第四節 愛は相対から来るもの


 愛は、一人では成されないのです。愛は、どこから出てくるのですか。「私」から出てくるのではなく、相対から来るのです。相対から出てくるので、「私」が頭を低くして相対のために尽くさなければならないのです。「ために生きる」という天理がここから生まれるのです。極めて高貴なものが「私」のところに訪れるのですが、それを受け入れようとすれば、それを貴く思い敬わなければならないという「ために生きる哲学」を実践しなけばならないのです。

 人には愛があります。しかし、愛というのは、「私」一人では現れません。男性が一人でいるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。

 父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいというとき、本当の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。

 愛は、自分自身から始まるのではなく、相対から始まるのです。ですから、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。

 愛はどこから出てくると言いましたか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しようとするし、相対がきれいで好ましければ愛の作用もその分早くなります。

 相対の言語、美、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。

 愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。「愛」という名詞(言葉)は相対的観念から語るものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても、一人では愛することができないのです。

 愛の根拠地は「私」ではありません。「愛は私からだ」というのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地が自分だと考えますが、このような考え方を改めなければ、未来の歴史も発展がありません。

 今まで、妻は妻なりに、夫は夫なりに自分が中心だと言って、お互いに「私のために尽くしなさい」というので破綻が生じたのです。愛の根拠地は「私」にあるのではなく相対にあるので、その愛を「私」がもつためには、「私」自身がその愛の前に犠牲にならなければなりません。

 愛は必ず犠牲を要求するのです。また、愛は克服を必要とするのです。このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容は、この天地間において、他のところからは見いだすことができません。神様を中心とした愛の原則によってのみ見いだすことができるので、神様は愛をしっかりつかんでいらっしゃるのです。

 世の中で「慈悲」という言葉も、愛がなくては出てこないのです。「仁」という言葉も、一人では出てこないのです。「慈悲」や「仁」という言葉も、すべて相対的観念から語られるものです。

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