界は、自分がどんな立場にいるかという、その悲痛さを実感出来る所です。一段階上がろうとすれば、何千年、何万年もかかるのです。

 皆さんは、祝福という貴いものを受けた為に、門は開いていますが、入っていく事の出来る礼服を着ていないのです。祝宴を行う家には、礼服を着て行くべきです。新郎の付き添いに行くのに、労働服を着て行っていいでしょうか。考えてみてください。そこに合う装いをしてその場に行ってこそ、その環境の歓迎を受けるでしょう? そう出来なければ追放されるのです。「こ何時、どけ!」と言うのです。

 昔、木浦に金持ちがいましたが、木浦の北部地方の土地が、全部その人のものだというほどの金持ちでした。所で、先生の友達がその人の一人娘と結婚して、その家の婿になりました。その時は、日本の統治下だった為に、結婚式をしても今の様にモーニングコートを着て、礼服を着て新式の西洋式の結婚は出来ませんでした。国防服を着て、胸に花を一つ差して結婚する時です。

 所で、その人は、金持ちである上に友達も多いので、新式の結婚式をさせました。その時、先生を含めて四人が新郎の付き添いに行きました。付き添いの服を新婦の家で準備したのですが、それらを全て自分の婿と同じ背丈に合わせました。先生と新郎は背が同じですが、新郎は先生の様には体が太っていませんでした。ぺちゃんこで板のようです。この前後が薄いのです。私は、この前後がもっと厚いのです。力士型でしょう?

 ですから、会わせたワイシャツが、ボタンをかけても、へそが皆見えるのです。裂けている服を着て背筋にひどく力を入れると、あとにしびれが出てくるのです。その場で声を出す事が出来ますか。壁のある所に行ってうつ伏せになり、しびれを解いた事を思い出します。

 全羅南道の何かをするという名前のある人は、皆が集まったその大衆の前で、何千名が集まったその場面で、付き添いがそうしているから、「ねずみの穴でもあれば入るのがたやすいのであって、そこに座ってこらえられなかった」と言うのです。

 軸に入れない事が、その様に我慢出来ない事なのです。先生が霊界をよく知って、聖者たちだとか何とかいう、ましだという教祖たちを、皆知っているのに、お前たちに負ける事が出来ないと言うのです。その軸から抜けてはいけないのです。(二一二―二二四)
第四節 先生と霊界

一 先生の霊的条件成立とその基盤

 完全なマイナスは、完全なプラスを自動的に生じさせ、完全なプラスは、完全なマイナスを自動的に創造するのが原則です。それがこの宇宙の創造原則であり、存在の法則です。それで、この地上で原則的で完全な運動をすれば、霊界がつながるのです。歴史始まって以来、この様な事が初めて起こりました。ですから、霊界で問題と成る事は、この地でも問題になり、それをこの地で解決すれば、霊界でも解決します。

 そうするたびに蕩減が必要です。先生は蕩減の道を、一人で責任を持って、歴史と宇宙、そして霊界と肉界の問題を解決してきたのです。ある時に、蕩減すべき事を知り、それが崩れる場合には、霊界がどの様になって、地上がどの様に成るという事を、はっきり知っているのです。

 聖書では、「貴方がたが地上で解く事は、天でも皆解かれるであろう」(マタイ一八・一八)とあります。地で解く為には、蕩減が必要です。しかし、皆さんは蕩減の道を知りません。個人的環境での主体・対象蕩減時代、家庭的環境での主体・対象蕩減時代、氏族的環境での主体・対象蕩減時代を経て、民族的主体・対象蕩減時代、国家的主体・対象蕩減時代を経て、世界的主体・対象蕩減時代に行くべきです。これを皆さんは知りませんが、先生は知っている為、先生が言った事がそのまま霊界に反応して現れるのです。(一三一―二二六)

 天国は、地上の一番悲惨な所で成されます。地上の一番悲惨な所とはどこですか。監獄中の監獄、そこでも一番のどん底です。

 霊界と肉界の基盤を、統一教会の文先生が築きました。地獄のどん底、監獄のうちで一番悲惨な監獄から、霊界と協力しながら基盤を築いてきたのです。基盤を広げてくる過程で多くの反対を受けました。家庭でそうであり、氏族でそうであり、民族でそうであり、国家でそうであり、アジアでそうであり、世界の中心国家であるアメリカでもそうであり、全世界が反対しました。

 先生は、万民に道を開いてあげなければならない為に、死刑囚とも友達になり、窃盗犯と手錠を一緒にはめて回り、共に御飯を食べながら彼らを慰めてあげました。この前は、ラスベガス迄行って、刑務所に収監された人達の為に祈祷をしてきたのです。ニューヨークのニューヨーカー・ホテルを買ったのは、これからニューヨークの一番の悪の巣窟から掃除をして、新しく基盤を築こうとしたからです。

 そこに行って、交わってあげ、慰めてやらなければなりません。そうしてこそ、各界、各層、サタン世界の滅びるべき人に迄も、その道を開いてやり、道を築いてあげる事が出来ます。そうしながら、地上で道を築いてやってこそ、霊界のふさがったものが開かれ、世界が一つになり得るのです。それ故、超民族的に黒人も結婚させてあげ、白人も結婚させてあげ、白人にも家を買ってあげるであろうし、黒人にも家を買ってあげるでしょう。この様に先生は、世界にない事をしている人です。(九六―一六〇)

 先生は、霊界で勝利しました。この事を誰が出来るでしょうか。広く世界にいる数多くの修行を積んだ人達は、これから先生の所に来て、習わなければなりません。間違いなく、その様に成るのです。それ故、一民族の民衆が反対し、世界の人類が反対しても、問題ありません。霊界にいる数千億の人達は、全部先生の言葉を聞くのです。(一三―五〇)

二 霊界に行く特許権

 今からは、霊界にどの様に橋を架けて、飛び越えさせるかという事を話しましょう。おもしろいでしょう? ここにいる文なにがしという人は、韓国人ですか、アメリカ人ですか。東洋人ですか、西洋人ですか。東洋の韓国人でしょう?(いいえ)。何故、いいえですか。そうでしょう。ですが、一つ特許権があります。皆さん、文明時代の発展の要素は、大部分特許権でつながれます。服を作る特許権、何でも全部特許権です。特許権だけもてば、どこへ行っても世渡りする事が出来るというのが、世の中の実状です。霊界でもその様な法があると言うのです。

 特許権は白人にだけ通じる、という法はありません。黒人は駄目で、アジア人は駄目だという法はないのです。どこに行っても、通じます。

 霊界に行ける特許権を取る為に、歴史上に苦労した宗主たちと宗教人達が沢山いましたが、その様な宗教人達の中で、チャンピオンの特許権をもった人がいます。

 霊界に行く事が出来る特許権をもった人を何で知る様に成るでしょうか。ここに集まったまだらになっているこの人達が、全部一つになって、「どこでも上がっていく」と言うから、それでいいと言うのです。では、神様はどうですか。先生が、「駄目だよ」と言えますか。神様が、「先生のサインがなければ行けない」と言うかもしれません。

 アメリカの立派な大統領でも、ある王、ある聖者、ある宗主でも、「先生のサインが必要だ」と言う時は、全部頭を下げて先生の所に来ざるを得ないのです。

 博士学位を受けるには、指導教授の下の世話もしてあげ、その教授が足でけっても、「ああ、ありがとうございます」と言ってこそ、サインしてくれるのであって、そうでなければしてくれないのです。「私が鼻を見ても、顔を見ても、格幅を見ても、何を見ても良くできて、相撲をしても勝ち、御飯を食べても沢山食べ、何でも一等になり得るし、十も百もいいのに、それを一つくらい知らないといって、博士学位をくれないのですか」と言っても通じないのです。先生が、その様な霊界の特許権をもったかもしれないと言うのです。

 先生が監獄に行き、よこしまなうわさが出て、「皆滅びてなく成る」と思ったのに、今も生きて、堂々と大きな声を出しています。アンテナを持って、全部見て、聞いて、やって、知って、大きい声をどんどん出しているのです。

 神様も、先生のサインができているか、できていないかを見て、その次に決済するでしょう。先生のサインがあるかないかを見て、先生のサインがあれば、「OK」と言い、ない時は「ノー」と言われるでしょう。

 言葉で言うのは易しいのであって、事実がどれほど難しいかという事を、皆さん考えてみてください。先生が、もしその様な印のレッテルさえ持っていれば、これからの世界、霊界は、全部先生の手中に動いているのであり、この肉界は、どうせ一つの谷を行かざるを得ないという結論が出てきます。(一三四―一七)

 自然界は、真理に満ちているのです。皆さんは霊界についてよく分からないでしょうが、先生は霊界の専門家です。そこは、二十一世紀ではなく、二十二世紀、三十世紀になっても、先生がいなければ開門する事が出来ません。理論的に霊界を教示して、霊界を開門するにおいて体系的内容を明らかにしてくれた元祖が文先生だという名声が、永遠に残るでしょう。

 世界的に優れているという霊通人であっても、先生の所に来て、習わなければならないのです。それ故、先生が統一教会の教祖になったのです。世界のキリスト教を統一すると言うのです。先生の言う事さえ聞いたなら、既に皆統一されたでしょう。(二〇三―三二五)

 先生がアベルの立場で長子権を復帰して、一度宣布してしまえば、それ迄霊界が地上を利用していたのを中断します。むやみに霊界に対して「これから地上に協助せよ、地上に屈服せよ」と言えば、その様になりますか。内容もないのに、「こうせよ」と言えば、その様になりますか。これはこうで、あれはああだという事を説明して、それが可能に成る様にしなければなりません。それでこそ南北が統一されて、東西が一つになり、皆収拾されるのではありませんか。(二一〇―一九三)

三 霊界の統一と地上世界の統一

 霊界を統一しなければ、地上を統一させる事は出来ません。では、霊界を統一した主人がいらっしゃるなら、地上の統一は問題でしょうか。それは難しくないのです。

 これから我々は、霊通する人同士主管しなければならないのです。今、霊界に通じる人達の大将が先生です。彼らもここに来て、習わなければなりません。

 彼らは一方向しか知りません。それ故、霊界から教えてくれるといって、それを絶対視してはいけないのです。それを原理で解読して、方向をわきまえていかなければ、霊通人達はサタンになりやすいのです。

 今は、霊界が先生を証し、先生についてきています。先生は、霊界の内容を専門的に知っている為に、サタンだ何だという事をよく分類して、今迄ここ迄率いてくる事ができました。それで滅びないのです。

 霊界には、何千億の霊人達がいます。それに比べて世界の人類は、余りにも少ないのです。これから我々が国家基準さえ超える様になれば、霊界を動員する事が出来るのです。世界人類は、問題にもなりません。その様な時が来れば、我々の時が遠くないという事を知るべきです。この様に見る時、世界はこれからどの様になり、共産世界はどの様に成るのか、大体の輪郭が出てきます。(五四―二三三)

 あの世に行ってみると、殺人した者、殺された者、ありとあらゆる人が一箇所に集まっているので、そこでは刀を持って闘おうともするし、復讐しようともするのです。ですから、数多くの塀でふさがれています。

 それ故、悪成る霊たちが怨讐の子供たちの所に行って、急死する様に事故を起こして連れていくという様な事が起こるのです。これを解かなければなりません。これを皆解く為には、地上世界で解かなければなりません。その為には、もっと良いものを与えなければ、解く事は出来ません。死ぬよりもっと良いもの、怨讐関係になった事よりもっと良いものをあげなければ解かれないのです。

 何を持って霊界を解放し、神様を解放するのでしょうか。この様な関係は、人間の先祖がこれを結ばせて天上世界をめちゃくちゃにしたから、今日後代の後孫は、先祖たちの全ての過ちを償わなければなりません。真の孝行者の伝統を受け継いだ子供なら、父母の借りを支払わなければなりません。父母が借りたものを支払わなければならないのです。

 その様な意味で、霊界の先祖の全ての塀を崩す運動をしなければなりません。そうする事によって、先祖たちがここに来て、皆さんに教える様に成るのです。これは夢の様な事実です。

 先生は皆さんをさっと見れば、先祖がどうで何をやったのか分かります。悪成る霊人の後孫を見ると、真っ暗になります。その先祖の顔がさっと見えたかと思ったら、ふっと消えるのです。それ故、悪成る霊、善成る霊を分けるのです。

 霊界を結束しなければなりませんが、霊界を収拾出来ない人は、天下を統一出来ないのです。天運の根が天なのに、天を収拾出来ない人が、どうしてその結果をこの世の中の道理にして、世界を統一しますか。それ故、地上を統一する前に、霊界を統一しなければなりません。(一九一―二〇五)

 皆さん、先生に夢の中で会ってみた事がありますか。みんな会わなければなりません。この様な団体は世の中にありません。国もありません。何故、統一教会が世界的に成長しているのでしょうか。どこに宣教師として送っても、霊界を実感する生活をしなければなりません。

 どんな事が起こるのでしょうか。宣教師は三カ月が過ぎれば、その国を離れて再びビザをもらわなければなりません。そうでなければ、その国にいる事が出来ません。それだけでなく、その国をたって、他の国に行くにも、自由にたつ事が出来ません。そういう時は、霊界が教えてくれます。「どこどこにある川を越えろ」とです。

 その川にはわにが沢山います。その様な川を泳いで越えれば、わにが丸ごとのみ込んで跡形もなくなります。その様な危険な所を通って、国境を越えていく様にする為に、霊界がよく教えてくれます。「何時何分から、何時何分の間に越えればいい!」と言ってです。

 そうする以外に方法がありません。その様な命令を啓示として受けながら、行き来する宣教師が多いと言うのです。

 共産圏は全て「神様がいない」と言って、神様の存在に反対する世界です。共産党は、どの国でもみんな宗教が入ってくると、それを撲滅します。そんな状況の中で、神様は準備しなければなりません。

 その様な経験をしてみれば、神様がいないと否定する人は一人もいなくなります。その様な事実を実感する感動は、生命を越えて永遠に残るのです。その様な境地で神様を愛し、真の御父母様を慕いながら通過した経験は、永遠に残るのです。それが人生の中心になります。そうなれば、霊界との境界線、その様な壁は、瞬間的になく成る様になります。直行する事が出来るのです。

 信じるのが先ですか、知るのが先ですか。信じる事は事実と遠い所にあり、知る事は事実と一致します。

 「信仰生活」と言いますが、信仰を生活化していますか。そこには、体恤圏が表面化していくのです。内面化ではなく表面化した実体圏とつながって生活しているという誇りが、どれほど大きく有り難い事か分かりません。その様な境地もあるのです。

 「霊界は間違いなくあります。神様は、間違いなくいらっしゃる! 誰が否定しても、いらっしゃる」と実感しているという事実は、恐ろしい事です。それは神様の世界に属する心です。いくら地上で苦難を通過するとしても、その人は神の国の国民です。神様の子女です。

 皆さん、いくら難しい事があっても、自分の心が絶対変わらないという境地に入っているか自問してみてください。そこ迄行かなければなりません。それが峠です。サタン世界の城壁を越えて入れば、神様の存在が実証されるでしょう。そうでない時には、城に入る橋を越えたのに宮中に入れなかったのと同じです。一度入って皆ければ、何も分かりません。城の外でいくら眺めてみても、そこに行けません。(二二四―一〇八)

四 心情と実績で異成る霊界での待遇

 統一教会の先生の誇りは、神様を知っている事です。霊界で知っている以上に知っているのです。いくら多くの人がいたとしても、神様の心情を知る人を、神様は一番好まれます。

 宗教人達が涙に浸り、ひざが切れてえぐれるほど一生涯祈祷を捧げても、イエス様に出会い、導かれるかどうかという所です。それなのに、皆さんはこうして先生に会って、この様な話を聞く事が出来るという事は歴史的な事件なのです。

 皆さんが先生にいか成る資格をくれてもくれなくても、先生は既にあらゆる資格を持っています。

 先生は多くの事を成しました。誰の話にも耳を傾けない世界の学者たちを一つにつなぎ合わせました。また、互いに争っている宗教界持つなぎ合わせ、民族同士で争っているのをつなぎ合わせて世界的な合同結婚式をした事は、これ迄の歴史になかった事件です。

 今迄に先生が成してきた事は、霊界の誰が成した事にも勝ります。誰よりも多くの事を成してきました。ですから統一教会が、霊界のどん底にいるでしょうか、最高の位置にいるでしょうか。最高の位置にあります。これは先生の作り話ではありません。(一四六―三三三)

五 霊的体験の生活化

 先生があらゆる事を調べ、霊界の裏道迄尋ね歩いて調べてみると、天地の道理は簡単なものでした。真理は簡単なのです。二人が絶対的な力で合わさり、真空状態になった所に神様が入ってこられ、骨髄の様な芯に成るのです。ここに、男性の愛と女性の愛の二つのかけらがぴったりとくっつくのです。これが宇宙の核です。愛の理想的実体が合わさって愛の軸に成るのです。(一七〇―一七一)

 先生は霊界に対して沢山知っていますが、霊界の話はあまりしません。霊界を知ると、狂う人が多いのです。特に女性達は、「あんな夫と長生きする必要なんてない。早く天国にでも行ったほうがいい。ああ早く天国に行きたい」と言う事でしょう。しかし、夫を教育して率いなければ天国に行く事は出来ません。(一八二―六一)

 先生は、霊的体験をしても、多くは話しません。体験があるのかないのか、皆さんはよく分からないのです。それをどの様にするのでしょうか。真理で調整しなければなりません。「これは、これこれこうである為に、この様に成るのである」と言いながら、中庸の道を行くのです。そうして何時も天の摂理観に方向を一致させる事によって、霊界の発展をもたらす事ができ、地上世界の発展をもたらす事が出来ると見るのです。

 そうするには、霊的世界がどの様に動いており、真理とどの様に関係を結ばれるのかを知った上で霊界と関係を結ぶ事を生活化しなければなりません。神霊と真理が必ず一つにならなければならないのです。この調和が取れていなければなりません。何故そうなのかと言うと、我々人間自体がその様になっているからです。(七六―一三八)

六 愛を残して行くべき霊界

 先生についてくる中で、霊界に行った人達が沢山います。先生に従う人達を、あのソ連の衛星国家、ソ連の重要都市に浸透させておきました。ある時は、「宣教活動をしていると死刑宣告を受けた」という報告を聞きました。その様な報告を聞く指導者の心は、深刻なものです。子供が寝込んでいたとしても、その子供を心配する様になっていません。彼らが私を尊敬するのは、世界を尊敬する事なのです。彼らの為に涙を流してあげるべきであり、心配をしてあげるべき立場に立っているのです。それ故、先生は平安な生活が出来ないのです。

 私が越えるべき峠を越え、私が果たすべき責任を果たす為には、休もうにも休む事ができず、止まろうにも止まる事が出来ません。その様に走っているうちに、この様な年になったのです。しかし、心は「今からまた始めなければならない」と言うのです。そうして霊界に行くのです。

 その様に生きている生活の裏面に、何を残すのでしょうか。人類を愛したという事です。他の何ものでもありません。国を愛したという事、統一教会を愛したという事、それ以外に残し得る何かがあれば、それは滅びる歴史とともに流れていってしまうでしょう。(一三六―一三五)
第五節 真の父母の家庭と霊界

一 霊界の長子権成立

興進が霊界に行く事によって、地上と天に分かれた天使とアベルが、双子の様に一つに結ばれる様になりました。その一つになった基盤の上に、父母が出動するのです。これが原理観です。

興進は息子格のアベルですが、その息子は、「真の父母」の愛の原理主管圏の蕩減条件を立てた基盤から霊界に行きました。サタン主管圏から勝利して直接主管圏を成した立場で、霊界に行ったのです。それ故、堕落以後、最初に完成した資格を備えた息子として天上世界に行ったという条件を持っているのです。本来堕落しなかったなら、霊界に行った全ての人達が「真の父母」の心情圏を中心として、原理結果主管圏と直接主管圏が一つになった家庭的基盤に愛を中心とした主人や息子の資格を持つのです。これをもたずには、天上界に行けない様になっているのが原理です。

イエス様やキリスト教は、今迄その立場を経る事ができずに行った為に、全部中間霊界にいるのです。所で、興進が行く事によって、神様と接ぎ木する事が出来る中心が繰り広げられるのです。また、興進は祝福を受け、自分の相手が地上に残っているので、家庭生活をしてから死んだのと同じ立場に成るのです。それで、興進の家庭を中心として、地上家庭を訪問する事が出来る霊界基盤が設定されます。これが貴いのです。興進の家庭基盤を設定したという事が、最も貴いのです。

イエス様が死んだとしても、この様な事ができたなら、今日キリスト教はその様に犠牲になりません。しかし、仕方がないと言うのです。何故でしょうか。「真の父母」の心情圏で結果主管圏内のサタンを除去し、直接主管圏内に愛の基盤を備えられなかった為に、イエス様自身があの世に行って再臨しなければならないのです。しかし、興進は再臨する必要がないのです。

興進は霊界と肉界、二つの世界に暮らしていると言うのです。そうなれば、どんな事が起こるのでしょうか。霊界と地上を双子の様な心情圏として見る時、父母が長子の立場にいるのです。家系の代数で見れば、すなわち縦的に見れば、父母が先立ったのです。興進が二代なのです。下だと言うのです。

ところが、霊界では反対だと言うのです。地上で先生と興進の出生について見る時、先生は兄の立場にいて、興進は弟の立場にいます。先生がカインの立場にいて、興進がアベルの立場にいるのです。これが霊界に行っては、興進が長子になります。興進が兄の立場にいて、それ以外の全ての霊人達は、弟の立場にいるのです。心情圏を中心として、その様に成るのです。神様の立場から見れば、先生は父なので長男であり、興進は小さい息子に成るのです。

霊界で見れば、興進が愛の圏を中心として最初に生まれた息子であり、そして霊界にいる人が弟の立場に立つのです。逆さまに成るのです。それで、長子権の心情基準が興進をつかんで入るという結論が出てくるのです。これは原理講義する時、よく説明しなければならないのです。

今霊界にいる霊人達の前に、イエス様の前にもそうであり、全ての善の聖者たちの前にもそうですが、心情圏を中心として誰が長子として先に生まれたかといえば、興進だと言うのです。ですから、心情圏を中心としては、興進が長子であり、他の霊人は次に生まれる次子だという事です。

それ故、興進が、長子権の福を次子圏に相続してやる事が出来るのです。サタンは、相続してやるまいとしたのです。サタンは、相続をしてやらず、自分が強奪するのに、長子の興進は、地上に行っていた福を全部残してくれると言うのです。ですから、つながります。今迄サタン世界は、全部残してやるまいとするのに、興進は絶えず残してやろうとするのです。(一三一―五二)

二 霊界に立った愛の中心

興進は全世界の人を自分の生命以上に愛したという条件を残した為に、皆さんにも生命以上に愛する事が出来る因縁がつながったのです。興進は「真の父母」の代わりに行きました。それ故、興進を愛する事は、「真の父母」を愛する条件になります。興進を愛するという事は、「真の父母」を愛するという事と連結されるのです。

霊界では、今迄その様な中心がありませんでした。霊界とつなげ得る中心がなかったのですが、興進が行く事によって、興進を愛する全ての霊界の霊人達には、父を愛する条件がつながるのです。これは、統一教会と連結されます。統一教会として見れば、興進は、地上で生命を捧げて戦うにおいての標準になり、霊界では愛を繋げるのにおいての、今迄の歴史にない霊界の代表になったのです。

地上では、統一教会の信徒たちに生命を捧げてもみ旨を愛すべきだという手本を見せてくれました。「真の父母」を愛しなさいと言うのです。世界の為に「真の父母」を愛していくべきなのです。ですから、興進が霊界に行く事によって、霊界が興進を愛する事で、地上の「真の父母」と愛の関係が成立すると言うのです。

それで霊界では、興進を迎える日が、歴史始まって以来一番うれしい日に成るのです。興進は愛のメシヤとして、霊界の門を開き、地上では標本的な殉教の道を開いたと言うのです。それで、統一教会の信徒達は、興進を愛すべきなのです。

霊界でも興進を愛し、統一教会でも興進を愛するから、我々の「真の父母」はどの様にすべきでしょうか。天の愛を歓迎して、地上の愛を歓迎する意味で、自分の息子を祭物として捧げる事を栄光として思わなければなりません。誇りとして思う事が出来なければならないのです。また、神様が今迄青少年のアダム・エバを息子、娘として愛せなかったのですが、霊界では愛せる様になったと考えなければなりません。

それで先生が、「私自身が青春時代に、韓国に基盤を築いて栄光の神様にする事、私一代に世界的基盤を築いて貴方を慰安してさしあげる事、これらの出来なかった事を、この息子によって蕩減してくださいませ」という祈祷を捧げました。

今、霊界も愛して、地上も愛するので、父母も愛しなさいという標語を立てるべきです。先生は、興進が霊界から地上世界と霊界で、愛の復活圏を成すのだと考えます。興進が死を通じて、愛を復活させると言うのです。霊界をつかまえて、地上をつかまえて、愛の復活圏を宣布するでしょう。

 そうする様になれば、死亡圏と決別をするのです。それ故、葬式の時も悲しんではいけないのです。(一三〇―二〇二)

三 地上と霊界の王権確立

 興進が霊界に行く前の日、統一式を終えてから祈祷した事とは何でしょうか。「お前は地上を離れても、地上にいるのと同様に、お前の養子を選んでやり、息子の班列に同参させてやろう」と祈祷で約束したのです。そうするには、地上で祝福をしてやらなければならないのです。そうしなくては、その事が不可能です。

神様は、地上を救う為にメシヤを送りましたが、今日「真の父母」は、霊界を救う為に父母様の代わりに全権大使として愛の王者を送ったという事を知るべきです。何故、地上にその様な世界的基盤を立てるべきなのでしょうか。イエス様もその立場に行けなかったのです。神様が初めて歴史始まって以来、「自分の息子」と言い、愛する事が出来る少年をもったという事実を知るべきです。

 初めて、霊界で神様が愛し、地上で「真の父母」が愛していると言うのです。それで、二つの世界がつながるのです。この世界は、堕落の愛の圏内、すなわち原理結果主管圏内にある為に、「真の父母」の愛の因縁は今迄ありませんでした。しかし、これが初めて出現したという、驚くべき事実を知るべきです。

 では、あの世に行ってどの様に成るのでしょうか。

 韓国人として生まれた為に、韓国の善王の実を現すという事を知るべきです。霊界のその様な王権が興進の立場です。その様な立場で、韓国の善王たちを比べる時、興進は年は幼いですが、アベルの王だと言うのです。霊界は、この地上の様に事情が完全に分かるのです。完全に一つに成るのです。

 カインとアベルが一つになれば、その上に天の父母が運行する事が出来るのです。天の父母の運行圏が生じるのです。それで、興進の王権と韓国のアベル王権が一つに成る事によって、韓国を中心とした主管圏が形成されます。それが一つに成る事によって、アベル王権の位置に立つ様に成るのです。

 その次には、全ての国の王たちが、アベル圏に立つのです。皆さんは、地上にいるから分かりませんが、霊界では一遍に一つに成るのです。それで、全ての王権、韓国を中心として百二十の国家が完全に一つになり得るのです。その王の前にアベルになり得る人達、ユダヤ教を信じて逝ったとか、キリスト教を信じて逝った人達においては、全部王権はメシヤとして侍る為のものであった為に、それをあがめ尊ぶ全ての宗教界のアベルの民は、次々と完全に一つに成るのです。

 所で、ここに一つ問題があります。王権を立てるには、興進が一人でいてはいけません。女王権をどの様に探すかという事が問題に成るのです。これが第一の問題です。王権を結合しようとすれば、女王権を探し、王の相対を決定してあげなければなりません。その様になれば、この王権が霊界につながるのです。また、女王が地上にいる為に、百二十カ国の王権の民を連れて、地上に繋げる事が出来る基盤がつながります。神様の愛を中心とした霊界と肉界の統一です。この様に結婚させてやる事によって、興進は思いどおりに地上に来て活動する様になります。

 この時、興進が一人で来るのではなく、王権を統一した全ての王が地上についてくる様になります。ですから、この様な式をせざるを得ません。今出れば、反対する人はありとあらゆる事を言うでしょう。興進を愛の代表として送って、「真の父母」が霊界に行ってする事を代わりにさせようと言うのです。

 

 

 それ故、興進が昇華してから五十日になれば、五旬節と同じです。百二十名がマルコの屋根裏部屋で聖霊が降臨する時火を受けて、世界的役事が繰り広げられたのと同様に、薫淑嬢が結婚する事によって、どんな事が起こるかと言うと、百二十カ国の王たちが、この地に来て復活して、世界的役事を展開する事が出来る運動として繰り広げられると見ます。それが五旬節を代表した今日である事を、皆さんは知るべきです。ですから、霊界にいる百二十の王権がこの地に訪ねてきて、地上と一つに成るのです。この様な二つの、とてつもない意味があるのです。

 それで、百二十カ国のうち、どこでも「真の父母」に侍る事が出来る一つの国さえ生じるなら、そこから天国が開門するのです。(一三一―一四)

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第六章 我々と霊界入籍
第一節 人生の結実と生霊体

 我々の生の一代というものは、わずかの間です。この一代が、永遠と瞬間を上がったり下がったりするのです。この生が延長されれば、無限に延長され、反面、これを折ればも、ここから新しい天地が起こるのです。秤と同じ様に、上がったり下がったりするのです。

 皆さんは全部、先祖たちに代わって先祖の顔を被って出てきた復活体です。その歴史は、どれほどに成るでしょうか。何十万年になったと言われます。その様に長い歴史過程が、結局は自分一人をつくる為に苦労してきたのです。金氏なら金氏という自分一人を誕生させる為に、数多くの先祖たちが生まれて死んだと考えるのです。ですから我々は、歴史的な結実体です。

 この様な結実体が、虫が食って穴がぽかりと空いた果実であればいいでしょうか。開いてみると、真っ黒な種が、ころころと転がって出てくるリンゴがいいですか、その種が、べたべたして付いているリンゴがいいですか。

 皆さんをぽっかりと裂けば、よく熟した種が出てくるでしょうか。皆さんの二世が間違いなく、天の実に成ると思いますか。皆さんの心の中を裂いてみれば、よく熟した統一教会が出てくるでしょうか。

 六千年の人類歴史の結実体が、熟さずに落ちる果実の様に落ちていいでしょうか。「ああ、私は落ちそうだ。風がもう少し吹けば落ちるだろう。先生、揺すらないでそっとしておかなければなりません」と言っていいですか。ここにその様な輩もいるでしょう。反面、「先生がおのでぶん殴って、自分を思いどおりに揺すっても、自分で下りる前には、絶対落ちません」という群れもいるでしょう。皆さんはどちらの輩に属しますか。(四六│一五五)

 人の一生において、生まれる時、結婚する時、そして死ぬ時が重要だという事を我々は知っています。

 ある個人が生まれ、成長して、実を結ぶ為には、必ず相対と因縁を結ばなければならず、その次には、最後の道を行く様になっているのです。これは、一つの国も同じです。どの様な国も必ず創建期があり、次には繁栄期があるのです。その次には、夕方の様な期間を必ず経ていくのです。

 一つの生命体として、自体内で生命が実を結ぶ事の出来る内容が備わっていなければなりません。そうでなければ、いくら結実の時が来たとしても、結実を見る事が出来ないのです。

 それ故、自分の環境を克服しなければなりません。それだけでなく、結実され得る全ての与件を受け継ぎ、その結実の為の動機と成る自らの力をもたなければなりません。そうしてこそ結実の過程を経て、新しい歴史過程であるとか、人類社会が必要とする一つの結実体と成る事が出来るのです。

 人は生まれて、必ずそれ自体として環境を克服しなければなりません。かといって、それを克服する事だけで終わるのではなく、未来に新しい生命を受け継いで、結実の内容をもち得る過程を経ていかなければなりません。この過程を経た後には、正しく実効を現し得る一つの位置を占めなければならないのです。

 例えば、穀物は種が蒔かれて、芽が出て、育って、実を結んだ後にこそ主人の手によって収められ、倉庫に蓄えられるのと同様に、必ずある目的において必要で、収められる過程を経なければならないのです。

 それ故皆さんは、皆さん自体にその様な願いを引き継ぐ事が出来る内的要因を準備して、内的要因を中心として外的な環境に再び適用しなければいけないという立場にある事を知らなければなりません。これは、守勢的立場ではなく、必ず攻勢的な立場で表さなければなりません。

 柿の木を見ると、春に花が咲きます。柿の花は、他の花の様に際立って華やかではありません。また、柿の花は葉の色と似ています。それで、ちらっと見ただけでは、花があるのかないのか、よく分かりません。また、実が結ばれても葉に包まれている時には、実があるのかないのか、よく分かりません。その葉が余りにも青々としている為に、実があるのかないのか、感じられないのです。実は、夏を過ぎて秋になれば、色が変わり始めます。これが完熟すれば、実の中迄赤くなります。そうして、葉は皆落ちても、その実だけが一際輝きながら、木についています。

 統一教会員も、これと同じです。統一教会自体について見る時、一九七〇年代が結実の時代だとするなら、葉の様な全ての要因は全部消えるべきでしょう。枝だけが残った所に、一つの結実の価値をもった実が、全体の価値として現れる、その様な柿の木の実の様な存在になり得るかという事が問題です。

 この様な実には、宣伝する必要がありません。それ自体を見て、内外に備わったその価値を、誰もが一〇〇パーセント評価する事が出来るのです。そうする為に、その柿の木なら柿の木自体が、実として完成する時迄、どれほど苦労の過程を経た事でしょうか。

 その実は完熟する迄、枝に咲いた他の多くの花の実よりもっと闘争をし、もっと努力したという事実を、我々は知るべきです。夏の間、風が吹いて雨が降り、暴風雨が吹きつける、その様な険しい環境と、栄養が足りず未熟なま迄実が落ちるかもしれないといった、いくつもの環境を皆克服したのです。

 その木が実を沢山つけられずに、実を一つだけ残したとすれば、その実は、木の全体のエキスと外的な闘争力を総合した内容をもった実なのです。その様な実だけが残ったならば、その一つの実が、その木の価値に代わり得るのです。それが柿の木なら、その一つの柿の実によって秋を迎える時、自らの価値と威信と権威を立てる事が出来るのではないだろうかと言うのです。

 木に花が沢山咲き、実も沢山結んだでしょうが、それらが全部落ちてしまって、秋になったのに一つの実も結べず枝だけ残ったならば、その木はどれほどみすぼらしく、悲しいでしょうか。しかし、多くの実は結べなかったとしても、どんな木の実とも比較出来ないほど完熟した一つの実をつけたなら、その一つの実を持って、数千、数万の実の前に堂々と誇る事が出来るのです。

 現代社会に数多くの宗教があります。キリスト教ならキリスト教の中にも、数多くの教派があります。この様な現実の中で、結実の時代を迎えた統一教会自体を中心として見るなら、神様が我々に、ある結実を要求しておらるのです。先ほど言った様に、一つの木に多くの実が結ばれなければなりませんが、そうできずに一つの実だけを残したとしても、その実が、その木としてはそれ以上出す事の出来ない完全な実なら、その木は、その実によって秋を迎えた価値と権威と威信を立てる事が出来るのです。

 これと同様に、我々統一教会も、必ず結実がなければなりません。統一教会が出発して、今迄激しい波風と試練を経ながら、一つの結実に向かって進んでいます。ここから、どんな結実に成るかという事が、大い成る問題であらざるを得ません。

 この様な立場で皆さん自らが、果たして自分は正常な春を迎えたか、正常な夏を迎えたか、そして、正常な秋を迎えて完熟した実になり得るだろうか、という事を点検して皆ければならないでしょう。

 実自体を見れば、そこには木の枝もあり、木の葉もあり、根もあり、また種もあるのです。その実を摘んだという事は、その木自体をもったというのと同じ立場です。実には種が多い為に、その実を中心として数十あるいは数百本の木を持つ事が出来ます。

 一つの木の実は、その木が十年過ぎても、二十年過ぎても、その木が引き継がせてあげようという全体的な生命の要因を、相続してもらわなければなりません。それでこそ、完全な実として収められるのです。

 そして、実が育つ過程に、その要因を一度でも切断してはいけません。絶えず育つ様に置いておかなければなりません。生命が始まったその日から、実として収められ、主人の手を経て倉庫に入って蓄えられる時迄、その要因が、どのひと時も途切れてはいけないのです。風が吹く時や、あるいはそれよりもっと暴風雨が吹きつける時や、どんな試練の過程があっても、この要因が途切れてはいけないのです。その要因は、終始一貫、連綿として、それ自体に保有されていなければならないのです。

 この様な観点から見る時、皆さん自身は信仰の道に入ってきて、自分の新しい生命が発生するのを感じ、喜悦を感じ、新しい希望を感じるでしょう。「私はこの様な木になり、この様な人格者になり、世界の前にこの様な存在に成る」という決心をして立ち上がったその日からは、秋の収穫期の為に準備する全ての内的な要因が、絶える事があってはいけません。時がたてばたつほど念を押し、そこにプラスする過程なくては、完熟した結実を見る事が出来ないのです。(三六│一〇)
第二節 審判と公認

一 審判の種類

 怨讐を愛さなくては行く事の出来ない道が、原理の道であるという事を御存じの神様が、終わりの日に審判を通じて世界人類を滅ぼされるでしょうか。違います。神様は、人間に対しては父母の立場にいらっしゃいます。今日キリスト教で言う、いわゆる「火の審判」というものは、言葉そのままの「火の審判」ではないのです。(三一│一六七)

 師弟の間にも、先生が守るべき法があり、弟子が守るべき法があるのです。統一教会でも、先生が守るべき法があり、皆さんが守るべき法があるという事を知るべきです。ですからみ言に対する審判は、み言を聞いている皆さんが受けるという事です。み言を誤って聞けば、審判を受けるのです。

 その次には、実体を成すのです。実体を成すべきなのに、実体を成す為の活動が出来なければ実体審判があるのです。審判には、み言の審判があり、実体の審判があり、心情の審判があります。三大審判過程を経なければならないのです。

 まず、原理のみ言が審判し、その次には実体の審判をするのです。誰が審判するのでしょうか。伝道やいろいろな活動を熱心にし、全ての法度を守り、実体を成した人達が審判するのです。一生懸命にした人達が審判するのです。それが審判です。み言どおりにしない時は、サタンも審判するのです。他人が、実体が、讒訴するのです。皆さんは、先生が審判し、統一教会の幹部たちが審判し、み旨に従ってきた人達が審判するのです。

 皆さんは、どの様に行くべきでしょうか。サタン世界で食口を経て、先生の認定を受けて、霊界を経て、神様の所へ行くのです。それが行くべき道です。法です。その様に行くのが正しい方向です。

 讒訴条件があれば、これが合わさって、実体的に讒訴するのです。実体審判です。そこで、うそが通じますか。仕方なくするのは、しないのと同じです。神様と先生を思いながら、その仕事をすれば、神様の中身が、先生の中身が、その中に刻み込まれるのです。栗のいがに中身が入ったのと同じ様にです。この様に、心の中で神様を思い、先生を思えば、先生のみ言が、神様のみ言が、中身に成るのです。

 皆さんは、神様と先生と食口たちが歓迎し得る人に成るべきです。それで皆さんは、むいてみたとたんに栗の実のようでなければなりません。我々は、神様の為に、「真の父母」の為にそうならなければなりません。その様な仕事をするのです。霊界に行って、神様の為に「真の父母」を中心として生活しようとするならば、ここで拍子が合わなければなりません。それでこそ調和するのです。

 それ故、恐ろしい実体判断を受ける過程を経なければならないのです。これが法です。この様に成る日には、心情的基盤が自動的に生じるのです。皆さんが熱心に伝道したり苦労しているのに、何故悪口を言われて迫害されるのでしょうか。それは、皆さんに心情がないからで、心情を探す為なのです。愛を探す為です。その様な人達を愛する事が出来る人に成る為なのです。皆さんがこの様な訓練過程を経ない事には、いくらの人になろうとしても駄目なのです。言い換えれば、サタン世界の愛以上の愛を、自分が見つけなければならないのです。そうでなければ、天国に行けないのです。愛を探し求め、天国に行こうと、そうするのです。愛を探し当てた人が、天国に行くのです。

 その時の審判主は誰でしょうか。神様が審判主になり、イエス様が審判主になり、先生が審判主に成るでしょう。ですから、実践をしなければなりません。これが、我々の当面の課業であり、神様の命令だという事実を知るべきです。(一〇三│二三六)

二 天国に行くパスポートを準備せよ

 誰にも最後の日が来ます。サタン世界で最後の理想世界を立てる為には、あらゆる体験をして、そこに合格しなればいけません。

 天国に行くパスポートをもたなければなりません。パスポートをもらった個人と家庭と国家が沢山現れなければなりません。パスポートをもった国家があってこそ、神様が天地を任せる事が出来るのです。

 パスポートは、サタンを追放するのです。サタンは来れないと言うのです。生活の中で、サタンが関係しません。サタンの干渉を受けない様にするには分立しなければなりません。個人分立、家庭分立、氏族分立、民族分立、国家分立、世界分立、天宙分立迄しなければなりません。「統一原理」でサタン分立歴史を習ったでしょう? 何を持って分立するでしょうか。蕩減の道を通じて分立しなければなりません。

 学者も大統領も、例外ではありません。蕩減の道は、探して行かなければなりません。蕩減の道は、教えてもらって行く道ではありません。自分が探して行かなければなりません。これをしないと、地獄に行くのです。地獄の鎖が、皆さんの目に、鼻に、考えに、皆引っ掛かっているという事実を知るべきです。これは脅迫ではありません。堕落という事を、ひっくり返す為に必要な事なのです。

 白い紙に書いてある文を消すのは、どれほど大変ですか。サタンが書いた文字を消すのは、インクの字を消すよりも難しいのです。それを消すには一度死んでから生き返らなければなりません。生きているとは名ばかりで、死んでいるという事を知るべきです。これが残っている限り、サタンが、「私のものだ」と言うのです。それでイエス様は、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。(一二九│一八三)

 霊界には、イエス様とか孔子、釈迦の様な立派な人達がいます。聖賢たちも多く、偉人達も多く、立派な人達が多いのに、何を持って上がっていきますか。

 またそこには、ローマの迫害時代に殉教して死んだ人が多く、公的に犠牲になった人達がどれほど多いでしょうか。それなのに、何を持って、どの様に上がっていきますか。

 ここでは、アメリカの軍隊のある小隊に入るには、証明書があってこそ入ります。それなのに、霊界という高次元の立場迄踏んで上がる事が出来ますか。数千億が集まって、時間と空間を超越して眺めているのに、「あの人は歓迎する」と言われるほどになりましたか。皆さん、自信がありますか。霊界は距離がありません。彼らは、皆さんが上がっていくのを見守っているのです。それなのに、どの様に上がっていきますか。

 そこを通過する為には、証明書が必要です。証明書がなければ通過出来ません。「私は文学博士の学位を持って行く」と、その様に言って行く事が出来ますか。それは、霊界のトイレの紙くずほどにもなりません。

 私が何故この堕落世界で、この悪成る世界で反対するのを突き抜けて、上がっていかなければならないのでしょうか。証明書をもらう為です。この世的な事ではありません。私が世の中に出ていったなら、誰もうらやましくないほど出世をした事でしょう。その様な能力をもった人です。(一四六―三三〇)

 イエス様は、天国は相続しましたが、この世は相続出来ませんでした。では、この世は誰が相続したのでしょうか。カインが相続しました。それ故この世は、カインの国です。ですから、アベルは天国を相続した後に、この世のカインが保証する証明証をもらわなければなりません。天国に行くには、サタンの証明証をもらって行かなければならないのです。

 堕落人間は、この二つの原則に引っ掛かっているのです。この様な原則が解けなかった為に、今迄の六千年の歴史が、繰り返しの連続だったのです。ですが、今分かったのです。聖書を見ると、「また真理を知るであろう。そして真理は、貴方がたに自由を得させるであろう」(ヨハネ八・三二)というみ言があります。それが分かったのなら、歯を食いしばってでも愛さなければなりません。どの程度迄愛すべきでしょうか。怨讐であるカイン迄愛さなければなりません。(三四│二七八)

 人間の堕落は、神様の立ち会いのもとでなされたのではなく、サタンが主体となってなされたので、堕落圏から逃れるには、サタンを屈服させなければなりません。「サタン、こ何時! お前と組んで私がこの様になったから、お前を屈服させて、私は帰る」と言うべきです。それで、サタンを屈服させた証書をもらわなければ、神様の愛を受ける事は出来ません。イエス様も三大試練で勝利しました。歴史的に勝利したというサタンのサインをもらわなければ、天国に行く事は出来ないのです。

 どの様にしてでも、サタンのサインをもらわなければなりません。イエス様がサタンから三大試練を受けて勝利した時、その立場でサタンが涙を流しながら、「貴方と私は永遠に違う」と認めました。(二四│三三七)

 カインを屈服させる為には、終わり迄カインを愛し切らなければなりません。その様な人でなくては、カインを救う事が出来ないのです。

 皆さんが天国に行くには、サタンの証明証をもらわなければなりません。サタンの証明証とは何でしょうか。罪人が釈放されるには、まず検事を通じ、弁護士を通じてから、判事によって釈放されるのです。この様な立場で見る時、サタンは検事であり、神様は判事であり、イエス様は弁護士です。

サタンが、「お前はこれこれこの様にしただろう?」と言って、さっと罠にかけて神様に、「この人は、この様にしなければならない!」と言えば、神様もどうする事も出来ないのです。すると、イエス様は弁護士の立場で、「神様、この人の先祖はこの様な事をしました。本来、血統は悪くない人です。これこれの条件に引っ掛かったので、その条件に該当した蕩減条件を立てさせ、罪を脱がせてやらなければなりません」と言うのです。この様な事をしてきています。

 それ故、皆さんが天国に行くには、サタンの証明書をもらわなければならないのです。サタンを愛したと認定されなければ、永久に天国に行けません。それで統一教会は、その様な事をしようと言うのです。反対する人を怨讐として対すべきなのにもかかわらず、愛さなければならないとは、あきれた事です。怨讐を愛せと言うのです。彼らの為に福を祈ってやらなければならないのです。その様にしなければいけません。カインとアベルが一つにならなければ、復帰が出来ないのです。父母に帰る事が出来ないのです。(四八│三一六)

 キリスト教は、歴史時代に数多くの人々と共に、悲惨な運命を開拓しながら、真のオリーブの木を探す歴史を経てきたのです。真のオリーブの木は、すなわち神様の息子です。その息子が来れば、その方の津液を受けて、枝をもらわなければなりません。その枝に自分を接ぎ木しなければならないのです。その様に成ると、歴史時代の全ての先祖たちが蕩減条件を提示して、サタンに引っ掛かって倒れ、今迄結ばれている歴史的な条件が、その場で全部なく成るのです。

 沃土、暖かいねぐらの様な基盤ではなく、砂利の多い土地の様な所で、接ぎ木されると言うのです。

 今迄サタン世界にない本性を備えたので、神様の息子になり得るという証明書を、サタンからもらわなければならない為です。それは神様がして下さるのではありません。神様が自由にして下さるなら、六千年前に全てして下さったのです。

 刑務所から出てくる為に、判事が公認してくれるのではありません。では、誰がしてくれるのでしょうか。検事が公認してくれるのです。公判廷では、検事はサタンです。それ故、裁判の場で検事の公認を受けなければ出てくる事が出来ないのです。それ故、サタンの公認を受けなければ、神様は「お前は私の息子だ。私が生かしてやろう」と言えないのです。必ずサタンの公認を受けてこなければならないのです。皆さんは、サタンの公認を受けましたか、受けていませんか。サタンの公認を受けなければなりません。

 統一教会は、何を教えてくれる教会でしょうか。サタンから公認を受ける方法を教えてくれる所です。サタンから公認を受けると言っても、霊的にだけ公認を受けたのではいけません。霊肉を合わせた実体として公認を受けなければならないのです。(一七│一二四)

 天国に行くパスポートを、何もせずに持つ事は出来ません。ただ座って、試験も受けないで、論文も書かずにもらった学位は、偽物です。統一教会にも本物と偽物がいます。正確な尺度で測った後にこそ、本物に成るのです。(一二九│一八六)

 天国へは、どんなにきれいで純粋な心を持っていたとしても行く事が出来ません。天国に入る手続きを踏まなければなりません。登録をするには、資格証を出すべきでしょう? いくら「私は絶対的に純粋な心をもった純粋な人である」と言っても、天国に行けないのです。通過し得る形式がなければなりません。

 滅びゆくこのアメリカに行ってくる為にも、ビザとか何とか、どれほどややこしいですか。天国に入るのは、アメリカに入る事よりも難しいのです。あらゆる法の手続きを踏まなければなりません。それを学ばなければならないのです。それ故、統一教会でなく、統一大学です。天国の大学だと言うのです。ですから、先生が地上で指示した全てが、あの世に行く時において条件に成るのです。「これが出来なくては行けません!」と、この様に言えば、先生を見て「何もしないで命令だけするのではないか」と言うでしょうが、先生はそれを皆実践して命令するのです。何故そうなのでしょうか。「真の父母」なら、教えてあげなければならないからです。

 先生は相談する相手がいないのです。アメリカの大統領にも、復帰摂理について相談出来ません。ここにドクター・ダーストが来ているとしても、復帰摂理路程を相談出来ないのです。相談する様になれば、天使長が讒訴するのです。天使長は、人間を堕落させた張本人です。それ故、神様と先生以外は知らないのです。

 今は、統一教会が世界の峠を越えていくのです。今は、統一教会を誰かがなくす事はできず、先生を誰も監獄にほうり込む事は出来ないのです。皆さんが今、結婚して、生活して、息子、娘を生む事は、忙しい事ではありません。皆さんは、何時死ぬか分かりません。行く途中に、車の事故に遭って霊界に行くかもしれません。ありとあらゆる事が、沢山起きるのです。何時、どの瞬間に行くか分かりません。

 祝福された家庭が、これから霊界に行く問題を等閑視して、自分たちだけで面白く暮らして霊界に行くならば、統一教会の先生の前に出る事が出来ますか。祝福を受けた家庭というものは、長成期完成級圏内にいる為に、世界圏に迄上がる事ができていません。長成期完成級にいる為に、世界を越えなければなりません。その様な過程にいる為に、越えなければならないのです。

 先生が、霊界に行く事が出来る道を皆準備したのに、皆さんがしないでじっとしていたら、どれほど悲惨でしょうか。

 先生は無能力な人ではありません。性格を見ても、誰にも負けない性格です。先生は、踏まれる事を嫌いますが、踏まれても生きてきたし、反対されるのが嫌ですが、反対されて生きてきたのです。その様な基盤で、統一教会に入ってきた皆さんは、どの様に行くべきかという事がはっきり分かる人です。早く国と世界を越えていかなければなりません。皆さんは、お嫁に行くのが忙しいですか、暮らすのが忙しいですか、霊界に行く準備をするのが忙しいですか。

 自分が生きるという事は、霊界に拍子を合わせる為のものです。誰もが、霊界に拍子を会わせて生きなければならないのです。我々、統一教会を信じていった人達が霊界に行く時には、先生が教えてあげた条件が、霊界の門前にしっかりと打ち込まれていて、皆さんに質問するのです。

 先生が今迄教えた事全てが条件になって、書かれているのです。そこで答えられなければ入れないのです。中間ぐらいの霊界で待たなければなりません。そこで、先生が霊界に来るのを待たなければなりません。「先生が霊界に早く来たらいい」と待つのに、先生が霊界に行っても、先生が行く所に皆さんが全て入れるわけではありません。(一四六│三三七)

 「悪魔を追放しよう!」、これが先生の標語です。人類歴史の数多くの人々を蹂躙してきた悪党、サタンのしてきた全ての行動を、公儀の裁判長である神様の前に、検事となって讒訴しようと言うのです。我々が検事になって、悪魔サタンを讒訴しようと言うのです。そうすれば、悪魔が検事に屈服するでしょうか、屈服しないでしょうか。そこには弁護士がいません。悪魔には、弁護士がいません。しかし、人間には弁護士がいるのです。

 イエス様があの世に行って、弁護士の役割をしているのです。イエス様が弁護士になって、「この人は、私の名を信じ、善成る事をしました。善であろうとし、公理の法度を守った人は、悪魔も連れていけないという事は、悪魔と神様と協定した条約ではないですか」と言うのです。そうすると神様も、「そうだ」と言うのです。

 イエス様の名で善成る立場に立てた人達は、悪魔が引いていく事は出来ません。それで、「イエス様を信じなさい」と言うのです。よく調べもしないで、イエス様を信じさえすれば天国に行きますか。私が霊界に行って、立派な牧師たちが地獄に行ってひれ伏して、「私は文先生がこの様な方だとは知らなかった!」と言っているのを沢山見ました。夢の様な話です。皆さんの従う先生は、その様な人です。高次元の世界、五次元世界以上の理論を持っている責任者なのです。私に従おうとすれば、その様な内容を知らなければなりません。(一四九│九八)

 我々には、国がなければなりません。国はありますが、我々が行く国は、他の国です。その国の公認された市民権を新しくもらわなくては、天国に入る事は出来ないのです。公認された市民権をもった人には、サタンが東西南北を通じても、過去、現在、未来を通じても、讒訴しようとしても讒訴出来ないのです。(一四八│二八七)
第三節 霊界入籍

一 天国市民が楽しむ自由

 女性が美人として生まれれば、間違いなく外的についていくのです。醜い女性は、外的に行くのではなく、内的に行く様になっているのです。外的に行けば行くほど、サタン世界に染まったサタンのぼろきれになりますが、内的に行く様になれば、神側に近づきます。内的に行くすべを知る人は、外的な側にも思いどおりに行く事が出来ますが、外的な側に行った人は、内的な側に絶対来る事が出来ないのです。

 では、統一教会の人達は、どの様な人に成るのでしょうか。内的世界にも入るすべを知り、外的世界にも出ていくすべを知り、また、出てから入ってくるすべも知り、東西南北を訪ねていく事が出来る人に成るのが理想的です。内的世界が主体になって、外的世界を支配し得る人をつくろうと言うのです。

 外的世界は、悪が侵犯した為に、その世界に行けば地獄に行き、内的な世界に行けば、善成る霊界である天国に行くのです。この外的世界と内的世界を自由に往来する事ができれば、地獄にも行く事ができ、天国にも行く事が出来るという事なのです。それを知っているがゆえに、「どこに行っても歓迎され得る人になってみよう」というのが先生の主張です。それが神様の主張です。

 神様は、地獄に自由に行く事が出来ます。手続きを踏まずに行く事が出来ます。また、天国の王宮に行くにも、手続きを踏まずに行けます。どこでも思いどおり行けるのです。(一一六│一七七)

二 霊界に行く時持っていく贈り物

 霊界の神様の前に行く時に、持っていく贈り物とは何でしょうか。お金でもなく、学士、博士の名誉でもありません。自分の愛する夫がいいとか、豊かに暮らしているとか、その様な事ではありません。その様なものは贈り物にはならないと言うのです。そこには世界の為、神様の為の愛を持っていかなければなりません。それが残るのです。ヨハネによる福音書第三章十六節に、「神はそのひとりごを賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。神様が世の中を愛するとあります。それで、ひとり子を与えてくださいました。ひとり子は、世の中を愛する為に来た人です。

 それ故、愛を中心として信ずれば、滅びないのです。救われるのです。主人が世界を愛するので、世界を共に愛さなければならないという事なのです。今日のキリスト教は、教派の名で全部分かれていきました。世界がどうで、神様がどうでという事は考えもしないのです。自分の教派と自分の国だけを愛して滅びていくこのキリスト教を眺める時、我々は教派を超えて、国を超えて世界を愛し、神様を愛さなければならないのです。(九八│三二九)

 いくら殺人強盗だとしても、証拠物がない時は、判事でもどうする事も出来ません。強盗が、「私が殺人をしたのを何時見たか」と立ち上がれば、どうしようもないのです。しかし、証拠を突き付ければ、微動だに出来ません。証拠がなければ、証拠を探さなければなりません。賛美歌に「イエス、イエス、信じる事は、もらった証拠が多い」という句があります。皆さんは、もらった証拠がありますか。もらったと威張って伝道に出るものの、その様なものが証拠だと思いますか。その様な証拠を持って何をしますか。伝道して残った人もいなければ、何の関係もないという事です。

 皆さんは、天国に行く時に贈り物として持って行く物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのに、彼らの前に皆さんが持って行った風呂敷を開いて見せる事が出来るでしょうか。大した物でもないのに開いて見せる事が出来るでしょうか。皆さんがどの様な苦労をしましたか。それぐらいの苦労をしただけで、どうして国の為、世界の為だと言えるでしょうか。「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。霊界に行って風呂敷を解いて、「これは一生の間私が用意した贈り物ですので、お受け取りくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行く時は、荷物をしっかりと持って行きながら、天国に行く時は手ぶらで体だけ行く事が出来ますか。

 皆さんは統一教会の信徒として、神様からどんな使命をもらった者たちですか。皆さんは、神様の精兵として、神様の息子、娘として、結婚する様になれば、その家の中の家門を受け継がなければならないのです。そうする為に、皆さんは暮らす様になります。独立性を育てなければならないのです。この様な高潔な使命が、皆さんにあるのです。それ故、先生と毎日生活できず、離れていても、また、神様が何時も皆さんに直接命令しなくても、皆さんは、神様の管理圏で使命を賦与された人達であるという事を忘れてはいけません。

 皆さんは、自身を絶対視しなければなりません。そうして、その絶対的な価値によってなされた成果が万民のものとして、後代の後孫のものとして、天上世界の宝物として、永遠に保障されるという決意をもたなければなりません。これが任命された者の責任です。その責任を果たせなければ、乞食よりもっと可哀想です。乞食達は時が来れば、もらってでも御飯を食べますが、責任を果たせない人は、時間に合わせて御飯も食べられないのです。

 この様な責任を完遂するのに、神様が「十年間にせよ」と言ったなら、十年間、忠誠と精誠を尽くさなければなりません。歴史を輝かす事が出来る子女の道を、価値ある道として復帰してくる期間を、どの様に短縮させますか。神様が計画した十年という期間を、七年に短縮させる為には、自分の汗が必要であり、自分の血が必要であり、自分の努力が必要であり、自分の苦労が必要なのです。その消耗の代価を通じて、量と質をそこに補充しなくては、国家的で世界的な版図を収拾する事は出来ないのです。統一教会の信徒達は、この様な責任を負って行く人達にならなければなりません。

 その様な時代が来たのです。既に基礎を築いて、外部工事は皆終わり、これからは装飾をする時代です。内部装飾は、主人の手が必要な為、私がいなければいけないのです。壁などは直接関係がありませんが、直接関係してくる、必要とされる全ての与件を備える為には、必ず段階的期間が必要です。それ故、準備時代、実践時代、成就時代があるのです。

 自分の生涯を、時期に合わせて計画し実践していかなければなりません。準備時代には、あらゆる精誠を尽くして準備し、実践時代には、あらゆる精誠を尽くして実践し、成就時代には、あらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。それでこそ、内部装飾がうまくいくのです。その装飾は誰が見ても、「その精巧さにおいて、精誠を込めた度数がずば抜けている」と言われなければなりません。

 ですから、皆さんはみ旨の世界において、準備時代が来て「準備しなさい」という任命を受ければ、準備しなければいけないのです。その次には、実践時代が来ます。その時は、昼夜を問わず実践をしなければなりません。その次には成就時代が来ますが、その成就時代は希望が宿る時期なのです。(三二│七一)

三 三大主体思想と入籍

 心は、神様の代わりです。心は、烈祖、先祖たちを代表するのです。心は師を代表し、心は国王を代表するのです。所で、これ迄この心を、どれほど蔑視し、ないがしろにしてきましたか。宇宙の中心として真成る父母の立場にあり、真成る師の立場にあり、真成る主人の立場にある、真の愛の主体としていらっしゃる方の代わりであるその心が、この地上で、自分一人を収拾する為にどれほど犠牲になってきましたか。

 蔑まれ、引きずり回されながらも、人が悪い考えを持って明け方にどろぼうでもする様になれば、「おい、こ何時!」と、再び忠告するのです。皆さんがその様な心を、どれほどもてあそびましたか。心は、父母の代わりであり、師の代わりであり、主人の代わりです。心の世界では、公判が必要ありません。皆さんが、皆さん自身を誰よりもよく知っています。第三者、証人は必要ないのです。

 父母の前で堂々と出来ない自分、師の前で恥ずかしい自分、国の君主の前で恥ずかしい自分、神様の前に恥ずかしい自分です。そうである為に、「悔い改めよ」と言うのです。本郷に帰るには、悔い改めなければならないのです。

 本郷では、神様を王として侍らなければなりません。神様は、宇宙の王であり、国の王であり、氏族の王であり、家庭の王です。神様は、宇宙の師であり、国の師であり、氏族の師であり、家庭の師です。神様は、宇宙の主人であり、国の主人であり、氏族の主人であり、家庭の主人です。これが三大主体思想です。ここには、「為」にする愛、「為」にして忘れる事が出来る愛の本質があるがゆえに、この三大主体思想が天国を代表するのです。

 自分自身が、その三大思想を全部備えるなら最も理想的ですが、それを全部備えられなくても、「真の父母」の立場に立てば、主は右、主人は左に立つのです。それ故、この三つのうち、どの一つでももてばいいのです。真成る父母に成るなり、真成る師に成るなり、真成る主人に成るなり、いずれか一つの立場だけにでも立つ様になれば、天国入籍は問題ないのです。(二〇九│一五四)

四 入籍の条件

 堕落とは何かと言うと、み言と実体と心情の因縁が離れていったのです。ですから、皆さんがみ言を知って、み言を実践しなければなりません。み言を実践するには、父母の心情を備えて動いていかなければなりません。蕩減復帰をする事が出来る実体的な行動を経た者となって、初めて祝福してあげる事が出来ます。口先だけではいけません。こうして、天の一族、言い換えれば、この国の生命体に成るのです。

 我々の生命現象において、霊形体と生命体と生霊体があります。これらは霊界の反応的な現象なので、この世で霊形体、生命体、生霊体と同様の因縁を経るのです。生霊体になればそこに入籍して、自分の位置を見つけて入るのが復帰の路程です。ですから今からは、皆さんが入籍するのです。

 もしその様につながって入籍される場合には、皆さんがいくら過って、いくら失敗をしたとしても、サタン世界で立てた法を持っては、処理出来ない様になります。アメリカ人達を韓国の国法を持って処理する事が出来ますか。国籍が違うから出来ません。

 その様な圏内に入れば、その圏内の法だけが適用される様になります。ですから、サタン世界の法は、いったん越えさえすれば、いくらどの様にしても適用されないのです。サタン世界の法が適用されないのですから、結局はこの世の法を持ってしてはいけないという事です。ですから、地獄には行かない様に成るのです。

 人は一度生まれたなら、一度は死ななければならないのです。それは公式です。では、死んでからどこに行くのですか。統一教会員は、霊人体があるという事を知っています。その霊人体は、育たなければならないのです。

 これから、皆さんに問題と成る事とは何かと言うと、時が来れば、全体が自分の自叙伝を書かなければならないのです。統一教会に入ってきて何をしたか、その記録の内容が何かと言うのです。ここにおいて、どこかの会社に就職して生活したといった内容は、何の条件にもならないのです。かえって、統一教会に入って会社にいたという事実は、恥ずかしい事です。今に、そういう時が来ます。

 これから、入籍が始まります。南北が統一されれば、入籍をしなければなりません。宗族的メシヤという言葉が問題なのではありません。その内容と事実が問題なのです。その様な全てのみ言の内容が、今後自分が永遠の道を行く為の蕩減条件に成るのです。あの世に行って、皆さんがその道を行く為に、心で体恤しながらどれほど努力したか、努力だけでなく実績をどれほど残したかという事が問題に成るのです。

 救いの道というものは、今迄生きてきた、そのままの習慣的生活を通じて得る事が出来るものではありません。完全に蕩減の道を行かなければならないのです。救いの摂理は、復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理です。それ故、再創造される為には、堕落する前と同様に、本然の位置、ゼロの位置に帰らなければならないのです。

 そこには、意識もなく、習慣もなく、金氏とか李氏とか、自分の姓もないのです。その様なゼロの位置に帰らなければなりません。天の創造本然の基準から見ると、造られた全ての万物は、ゼロから出発したのです。

 所で、人間が堕落する事によって、天国に行く途中、その道に反する事が人間世界にあふれているのです。これを切ってしまわなければなりません。それは言葉では出来ません。全ての民族が、サタンの愛を中心として、サタンの生命、サタンの血統と因縁を結んで歩んできた歴史的文化背景の中で、習慣性、あるいは風習が混在している為に、これはそのま迄は除去されないのです。

 聖書は、「死なんとする者は生きん」と言いました。歴史的な論理がそれで成立するのです。死のうとしてこそ生きるのです。自分の生命を投入しなければならないのです。それで、この全てを洗濯すべきです。言い換えれば、蕩減して、復帰しなければならないのです。その様な過程が、絶対に必要なのです。

 堕落世界で所有していた習慣性とか、罪悪性が残っている限り、神様と関係を結ぶ事は出来ないのです。(二一三│九七)

 皆さんが霊界に行く時、一週間以上神様の為に断食が出来なければ、あの世に行って入籍が出来ません。何故でしょうか。神様は、六千年の復帰歴史路程で苦労されたので、それを考えながら断食をしなければならないのです。それで、統一教会では、七日断食期間があります。それは、皆さんを苦労させようというのではなく、神様の前に肉身を打ったという条件を立てさせる為なのです。(一七│一八三)

 我々はどの様に暮らすべきでしょうか。その方法は、個人は家庭、家庭は氏族、氏族は民族、民族は国家、国家は世界、世界は天地、天地は神様の為に、神様の愛の為に生きる事です。この様に生きて、死んでいくのです。

 我々は、他の人達とは違うのです。伝統がしっかりと立っているのです。何故そうでしょうか。伝統を立てなければ、あの世に行って入籍する所がありません。あの世がその様な組織になっているから、そこに合わせなければ、入籍する事が出来ないのです。

 堕落していない本来の人として再現して、帰らなければなりません。その様な人にならなければ、入れません。これが原理観です。(一三一│五六)

 皆さんは、天国に入籍をしなければいけません。アブラハムは、神様の近くに行く為、祭壇の上に自分と共に万物を捧げました。万物を失った為に、それを復帰の条件とし、人を失った為に、アベルの位置に立って、万物をアベルの立場に立ててカインに条件を立てさせ、神様に捧げるのです。その様にして初めて、神様は受け入れて下さるのです。(一五│一五三)

 皆さんが入籍するのに先立って、絶対的人間として生まれる為には、どの様に成るべきでしょうか。これをはっきりと知らなくては、絶対的に完成品に代わり得る位置、全てに勝ち、自分の主体性を天の前に主張する事が出来るその位置に訪ねていく事が出来ないのです。

 我々人間は、神様を中心として生まれました。どこ迄も出生の動機は、創造主です。創造主によって生まれたのです。創造主の何によってできたのでしょうか。これが問題です。創造主がダイヤモンドが好きで、ダイヤモンドを任せる為に我々を造ったのか、権力が好きで、権力を相続させる為に造ったのか、知識が好きで、全て知識を伝授する為に造ったのでしょうか。始まりの起源、出発の起源とは何でしょうか。これが問題です。

 絶対的な神様が起源となり、彼によって内的に因縁を結んで生まれた自分を主張したとしても、これから本郷の地に帰るプログラムを正確に知らなければ、その進行上の全ては未完成として結論づけられる様になっています。

 自分の出生の動機は、どこ迄も我々の父母によるのです。父の生命、母の生命が、自分をつづって出生させたのに、二人の内外の人格を伝授されるにおいては、生命同士がぶつかって出てきたのではないのです。生命に先立って、この事を繋げる根元的な作動があったのですが、その作動の動機とは何かと言うと、愛というものです。

 生命が貴いか、愛が貴いかという問題について見る時、生命は第二の位置にあるのです。愛が第一の位置です。

 入籍の為に本郷の地に行くべきですが、本郷の地に帰る事は簡単ではありません。手続きを踏んで、完全に合格しなければなりません。どの窓口に行っても、どの地へ行っても、大韓民国のどこへ行っても入籍する事が出来る窓口があります。そこへ行けば甲という人、乙という人、丙という人、ありとあらゆる男女が入り口に座っていても、その人が判を押してあげなければならないのです。(一七七│三〇五)

五 霊界の族長に成る人

 神様と一つになったなら、カインを愛さなければなりません。神様の愛を受ける立場に立ったなら、心を尽くして、命を尽くして、思いを尽くして神様を愛するのと同じ様に、氏族と民族と国を愛さなければなりません。これが地上の第一の戒めです。天国の戒めではなく、地上天国の戒めです。天上天国の戒めは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主成る貴方の神を愛せよ」(マタイ二二・三七)という事ですが、地上天国の一番の戒めは、「貴方の心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くして、貴方の国と貴方の民族を愛せよ」という事です。

 それ故、神様の愛をどの様に植えつけるか、神様の権能と天国の畏敬性にどの様に因縁づけるかという事が問題なのです。そうするには、自分を中心として、横的に広がった舞台をもたなければなりません。その様な人が、霊界に行って、神様の威厳を永遠に相続する事が出来る支派長や族長、祭司長に成るでしょう。(三四│七〇)

 これから神の国を中心として、入籍時代が来ます。十四万四千の群れに入ると言うでしょう? 十四万四千とは何か分かりますか。入籍時代に向かっていくには、自分の氏族圏が、天国の故郷の地と同じ立場にならなければなりません。それでこそ天国の入籍時代に、氏族的に入籍するのです。

 個人の救いの時代は、過ぎるのです。一国の大統領が、統一教会に入教して宣誓すれば、その人達も天国の眷属になり、教会が提示する礼式を経てさえいけば、皆サタン圏から脱するのです。(二一九│一〇〇)

 何時か我々が考えるべき重要な問題は、自分の体と心を統一して、妻と一族を結ばなければならないという事です。体が蘇生なら、夫婦は長成、氏族は完成です。それ故、皆さんの氏族を一つにしなければなりません。南北統一されれば、その次には、入籍が起こります。

 その様な時代に、恥ずかしくない様に、同参する事が出来なければなりません。その時は、皆さんが統一教会に入ってきた以後の歴史を、皆記録しなければなりません。間違っていれば、あの世で引っ掛かります。何をしたかという全てを、いちいち明らかにしておいて、それを踏んで越えていく時、この事実が自分をつかむ様な事があってはいけません。讒訴条件にならない様に、記録を残しておいて越えていってこそ、初めて入籍時代に入るのです。(二一三│二〇六)

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第七章 我々と霊人との関係
第一節 霊的現象と霊人の解怨

一 善霊界と悪霊界

 霊界は、二つのグループになっています。霊界は、サタン世界と神様の世界になっています。霊界のサタン世界で、善の神様の世界に早く行く事が出来る道さえさらけ出せば、地上は自然に解決するのです。その道は、どの様に行く道でしょうか。霊界のサタン世界に行って、個人、サタン家庭、サタン氏族、サタン国を全部天側に引き継ぐ秘法さえもてば、それが可能なのです。

 霊界にその様な時が来れば、地上にもそれが反映する為に、全ての変遷が早くその世界に転がって越えていくと言うのです。(一三四―一五)

 我々が実践する新しい運動とは、何の主義でしょうか。神様がいるなら、神意による主義です。神様がいるなら、霊界があるでしょう。霊界があるなら、霊界は今迄歴史始まって以来、数多くの我々の先祖たち、今生きている数多くの人達、これから来る数多くの人達が皆行ってとどまる所です。

 霊界にも善の霊界、悪の霊界があるでしょう。悪の人達は、必ず悪の霊界に行かなければならないでしょう。もし神様と何かの関係を結ぶ事が出来る人間が残り得る一つの集合体が霊界なら、その霊界も不可避的に二種類に成るのです。これは悪の種類、善の種類です。

 では、いったい悪の種類とは何で、善の種類とは何でしょうか。神様も悪の霊界と善の霊界が和合して、人間世界が和合出来る事を望むでしょう。それで各自がもった目的も達成すると同時に、各自が全体目的も達成する事が出来る、理想的二重結果の立場を追求するだろうと言うのです。人間には、二重目的、個体目的と全体目的があります。

 今迄人類歴史は、何を追求してきたのでしょうか。善とは何であり、悪とは何でしょうか。何故この様に塗炭の苦しみの中に暮らさなければならず、壁にぶつからなければならないのでしょうか。その出発点から、行く過程、終着点の内容が異成る為です。内容を分析すれば、簡単なのです。(一二六―八三)

 霊界がどの様に発展し、どの様に動き、この地上と関係を結んでいくかという全般的な内容を知らずには、これをはっきりと知る事は出来ません。霊界というなら、善の霊界と悪の霊界、この様に二つに分ける事が出来ます。その世界は、実在する世界です。地上世界の人達には分かりませんが、そこは、確実にある世界です。

 霊界でも、善の霊人達と悪の霊人達が闘争しているのです。霊界にも闘争があるのです。善の霊は、悪の霊を扇動しながら良い所に連れていこうとし、悪の霊は、善の霊を何としてでもいい所へ行けない様に妨げる闘いを続けています。

 サタンを中心として、悪の霊がつながっていますが、その悪の霊の統治圏内に、今日地球星の人間たちが暮らしているのです。それは、何故そうなのでしょうか。今迄行った先祖達は、善の霊も悪の霊も、全部霊界に行っている為に、その善の霊も、堕落した世界と区別されたという条件をこの地上で立てて善の側に立っているのかと、神様が御覧に成る時、完全な善の立場に立っている事は出来ないのです。

 神様の本然の理想世界、本然の人間に成る事が出来る、理想的善圏に向かっていくにおいて、善の霊達はそこへ前進しようとし、悪の霊達はそれを妨げようとしているのです。悪の霊界と悪の世界というものは、何時でも通じます。何時でも連絡出来ます。善の霊は、悪の世界で対立して、反対される立場で生き、死んだ霊なのです。それは、宗教を信じて行った霊人達です。(一三四―九)

二 霊的現象

 最後に、もし宗教同士互いに戦うなら、どの様になりますか。その様な現象が起こりやすい時代にあります。その様な時代を防備する為に、統一教会が生まれたのです。統一教会は、それを防ぐ為の防備材です。

 それで、宗教戦争時代には、霊肉共に防備するのです。霊界は、地所を占領しているのです。

 霊界には、霊人が何千億もいるでしょう。日本の一億は問題ではありません。それは、足の下のほこりほどにもなりません。数千億、数万億の霊人達が、地上を占領する為の攻略をしてくるのです。ノイローゼ現象がその一つです。

 二〇〇〇年代を越えれば、その時は皆霊的に通じるかもしれません。悪霊に通じるなり、善霊に通じるなり、霊的に通じる様になれば、「戦争をするな」と言っても、戦わざるを得ません。そうする時が来るかもしれません。それを防備しなければならないのが、「統一原理」の使命です。

 高いアンテナには、ピーピー音が出ます。それがノイローゼ現象です。最も恐ろしい事は、悪霊だけが動員されて地上攻略をしてくる事です。そうした場合に、どの様に成るかが問題です。いくら人が全地球星に満ちたとしても、悪霊に攻略されてしまうのです。それで、神様はそこ迄準備していらっしゃるのです。善霊たちを中心として、霊界の基台を広げてきているのです。(五五―三〇)

三 霊界から来た手紙

 この前、李相憲さんの奥さんの閑淑さんから、霊界から手紙が来たのです。その手紙の内容はどの様なものかと言うと、「霊界がどれほどいいか、祝福がこの様にとてつもないとは思いませんでした。天国の皇族圏内に入ってきているという事実が、夢の様な話です。余りにも素晴らしくて、貴方より私が先に来たのが申し訳ありません。許してください」というものでした。夫より先に死んで、霊界に行ってみると、統一教会を信じて行った為に、豪華絢爛な夢の様な事実が繰り広げられたので、貴方よりも先に来たのが申し訳ないと言うのです。余りにもいいからそうなのです。

 私の様な人は賢い人です。その世界がよく分かる為に、そのプログラムに合わせる為に、一生の間暮らすのではないですか。根源から来たので、根源に帰らなければなりません。

 海に集まった水が水蒸気になって大気中に上がり、雨となって降り、川ができたのではないですか。ですから、本然に帰らなければならないのです。全ては循環運動を通じて生命が連続するのです。循環しなくなれば、全部元素に帰るのです。

 神様はどんな方でしょうか。神様は、宇宙の存在世界の心の様な方です。神様は宇宙の心の様な方です。

 皆さんは、心を見る事が出来ますか。霊界は心の様なものが体と化した生活の世界ですが、これは時空を超越した所です。そこでは、御飯を思いどおりに食べる事が出来ます。御飯の心配をする必要がありません。水の心配をする必要がありません。飲料水の心配をする必要がありません。服の心配が必要ありません。衣食住の全てを超越します。

 そこに自動車が必要ですか。自動車工場、食品工場、服の工場、織物工場があるでしょうか。皆ありません。そこでは、億千万里を瞬間的に往来するのです。何の力を持ってするのでしょうか。愛の力を持ってその様にします。愛する人に会いたいとすれば、すぐに現れます。

 愛の速度というものは、最高に速いのです。愛の行く道は、直短距離を通じるのです。それは世の中の愛ではありません。神的な愛です。神的愛が真の愛です。真の愛の圏内に入る様になれば、直短距離を通じる最高の速度で行き来する事が出来る為に、宇宙を自分の考えの圏内の舞台として活動する事が出来るのです。先生は、その様な事を皆知っている為に、世の中の万事に対して、悲しい苦痛の谷の道を一人で行きながらも、生涯、開拓者の一線に立って経てきながらも、恨まずに来たのです。今も、死ぬ日迄直行しようと決意をしているのです。

 死ぬ様になれば、霊界の軌道があります。レールがあるのです。地上のレールと霊界のレールは、国境を越える線路と同じです。これは狭くてもいけないし、高くてもいけません。合わなければならないのです。その様な事が分かるのは、宗教の中で統一教会しかありません。いくらキリスト教が何だかんだと言っても、それは分かりません。イエス様が霊界の話をしましたか。

 二十世紀後半期、先端科学を誇るこの時代に、公式的な発達の論理を追求する現時代に、公式的過程を通じた宗教的理論を通じて、神様を実証する事が出来る内容をもった所は、統一教会しかありません。(二一〇―二二五)

 今は、イエス様が反対された時代ではありません。韓国全体が世界的な版図をもった歴史性を中心として、先生を称える事が出来る時代が来た為に、皆さんは氏族的メシヤの責任を果たさなければなりません。今、一族達は、瞬間的に姻族の八親等迄復帰されるのです。六カ月に百二十家庭は問題でもありません。今、この様な兄の立場に立ったのです。

 天地が開闢するのです。お爺さんが孫になり、お父さんが息子の立場に立つのです。孫が王に成る様になれば、お爺さん、お父さんが自分の先祖たちに侍らなければならないのと同じ道理です。メシヤが王権を代表するのです。その国では、全ての聖徒たちが再臨して、キリストの名で王の役割をするのです。ですから、これは氏族的王権に成るのです。その様になれば、国家的世界の版図圏に、王権が同参が出来る解放圏に成るのです。

 今回、李相憲先生の奥さんの閑淑さんが霊界に行って、そこから送った手紙があるのです。「霊界に来てみると、いいのです。祝福されたら、こちらに上がってくる事が出来るのです。天の皇族が何の事か分からなかったけれど、今来てみると、本当にとてつもなくいいのです。貴方より私が先に、この様にいい所に来てごめんなさい」と言ったのです。その様な所です。

 広大で永遠な世界が本郷に繰り広げられるのに、そこで活動地域を制限され、方向感覚を失ってしまい、可哀想な行動をする男たちにしたくないから、広い大宇宙でも東西南北、四方を自由に旅行する事が出来る、明らかな解放圏をつくる為に、こうするのです。

 後代を準備する為には、何かを残しておかなけれなりません。自分の後孫たちを、豊かに暮らさせる為に、国に良いものを残しておかなければなりません。そうすれば、国の人達が保護する様になります。お金や知識や権力を残しておかずに、愛国的な功績を残しておきなさい。全ての人が「滅びる」と言いましたが、先生は滅び得ない準備を鉄石の様にしたのです。ですから、滅びようとしても滅びないのです。(二一三―一四六)

四 霊人の願い

 霊界に行っている人間達は、何を願うでしょうか。霊界は、自分が置かれている基準で、全てを補給され得る世界です。

 自分が願うなら、即時的です。消化して動かす事が出来る主体的な能力がある人ならば、不可能がない世界です。この様な話をすると、「気が狂った人だ」と言うから、私は話をしません。

 もし百万人の宴会をするなら、考えると同時に百万人が広場に現れて、全ての準備が可能である為に、百万人の宴会を瞬間的にする事が出来るのです。今日、この地上世界がどれほど悲惨ですか。このごろの韓国社会を見れば、失業者が多いではないですか。その様な世界です。何が可能に成るでしょうか。原子力の分裂作用において熱が出るのと同様に、皆さんが愛の分裂作用をすれば、瞬間的に可能になります。そういう事が、あるようではないですか。(一四一―二七八)

 あの世界は、どの様になっていて、つながっていくのでしょうか。あの世界においても、現在の立場より、あすの立場が良く成るのを願う事は同じです。

 地上で暮らす人間たちが生活する中で、きのうよりきょうが良い事を願い、きょうよりあすが良い事を願うのは、共通真理です。西洋人も東洋人も、昔の人も今の人も未来の人も、誰に限らず、現在生きているより、良く成る事を願うのは、共通真理だと言うのです。これは変わりません。

 霊界に行っている全ての霊人達も、それと同じなのです。現在より良く成るべきだと言うのです。地上で生活した時より、良く成るのを願うのです。(一四一―二六九)

 今迄の六千年の歴史は、アダム一人を探してきた歴史です。アダム一人を再創造する歴史です。それ故皆さんは、先生についてこなければならないのです。エバはアダムが出てこなくては、創造される事が出来ません。それ故、たった一人のアダム、たった一人の男性を創造するのです。

 その一人を創造する為には、復帰摂理の途上に生まれては死んでいった数多くの人達の血と肉が材料にならなければなりません。億千万の霊人達の恨みが、ここにまとまらなければならないのです。そうして、この実体が登場する日に初めて、激しい迫害の中で血を流して死んでいった殉教者達は、殉教した事に喜びを感じる様に成るのです。

 たとえ霊界にいたとしても、地上にいる実体と関係を結ぶ事によって、自分たちにも解放がやってくるのです。この様になっています。それが観念的で漠然としていてはいけません。この自覚を、どの様にするかが問題です。(二九―二七一)

 我々は、そばで誰かが食べていようと、休んでいようと、何をしても関係なく、その道を行くべきです。ずっと前迄、数千名が一様に皆行っているのです。休まず動きながら、精誠を捧げて身もだえしながら行く様になれば、他の人達もその縄を巻いてくれるのです。ですから、数多くの人達がそこから落ちるのも、感じる様に成るのです。

 マラソン大会をするのと同じです。走ってみれば、一等も出てくるし、二等も出てくるのです。歴史がそうです。今迄数千年間、数多くの霊人達がその縄にしがみついてきました。その中で、一等になってあの世に行って、その巻く装置と因縁を結んで、丸ごと巻いてやる様になれば、霊界と肉界が復帰されるのです。(三二―一四五)

五 霊人の解怨

 我々は、三時代の使命を完結しなければなりません。霊界に行っている霊人達を解放し、今日この罪悪の世の中に生きている人達を解放し、これから来る後代の人達も、ここから解放しようと言うのです。この様に三時代の解放圏を持って出てくるのです。

 これは膨大でとてつもない事です。この様な夢の様な内容が、事実として現れればどう成るでしょうか。目が真ん丸くなり、口は限りなく開き、耳はぴんととがるでしょうが、頭は下がる様に成るのです。(二八―二〇一)

 統一教会は、何をする団体でしょうか。平和をつくる為の団体であり、和解をさせる為の団体です。所で、誰と和解をつけるのでしょうか。イエス様と聖霊が今迄、この事をしています。出産の使命を果たすのです。イエス様と聖霊が果たすべき使命は、息子、娘を出産する事です。

 聖書を見れば、「子を産む事によって救われるであろう」(テモテⅠ二・一五)とあります。女性達は出産すれば救いを受けるとあるのに、既成教会の人達は「女は赤ん坊を産んではいけないのだ」と言います。そうであるなら、神様が女性に赤ん坊を産む器官を何故つくったのでしょうか。それは、女性を代表したエバに代わって再び出産しなければならないという事を象徴的に言ったのです。

 エバは霊と体を身にまとって本然の母の性稟を結実すべき本性的主体性をもった立場にありましたが、相対的基準に立てなかった事とによって、実体化する事なく、神様がそれを再び神様のもとに収めたのです。そうして、それをイエス時代に、主体の前に対象として送ったのです。それで、それには体がないのです。イエス様は体がありますが、聖霊には体がないのです。それで聖霊を、火の様な聖霊、油の様な聖霊、風の様な聖霊と言うのです。

 ですが、母的使命を果たして、我々人間の心に入ってきて感動を与えて罪を洗う役事をする様になれば、きれいに成るのです。それは、母が妊娠をして、赤ん坊を育てるのと同じです。その様にするには、父の保護を受けなければならない様に、イエス様の保護を受けて、再び生まれたという条件に立ってこそ、重生に成るのです。生まれ変わるという言葉が成立するのです。

 イエス様と聖霊が、今迄休んだ事がありますか。休めませんでした。キリスト教が休んでみましたか。休めませんでした。神様は今迄六千年間、堕落した人間を救う摂理において、休んでみた事がありますか。休んでみる事が出来なかったのです。皆休めませんでした。では、統一教会は休んでみましたか。統一教会の先生が休んでみましたか。今も、年が五十歳を越えても、驚いた鹿の様に跳んで回ると言うのです。

 何故そうなのでしょうか。和解をさせ、神様を休ませ、イエス様と聖霊を休ませ、我々の先祖たちを皆楽にしてあげる為です。

 神様も先祖でしょう? キリスト教で言えば、生まれて死んだ先知先烈たちが全部先祖なのです。宗教で言えば、昔から生まれて死んでいった全ての宗教指導者たちも、全部先祖なのです。その様な先祖たちを解放してあげなければなりません。先祖の恨みを解怨成就してあげなければなりません。(七五―三八)

 先生は目が覚めさえすれば、もう便所に行きながらも考えるのです。寝ても覚めても二十四時間考えるのです。それ故、皆さんに借りをつくる男ではありません。借りをつくる男ではないのです。どれほど劣っていれば、責任者が借りをつくるかと言うのです。

 先生が若い人に負けてはいけないと思うのです。このごろも、船に乗って毎日の様に出掛けるのです。アメリカにおいて、これから海に関心を持つ人が無限な繁栄圏を持つ様に成るという事を知っている為に、そういう事をしているのです。

 海で死んだ霊界の霊人達を解怨してあげる為に、先生がその事をしているのです。ある時は、台風が吹くという警報を聞いても、船に乗って出るのです。その様にして死んだ霊たちが、多くの事を知っている為にそうするのです。私が一九七五年にケープ・コッドに行って何をしたかと言うと、霊人達を解怨させてやったのです。解放運動をしたのです。それは、世の中の誰も知らないのです。

 では、反対されるのに、何故その様な事をするのでしょうか。それは、霊界の解怨の為にするのです。(九三―九六)

六 霊界統一

 肉的世界はサタンの活動舞台であり、霊的世界は神様の活動舞台になって、何時も食い違ってきました。これが復帰摂理時代に恨の与件として残っているというのは、間違いない事実です。これを食い違えさせてはいけないのです。神様を中心とした心の圏と、神様を中心として治められる体の圏を備えなければなりません。生活圏内でこれをどの様に発展させるかという所から、統一基盤の基準が確立されると言うのです。(四五―二一三)

 この世界が統一される為には、霊界から統一しなければなりません。皆さん、霊界が分かりますか。霊界を知らなければなりません。霊界を統一しなければなりません。霊界を統一するのは、たやすい事でしょうか。霊界の統一なくしては、地上の統一がないのです。今日、この地上の戦いが実に大変でしょう? 地上の戦いが大変です。しかし、霊界の戦いは、地上の戦いより難しいのです。この様な事を考える時、今日、「大変」という名詞を口を開いて言う事が出来ません。(一五三―五六)

 理想を探していく過程で、霊的なものと肉的なものが一つに成るのは、何によってでしょうか。霊的な世界は霊界であり、肉的な世界は地上世界ですが、霊的世界と地上世界が一つに成る為には、すり替えなければならないのです。自分のものを持ってはいけないのです。全部与えてこそ、あちらが来て、またあちらから全部与えてこそ、こちらがあちらに行くのです。失ってしまった立場に行くのです。(一四七―九四)

 我々がこれから霊界と肉界を繋げるには、まず世界的な信念の自覚、統一的な理念の自覚をして、世界的に打開する為の受難の道を甘受していかなければなりません。こうする様になれば、霊界と肉界が自動的に一つになり、ここから統一が繰り広げられます。統一の道を行く方向が決定されるのです。(二九―二八五)

 統一教会が霊界を統一する前に、肉界を統一する事が出来ますか。出来ません。それが原則です。それ故先生は、霊界を統一する為に、肉界にいる皆さんを死地に追い出すのです、無慈悲にたたいて捕まえるのです。

 その様になれば、霊界は皆さんに協助せざるを得ないのです。皆さんが悲惨な立場に入れば入るほど、それを中心として、霊界は霊界なりに団結する様に成るのです。皆さんが深い立場に入る様になれば、三千万の民族の中で天国圏が繰り広げられるのです。この圏は、昔から地獄に行っている輩迄も含まれるのです。(四九―一〇九)
第二節 地上人と霊人との関係

一 地上人と霊人

 この世界は、悪魔の世界です。悪魔の世界を訪ねてこなければならないのです。皆さんは、何時死ぬか分からないではないですか。誰でも死ぬのです。死の峠を越えて往来する事が出来る基盤を地に築いて行かなければ、地上天国が出来ないのです。地上天国が出来なければ、天上天国が出来ないのです。皆さんが霊界に行っても、この地上に思いどおりに来る事が出来る様にしておかなければなりません。それでこそ地上天国に暮らし、天上天国が成されて暮らす様に成るのです。

 霊界に行ってから、来る事が出来なければいけないのです。地上に天国を成せなければ、地上に来れないのです。これは妄想ではありません。その様になっているのです。永遠をかけて、しなければならないのです。先祖たちが、全部責任分担と蕩減条件に引っ掛かって、霊界に行っても行くべき道を行けずに、地に再び下りてきて蕩減するのと同様に、その道を皆さんは残してはいけないのです。原理のみ言が事実なら、皆さんはそこに皆引っ掛かるのです。(一四六―二二三)

 宗教として行くべき道、あるいは、一般の世界が行くべき道が、互いに塀でふさがっています。不信者がどの様に信仰する人と和解する事ができ、また信仰する人が、どの様に世紀末時代に来て和合する事が出来るでしょうか。これを解決しなくては、人類は二股に分かれて、新しい一つの世界に入れない様になっているのです。

 もし二股が一つの世界に入っていく事が出来るというなら、その世界は二股の世界の結果をもたらす様に成るのですが、それは絶対的な神様が理想とするものになり得ません。一つであるしかない神様の理想世界に、二つとも到達する事が出来ないと見るのです。それ故今日、多事多端な世界的事件が問題解決の焦点ではなく、体と心をどの様に一つにして、目的に向かって飛躍する事が出来る自分自身を発見するかという問題が引っ掛かっているのです。

 宗教と世界統合を、自分自身から探さなければならないという観点で見る時、統一教会は、何をする教会かという問題がここに台頭するのです。統一教会は、宗教だけの為の宗教ではありません。統一教会は、この世と一致和解して、宗教的活動基盤が、社会的活動基盤に同伴する事が出来る道を探していくべきであり、また、世の中が宗教分野の道を探していく事ができ、これが一つになり得る道を模索しなければなりません。ここには、大きな塀が横たわっているのです。宗教と社会が一つに成るにおいて、個人的、家庭的、民族的、国家的、世界的に、霊界迄塀で妨げているのです。

 この塀をどこから壊すのでしょうか。故障はどこから生じたのでしょうか。世界の果てで生じたのではありません。個人に生じました。個人が、自分を中心として故障する結果、体と心が分かれました。体と心が分かれて、いく筋も指向する、自分なりの目的を持って行く様に成る結果になったのです。ここから問題と成るのは何でしょうか。目的をどの様に一つに帰一させるかという問題、分かれた体と心をどの様に一つに繋げるかという問題があります。

 神様とサタンがいるとするなら、神様とサタンが働いています。神様は、今迄人間を救う為の復帰摂理をしてこられ、人間を救う為の求道の摂理を指導してきています。それに反してサタンは、神様の摂理に反対してきています。善側の神様は、摂理の方向において一つの理想世界を目的として、毎日毎日より分けていきながら、その目的に接近出来る道を推進させていく反面、悪神のサタンは、そちらに行ってはいけないと言いながら、反対の道に妨げているのです。

 一つの境界線、一つの塀を中心として、神様は「塀を越えるな、お前は右に行かなければならない」と言いながら妨げて、サタンは「お前は左に行かなければならない」と言いながら妨げているのです。それで分かれるのです。右に行く為の人間の出発が実を結んだのが右翼であり、左に行けというのを世界的に展開させてきたのが左翼です。この左翼と右翼の世紀末的な歴史時代に対する様に成る時が、今です。この右翼と左翼は、心と体が戦う結果を表したものです。

 では、これをどの様に一つにするか、これが問題です。世界が一つになり、国家が一つになり、氏族が一つになり、家庭が一つになって、個人が一つに成るのでしょうか。違います。出発をどこからしなければならないかと言うと、個人からしなければなりません。ですから、この世界において、急がなければならない問題は、個人から一つにする運動をしなければならないのです。それで、宗教の中で現実がつながり、現実の中で宗教がつながって、互いが否定出来ない自分自身を発見しなければなりません。

 所で、ここで問題と成るのは、悪神が体を支配しているのです。悪神の根は自分の体を中心としており、先生の根は自分の心を中心としているのです。それで、唯物史観と唯心史観に分かれるのです。世の中の言葉は、ただ出てくるのではありません。その時代的な時が来るに従い、罪人は罪人である事を告げなければならない様になっているのです。「私はこうだ」という事実をありのままに告げなければなりません。我々人間が、世界的舞台を中心として一つになれるかなれないかという結果的事実は、善神と悪神が世界の基準で証すのです。自分がそこに包括されており、包容されている為に、それを測定できず感じられないだけであって、善神と悪神はその様な立場で、世界舞台で戦っているのです。(一四五―一五)

二 霊人達の霊界での立場

 今日地上には、四十億の人類が暮らしていますが、霊界には数千億の霊人達が暮らしています。それ故、地上のこの世界と、我々が眺める主体と成る霊界が、どの様につながっているかというのが問題です。我々が貴く思う物質を中心としてつながっているのでしょうか、知識を中心としてつながっているのでしょうか、我々が地上で重要視する権力と同じ内容を中心としてつながっているのでしょうか。そうではないのです。

 何故かと言えば、あの世界は、物質世界を超越した世界だからです。あの世界は、知識の世界を超越した世界です。時空を超越している世界である為に、きのうの喜びがきょうの喜びになり得、きょうの喜びがあすの喜びになり得る世界なのです。

 この様に見る時、その本質の世界は、今日人間世界に暮らしている我々が必要として、重要視する内容を中心としては動かないのです。霊界の生活の全ての価値的な中心とは何か、それが重要なのです。

 霊界に暮らす人達は、各個人が霊界の社会に属しています。霊界にも人間世界と同様に、霊界の家庭があり、一族がいて、一つの国があり、世界とつながっています。

 今日、地上に暮らしている人は、好きでも嫌いでも、誰に限らず、死んでとどまる所が霊界です。そこには未開人から文明人迄、歴史時代に生まれて死んだ千態万象の人間の群像が集結しているのです。

 今迄の人類歴史が、平和を中心とした人類歴史になれず、幸福を中心とした人類歴史になれず、理想を中心とした人類歴史になれなかったなら、霊界に行っている人達は、どの様に成るのでしょうか。どの様に治められるのでしょうか。ここで暮らした人が、あの世界に行って突然変わる事は出来ません。「三つ子の魂百迄」という言葉があるでしょう? 生まれもった性格は直しにくいのです。

 この様に見る時、あの世に行っている霊人体達は、我々が今迄暮らしたのと特別に違うのでしょうか。突然変わるのでしょうか。そうする事は出来ないのです。ここで暮らしたその形、そのま迄収穫されていくのです。

 霊界に行っている全ての霊人体は、結局は地上に暮らしていた人達の霊人体です。その様に見れば、今日この人達が暮らしている世の中と、別に違いのない世界なのです。(一四一―二六八)

 霊界は、今迄数多くの部類の歴史を持っています。所で、この霊人達は、思いどおりにここに来て働く事が出来ないのです。ふさがっているのです。

 それで、宗教で橋を架けなければ、特定の人以外には、再臨する事が出来ないのです。ユダヤ教の中にも派閥が生じました。霊界から下りてくる時、その主流が直線では駄目なのです。ユダヤ教の互いに違う系統が精誠を尽くす様になれば、その主流が移って、行ったり来たりするのです。

 それ故、霊界にいる人が下りて来るには、直線に該当する人以外には下りて来れないのです。再臨役事の協助が出来ないのです。そうして、一世紀もたてば、またその人も霊界に行くのです。霊界に行って、その次の時代に来るには、やはりこの様な原則で下りて来るのですが、特定の霊人達以外は下りて来れないのです。

 霊界の塀は、だんだん多くなります。だんだん複雑に成るのです。その次の世代が全部霊界に行くのです。それで、だんだん壁が大きく成るのです。全部壁です。今の時は、世界的時代なのです。どれほど複雑か考えてみてください。これを探してくるには、どれほど回り回って来なければならないかを考えてみてください。それ故、時になったなら、塀を崩さなければならないのです。霊界から下りて来る道と、入って来る道をつくっておこうと言うのです。この事を統一教会がするのです。(一〇二―二九)

 今迄霊界に行った霊人達は、全部分かれています。霊界では横的には通じません。縦的にはこの程度に通じます。(二一八―一二五)

三 霊人の数が地上人より多い

 皆さん、霊界がどれほど大きいか分かりますか。霊界にどれほど多くの人口があるか考えてみましたか。今霊通する人達が言うのを聞けば、一人に対して三千三百二十余名の霊人達がついて回ると計算しています。我々の側がその様にいると考える時、世の中に負けるでしょうか、勝つでしょうか。

 霊人達が原子爆弾を怖がりますか。それと同様に、皆さんも銃弾を怖がらず、原子爆弾を怖がらず、国を怖がらなければ、絶対負けないのです。間違いなく勝利するのです。超越しなければなりません。皆さんは反対しますが、私は「行け」と言い、後ろについて行った後に、門を閉ざして主人の役をすると言うのです。皆過ぎれば門を閉ざしてしまうのです。その様な考えをしながら、今戦っていると言うのです。(八六―一九三)

四 放浪する霊たち

 飢えて死ぬ人より、もっと可哀想な輩が、神様を否定する人達です。飢えて死ぬ人は、自分の善意の道理によって、あの世に行く様になっても級がありますが、神様がいないと言う人は、霊界を否定する為に、基盤がないのです。霊界で雲の様に放浪します。さすらいの霊に成るのです。雲が集まって雨が降るのと同様に、集結して全部悪い影響を及ぼすのです。ですから、全部地獄に訪ねていって、地獄を煩わしくするのです。その様な事をちゃんと知って、これらを生かしてやらなければならない為に、この事をするのです。

 その次には、死ぬ人が問題です。今、一日に六万名が死んでいっています。それを父母、子供、兄弟たちが見る時、胸が絞めつけられ慟哭する出来事が繰り広げられています。所で、「真の父母」という人が、同情せず、それに対する準備をしなかったなら、地上において在世当時、自分たちと共に生きたという条件が恨みになります。

 私がその様な考えを持って、海洋事業を中心として、万民の食糧問題を解決し得る道を準備するのです。二重、三重に苦労しても、統一教会が一番近い人達になり、助けてあげる事が出来る道の為に、世界的宣伝をして準備をするのです。ワシントン・テレビジョン・センターを造ったのも、皆それです。募金運動をするつもりです。

 人が百年生きられないのを考える時、五十億の人類の中に、一年に五千万が霊界に行きます。これらが地獄に行くのをどの様にしますか。サタンが蒔いておいた種を、全部天に収めるのを神様が願うのに、これが遅れれば遅れるほど、どうなりますか。今迄四十年間に、どれほど地獄に行きましたか。数十億が行ったのです。深刻な事です。あの世に行って、霊たちに会う様になれば、「先生の在世当時に我々に対して責任を果たせなかった」と言われれば何と言いますか。心だけでもしなければなりません。心だけでも食口たちに話し、未来についても責任を持つという行動を中心として行く様に成る時、「貴方は驚くべき方です。我々を考えて下さった」と言うのです。(二一三―三五五)

五 霊人の区分は心が知ってする

 深刻な心情の立場で話をして、汗を流し、帰ってきて飲む水の味を、世の中の普通の人達は知らないのです。その味は、どうだったでしょうか。コーラとか、蜜の味とは比較にもなりません。味が違うのです。毎回違います。

 その様な事も発見しなければなりません。その様な事を感じなければ、霊感を感得する事は出来ないのです。霊界に対する全てに感応する事が出来ないのです。その様な事を感じる様になれば、耳が鋭敏になって、あちらで話せば、すぐに何の話をしているか分析してしまうのです。目をつぶっていても、誰が過ぎ去るか、良い人なのか悪い人なのか突き止めるのです。霊感が来るのです。それを知らなくては、霊界の悪神なのか善神なのか見分けがつかないのです。見て分かるのではなく、心が分かるのです。心の目は、見て分かる目よりも、高次的な立場にあるのです。

 皆さんはまだ行くべき道が遠いので、先生がこの様な話をするのです。それを知るべきなのです。自信を持つべきではありません。それで聖書には、「こころの貧しい人達は、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ五・三)とあります。同様の道理です。皆通じる言葉です。(九六―一七〇)

六 地上人の暮らしの価値

 我々は、アダム・エバに対して、今迄数千年下ってきながら、数多くの人達が讒訴した事を知っています。今、皆さんが新しい先祖に成るのです。皆さんの後代の前に讒訴され得る先祖に成るか、栄光を受け得る祝福の先祖に成るか、この二つの道の岐路に立ったのです。アダム・エバが公的な立場に立てなかった事によって、讒訴の条件を残しましたが、より公的な立場に立って犠牲の道を克服していたならば、今日人類の後孫の前に讒訴されなかったであろう事は、当然の道理です。

 皆さんもその様な立場に立ったという事を知るべきです。ですから、皆さんは何時も「三世代を代表した私だ」と考えなさいと言うのです。

 それ故、霊界が自分の肩にかかっているのです。皆さんの先祖が、皆さん自身にかかっていると言うのです。過去、現在、未来を全部この様に集めて、二つを合わせて引っ張っていけば、走ってくるのです。その様な使命を果たすべきです。

 ですから、霊界が自分の肩にかかり、親戚が自分の肩にかかり、親戚だけでなく国が自分の肩にかかり、これから来る後孫の前に正しい伝統を立てておかなければならないのも、自分の肩にかかっています。これを何時も考えるべきです。皆さん一人が、うまく出来るか出来ないかによって、霊界に行った皆さんの先祖たちも解放する事ができ、皆さんの親戚たちも解放する事ができ、皆さんの後孫達は解放の選民として決定され得るのです。(六六―七六)

 神様が標準を六千年間合わせようとしましたが、今迄一つの標的にも当たらなかったのですが、今何万年目に撃ってぴたりと当たったのです。その合う時間を考えれば、一番眠気が差す時です。一番眠気が差し、一番疲労困憊する時なのです。神様がその時、居眠りしたり、疲労困憊の状態でいるでしょうか。神様御自身が撃つ時、疲労困憊して眠気が差すか差さないかという時、気を引き締めて撃ったのです。その時、撃ってから居眠りして、疲労困憊して倒れるでしょうか。神様が体面も何もなく「うわ!」と喜ばれるのです。

 霊界では、どれほどあきれるでしょうか。天使世界から見る時、「天使が過って神様をあの様にしておいたのに」と言い、どれほどあきれるでしょうか。どうか合えと、どうか合えと願った事が、何万年続いたのに、それがぴたりと的中すれば、霊界はどうでしょうか。

 世界の人達が、その様な素晴らしい所があるなら、入場券一枚が一万ドルするとしても、買って入るでしょうか、入らないでしょうか。そこにありとあらゆる人達が来て、「ああ、チケットを買って損した!」と不平を言って出たのに、あとでその町内のある乞食がお金を借りて、物乞いしてチケットを買って入り、神様が標準を合わせるのを見たらどうでしょうか。乞食がそこで踊りを踊るでしょうか、踊らないでしょうか。

 その様になれば、神様も気分が良くて誇るでしょう。「おい、当たった、当たった! 誰かいないか。誰かいないか」と、この様に探すのではないですか。その時、神様がその乞食を見たなら、「おい、こ何時、乞食よ!」と、そう言うでしょう。「ああ、うれしい」と言って踊りを踊られるでしょう。(一〇三―八七)
第三節 先祖たちと我々

一 我々を見下ろす先祖たち

 皆さんが霊界に行ったなら、先祖たちが現れるでしょうか、現れないでしょうか。「うちの孫たちが統一教会に入って、文先生に会ったって!」という所から、天国の宮殿、皇族が始まるのです。今迄天国に宮殿がありませんでした。

 「真の父母」が教えてあげた通りに、ただ愚鈍に「しなさい」と言われる通りにする孫と、自分の思いどおりにうさぎの子の様にするすると抜けていく孫娘とを霊界から先祖たちが見る時、どちらを褒めるでしょうか。うさぎの様にする孫娘を褒めるでしょうか、亀の様にする孫を褒めるでしょうか。亀の様にする人を褒めるのです。

 うさぎは小便をよくします。亀はよく分からないでしょう。亀が小便をするのを見た事がないので、亀はよく分かりません。うさぎは少し行っては小便をして、少し行っては小便をするのです。それは何故ですか。他のうさぎたちが来る事が出来ない様に、自分の領土を決定する為に、小便をするのです。

 亀の様にしなければならないのです。「しなさい」と言えばして、夜が来ても昼が来ても、歳月が流れても、春夏秋冬を忘れてただまめに行く人は、皆歓迎します。あの世の全ての先祖たちが、皆さんの暮らしを皆見ています。隠れる所はありません。先祖たちが全部見ているのです。霊界に行く様になれば、壁も皆通じるのです。地球の固まりも、皆通じるのです。

 その様な世界に行って、永遠に暮らさなければなりません。神様の愛の対象として造った人間である為に、神様が永遠であられる限り、愛の対象に成る存在も永遠に必要だと言うのです。神様が永遠であられる様に、我々も永遠なのです。愛の相対にならなくては、永生がありません。

 あの世では、どんな人が一番高い位置に行くのでしょうか。千年、万年、自分が何度も生まれて、神様の様に人類の為に生き、神様に同情し、神様を慰める事が出来る自分に成るという人が、神様の前に一番近くに行くのです。良いものがあれば、全部人類の為に使おうとする人です。お爺さん、お婆さんは、行く日が近くなれば、良いものは全部息子、娘の前に残してくれるでしょう? 自分が努力した全ての代価を譲ってくれるのと同様に、その様な心を世界人類の前に残してあげると言い、世界の前に譲ってあげると言える生活をしなければなりません。(二一三―一九六)

二 我々が先祖よりより良くあるべし

 先祖が生きてきたこの家の中に、自分の曾祖母、曾祖父が暮らしたその部屋に、うちのお爺さんを産んで、うちのお婆さんを産んで、自分を産んだその部屋に、お爺さん、お婆さん、曾祖父、曾祖母が愛したその愛より、もっと大きな愛を残す事によって、天が見る時、愛光沢で光るのです。百ボルト、千ボルト、一万ボルト、何億ボルトの光がずっと輝くのです。その輝く光がどこに行くかと言うと、故郷に行くのです。先祖、先祖、先祖と上がっていくのです。霊界に行く様になれば、神様を中心とした天国に行くのです。その天国が、本来我々の本然の故郷です。我々の本来の父が神様でしょう?

 アダム・エバは、神様の体です。アダム・エバは、横的な父母であり、神様は縦的な父母である為に、我々が横的なこの体を脱いでしまい、縦的に還故郷して、天国で永遠の王として侍って暮らすのです。その王とは誰でしょうか。アダム・エバが堕落しなかったら、神様の体として和して、その体を身にまとって完成して、この地上で神様の愛で直接主管圏と間接主管圏を繋げる責任分担を果たした人の王に成るのです。そうすれば、神様は、そのアダムの心においでになり、アダムの霊は、神様の体に成るのです。一身に成るのです。永遠に神様の愛と人間の愛を共に分けて、それを呼吸するのです。

 それ故、神様の愛を受けなければならず、その次には、先祖になったアダム・エバの愛を中心として、誰がもっと本質的な愛に近いかというのが、あの世に行って修行していく永遠の路程です。(二一三―一九〇)

三 墓参りもしなければならない

 お爺さん、お婆さんが亡くなったなら、墓参りをしなければなりません。神様が墓に埋められたとして、墓参りをしなければなりません。今亡くなられるいう時になれば、慟哭して泣きなさい。お婆さん、お爺さんに侍られなかった恨を、自分一代で贖罪しなさいと言うのです。

 自分の泣く声を聞いて、天上世界の神様が全部認める立場で、うちのお爺さんを自分を見て、「そうだ。よし」と言える伝令が来る迄、精誠を捧げなければなりません。収穫の時になれば、そのお婆さん、お爺さんをそのまま残しておいてはいけません。春夏秋冬四季の佳節全部に訪ねていって、侍る事が出来なければなりません。統一教会のお化けになったと思い、流れていく鬼の子だと思ったのに、王孫(注:王の血筋を引く者)が生まれたと称えるのです。

 父母に侍ったこの地のある王よりも、家庭的に侍らなければなりません。皆さんの父母が王になればいいと思うでしょう? 皆さんの父母が、神様よりも、王よりももっと高ければいいというのが皆さんの心なのです。それが皆許されていたのです。「自分が王宮の道理の法を守ってでも、父母を世界のどんな王よりも幸福にする」と言う事が出来る王孫の資格を備えて生きなければならないのです。

 そこでは、父母たちが口を開く様になれば、自分の息子を誇らざるを得ないのです。天国の先祖たちもたたえ、後孫たちも称える為に、ここからその父母を中心として、統一圏が繰り広げられるのです。父母を中心として統一圏が繰り広げられ、お爺さんを中心として侍って統一圏が繰り広げられ、全部が統一圏が繰り広げられる様になります。孫の統一圏、父母、孝行者の統一圏、息子、娘が侍るのに、将来、万世一系の主流の統一圏がここから決定されるのです。統一の種を完全に蒔く事が出来る基盤に成るのです。これを持つ様になれば、夢を見ていくのです。(二二〇―三五〇)

 今迄長子権復帰をしたので、先祖達は全部お爺さん、お父さん、お兄さんの三代を中心として、この長子権、父母権、王権の立場に屈服して、孫を先祖として、お爺さんとして侍るのです。自分の子供をお父さんとして侍らなければならず、自分の弟をお兄さんとして侍る事が出来る天地開闢、一八〇度ひっくり返る道が繰り広げられる事によって、地獄でもこれと同様に、天国に向かう事が出来る方向に転換されるのです。

 それで、故郷に行って百六十家庭をしなければなりません。故郷を中心として、行ったり来たりしながら、み言を聞かせなければなりません。先祖の根である本家がいいと言えば、分家の孫が全部ついていかなければならないのです。この様に百六十軒を訪ねて、一箇所に集め宴会をして、統一教会の宣誓式をするのです。「神様の王子、王女の命令に絶対服従する」と言って、先祖の墓に集まって、先祖の墓の前で即位する王の様に侍らなければなりません。

 「我々は『真の父母』によって、新しい血統を引き継ぐ事が出来る先祖に成る事で、解放圏が繰り広げられる、祝福された氏族になります! この氏族は、永遠不変の神様の眷属であり、血族になります!」と、この様になれば、サタンと完全に決別します。

 それで、統一教会は、先祖たちに仕える事を許すのです。キリスト教が祭祀をするのを許しましたか。統一教会は、今その伝統を立てなければならないのです。これは、世の中の伝統ではありません。

 天の父母、天の国、天の先祖に仕えるにおいて、その代を受け継いだ氏族的メシヤ圏、伝統的血族を、千年、万年侍る事が出来る王の領土に成るのです。王に侍り、永遠の太平盛大を謳歌出来るその国に成るのです。その国で暮らして行ってこそ、皆さんの父母、一家、一族が天国に直行するのです。(二二〇―二二二)

四 我々が会う事が出来る霊界の先祖たち

 自分の家がどうだという事を知るべきです。自分の家は、人間たちがこの地上で一生を生きる家の中で、代表的な家です。それだけでなく、霊界迄代表している家です。それが自分が暮らす事の出来る家です。その様に暮らした人は、自然に根本の本郷の世界、故郷に自動的に行く事が出来るのです。お爺さん、お婆さん、誰に会っても、そこでは藤がありません。

 あの世に行ってみれば、数千代の先祖たちが一遍に集まっています。そこに、地獄に行った先祖たちがいます。何代は地獄へ行き、何代はどこへ行き、先祖ごとに全部級が違います。「為」に生きた人達が行く所が天国です。それ故、「家和萬事成」は自分によって成されるのです。自分が家庭の為に生き、お爺さん、お婆さんに三回だけ為になれば、お爺さん、お婆さんも間違った事が分かるのです。

 モーセがエジプトで奇跡を行いながら、「為」になろうとした事が何回ずつですか。七回、十回、十二回以上、全部「為」にしようとしたのです。「為」にしようとしたのに、受けてくれなければ、天が導いてくれるのです。天が導いてくれます。自分が「為」にした全ての公的な基盤が、他の世界へ行って、成してくれるのです。それで、サタン世界であるこの地上で信仰する人の中に、神様の様に「為」に生きた人達は、世の中では反対され、迫害されましたが、イスラエル民族が選民圏として選ばれて、荒野を過ぎて本郷の地に入ったのと同様に、自分の本郷の地である神の国で豊かに暮らす様に成るのです。

 皆さんは、頭の白くなったお婆さんによく仕えましたか。神様は、白い神様です。高い山には、白雪が積もるでしょう? 神様はきれいな方です。ですから、皆分かるのです。また、その様なお婆さんは、自分の姑、夫の祖母によく仕えましたか。姑、夫の祖母があの世に行く時、「私が先に行ってお前がした様に、あの世でお前の来る道をきれいに準備しよう」と、こう言えなければなりません。(二一三―一八二)
第四節 霊的新時代到来

一 超感覚時代到来

 今に超感覚的な時代が来ます。霊通しない人がいない時が来ます。サタン、悪魔が今襲撃していますが、善成る霊たちが襲撃する時が来るのです。その様な道を築く為に、私がこうしているのです。子供に対する父母の立場を見ても、愛する立場、愛する心を持って、その子供の為にしてやれる父母がいるからいいのです。

 誰が否定しても、行かざるを得ない道です。死の道は、行かざるを得ないのです。一人で行く様に成る時は、どうしますか。荒涼とした霊界が繰り広げられればどこに行くでしょう。国籍がない民族はどこに行きますか。一番恐ろしい世界になります。そこにはサタンが来るだろうし、そこには天使も来るでしょう。

 死んでから目をぱっと開けたなら、霊界があるのが分かる様に成るでしょうし、その時、サタンが引いていこうとすれば、どの様にしますか。「おい、お前が先に立て」と言い、こうして飛びかかってくるでしょう。その様な事が起こるのです。その様な道があると考える時、ここで眠気が来ますか。それは必然的な道です。

 先生は、死後にどの様に成るか、その様な事について深刻です。私が霊界に行く日には、誰々が泣くだろうというのを、皆つくっておきました。孔子とか、釈迦とか、イエス様とか、彼らの秘密を私が皆知っているのです。

 イエス様に、「貴方はこうして死にませんでしたか」と言えば、「そうだとも。どうして先生はそんな事が皆分かるのですか」と、そう言うのです。その様な事が分かるので、イエス様と友達にも成る事が出来るのです。

 皆さんやキリスト教信徒は、イエス様を「主様! 主様!」と言うかもしれませんが、先生はそう言わないのです。友達の間柄なのです。この様な事を言うから「異端だ」と言われますが、誰が異端か、行ってみれば分かります。先生が霊界に行く時は、予想外に大騒動が起きるという事を知っている為に、こういう事をするのです。それが信じられないなら、すぐに祈ってみて、調べて皆さい。これが、統一教会の一つの脅迫の様な言葉です。祈ってみて、本当か、本当でないか、大きく違っていたら、この様になりますか。その様な内容が皆準備されている為に、そう言うのです。

 それ故、その道をついていくには大変ですが、私はその道を行くのです。皆さんはどこに行きますか。準備できていますか。死ぬ様になった時には、「ああ、先生、私が死んで霊界に行くからお願いします」と、その時言っては準備出来ないのです。その準備は、地上でしなければなりません。(六一―三二七)

二 「天勝日」発表で新しい時代進入

 イエス様を中心として見れば、イエス様は蘇生、十二弟子は長成、七十二門徒は完成です。三段階です。これが出来なければ、皆さんは天国に行けません。本来は、これをしておいて初めて、祝福をされるのです。そうすれば、イエス様も結婚するのです。

 これから、家族が全部信じる様に成る時、お爺さん、お婆さん、息子、娘、孫、三代がこちらを受け持ち、あちらを受け持てば、三代の役割をする事が出来ます。それが繰り広げられれば、父母を復帰する事が出来るから、皆さんは、父母、父母、父母、数千数万代の先祖たちを一遍に、全部復帰する事が出来るのです。霊界から地に再臨する事が出来る時代になります。地上の組織が、霊界の組織迄も編成するのです。一つに成るのです。この様な驚くべき事が起こります。霊界でどれほど喜ぶか、考えて皆さい。

 それ故、宗教の勝利の時代が来たのです。霊界の勝利の時代が来たのです。(九六・二五一)

 今は、皆さんが祈ってください。「先生のみ言とともに、『天勝日』である十月四日(一九七六年)とともに、我々の善成る霊達は、再臨して、この地上にいる悪成る後孫たちを、善成る貴方の懐を通じて天国に導いてください!」と命令すれば、その命令が可能であり得る時代に入ってくるのです。我々は、アダム時代圏内で生きるのであり、霊人達は天使世界圏内で生きる為に、アダムの為に天使が協助すべき原理原則の為、動かざるを得ないという結論がしっかりと出てくるのです。(八九―一一三)

 精神的な世界が、どれほど統一圏であるか分かりません。私が「誰かに会いたい」と言うと、二十四時間待てば、その人が来るのです。それが実現されるのです。集中する様になれば、現れるのです。それは、方向性の電波を送るのと同じです。そうするとその人は、受信機の様な自分の心の基礎がある為に、無性に気掛かりで行きたくてそう成るのです。(七六―一四二)

三 「統一式」と霊界協助

 今日、父母様の御聖誕日(一九七六年陰暦一月六日)には、どの様な意義があるのでしょうか。今回、先生が帰ってきて陰暦の二月一日に何をしたかと言うと、「統一式」というものをしたのです。「統一式」

とは何かが、皆さんは分からないでしょう。

 復帰の路程を歩んでいくにおいて、個人完成し、家庭完成し、氏族完成し、国家完成し、世界完成し、これが直線でつながらなければならないのです。

 地上で先生が個人基準を中心として、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準を中心として歩んできましたが、霊界とつながっていないのです。霊界持つながっておらず、統一教会の家庭を中心として持つながっていません。道は築いておきましたが、この道を中心として、霊界とつなげなければならず、地上とつなげなければなりません。それでこそ、統一の式が繰り広げられるのです。

 統一の式というものは、何時起こるのでしょうか。今キリスト教が、世界的民主主義国家を中心として発展してきた為に、世界的基盤が築かれる様に成る時に、初めて統一する事が出来るのであって、その道が築かれなければ、統一の基準を繋げる事が出来ないのです。その時迄は、国家的基準を中心として世界基準迄向かうだけであって、これを持って決定は下せないのです。それを固着させる事は出来ないのです。

 今迄先生がアメリカに行って築いた基盤によって、今これを繋げる事が出来ます。国家と世界がつながり得る時が来たのです。その様な世界的基準を中心として、この霊的基準が世界基盤につながり得る様に成る時に、初めて霊界持つながるのです。

 霊界では、大韓民国の霊人や日本の霊人など、皆つながっていないのです。各国の国の霊人達が、自分の国にだけつながっているのであって、世界的な一つの道に集まって「どこに行け」と言っても、全体が動員する様にはなっていないのです。地上で解決してやる前には、霊界においてこの様な整理は出来ないのです。

 それ故、霊界を見る様になれば、日本人と韓国人とが怨讐になります。日本人達と中国人達とが、全部怨讐です。国家と国家の間に、どれほど怨讐の霊たちが多いでしょうか。その怨讐の霊たちが全部反対する為に、それをつなげなければならないのです。

 それで昨年(一九七五年)五月一日に何をしたかと言うと、「総解怨式」をしました。全体を解放してあげ、全体を許してやる解怨式をしたのです。サタン迄も解放する事が出来る道を開いてあげたのです。「総解怨式」をする事によって、怨讐を怨讐として対する事ができず、皆許すのです。先生の立場から見るなら、サタンは怨讐ですが、サタン迄許す様になれば、神様が怨讐として考えない様になり、怨讐がいなく成るのです。

 今は、統一され得る時が来ました。地上と霊界が一つになれば、どの様に成るでしょうか。

 堕落によって霊界と地上とが分かれたのです。神様とアダム・エバが分かれたのです。アダムとエバの間に心情的決裂が起きたのです。それ故、地上と霊界と一つになった立場に、アダム・エバの家庭を中心として、氏族を中心として、民族を中心として、国家を中心として、世界を中心として、超民族的な構成形態が繰り広げられれば、世界的な統一圏を形成する事が出来るという論理が形成されるのです。

 その様な事を解決してやらなければならない為に、アメリカの地では、駄目なのです。アメリカの地では出来ません。

 韓国を中心として、個人基準を築き、家庭基準を築き、氏族基準を築き、民族基準を築き、国家基準を築いて、世界に来た為に、韓国が中心国家である為に、先生が大急ぎで訪ねてくる様になったのです。

 それで、「統一式」をしておいてみると、今年の先生の誕生日は、歴史的な誕生日なのです。何故ならば、統一された立場に立って、霊的世界にいる霊人達は、「真の父母」の誕生日を一度も迎えた事がありません。一度祝おうとしても、祝う資格がないのです。また、世界にいる万民、世界にいる後孫たちが、「真の父母」の聖誕を祝い得る恵沢圏内にいる事が出来ないのです。何故ならば、霊的基準と肉的基準が結束出来ないでいるからです。

 霊肉を中心として、その様な恵沢圏が繰り広げられ、霊界が加担する事によって、その後孫を通じて復帰するでしょう? その様な原理的立場で、先祖は天使長型であり、後孫はアダム型に成るのです。天使長がアダムを創造する仕事に協助したのです。霊界に行っている先祖が統一される事によって、地上にアダムを創造する事に協助出来る圏が繰り広げられ、後孫たちに対して干渉する事が出来る時代圏に入るという論理が成立するのです。

 今年先生が韓国に来て、誕生日を祝うこの日は、歴史的な一つの起源を備える日です。言い換えれば、霊界に行った数多くの霊人達が、「真の父母」の聖誕を祝う事がきる同参の恵沢を受ける様に成るのです。

 そうする事によって、この地上にいるまだ統一教会を知らない後孫たち迄も、再創造する事が出来るのです。天使長の協助を通じて、神様がアダムを造ったのと同様に、先祖たちを動員して、後孫のアダムの様な立場にいる地上の人達を再創造して出発する事が出来る時代圏に移るのです。その様な論理がある為に、今日全世界の万民も、父母様の聖誕を祝う事が出来る恵沢圏内に入るのです。(八三―一〇九)

四 「一心式」と先祖協助

 先生自身が、文氏の一族で、族長になりました。先生が強制的に命令するのではありません。自分たちが進んで侍ろうとしました。その様な歴史が過ぎました。先生が、そんな事が分かりますか。会うのは、初めて会ったのです。とにかく、因縁ができて、宗氏一族たちが先生を韓国の一つの父母として登場させる様になったのです。この様な事をする為には、この式がなくてはいけません。

 統一教会で言う「真の父母」の立場は、韓国の民にだけではありません。本来は人類全体の先に行った先祖たちに迄も、「真の父母」の血族として天上世界、霊界に行くべきですが、堕落によって、全部過ってしまいました。アベル的立場が地上である為に、アベルたちが長子権復帰していく道に順応する事によって、天上世界を解放させる事が出来ます。

 今からは地上が長子権を復帰した為に、霊界は我々の動きを押してくれ得る時が来ました。それで、この時間によって、確定づけて宣布する式が「一心式」です。

 皆さんは、霊界の事実を知らないでしょう? この様に成る事によって、皆さんの善の先祖たちが、一族の会長たちを通じて協助する、万端の準備をするのです。これがXとYの様に、地上に連結されます。堕落した世界は、地上が眺める立場と霊界の立場は、互いに違います。霊界がこの様に行こうとすれば、地上は反対に成るのです。何で経ていくのでしょうか? それが真の愛です。(一九〇―三一四)
第五節 再臨復活と霊人協助

一 過去の先人達の霊界の位置

 歴史的な悲しみの中で摂理される神様の心情を体恤しながら生きていく人は、どこにとどまっても、神様を涙なしには見つめる事が出来ないでしょう。その様な立場で神様のみ旨を知り、その方の息子、娘に成る為に戦う様に成る時、彼と意を共にする同志がいるなら、神様はその場に訪ねてこられて、涙を流されるでしょう。

 神様の悲しみは、我々の一身にあると同時に、この国、この世界、この万物の中にあるのです。我々はこれを清算して、神様の喜びを復帰してさしあげる運動を展開しなければなりません。その様な我々において、生命の中心は神様の悲しみを体恤する事です。

 人間たちが知らない霊界の霊人達を動員して、証させる事が出来る基準が自分にあるかが問題です。霊界もその様な事を要求しています。霊界は神様の心情を知っている為に、地上にその様な人がいて訴えれば、霊人達を動員して、天国理念の実現の為の地上の仕事に協助する様に成るのです。

 霊界の霊人達がこの地に来れない原因は、この地に嘆息の囲いができている為です。(四―六〇)

 皆さんが今立っている立場は、昔アダムが堕落したその立場ではありません。その峠を越えた立場です。言い換えれば、神様とアダムと直接的に対話する事が出来る時であり、直接的に神様の目的の為に、直行出来る期間です。

 この様な観点で見る時、三次七年路程に成る前の歴史と、三次七年路程になったのちの歴史は、全く違うのです。三次七年路程を中心として、悪の勢力は下らなければならず、善の勢力は上がっていくのです。それ故、三次七年路程は、霊界と肉界が交差する時期にも成ると言うのです。

 霊界を中心として見ると、悪の霊がいるのと同時に、中間の霊がいて、善の霊がいます。蘇生、長成、完成の三段階にとどまるのです。三次七年路程がつながる事によって、善の霊たちが地上に連絡する事が出来る道が生じるのです。そうするしかないのです。蘇生、長成圏がサタンの主管圏内にとどまっている為に、悪の勢力の版図圏内にいる悪霊たちが主導的な役割をして、悪人達が世界を全部料理してきました。しかし今からは、霊たちが交差し始めるのです。

 交差する時は、霊界が下りて来ますが、悪霊から下りて来ます。交差する時は、中間霊界を越え、善霊界に越えていく時です。これが越えていく日には、善霊たちと善人達は上がり、悪霊と悪人達は下りていくのです。今迄は、善悪が互いに上がったり下りたり交差しながら、ごちゃ混ぜになりながら来ましたが、今からは、善と悪が完全に分かれ得る、新しい次元の時代に入ると見るのです。(七五―一九三)

 霊界に行ってみれば、昔、新約時代に現れた立派な人、尊敬されて殉教をした人が、高い所に行くと思ったのに、一番悲惨な立場に行っているのです。死ぬ時に「自分がこの様に死んでこそ天国に行く」と考えて死んだ人は、天国に行けません。その様に死んだ人は、気の狂う病気にかかって、天国の為に自殺したのと同様の心の姿勢になっているのです。しかし、それとは異なって、殉教はしなかったとしても、苦労をしながら、「ああ! 私一人犠牲になって国を天国にして、数多くの人を天国に行かせた」と信じて行った人は、天国に行っていると言うのです。

 我々は、信仰の本質を改めなければなりません。キリスト教がその様な思想をもった為に、多くの波風が立ちました。この波風を打破してしまおうというのが、統一教会の思想です。たたきつぶさなくても、滅びる様になっているのです。所で、何故早くたたきつぶさなければならないのでしょうか。滅びる様になれば、神様の前に全部捨てられる為に、これをたたきつぶして救ってやらなければならないと言うのです。(六四―一一〇)

 皆さんの先祖の中には、地獄に行った人達が沢山います。これを全部解放させなければなりません。この道が父母が行くべき道である為に、皆さんもこの様な父母についていくべき道に置かれているのです。それ故皆さんは、この道を最後迄行かなければならない運命にあると言うのです。

 それで、霊界が我々に協助するのです。個人的に協助し、家庭的に協助し、氏族的に協助し、民族的に協助し、一遍に協助して統一運勢を経ていくのです。世界さえ統一する様になれば、霊界は自動的に合わさる事が出来る様に成るのです。霊界にいる霊たちが地上に下りて来ますが、善霊よりも悪霊たちが先に下りて来ます。それ故、地上の人には、ノイローゼ現象が起きるのです。この様な事実を知らないから、そう成るのが分からないのであって、今悪霊たちが、全部下りてきて、人間世界を侵犯しているのです。

 そして、民主世界と共産世界を中心とした思想の混乱時代が来るとともに、霊界の悪霊たちが下りて来て、霊肉が混乱時期に陥る様になります。そうですが、善霊たちが下りて来る様になれば、悪霊たちの周囲に力が及んでいくのです。地上に下りて来て、悪霊たちをかき分けて、悪霊たちが占領した地を占領する様に成るのです。善霊たちが、この地球星を占領する様に成る時は、悪霊達はこれ以上行く所がないから、屈服し始めるのです。

 霊的サタンが地上に来て屈服する様になれば、悪霊迄も復帰するのです。それで、終わりの日には、サタン迄復帰しなければならないのです。(五四―二二八)

二 霊界動員と協助

 皆さんは伝道が出来ない時にも、伝道をしなければなりません。石を海に投げるのと同じです。それで海の水を皆埋めて、山に成る迄限りなくするのです。そうする事によって、自分が心情的に育つのです。体は何も変わるものはありませんが、心情が育つのです。

 夜明けに起きて、その町内の為に、自分が任された責任地域の為に祈って、涙ぐまなければなりません。その道は、心情的でありながら霊界と霊的な因縁を結ぶ道なのです。神様が町内を見下ろせば、全部地獄に行くしかない人間たちである為に、涙を流さざるを得ないのではないかと言って、神様に代わって自分が涙を流すのを自ら感じるのです。神様の心情で涙を流す事が出来る共鳴力が入る様になれば、霊界が総動員するのです。

 人間として、神様の前に感動的な涙を流さなければなりません。神様が「おお! 有り難いな! 堕落したアダム・エバの後孫は、昔のアダム・エバよりましだな!」と感動して、涙ぐむ事が出来る立場に入らなくては、霊界と通じません。

 「堕落したアダム・エバの後孫として、天に背いた後孫であるお前たちが、こうする事が出来るか」と言いながら、神様が感動的涙を流してこそ、霊界が協助するのです。そこから霊界が開かれると言うのです。それ以下は、絶対に駄目なのです。絶対に駄目です。それが原理です。(九六―二八二)

 皆さんは霊界に行くのがいいですか。地上の皆さんが霊界に行くという心と、霊界の人達が地上に再臨するという心のうち、どちらがより切成るものですか。原理的に見る時、皆さんがより熱烈でなければなりませんか、霊界がより熱烈でなければなりませんか。霊界は天使長世界であり、ここはアダム・エバの世界、息子、娘の世界です。息子、娘がより熱烈であるべきですか、僕がより熱烈であるべきですか。

 皆さんが霊界を協助する様になっていますか、霊界が皆さんを協助する様になっていますか。霊人達が協助しようと待っていますが、何故待つのでしょうか。地上に天国を成す為に働く所に協助するでしょうか、皆さんがよく食べて豊かに暮らすのに協助するでしょうか。地上に天国を成す為に働く所に協助するのです。(一六一―二二七)

 霊界が動員されなければなりません。霊界が動員されなければ、どの様に天国を形成しますか。形成出来ません。天国は「真の父母」から始まる様になっているのであって、今迄の堕落した後孫から始まる様になっていません。

 アダムを創造する時、天使長世界の協助を受けたのと同様に、再創造も霊界から下りてきて、全部地上に協助しなければなりません。そうでなくてはいけない様になっています。原理がそうではないですか。復活原理がそうでしょう? 復活原理がただそのまま結果として現れてこそ、真だと言うのです。(一六二―一一五)

 先生が皆さんを貧しくさせて皆苦労させるのは、皆さんが憎くてするのではなく、皆さんを生かしてあげる為にするのです。全て皆さんを生かしてあげる為のものである事を知るべきです。皆さんを生かしてあげる為に苦労をさせるという事を知って、有り難く思わなければなりません。そうすれば、天の心情世界、新しい心情世界が繰り広げられるのです。その様にするのが順序です。その様にして、心情的結びつきを持ってこそ、天の命令なら、どこでも飛んでいくのです。

 「世界を率いていく機関車の様な責任を果たす」と言う様になれば、霊界が協助します。その様に考えれば、霊界が間違いなく協助するのです。(九六―二七九)

 皆さんが基準を立てて、統一教会と歩調を合わせていく様になれば、国家的な運勢によって動いた霊界にいる善の霊人達や先祖たちが、皆さんの為に働くでしょう。

 皆さんは、外的に見るに、顔がぺちゃんこで、耳がすっと入って、薄幸に見えますが、霊界では皆さんを「福を呼ぶ」と思っています。さらに、十代の圏内にいる先祖達は、気が気ではありません。何故なら、復帰歴史は十代を中心として成される為です。所で、もし悪成る後孫が現れれば、十代圏内にいる先祖たちが、「こ何時! お前が我々を駄目にしたな」と言って審判します。

 それ故、善の先祖をもった後孫がここにいれば、先祖たちが積極的に協助するのです。その様な立場に皆さんが立っているのです。その様な立場にいる皆さんが、喜んで見事に戦っていく所々で、百戦百勝の戦績を立てる時に、霊界では永遠に喜ぶのです。それ故、この様な先祖達は、皆さんを王様に仕える様に仕えるでしょう。

 今日、我々は神様のみ旨の前に「神様の伝統を汚すものか! 神様の威信を汚すものか!」という心で勝利の基盤を築かなければいけません。皆さんは、どんな伝統を立てるかについて、祈らなければなりません。今は幸せな時です。(一四―二〇)

三 霊界と先祖

 先生は、人々の顔を見れば、その先祖が良いか悪いか、大体分かります。ある人は、良い先祖がいて、福を受けるかと思えば、ある人は、悪い先祖がいて、ひどく苦労ばかりするのです。その様な人は、伝道しに任地に出ても、ひどく苦労ばかりします。(三七―一四四)

 自分の性格の足りない所を埋める為には、証を聞けと言うのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければならなりません。それ故、多くの人の体験談を聞かなければなりません。人が言った事を批判してはいけないと言うのです。批判するのはサタン側に成るか、天の側に成るか、二つのうちの一つを決定するという事を意味するのです。

 批判した時は、サタン側に成るか、天の側に成るか、二つのうちに一つに分かれてしまうのです。それ故に、批判する事は、自分が発展するにおいてのがんなのです。サタン側になった者が、神側に行く事ができず、神側になった者が、サタン側に行く事は出来ないのです。我々人間生活において行く所にには、直行は絶対出来ません。じぐざぐに行くのです。

 先祖も善の先祖だけいるのではなく、悪い先祖たちも全部関係しています。自分自体が素性的に見る時、善の先祖の素性を沢山持っている時はこの様に行きますが、悪の先祖の素性を受けた部分もあります。自分の人生においてその様な時が来ます。そういう時は、必ずこの様にする様になります。批判すれば大変な事に成るのです。それ故、「判断するな」という言葉も、皆その様な道理から出てくる言葉です。(日付未詳)

 真の愛をもてば、神様が宴会をするその場に何時でも同参する事が出来ます。時間と空間を超越する為に、霊界に数千の先祖たちがいても、一目で皆見るのです。これを管理して、超越するのは、真の愛の心をもった人だけが可能なのです。神様の相続権を受け得る特権を得る事が出来る道は、愛の道にだけあるのです。真の愛をもった人が、自分の体をかすめて通り過ぎても、全部喜ぶのであって、反抗しないのです。全部が歓迎するのです。あの世がその様になっている為に、ここでその様な訓練を受けなければならないのです。

 先生がこの様な事を教えてあげるのは、天の世界に行く事が出来る人、天の世界で呼吸する事ができ、拍子を合わせる事が出来る人をつくる為です。それでこそ踊りを踊る場で、踊れるのです。そうでなくては、拍子が合わないのです。先生ももう霊界に行くべきではないですか。先生の後ろには、サタンがついて来れないのです。(一四七―一一六)

 神様からの真成る精神を通じて、一つにならなければなりません。人間が根本から生まれた為に、根本主体から動機になって、過程的人間の肉体迄動かす事が出来る基準をつなげてきてこそ、完全な統合になります。そうでなくては、不完全な統合だという結論が出てきます。

 自分たちが勝手に行こうとしても、霊界からブレーキをかけて教えてくれる霊的体験を通じて、全てを収拾していく背景が確実な現実生活圏内に動いているのです。この事実は驚くべき事です。それで、皆さん一人を中心として見る時、体は精神を中心として善の先祖たちが全部ぶらさがっているのです。善の先祖達は、体が悪の世界に行くのを妨害して、善の世界に行く事が出来る様に追い込むのです。(一六二―一〇四)

 この地に全てを管轄する事が出来る真成る父母と、真成る家庭と、真成る社会と、真成る国家と、真成る世界になっていたら、この世の中がどれほど素晴らしいでしょうか。しかし、その様な世の中になれなかったのです。

 世の中が何故この様になったのでしょうか。堕落したからです。大体見れば真になれなかった動機を持って出発し、今迄存在しているこの世界が、堕落した世の中である為に、その様になったのです。

 人がこの一生だけで終わるなら、どれほど簡単でしょう。人は永生する様になっています。永生する様になっていると言うのです。それは、良い事は良いのですが、大変な事になりました。人は永生する様になっています。皆さんが霊界に対する体験がない為に、知らないからそう出来ませんが、霊界の体験がある人達は、昔のアダムから何千年前迄の先祖たちに皆会う事が出来ると言うのです。(一五九―二七七)

 霊界に行く様になれば、数多くの先知先烈たちと、数多くの先祖たちと会って、討論するのです。「貴方はどこから来たか。地球星のどこか。どの国か。どこだ」と聞いて回想して言うのです。友達同士会う様になれば、自分の昔話を全てするでしょう?

 霊界に行く様になれば、皆さんの最初のお爺さん、数千数万の先祖たちに会う様になります。所で、「こ何時、どうやって暮らした」とぞんざいな言葉を遣う時、気分がいいですか。考えて皆さい。(一四八―三二一)

四 霊人達の願い

 我々ムーニーが、「ああ、何とかして、私の一生に御父母様を一度喜ばせてさしあげる事が出来ないか」という切成る愛の心を持つ様になれば、あの世と拍子が合うのです。

 霊界の人達は、どうでしょうか。先生が何かを一つ食べる所を見たくないですか。霊人達は皆さんより熱心です。それは事実です。皆さんは分かりませんが、霊人達は、皆知っています。これからどの様に成るという事を、皆知っているのです。皆さんは、何も知りません。反対に、あの世は確実に知ってそれを理解するのです。

 霊人達はどうすれば先生の為に献身して、どうすれば先生の為に奉仕する事が出来るのかをはっきりと知っているのです。五感全部は、先生から来るその様な刺激的な力を感じるのです。今迄は、その様な経験をした時がありませんでした。ですが、今の時は、先生につながれば、その様な事を感じる様に成るのです。(二〇七―九八)

五 再臨復活と重生

1 再臨復活

 イエス様が地上に来られる事によって、それ以前の善成る先祖たちが霊形体級の霊界から生命体級の霊界に入る事ができたのと同様に、皆さんの先祖たちも地上にいる皆さんを条件にして、再臨する事が出来る特別な恵沢圏内に入ってきました。皆さんがこの様なみ旨を知って、勝利の枝になれば、一つの生命体を成す事が出来る立場に成る為に、皆さんの先祖が皆さんに協助するのです。この様に、皆さんは、数千代の善成る先祖たちが再臨し得る基盤に成るべきです。

 イエス様当時には、霊界で条件的に生命体級の復活の為の協助をした時代でしたが、今は、霊界が無条件的に生命体級の復活の為の協助をする時代です。この様な時代が来た為に、これ以上の福はありません。もう一度言うと、霊界から協助するという事です。(一四―二二)

 世界が、先生に反対しました。私を殺そうとし、統一教会をなくそうと、どれほどそうしましたか。その中を切り抜けてきたのは、私が狂っていなかったから可能だったのです。

 天地の道理に従って、高い綱を神様に結びましたが、その綱を持って引ったくろうとしても引っ掛からないのです。結局は、その戦いがそこに及ばず、教会の戦いが起こり、国の戦いが起こり、亡国の路程に脱落してしまいました。統一教会に反対していた既成教会との戦い、統一教会に反対する政党との戦い、統一教会に反対する民主世界、共産世界との戦いで、それを全部倒したのです。高い所から綱を垂らしておいたから、ここで引っ掛かっているのを切ろうとしますが、自分の力を持って切れますか。統一教会を断つ事が出来ますか。哲学でも、宗教でも、霊界を通じても、理論的に我々はやられないのです。

 私がアメリカに行っている時の事です。アメリカに霊通人協会があり、そこの会長であるフォードという人がいます。その人が、アジアにレバレンド・ムーンという、これこれこういう人がいるといううわさを聞いたのです。我々の宣教師が行って宣教する時は、人を訪ねて回りません。霊界に通じる人に原理の本を手渡しながら、「この本がどんな本か調べてみてください。一週間後にまいります」と言っておいて、一週間後に行けば「ああ、先生いらっしゃいませ」と挨拶する様になっていました。(二〇八―一九五)

 我々は、霊界が屈服し得る理論的体系と、実戦的基台を中心として、神様の前に祭祀も捧げなければならないのです。祭祀を捧げる式が、けさの敬礼式(一九九〇年十一月十七日、第三十一回「真の子女の日」)だったのです。

 その場で先生が祈った内容は、時が至ったので、今迄天上世界と地上世界に逆さまに流れていた潮流が、今や正しく流れるべきだという事です。天が長子権を復帰した為に、これから生まれる次子たちと、今の全ての次子達は、天の治める圏内にいるのです。それ故、長子権復帰以後の次子権時代には、悪魔の活動舞台を天法で許す事が出来ません。

 そして、霊界に行った全ての霊たちが、今迄地上のアベル圏を利用しました。長子が次子を殺して祭物にしたのと同様に、これからは長子権がここにある為に、霊界迄コントロールするのです。

 今は、我々に協助する事で自分たちが福を受ける様になっているのであって、反対すれば反対するほど、絶えずどん底に落ちていくのです。天運が急変して入ります。これからは家ごとに先生の写真を掛けろと大騒ぎに成るでしょう。霊界で自分の先祖が忠告するのです。それで、旗を掲げて、先生の写真を掛けて、その前に毎日の様に挨拶をする人は、自分の先祖たちを復活させ得る役事が起こるのです。

 自分を中心として絶対服従しろと教育するなら、先生がこの様な話をする必要はありません。私はその様な事は嫌いですが、仕方がないのです。

 それ故、今迄数多くの雑霊界を通じる霊人達は、「統一教会に行くな」と言いました。しかし、今からは、釈迦牟尼、イエス様、孔子、マホメットも、「統一教会に行け」と教えなければ、天法に引っ掛かるのです。何故そうなのでしょうか。先生が言う宗教は、父母の宗教であるからです。(二〇八―一五四)

2 重生論に対する質問と答え

 アジアで言うのは、重生論ではなく、輪廻説です。輪廻説は、仏教思想です。それは再臨現象をその一時だけ見て感じる為に、その様な現象として見るのです。全体を知らない為に、そうなのです。霊界にいる霊人達は、地上の人間を通じて自分が恵沢を受けるのを願います。これが霊人達の要求なのです。

 堕落しなかった本来の人は、天使世界と宇宙を主管する事が出来る価値的存在です。人間が堕落する事によって何段階も下に落ちた為に、再びその位置迄上がっていかなければなりません。上がっていくにも、一遍に上がっていくのではなく、段階を経て上がっていくのです。段階を経て、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙迄復帰して上がっていかなければならないのです。

 本来の人間は、この世界に訪ねていくべきです。所で、この世界に訪ねていくには、一遍に上がっていく道がない為に、一段階、一段階を開拓しながら、個人から家庭に、家庭から氏族に、氏族から民族に、段階を経ていかなければならないのです。

 神様の摂理について見れば、旧約時代、すなわち個人を救い得る個人的な摂理時代以前に死んだ霊人達は、その時代に入って恵沢を受けようとするのです。それで、一段階を上がっていく為には、必ず蕩減が起こるのです。一段階を越える為には、カイン・アベルの場合の様な蕩減役事が、必ず起こるのです。

 ある霊人が、この時代を経てきながら、甲という人に協助してきたとしても、一段階を越えていく為には、ただでは越えられないのです。ここには必ず蕩減期間があるのです。それは、一日、二日に成されるのではなく、七年とか、四十年、七十年、あるいは何世紀を経ていく時があるのです。

 

それ故、ここで協助した霊人は、その蕩減期間が終わらないうちは続けて上がっていく事が出来ないので、霊界に帰るのです。その霊人は、地上にいる甲という人が基盤をすっかり築いてくれるのを願っているのに、その人がその期間内に蕩減を果たせず死ぬ事になれば、その霊人は、第二次に乙という人を選んで、乙に再臨するのを待ち望みます。ですから乙に再臨する霊人は、甲に再臨していた霊人なのです。

 

その霊人がパウロなら、パウロが時代的に一段階一段階上がっていく為には、第一次に再臨した甲という人が、蕩減期間内に蕩減を果たせずに死ぬ様になれば、第二次として乙という人に再臨して協助して上がっていくのです。必ず蕩減期間があるのです。

 蕩減期間は、原理的な期間があって、短期間にはなされません。それ故、第二次に選んだ乙という人が蕩減出来なくなれば、その次には、丙という人を選んで再臨するのです。それで、結局、丙という人にパウロが再臨したという事に成るのです、この時に、乙がある文字を書いておいたり、何かをする様に成ると、「私はパウロの霊の協助を受けて、今役事する」と言うのです。その次の時代に丙という人においても、ある文字を書く様になれば、彼もやはり、「パウロの霊の協助を受けて役事する。私がパウロだ」と言うのです。この様に成るので、結局は全世界にパウロの霊が、乙に現れ、再び丙に現れたのと同じ様に成るのです。

 この様な現象が起きる為に、これだけを見て輪廻だと言うのです。リーインカネーション現象の様なものとして現れるのです。全体を知らない為に、その様に言うのです。それがこの時代と同様で、世界天宙時代迄起こるのです。

 本来の人間は、サタンの支配を受けず、神様の直接主管圏内で暮らさなければならないのに、堕落する事によって堕落圏に暮らす様になったので、それを脱する為には個人として蕩減し、家庭として蕩減しなければなりません。これを蕩減せずには、脱する事が出来ないのです。霊人は、必ずその時代ごとに再臨現象を経て現れる為に、その段階、段階が輪廻、すなわち生まれ変わる現象として見えるのです。

 この様な観点で見る時、皆さんも同様です。皆さんが個人的にただ信じて死ぬ様になれば、家庭をもてなかった為に、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準、世界基準といった段階を皆越えていかなければなりません。それ故、何億万年がかかるかもしれないのです。それは無限に該当します。イエス様も国の基準を越えられなかった為に、国の峠を越える為に再びやって来て、国の峠を越えて初めて天国に入る事が出来るのです。イエス様は、今楽園にいますが、同様の道理です。

 イエス様が、この中のある人に再臨して、その人を直接指導する様になれば、イエス様が臨在したその人は、「自分がイエスだ」と言うのです。それ故、それだけ見れば、昔のイエス様が自分として生まれ変わったと思う為に、輪廻説の様な現象が起こる事に成るのです。皆さんは、この様な霊的世界をよく知らなければなりません。

 人は、本来神様が直接主管なさる善主権内で暮らさなければならないのに、堕落圏内で生きている為に、悪主権を脱しなくてはいけない運命にあるのです。それ故、この様な問題があるのです。イエス様は、霊的にそれを成しました。キリスト教も霊的にその事をしてきているのです。

 この様な観点で見る時、統一教会の復活論は、霊界の事実にそのまま当てはまるのです。言い換えれば、統一教会の復活論は、霊界の公式を皆さんに教えてくれているのです。今迄の数多くの宗教人達が、その様な未知の霊界の事実を体験はしましたが、それがどの様になっているか、その事実を知らなかったのです。

 皆さんは、この原理自体が理論的にその様になっているのだとだけ考えて原理を学ばないでください。この原理自体を探すのも大変ですが、これを実践して、勝利の基盤をつくらずには、皆さんに教えてあげる事は出来ないのです。

 言い換えれば、ノア家庭の内容を知って、アブラハム家庭の内容を知って、ヤコブ家庭の内容を知って、モーセ時代の内容を知って、洗礼ヨハネの内容とイエス時代の内容を知って、それで終わるのではなく、それらの事を知って、全部蕩減して復帰した勝利の基盤を備えるのが問題です。その基盤が備わって初めて、皆さんに教えてあげるのです。

 過去にサタンに負けたものを、勝った立場で復帰しておかなければ、神様のみ旨を成していく事が出来ないのです。今迄復帰摂理を担当してきたノアとか、アブラハムとか、ヤコブとか、モーセの様な人達も、これを知らなかったのです。

 しかし、この地に来られる主は、個人として失敗したのを復帰しなければならず、家庭として失敗したのを復帰しなければならず、氏族として失敗したのを復帰しなければならず、民族として失敗したのを復帰しなければならず、国家として失敗したのを復帰しなければなりません。来たるべきその世界を得る時迄、それらを全部知って、実践する事が出来る代表者です。実践しなくては、成す事が出来ないのです。

 皆さんがメシヤに出会い、その方を信じて従えばどの様に成るでしょうか。

その方が、個人、家庭、氏族、民族、国家時代を中心として完成する時、皆さんがその方に会えば、皆さんは、個人、氏族、民族時代の恵沢を受けて、国家時代とともに上がっていくのです。所で、個人時代にいる人が、メシヤを迎えて家庭時代に上がっていく為には、霊界にいる霊人達と同様に、肉界で蕩減をしなければならないのです。また、家庭時代から氏族時代に上がる時にも蕩減路程を行かなければならない為に、結局、統一教会に入ってきて長くなった人であるほど、蕩減を沢山果たしたという事になります。長く成るほど、先生と近い立場にいるという結論になります。

 国家時代迄上がっていくには、縦的に上がる様になります。ここで国家体制を決定して、越えていかなければならないのです。所が、その過程において、上がっていってこれ以上上がっていけなくなった時は、落ちる事もあります。何故なら、霊界の現象は、いくら高い段階迄上がってきて役事したとしても、同様の現象が起こるのです。ここには、蕩減がある為です。蕩減とは行こうとする所に対して行けない様にする事なのです。反対に成る事をさせるのです。それ故、うっかり過ったら、落ちやすいのです。ここで失敗する様になれば、皆崩れる様になります。

 イスラエルの国とユダヤ教が、イエス様を迎える為に四千年間準備してきましたが、み旨をなせずに死ぬ事によって、準備した基台がすっかり崩れたのです。それ故、ここから上がったり下がったりする過程で、数多くの犠牲者が生まれたのです。

 それは、神様の主流摂理を通じてする事ですが、支流的にも世界の数多くの民族を中心として、この様な適用が起こるのです。この様な適用が起こる事によって、世界的に蕩減が繰り広げられるのです。

 一つの主流としてこの様に上がっていくなら、ここに従って全世界的にあるものは別の立場で蕩減が起こるのです。この様な蕩減を果たして、収拾していくのです。それ故、今迄数多くの宗教が、多くの犠牲を払何時つ、復帰の路程を通過してきているのです。

 霊界の霊人や、宗教家が、最高の善であるこの基準をどの様に越えていくか、言い換えれば、国家基準を越えて、どの様に落ち着くかという事が問題です。メシヤは、蕩減する方法を知っている為に、もし国民がまだ蕩減出来なかったとしても、彼と共に一つになれば、蕩減期間が短いのです。もし、メシヤと共に国が落ち着けば、全ての個人は、全部ここに適用されます。国家が蕩減を果たしたなら、家庭は家庭なりに世界的になり、氏族は氏族なりに、民族は民族なりに、そして国家は国家なりに世界的に上がっていくのです。この様に見る時、国家を探せば世界復帰がどれほど早いかという事を、皆さんは考えなければなりません。

 国を立てておいてこそ、楽園を越える事が出来るのです。楽園とは何かと言うと、天国に行く為の待合室と同じです。それ故、アダム、ノア、アブラハム、ヤコブが、この様な過程を通じて復帰してくる時に過った事が残っているなら、それは全部蕩減しなければなりません。蕩減しなければ、横的に発展させていく事が出来ないのです。

 この様な観点から見る時、国がどれほど重要かが分かります。国さえあれば、落ちないのです。ここでもドイツ人以外の外国人はドイツ政府の干渉を受けるのと同様です。もし、間違える様になれば、追い出されるのです。追い出される時、自分の国家がなければ、どこに行くかと言うのです。その時は、行く所がないのです。その様な人は、死んでしまうとしても、どこにも訴える所がないのです。

 サタン世界も同じです。サタン世界において、我々は彼らの怨讐です。神様を信じる人達は、彼らの怨讐ですから、その国で我々をどれほど憎み、いじめるでしょうか。それだけでなく、彼らが我々を追放しても、あるいは殺しても、訴える所がないのです。この様に国が重要である為に、神様も国を探してこられるのです。

 皆さんが国家を探していくには、個人、家庭、氏族、民族、国家迄蕩減しなければなりません。個人的な蕩減路程と、家庭的な蕩減路程、氏族、民族的な蕩減路程を行かなければなりません。そうしなくては、世界を行く道がないのです。この様に国家が中心に成る為に、各国もこの様な中心となった国家を通じなくては、この道を行く事が出来ないのです。

 もし、皆さんが国家を復帰できずに死ねば、この地上に再臨しても、せいぜい個人を後援し、家庭を後援する事が出来るだけであって、堂々と権勢のある後援は出来ません。サタン世界を征服する為の戦いをする事が出来る資格者になれないのです。

 それ故、国が生まれてこそ、皆さんは入籍する事が出来ます。皆さんは入籍しましたか。皆さんは、統一教会には入籍しましたが、統一された神様の国には、入籍できていません。国がないのに、民になれますか。なれないのです。

 それ故、霊界にいる全ての霊人も、その国の人にどの様に協助するかという事が、望みです。その国さえ存在する様になれば、再臨現象は横的に起きるのです。

 横的に起こる為に、自分が苦労すれば、苦労した基盤が残ります。その国を探して上がっていく時は、いくら蕩減しておいたとしても、崩れる様になれば皆なくなります。このどん底からどこ迄上がってきたとしても、崩れてしまえばなく成るのです。これの繰り返しですが、これを横的な基準でする時は、自分の実績は横的に永遠に残るのです。

 言い換えれば、復帰して上がっていく時は、蕩減してなく成る時代ですが、国を探して、横的にする時は、それが蕩減ではなく、実績として残る時代なのです。(五四―二二七)

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